日本脱出編 第七話:サプライズ
面接を終えた足で、イリーナのいるバーへと向かう。
相変わらず彼女は寡黙で、必要以上の言葉を口にしない。けれど、手元で生み出されるカクテルはやはり洗練されている。普段、お酒をそこまで美味しいと思ったことのない僕でさえ、一口飲むたびに舌の上で広がる味わいに静かに感嘆してしまう。今日のカクテルはベリーニというらしい。桃の甘さが舌の上でふわりと広がり,弱めの炭酸が飲み込むたびに喉を優しく撫でるように弾ける。
ふと、前回のように何か料理が出てくるのではないかと、淡い期待を抱いてしまう。けれど、それはさすがに虫が良すぎたようだ。店内には、落ち着いたジャズが流れている。
心地よい静寂と音楽が交錯する空間の中、僕はイリーナとぽつりぽつりと言葉を交わす。彼女は多くを語らない。静かにグラスを拭きながら僕の話を聞く。
時折、僕の言葉に短く問いを挟む。それが妙に嬉しくて、つい饒舌になってしまう。
そういえば,彼女の誕生日を聞きたかった。前にお巡りさんからのアドバイスが頭から離れず,それとなく聞く機会をうかかがった。けれど、寡黙な彼女にどう切り出せばいいのか分からず,結局聞けなかった。
だけど彼女との静かなやりとりは,どこか心地よい。僕は,イリーナとの間に流れる時間を、じっくりとかみしめるように楽しんだ。
ちょうどよい頃合いになり、壁に掛かった時計に目を向ける。時間は午後7時。長針は12を少し過ぎたところだった。
僕はイリーナに会計をしてもらい、店を出る。出るときに「また来ますね」と、"ごちそうさまでした"の代わりに言った。
「……気をつけて帰れよ。」
淡白な返事。けれど、彼女のぶっきらぼうな対応にも、もう慣れてきた。いや、慣れてきたどころか、そんな言葉ですら、なぜか嬉しく感じてしまう。
「ありがとうございます。」
元気よくそう返し、店を後にした。依然として季節はまだ寒いが、イリーナが作ってくれたカクテルで温まった体をコートで包み、熱を逃がさないように歩く。しばらく歩いていると、目の前に外国人の姿が現れた。
「失礼。」
突然、声をかけられる。声の主は,日本人には見えない。僕より頭二つ分は高く,180cmは超えているに違いない。髪色は金で,七三風に分けている。無造作と言うより計算された乱れ方だ。髭は剃っていないが,男のスマートな顔立ちと馴染んでいて,不潔な印象はまる与えなかった。
見知らぬ人に、それも自分より圧倒的に背の高い相手に話しかけられ、自然と警戒心が芽生える。
「……何でしょうか?」
少し身構えながら、用件を尋ねる。
「ひょっとして、イリーナの知り合いの祐一さんではありませんか?」
「えっ、僕のことを知っているんですか?」
突然、自分の名前を呼ばれ、思わず戸惑う。
「ああ、失礼しました。実は私、イリーナの元同僚でして。たまに彼女の店を訪れるんですよ。」
彼がイリーナの知り合いであると聞いて、少し気が緩む。
「イリーナの同僚……ですか?」
思わず聞き返す。
僕には、イリーナに"同僚"と呼べる人がいること自体、少し想像しづらかった。彼女は、どちらかと言うと一人で淡々と仕事をこなすタイプに思える。
「まぁ、想像しづらいですよね。あいつは少々、個性の強いやつでして。」
彼の言葉を聞き、少し安心する。
イリーナの性格をしっかりと理解していることが、その一言から伝わってきた。つまり、この人は本当にイリーナの知り合いなのだと、改めて実感する。
「申し遅れました。私,イリーナの元同僚のアレクセイです。前に店に来た時にイリーナから話を聞きました。なんでも彼女のお気に入りなんだとか。」
「いや~,お気に入りなんて…」
そういいながら完全には否定しきれない。
「おや、否定しないんですね。」
アレクセイが軽く微笑む。その表情には、どこか探るような気配がある。
「いや、そういうわけじゃ……」
僕は曖昧に笑いながら首を振る。イリーナが僕のことを"お気に入り"だなんて、どうにも実感が湧かない。彼女は基本的に淡々としていて、何を考えているのか分かりづらい。少なくとも、特別扱いされているような感覚はないのだが……。
