日本脱出編 第五話:アメ車講義
今日は特に面接の予定もなく、家でのんびりしていた。コーヒーテーブルには読みかけた雑誌が,開きっぱなしに置かれている。
ソファーに沈み込みながら、ぼんやりとあの日のことを思い出す。
彼女に家まで送ってもらったとき、口にした『また来てもいいですか?』という一言。
返事は『好きにしろ』——素っ気ないもの。
でも——その言葉の奥に、微かな温もりを感じたのは気のせいだろうか。
あれから八日が経つ。
すぐにまた向かうのもなんだか憚られて、二、三日ほど間を置いて行こうとしたが、就活のタイミングを逃して気がつけば一週間以上経ってしまった。
あんなことを言ってしまった手前、今さら顔を出すのも気まずい。
完全にタイミングを逃した。
最近になって、あの日の出来事がまるで夢だったんじゃないかと思うことがある。
美人で長身、どこか危うげな雰囲気を纏うロシア人のバーテンダー。
静かなバーの片隅で、琥珀色の液体を傾け、紫煙をくゆらせる姿。
彼女の店で過ごした、しっとりとした時間。妙に心に残る、あの空気。
帰り道の車内——
彼女の横顔が街灯の明かりに照らされる。
窓の外を流れる夜の景色。
エンジン音と、時折聞こえるギアチェンジの音。
煙草の匂いがほのかに混じる沈黙。
ただそれだけなのに、あの時間がやけに記憶に残っている。
そして、思う。
またあの店を訪れてみたいと。
けれど——今さらどうやって顔を出せばいいのか。
「……考えてもしょうがない。」
そう自分に言い聞かせるように呟く。
でも、本当にそれだけだろうか。
気づけば、何度も彼女のことを思い出している。ふとした瞬間に、煙草の香りや、低く響く声が脳裏に浮かぶ。
あの店の静けさ、彼女のグラスを傾ける仕草、車のエンジン音——それらが、まるで焼き付いた映像みたいに離れない。
たった一度会っただけの人間のことを、ここまで気にするものだろうか。
——いや、違う。そんなことを考える必要ない
ただ、またバーに行くだけのことだ。ただそれだけのこと。
そう思いながら、スマホを手に取り,マップを開いて『スペクター』と検索した。
——けれど、心のどこかで、”ただの興味”と思い込もうとしている自分がいた
マップに従い電車を乗り継ぎ、歩いていると、やがて「スペクター」の看板が見えてきた。
もう一度、スマホを見る。
今度はGeogle Mapのレビュー欄を開く。そこには、ただでさえ少ないレビューの中に罵詈雑言が書かれていた。
それを見ながら、思わず小さく息をつく。
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「スペクター」レビュー欄(15件)
1.★☆☆☆☆
「入った瞬間、睨まれた。マジで意味が分からない。金払う客にこの態度ってどういうこと?」
2.★☆☆☆☆
「店主が客を選んでるのか知らんけど、明らかに歓迎されてない雰囲気。何も言わずに席についたら、無言でメニューを置かれた。怖すぎる。」
3.★☆☆☆☆
「最悪。こっちが注文しようとしたら、『帰れ』って言われた。何? ルールでもあるの?」
4.★☆☆☆☆
「店主の態度がヤバすぎる。こっちが話しかけてもガン無視。挙句の果てに『静かに飲めないなら出ていけ』って言われた。どんなバーだよ。」
5.★☆☆☆☆
「本当に営業してるのか? 酒は頼めたけど、店主は一度もこっちを見ない。何か言ったら機嫌損ねそうで怖かった。」
6.★☆☆☆☆
「店主が無言でカクテルを作って、無言で置くだけのバー。愛想ゼロ。むしろマイナス。酒は悪くなかったけど、あの空気は耐えられない。」
7.★☆☆☆☆
「普通に追い出された。意味が分からない。」
8.★☆☆☆☆
「入店して10秒で『今日はもう終わりだ』って言われた。営業時間内だったのに。」
9.★☆☆☆☆
「ただ座って酒を飲んでるだけなのに、めちゃくちゃ睨まれた。怖すぎる。」
10.★☆☆☆☆
「会話をしようとしたら『余計なことを喋るな』と言われた。じゃあなんでバーやってるんだ?」
11.★☆☆☆☆
「ここに来るくらいならコンビニで酒買って家で飲んだ方がマシ。」
12.★☆☆☆☆
「何度か挑戦したけど、一回もまともに飲ませてもらえなかった。もう行かない。」
13.★★☆☆☆
「静かに飲むならいい…かもしれない。でも、店主の態度がとにかく冷たいし、そもそも客を追い出しがち。どういう基準でOKなのか分からない。」
14.★☆☆☆☆
「知り合いに勧められて行ったが、3分で出された。何がしたいのか分からない。」
15.★★☆☆☆
「俺は追い出されなかった。でも、口数少ないし、常連になりたいとは思えない。」
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ざっと目を通しながら思わず苦笑する。
