日本脱出編 第四話:イリーナの気遣い
ボリスが店を去ったあと,沈黙が続いた。
バーの机にはイリーナが吸い切った煙草の煙がゆらゆらと上に浮いて,静かに店に滲む。去り際にイリーナと何やら言葉を交わしていたが、ロシア語では何を言っているのかさっぱり分からない。ただ、一つだけ確信できることがある。
イリーナは静かに怒っている。
ボリスに何か言われたのか,わずかに眉を寄せ、いつもより動作が少し硬い。グラスを拭く手つきもどこか機械的。
すでにカップの紅茶もすっかり飲み終えてしまった。気まずさだけが残る。手持ち無沙汰で、次に取るべき動作が見当たらない。
何気なく自分の左腕を見る。腕時計は十時二十一分を指していた。
──そろそろ帰ろうかな……スマホの充電もできただろうし
「あの~」
イリーナはグラスを吹いたまま。僕はポケットにある財布を手に取る。
「そろそろ行きます。ごちそうさまでした。会計をお願いできますか?」
グラスを拭く手が止まる。次の瞬間、イリーナはボトルがぎっしり並ぶ棚の隣にあるラフウッドシェルフへと向かう。上に置かれたレザートレイに手を伸ばし、カチャリと金属音を立てながら何かを手に取った。
──電卓?
しかし、電卓なら金属が擦れる音はしないはずだ。考えているうちに、イリーナはいつの間にか裏へと消えていた。気づけば、もう戻ってきている。そして──
──ゴンッ
わずかに力を込めてスマホが机の上に置かれる。手に取ると、画面が自動的に点灯する。充電は65%。
「あっありがとうございます。」
やはり先ほどのボリスの発言にイラついているためか,スマホが強く置かれたのもそうで少し怖気づいてしまう。
「2680円だ。ついてこい。」
言われた金額をバーのカウンターに置く。
「ありがとうございました。お酒も,充電も…それじゃ…」
そういうと立ち上がって出口の方へ向かうが──
「おい,どこに行く?」
「へっ」
思わず足を止め、イリーナの方を振り返る。
「ついてこいと言ったはずだ。」
確かにさっきそう言った。でも…
「えっと…どちらに…ですか?」
イリーナは無言でカウンターを回り、客側へと出てくる。
「家まで送ってやる。」
そう言いながら、左手の人差し指でキーリングをくるくると回す。金属が触れ合う乾いた音が、静かな店内に響いた。
「えっ」
予想外の申し出に頭が一瞬追いつかない。
──なんで?
頭の中に疑問符が乱立する。僕を送り届ける理由がよく分からない。店には入ったときには帰れと追い出そうとしたのに今は不機嫌ながらも真逆の態度を見せている。でも不思議と悪い気はしない。
「どうした?ついてこい。」
来るのが当然と言わんばかりに。イリーナは僕の方を振り返る。僕は立ち尽くしたまま。
「来ないのか?」
足を踏み鳴らし、僕を追い抜いて扉へ向かう。その足取りは迷いがなく,僕を置いていくつもりはないとでも言いたげだった。
僕は──はっきりと言えばうれしい。少し怖いけど,イリーナのような大人の女性と車に乗れるのはどこか特別なことのようにも思えた。でも──
「これ,飲酒運転なんじゃ?」
記憶が正しければ彼女は2杯も飲んでいたはずだ。
彼女は眉をひそめて──
「酔ってはいない」
「そこ,問題じゃなくないですか…?」
「事故らなきゃ問題ない。」
「いや,あるよ!あるから!」
イリーナは、まるで僕の反応を面白がるように、キーホルダーを指で回し始めた。金属が触れ合う乾いた音が店に響く。それはどこか、誘惑するような響きにも思えた。
「ロシアじゃ、これぐらいでいちいち騒がない。むしろウォッカを片手に運転してるやつもいる。」
「それはロシアがヤバいだけで──」
「くだらんルールだな。」
「いや、くだらなくないから! 日本では普通に捕まりますから!」
そう言うと、イリーナは少しだけ目を細めた。
「……お前、意外と頑固だな。」
「そういう問題でもないです!」
イリーナはしばらく無言のまま,キーホルダーを回していた。さっきまでの軽快な回し方とは違う。指先がわずかに迷っているようにも見えた。
──……イリーナ、なんでそこまでして送ろうとするんだろう?