「ふふ、あいつは口下手ですからね。あなたにはどう映っているか分かりませんが、彼女なりに気にかけているんじゃないですか?」
アレクセイはどこか楽しそうに言う。その物言いが妙に含みを持たせたように聞こえて、僕はなんとなく視線を逸らした。
「そう……なんでしょうかね。」
「どうでしょうね。でも、少なくとも彼女が"無関心な相手"について話すことは、まずないですよ。」
言葉の意味を咀嚼する間もなく、アレクセイはふと時計に目をやる。
「……ところで、祐一さん。」
「はい?」
「彼女って、あまり人に誕生日を祝ってもらうタイプじゃないですよね?」
「……え?」
予想もしなかった話題に、一瞬思考が止まる。それはさっきバーで聞こうとして,聞けずじまい終わった話題。
「もしかして…」
「ええ。もうすぐですよ。あと二日後。」
「二日後!」
少し驚いてしまう。
——まさかそんな近かったなんて…
「おや,驚いていますね?」
「はい…あと二日後とは…。実はさっきイリーナから聞こうとしたんですけど——」
「分かりますよ。あいつは自分のことを話すのが得意じゃないですから。」
アレクセイは苦笑する。
「でも、意外かもしれませんが――実は、あいつ、ちょっとしたサプライズが嫌いじゃないんですよ。」
「そうなんですか?」
思わず聞き返す。
「ほら、彼女って基本的に冷静沈着でしょ? でも、昔から"不意を突かれること"には案外弱いんです。」
「イリーナが……?」
正直、全く想像がつかない。イリーナが驚く顔なんて、見たことがない。いや、それどころか、彼女が不意を突かれて動揺するなんて、あり得るのか。
「たとえば、誰かが突然"おめでとう"と言ってきたり、思いもよらないプレゼントを渡されたり……そういうとき、どう反応していいのか分からなくなる。照れ隠しで不機嫌な顔をすることもありますけどね。」
アレクセイはどこか懐かしそうに言う。
「もちろん、大げさにやると怒られますけど。でも、ちょっとしたサプライズくらいなら、案外悪い気はしないみたいですよ。」
僕は半信半疑のまま、イリーナのことを思い浮かべる。
——本当に?
彼女が、サプライズを?
「というわけで、これをどうぞ。」
アレクセイはニヤリと笑いながら、ポケットから小さな袋を取り出し、僕の手のひらにぽんっと置く。
「……?」
手の中には、100円ショップで売っていそうなポリ袋に入ったクラッカー。
「クラッカー……?」
「ええ、こういうのを不意にやられると、彼女、どう反応していいか分からなくなるんです。」
「……いや、さすがにこれは……」
僕はクラッカーをまじまじと見つめる。イリーナに、クラッカー。
どう考えても、喜ぶ姿が想像できない。むしろ、と冷めた目で見られる未来しか思い浮かばないのだけど…。
「そう思うでしょう? でも、やってみる価値はありますよ。」
アレクセイはニヤリと笑う。
「私も昔、同じようなことをしましたからね。確か、イリーナが20歳の誕生日のときだったかな……。作戦の合間だったので、ささやかなものでしたが。」
「それで、どうなったんですか?」
「最初は文句を言っていましたよ。"くだらない"とか"やめろ"とかね。でも、最後には少し笑ってました。」
「笑ってた?」
意外すぎて、思わず聞き返す。
「あいつ、ああ見えて、喜んでるのを表に出すのが苦手なんですよ。でも、分かるんです。そういうときは、ちょっとだけ口元が緩むんです。」
「……ほんとに?」
「ほんとですよ。まあ、信じるかどうかはお任せしますがね。」
アレクセイは肩をすくめると、もう一度、クラッカーを指さす。
「クラッカーは、プレゼントと一緒に渡すのがいいでしょうね。単体だとさすがにふざけすぎてますから。」
「プレゼント……ですか。」
警官に言っていたことを思い出す。『女の子ってね、意外と“予定外のこと”に弱いんですよぉ? 何か贈り物するとか、食事に誘ったりとか……びっくりさせるのがいいんです!』 イリーナは喜んでくれるのだろうか。