やはりここがあの時来ていたバーなんだなと安心してしまう。
けれど一つだけ違う。イリーナは僕を追い返さなかった。どんな理由があったのかは分からない。だが『勝手にしろ』の言葉の裏に、僕は確かに何かを感じたのだけは間違いない。
スマホをポケットに突っ込み、目の前の扉に手をかける。
もう一度、深呼吸をしてから。
——カランッ
静かに響くは鈴の音。そしてそこにいたのは——煙草をくゆらせているイリーナだった。
「また来たのか。」
カウンターの向こうでグラスを片手にこちらを見るイリーナ。今日の彼女の服装は白のTシャツに茶色のレザージャケット。その視線は、驚きでも喜びでもなく、ただ淡々としたものだった。
「なんだか気になって」
ぎこちなく笑う。
「もしかして空いてないですか?」
「…別に。座れ。」
顎でグイっと自分の前の席を指定する。彼女の指示通りにカウンター前に腰を下ろす。
「何にする?」
席に座った途端,問うてきた。
「前みたいな甘いやつをお願いします。」
僕の曖昧な注文を聞くと、イリーナはすぐに黙々とカクテルを作り始めた。
リズミカルにシェイカーを振る手際の良さに、思わず見とれてしまう。
グラスに注がれる黄金色の液体。透明な氷が、カランと音を立てる。
イリーナは無言のまま、それをカウンターに置いた。
「何のカクテルですか?」
聞こうとした瞬間——
「飲め。」
短く、命令のように告げられる。
少しだけ戸惑いつつも、グラスを手に取る。
ひと口、口に含むと——柔らかな甘みと、ほのかな柑橘の香りが広がった。
アルコールの刺激は控えめで、スッと喉を通る。
「……うん、美味しい。」
素直な感想を口にすると、イリーナは煙を吐き出しながら、満足そうに目を細めた。
「当たり前だ。」
僕のなんてことのない感想を聞いたイリーナは、煙草をくゆらせながら、
わずかに目を細めた。それは笑ったわけではないけれど、どこか満足しているようにも見える。
——前より、ほんの少しだけ距離が縮まった気がする。
そう思ったのも束の間、イリーナは煙草を灰皿に押し付けると、
ふと、カウンター越しにこちらを見て、ぽつりと尋ねた。
「……腹は?」
「え?」
思わぬ言葉に、一瞬戸惑う。
「……まあ、いい。」
イリーナはそれ以上何も言わず、カウンターの奥へと消えていった。
「……?」
カクテルを飲みながら、彼女の後ろ姿を目で追う。
グラスの中で氷が静かに揺れる音がやけに耳に残った。
しばらくすると、奥の部屋から微かに何かを煮る音が聞こえてくる。
——まさか、料理でもしているのか?
何をしているのか分からず、ただ静かに待つしかない。
やがて、ふわりと香ばしい匂いが漂ってくる。クリーミーでまろやかで、どこか甘みのある香り。
腹の奥にじわりと空腹が広がる。
何分か経った頃——
「……?」
カウンター越しに、イリーナが無言のまま戻ってきた。
手には湯気を立てる皿がある。
カウンターにコトッと音を立てて置く。
「……えっ、カレー?」
目の前の皿に盛られたのは、煮込まれた肉と、濃い茶色のソース。
カレーのようにも見えるけれど、スパイスの香りはそれほど強くない。
シチューとも違うような、けれど見慣れない独特のとろみがある。
「食え。」
イリーナは短く言うと、スプーンを指で弾いた。
促されるままにスプーンですくい、口に運んだ。
—―……美味しい
とろみのあるソースが舌の上で広がる。
最初に感じるのはまろやかな甘み、次にじんわりと染み込むようなコク。
牛肉はホロホロと崩れ、噛むほどに旨味が滲み出してくる。
確かにカレーとは違う。むしろ、ビーフシチューに近いのかもしれない。
けれど、日本で食べるどのシチューとも違う、濃厚でどこか異国の味がした。僕は無言のまま次々と料理を口へと運ぶことで,この味が美味しいことを伝えた。
「ごちそうさまでした。めちゃくちゃ美味しかったです。ありがとうございます。」
スプーンを置き、自然と礼を口にする。イリーナは煙草に火をつけるでもなく、グラスを傾けるでもなく、ただ静かにこちらを見つめていた。
「……作り置きが温めただけだ。」
短くそう返すと、彼女はスプーンと皿を無造作に下げる。その動作すらどこか様になっていて、つい目で追ってしまう。皿を洗い終えたのか,手が少し湿っている。彼女は慣れた手つきで,棚のボトルを取りグラスに注ぐ。
「…イリーナって,アメ車が好きなんですよね?」
ふと口を開く。前に彼女が饒舌に,嵐が流れるように話したアメ車の話を聞いてから,その手の雑誌を買った。そのおかげで少しは,ほんの少しだけアメ車に詳しくなっている。イリーナのグラスを持つ手が止まる。
「…ほう」
「前にイリーナが熱く語ってくれものだから。雑誌とか読んでみたんですよ。」