確かに、僕が迷子になりがちなことは間違いない。でも、それならタクシーを呼ぶとか、他の方法だってあるはずだ。彼女は、ただ〝酔ってない〟と強がっているだけなのか。それとも───僕が夜道を歩くのが心配で、無理やりでも送ろうとしているのか。
どちらにしても、彼女なりの〝好意〟なのは間違いない。だけど──
──さすがに飲酒運転は……
「イリーナさん」
「〝さん〟付けはするといったはずだ」
「……イリーナ」
一度,言葉を区切る。
「イリーナの気持ちは本当にうれしいです。でも…ごめんなさい。」
頭を深々と下げる。本当ならこちらが頭を下げる道理はないはずだ。それでも──彼女の好意を無下にするのは,忍びない。
「……」
イリーナは何も言わなくなった。先ほど回していたキーリングも音が止む。そっと視線を上げてイリーナを見る。
無表情。けれどその沈黙にはわずかに寂寞の色を帯びている。
──え?もしかして傷つけた?
彼女は気分屋だ。その彼女が無理に送ろうとしたのは、自分の意思であって、僕が断ったからといって気にするような性格じゃないと思う。だけど──どこか、放っておけない。
この,大型犬みたいな,不器用な優しさを見せる人を。店に来たばかりの時の態度が嘘のように思えてくる。案外打たれ弱いのかもしれない。
僕は静かに決意する。
──やっぱり,この人の優しさ突き放せない
「……やっぱりお願いします。」
そう言うと、イリーナはわずかに瞬きをした。
「…何がだ?」
「送ってもらいます。」
短くそう言うと、イリーナは一瞬だけこちらを見た。そして──
「……ふん。」
ふっと息を吐く。キーリングを指先で軽く転がす音が、再び静かな夜に響いた。
「最初からそう言えばいい。」
そう言うと、イリーナは踵を返し、無言のまま歩き出す。ついてこい──無言で言ってくるようにも思えた。素直に彼女についていく。イリーナが開けた閉まりかけの扉を縫って外に出る。その瞬間、ひやりとした夜の冷気がまとわりつくように流れ込んできた。静寂の中に微かに混じるのは、遠くの道路を走る車の音と、近くで流れる川の水音。けれど、それすらもこの冷えた空気の中では遠く、どこか現実感が薄い。肌にまとわりつく温度差が、ほんの少しだけ体を強張らせる。さっきまでいたバーの、わずかに暖かい空気が名残惜しく思えた。ふと空を見上げる。夜空は深い黒に沈み込み、街の光が霞んで見える。雲の隙間から覗く星が、小さな冷たい光を放っていた。
イリーナはこのバーと同じ敷地にあるカレージのシャッターに手をかけると思いっきり押し上げた。軋んだ金属音が静かな夜の空気を切り裂く。シャッターの向こうには黒い塊。イリーナが壁のスイッチを押すと蛍光灯の淡い光がガレージ全体を照らし出した。
そこにあったのは───
大きすぎるほどのボンネット。ごつすぎるほどのフロントグリル。そのグリルには、双子のように並んだ二つのライト。正面には、ヘッドライトを含めて八つもの光源が並んでいる。まるで蜘蛛のような、不気味なまでの精悍さ。──否、ただの蜘蛛ではない。毒蜘蛛だ。鋭く並ぶその目は、暗闇の中に潜む獰猛な捕食者の眼光のようで、見る者を射抜くような気配を放っている。
──……なんだ,この車?