「ええ。何か、彼女が使えるものがいいでしょうね。普段、彼女が大事にしているものをよく見ていると、何かヒントがあるかもしれませんよ?」
僕はクラッカーを握りしめながら考える。確かに、単なる"イタズラ"のように渡せば、ただ冷たい目で見られるだけかもしれない。
けれど、アレクセイは僕よりもずっと長くイリーナと付き合いがある。彼がそう言うのなら、もしかすると——本当に……
「……やってみます。」
「その意気ですよ。」
アレクセイは満足そうに笑い、軽く手を振る。
「では、またどこかで。」
そう言い残し、彼は夜の街へと歩き去っていった。僕は、一人になった道の上で、手の中のクラッカーを見つめる。
——プレゼント何にしようかな…
家に帰ると、暖房の効いた部屋の空気が、外の冷え込みとは対照的にぬるく感じた。コートを脱ぎ、ベッドの上に放り投げる。そのままの勢いでデスクに腰を下ろし、手の中のクラッカーを見つめた。
イリーナに、誕生日のサプライズ。本当に、そんなものを喜ぶのだろうか。いや、そもそも彼女に「誕生日を祝われる」という概念があるのかすら怪しい。アレクセイの話を思い出す。
『あいつ、ああ見えて、喜んでるのを表に出すのが苦手なんですよ。でも、分かるんです。そういうときは、ちょっとだけ口元が緩むんです。』
信じられない。でも、信じたい。デスクの上にクラッカーを置き、スマホを取り出す。何か手がかりがないかと『女性への誕生日プレゼント おすすめ』と検索してみる。
——化粧品、アクセサリー、フラワーギフト、アロマキャンドル……。
「うーん……絶対違うよな……」
どれも、イリーナに似合うとは思えない。というか、彼女がこういうものを喜ぶ姿を想像できない。ため息をつきながらスマホを置き、目を閉じて考える。イリーナが大切にしているもの。
バーのカウンター越し、無駄なくグラスを磨く彼女の姿。寡黙なまま、静かにカクテルを作る手つき。愛車のマスタングGT500に乗るときの、あの生き生きとした表情。
——車
そこまで考えて、ふと閃く。
「ドライビンググローブとか……どうかな?」
革のグローブなら、実用性もあるし、イリーナの趣味にも合いそうだ。彼女は普段から手を酷使しているし、運転するときもあまり手袋はつけていない。これは、悪くないかもしれない。
ただ、問題はどこで買うか。
普段こういうものを買わないから、どこに売っているのかすら分からない。スマホで「ドライビンググローブ 購入」と検索してみると、意外と値段に幅があることに気づく。
高いものは数万円するが、そこまで高価なものを贈るのも気が引ける。逆に安すぎるものでは、イリーナは使わないだろう。
ふと、上野にモータースポーツ系の店があることを思い出す。
以前、車好きの友人が「上野にはバイク用品やレーシンググッズを扱っている店がある」と話していたのを聞いたことがあった。もしかしたら、そこならちゃんとしたグローブが見つかるかもしれない。
「よし……明日、行ってみるか。」
スマホを置き、クラッカーをもう一度手に取る。
プレゼントと一緒に、これを使うかどうかはまだ決めかねている。けれど、アレクセイが言っていたことが本当なら,イリーナが本当にちょっとしたサプライズが嫌いじゃないなら——
やってみるのも、悪くないのかもしれない。考えを巡らせながら、僕は静かにベッドに横になった。
翌日、僕は上野へ向かった。
雑多な街並みが広がるアメ横の喧騒を抜け、目的の店へと歩く。駅から少し離れた電車の高架橋下にひっそりと佇むモータースポーツショップ。バイク用品やレーシングギアが並ぶ店内は、普段の生活とは無縁の世界に感じられる。
「……場違いなところに来ちゃったかな」
店の前で、一瞬ためらう。だが、ここまで来て踵を返すわけにもいかない。意を決して自動ドアをくぐる。革ジャンやレーシングスーツが独特な秩序で並べられてあるのが目に入り,オイルとタイヤのゴムのの匂いが混ざり合ったのが鼻を突いた。
——グローブのコーナーはどこだろう?