「話してみろ」
「はっはい,60年代のアメリカンマッスルの雑誌なんですけど…フォードとかシボレー,ダッジとか…個人的にすごい好きと思ったのはシボレーのシェベルかな?」
「なんでシェベルなんだ?」
「その…マスタングとかもかっこいいですけど,シェベルの…丸みがあってゴツさもある感じもすごい良かったなって。それに…馬力もすごいなって。」
「…お前はまだわかってないな。」
「えっ?」
祐一が言葉を返す暇もなく、イリーナの口から怒涛のような言葉が溢れ出した。
「シェベルが‘すごい’?馬力が‘ある’?そんな浅いことを言ってるうちは、まだシェベルの本質を理解してない。」
イリーナの口調が、一気に鋭さを増す。グラスを持っていた手が止まり、その視線が射抜くようにこちらを向いた。
「えっ?」
思わず身を引きそうになる。が、イリーナはお構いなしに続ける。
「シェベル SS 454 LS6は、‘パワーの暴力’だ。馬力450、トルク500lb-ft——そんな数値なんてどうでもいい。重要なのは、‘踏んだ瞬間にタイヤが焼ける’ってことだ。」
「えっ、焼ける……?」
「そうだ。こいつは、まともにアクセルを踏んだら後輪が火を吹く。制御できなきゃ、あっという間にスピンする。パワーがデカすぎて、‘まともに走ることすら’難しいんだよ。」
イリーナの目が、どこか遠くを見るように細められる。
「70年代、アメリカのストリートにこいつが現れたら——全員が振り返った。エンジンを煽っただけで、周囲の車が道を開ける。わかるか? ‘道を譲られる’んじゃない。‘避けられるんだ。」
「え、怖……。」
「そりゃそうだ。何しろ、‘止まることは考えてない’車だからな。」
「えっ!? それヤバい車じゃないですか!」
「その通り。ブレーキは‘とりあえず’ついてるだけだ。‘走ることしか考えてない’。だからこそ、イカれてる。だからこそ、最高なんだ。」
イリーナはグラスを持ち直し、一口含んでから、少し間を置いた。
「……そしてな、こいつの‘音’を聞いたら、もう他の車じゃ満足できなくなる。」
「音……?」
「ただのV8エンジンじゃない。ビッグブロック特有の重低音。アイドリングですら、‘ドロドロ’と地響きがする。排気バルブが開いた瞬間、圧縮された燃焼ガスが一気に噴き出して——」
イリーナは、指でカウンターを軽く叩く。
「その瞬間に、ストリートの全員が振り向くんだ。‘来たぞ、シェベルだ’ってな。」
「……なんか…すごい。」
「だろう。」
イリーナはふっと煙を吐き出す。
「アメリカンマッスルってのは、ただの‘速い車’じゃない。単なる‘スペック勝負の車’でもない。馬力も、サイズも、音も、存在感も——‘すべてが過剰’。この時代の車にはな、‘扱いきれないほどの力’が与えられてたんだ。」
「……怪物みたいですね。」
「そうだ。シェベルは、‘暴力’そのものだ。」
静かに言い切る。
イリーナはようやく、グラスを置き、煙草に火をつけた。
長く吐き出された煙が、まるで彼女の言葉の余韻のように、ゆっくりと空気の中に溶けていく。
「……で、お前、どこまで理解できた?」
「あっ…えっと……」
完全に圧倒され、言葉が出ない。
それからおよそ二時間—— イリーナのアメ車講義は続いた。
話の半分も消化しきれないまま、なんとか帰宅。
酔ってもいないのに、頭がぼんやりしている。
ソファに身を沈め、大きく息を吐いた。
——イリーナ、本当に車が好きなんだな……
天井を見つめながらぼんやりと思う。
彼女の熱量に引っ張られるように、確かに興味は湧いている。
でも、今はただ頭がいっぱいで、整理が追いつかない。
しばらくそのまま横になっていたが、ふと体を起こす。
そろそろご飯を炊かないと——そう思い、ゆっくりと立ち上がる。
——なんだろう、これ。
違和感。
何かが……引っかかる。
視線を巡らせる。
机、椅子、本棚、カーテン,アメ車の雑誌。
——何も変わっていない。はずだ。
でも、何かが馴染まない。
何かが……ほんのわずかにズレている気がする。
室内は静かだ。いつも通りのはずなのに、音の"響き"が微妙に違う気がする。
空気の重さなのかそれとも湿度のせいか。
「いや、気のせいか…‥」
そう言い聞かせてみる。
けれど、心の奥に広がった違和感は消えない。
ほんの少し、寒気がする。
何もないはずの部屋で、一瞬だけ「誰かに見られているような感覚」がよぎる。
——考えすぎだ。疲れているんだ。
深く息を吐く。
何も変わっていない、そう言い聞かせながら、再びソファに身を沈める。
それでも、違和感は小さな波紋のように、胸の奥でじわじわと広がっていた。
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