車の知識がない僕でも、これが普通のものじゃないと一目でわかる。新しい車じゃない。むしろ、古くて無骨なスタイルなのに、妙な圧迫感がある。威圧的で、荒々しく、それでいて〝本物〟の風格がある。長い年月を生き抜いた証のような、小さな傷や塗装のわずかなくすみが、その存在をさらに際立たせていた。
「……」
言葉を失って見つめていると、イリーナが無言のまま運転席側に回る。
──カチャリ
キーをひねった瞬間──重低音が空気を震わせる。まるで、眠っていた猛獣が目を覚まし、喉を鳴らすような響き。エンジンの回転が上がるたびに、その音はより深く、より荒々しくなる。まるで大地を揺るがす獣の咆哮。アイドリングですら、抑えきれない力が車体の奥底で蠢いているのが分かる。アクセルを軽く踏めば、それは一瞬で牙を剥く。低く、太い爆発音のような音がガレージの壁に反響し、腹の奥にまで響き渡る。無骨で、洗練されていない、しかし圧倒的な力を誇示するような音。この音を聞いてしまったら、もはやただの車とは思えない。これは機械ではなく、生き物。全身に爆発的な力を秘めた、漆黒の捕食者──イリーナはそんな〝猛獣〟の首輪を握るように、片手で無造作にハンドルを掴んでいる。もう片手で何やらもぞもぞしている。窓を開けているのだ。古いタクシーなどは手ハンドルで窓を開ける。この車もそうなのだろう。窓を開けると腕と顔を出す。
「乗れ」
腕で合図しながら言う。少しだけ躊躇してしまう。この車に乗ったら,ただの送迎では済まない気がする。でも不思議と怖さはなかった。
「……お邪魔します。」
ゆっくりとドアに手をかけ、車内に滑り込む。シートに身を沈めると、しっとりとしたレザーの感触が背中に馴染んだ。静かなのに、どこか熱を感じる空間。ドアが閉まる。
「シートベルトをしろ。」
言われるままにシートベルトを締めると、彼女は静かにギアを入れた。
「しっかり掴まってろ。」
──次の瞬間、猛獣が解き放たれる。背中がシートに叩きつけられるような加速。夜の街へ、漆黒の毒蜘蛛が駆け出していった──。
イリーナは前方をまっすぐに見据え、無駄のない動作でハンドルを操る。
右手が時折シフトレバーを滑らせ、カチリと乾いた音を立てながらギアを変える。ペダルの踏み込みと緩める動作が、まるで呼吸のように滑らかだ。今さらながら気づいた。
この車は左ハンドル──つまり、外車だ。
改めて車内を見渡すと、そこにあるのは現代の洗練された車内とは異なる、無骨で簡潔な世界。
速度計の針は細かく振れながら速度を示し、カーナビのスクリーンは存在しない。ダッシュボードは過度な装飾を排し、必要最低限の機能だけがそこにある。
すべてが、実用性と力強さだけを求めた結果のようだった。
イリーナはスマートフォンを片手で操作し、Geogle Mapの音声ガイドに耳を傾けながら、静かに車を走らせる。
古い車に乗りながら、道案内は最新の技術に頼る──アンバランスなようでいて、妙にしっくりと馴染んでいた。
彼女の無言の運転と、車内に響くエンジンの低いうねりだけが、夜の街に滑り入る。
「─マスタング」
彼女がエンジン音に混ざる彼女の声。
「マスタング?」
「マスタングシェルビーGT500,67年式だ。」
彼女が自分の車,いや飼いならした〝猛獣〟を僕に紹介する。
「67年式…ずいぶんと古い車ですね。」
「……」
無言。だがそれは無視ではなくうなずきだ。
「こういう車,好きなんですか?」
彼女に聞いてみる。
「…ああ」
短い返答。けど愛着を持っているという響きを含む。この一言を皮切りに──
「こいつはな、ただのマスタングじゃない。シェルビーGT500だ。1967年モデルは、それまでのGT350よりもさらに強力なエンジンを積んでいる。排気量は428キュービックインチ──つまり7.0リッター。純正で355馬力だが、実際のところはそれ以上出てる。当時のフォードは馬力を控えめに公表するのが常だったからな。トルクは610Nm、これは今の基準で見ても化け物レベルだ。」
急にスイッチが入ったかのように、イリーナの言葉が一気に流れ出した。さっきまでの寡黙な彼女とはまるで別人のような早口。
「レーシング技術が詰め込まれたモデルだ。エレノア仕様とかレストモッドもあるが、こいつは当時のオリジナルに近い形で維持してる。エンジンはOHVのビッグブロック、オートライトのキャブレター、4速マニュアル。余計な電子制御は何もない。トラクションコントロールもなければABSもない。ただの機械だ。人間が操らなければ、ただの鉄の塊になる。」
エンジンを煽る。
グォン!
太い重低音が、車内に響く。
「今の車と比べたら技術的には劣るさ。でも、こいつはただの車じゃない。乗り手を試すんだ。甘く握れば機嫌を損ねるし、強引に扱えば牙を剥く。でも、うまく手懐ければ──最高の相棒になる。」
イリーナの言葉に、確かな情熱が滲んでいた。
「……それって、まるで猛獣ですね。」
そう呟くと、イリーナは片方の口角をわずかに上げた。
「いい例えだ。」
クラッチを踏み、シフトを入れ替え、アクセルを軽く煽る。
ドゥン……バゴォォン!!