キョロキョロと店内を見渡していると、すぐ近くにいた店員に声をかけられた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「えっと……ドライビンググローブを探してるんですが…」
「車用ですね。スポーツ走行向けのもの、それとも普段の運転用ですか?」
「普通の運転用というか、でも、ちゃんとしたやつがいいなと思って……」
店員が軽く頷くと、『こちらへどうぞ』と案内してくれる。グローブのコーナーには、様々な種類のものが並んでいた。レーシングドライバーが使うような派手なものから、シンプルなレザーのものまで。
「プレゼント用ですか?」
店員がそう尋ねた。
「……はい。」
「でしたら、こちらなんかはいかがでしょう?」
店員が手に取ったのは、シンプルなレザーのドライビンググローブ。
「革製でしっかりとした作りですし、デザインも落ち着いていて、普段使いにも向いてますよ。ステアリングのグリップ感も良くなるので、車好きの方にはおすすめです。」
手に取ってみると、しっとりとした革の質感が心地いい。しなやかで、手に馴染みやすそうな作りだ。黒かダークブラウンか、どちらにするか少し悩んだが——黒を選んだ。
イリーナには、黒が一番しっとりくる気がした。
「これをお願いします」
店員に伝えると、手際よく包装してくれた。会計を済ませ、袋を受け取る。
「ありがとうございました!」
店を出ると、冬の冷たい空気が頬を撫でた。袋を軽く握り直しながら、ひとつ息をつく。これで、準備はできた。
あとは、どう渡すか——そして、クラッカーを使うかどうか。アレクセイの言葉が脳裏をよぎる。
『最初は文句を言うかもしれません。でも、最後には少し笑ってましたよ。』
本当に、そうなるだろうか。彼女の驚く顔。彼女の、わずかに口元が緩む顔。
——見てみたい
「……うん」
僕は上野の雑踏を抜け、帰路についた。
***
六本木の高層ビル15階、その一室の大窓から夜景を見下ろす男がいた。アレクセイだ。
東京の街は、どこまでも光に満ち、絶え間なく動き続けている。高速道路の赤と白の光の筋が流れ、ネオンの明滅が建物のガラスに乱反射する。だが,この部屋の中だけは別世界のように静寂に包まれていた。
広々としたリビング。大理石の床には音を吸い込むような高級なラグが敷かれ、テーブルの上には飲みかけのウイスキーグラスが置かれている。
調度品はどれも洗練されているが、生活感はない。まるで仮住まいのように、どこか冷たい雰囲気が漂っている。
アレクセイは、グラスに手を伸ばすこともなく、窓際に立ったまま夜景を見下ろしていた。
時折、無意識に左肩をさする。
鈍い痛みがそこに残っていたが、それを気にする素振りすら見せない。
彼の視線は、都市の喧騒をただ見つめているようでいて、そこには何の感慨もなかった。
ふと、ポケットの中で微かな振動を感じた。今では珍しい,ガラパゴス携帯を取り出し、無言で耳に当てる。
「(先に言え。)」
「Восточный ветер дует.(東の風が吹く。)」
「Но не достигает запада.(されど西に届かず。)」
「Подготовка крайней меры завершена. Готов к немедленному исполнению по приказу.(最終手段の準備は完了。指示があれば即実行可能です。)」
「Подтверждение?(確認は?)」
「(Проверил дважды. Проблем нет.(二度確認しました。問題なし。)」
「Понял. Резервная группа остается в ожидании приказа.(了解。予備班は命令があるまで待機。)」
「Понял. Ждем указаний. Прошу сообщить о ходе второго этапа.(了解。指示があるまで待機します。フェーズ2の首尾の報告をお願いします。)」
「Второй этап завершен. Теперь… остается только ждать, когда приманка сработает.(フェーズ2は完了した。あとは……巻かれた餌に食いつくのを待つだけだ。)」
「Исполнит ли “Кукла”?(“人形”は実行してくれるのでしょうか?)」
「…Одинокий волк не сможет устоять перед приманкой.(……群れから外れた狼に餌を抗う事はできない。)」
アレクセイはその言葉を最後に電話を切った。
—―イリューシャ……亡霊が帰ってきたぞ
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