マスタングが応えるように吠え、夜の街をさらに加速する。体が心地よく後ろに引っ張られた。
「……ボリスさんって」
ふと、次に口を開いたのは僕だった。
「ボリスさんって、イリーナさんの常連なんですか?」
「…………」
さっきまでの饒舌さが嘘のように、イリーナは黙り込む。
答えを探しているのか、それとも考えを巡らせているのか。
沈黙が長く続き、思わず不安になる。
──ひょっとして、聞いちゃいけないことだった?
「ボリスは……」
ようやく、イリーナが口を開いた。
「あいつは私の──たまに来る〝常連〟だ。」
「常連……ですか?」
「たまに来る、な。」
言葉のニュアンスが微妙に違うことに気づく。
常連、と言いながらも「たまに来る」とわざわざ付け足すあたり、何かを誤魔化しているようにも聞こえた。
「でも、良い奴だ。」
そう言うと、イリーナはブレーキを踏み、車をゆっくりと路肩に寄せた。
窓の外を見ると──もう家の前だった。
「ここか?」
「あ……はい。本当にありがとうございました。」
シートベルトを外し、ドアのインナードアハンドルに手をかける。
引いて、ドアを開ける。
しかし──完全には開ききらないまま、手を止めた。
イリーナのほうを見る。
「……あの。」
彼女はハンドルに手をかけたまま、こちらを見ずに静かに話を待っていた。
「また……来てもいいですか?」
その問いかけに、イリーナは微かに目を細めた。
そして──
「……勝手にしろ。」
ぶっきらぼうな返事。
それでも、十分な答えだった。
「ありがとうございます。イリーナ。」
今度こそドアを押し開け、車から降りる。
軽く息を吐いて家のほうへ歩き出す──が、その途中で、ふと足を止めた。
もう一度振り返る。
イリーナは助手席側の窓に肘をつき、頬杖をついていた。
目線はどこにも向けられていない。
──僕が振り向いたことに気づくと、彼女は無言のまま片手を軽く上げた。
その無造作な仕草に、妙な温かみを感じる。
僕も短く手を上げ、静かに家へと向かった。
背後で、エンジンが低く唸る音が響く。
そして──
漆黒のマスタングは、夜の街へと消えていった。
***
『Объект в движении. Визуальный контакт подтверждён.』
(対象が移動。視認を確認。)
『"Грозовой фронт" остаётся в тени. Наблюдение продолжается.』
(〝雷雲〟は影に潜む。追跡を継続。)
『"Соловей" в клетке, но крылья ещё не подрезаны.』
(〝ナイチンゲール〟は檻の中だが、まだ翼を切り取られていない。)
『"Северный ветер", доложите.』
(〝北風〟、状況を報告。)
『Здесь "Северный ветер". Цель "Ирина" ─ подтверждена.』
(こちら〝北風〟。ターゲット〝イリーナ〟──確認。)
『Продолжаю наблюдение. "Гранит" ведёт дистанционный контроль.』
(監視続行。〝花崗岩〟は遠距離より観察。)
『Обнаружены осложнения?』
(問題発生か?)
『Проблем нет. Однако...』
(問題なし。ただ……)
──数秒の沈黙。
『Рядом с "Соловьём" замечен посторонний элемент.』
(〝ナイチンゲール〟の傍に予期せぬ要素あり。)
『Каков его статус?』
(状況は?)
『Молодой. Без подготовки. Не осведомлён. Возможен вектор использования.』
(若い。経験なし。無知。……利用価値あり。)
『Непредвиденный фактор?』
(予期せぬ要素か?)
『Непредвиденный. Однако его можно интегрировать.』
(予測外。しかし、組み込める。)
『Прямой контакт запрещён. Используем его как "ключ".』
(直接の接触は禁止。"鍵"として利用する。)
『Сеть уже расставлена. Осталось только ждать.』
(網はすでに張った。あとは待つだけだ。)
『Жертва сама войдёт в ловушку. Медленно. Неотвратимо.』
(獲物は自分から罠に入る。ゆっくりと、確実に。)
『...И "Соловей" падёт от руки своей же "куклы".』
(……〝ナイチンゲール〟は、自らの〝人形〟の手で堕ちる。)
──ザザッ……ピッ……
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ではでは、次回もよろしくお願いします!