日本脱出編 第三話:謎の男,ボリス
イリーナが淹れてくれた紅茶をすする。熱が舌を撫で、喉を滑り落ちて胃へと沁み込んでいく。それはカクテルとは違う穏やかな温もりが、じんわりと体を満たしていった。熱さを逃がすように、少しずつ口に運ぶ。十分に体を温めたところで、カップをそっと置いた。
視線を上げると、イリーナはカウンターの内側で棚にもたれ、気だるげに煙草をくゆらせている。さっき取り出したそれを、まるで時間そのものを味わうようにゆっくりと楽しんでいた。
「それにしても…」
独り言のような言葉をぼそりと漏らす。ちらりと視線を向ける。
「本当に助かりましたよ。お酒も美味しいし,充電も。」
ちらりと視線を向ける。先ほど頼んだスマホの充電は、店の奥のコンセントに繋がれ、ゆっくりとバッテリーを満たしていた。
「……」
「紅茶も美味しいですし,イリーナさんのいう通り悪くない選択だったのかも。」
「……」
先ほどからイリーナは黙っている。聞いているのか,聞いていないのか,判別がつかない。
「 〝さん〟付けするなと言ったはずだ」
紫煙をくゆらせながら,低く告げる。
「あっ,すみません…」
「…ふん」
揚げ足を取られた気がして,次にことを探すのが妙に億劫になってしまう。会話が止まり,沈黙が落ちる。
──気まずい…
さっきまで会話が弾んでいた分,この沈黙が妙に重く感じる。どうしたものかと考えながらカップに口をつけたとき──
「お前,大学生か?」
沈黙を破ったのはイリーナだった。
「えっ?」
ちょっと間抜けな声を出してしまう。なぜ急にそんなことを──と考えたがすぐに理由が分かった。
「話し方とかで分かります?」
試しに聞いてみる。イリーナは『ふんっ』と鼻を鳴らしただけで答えない。当てずっぽうで言っただけ──と思った矢先,不意に目が合った。
「今日の面接は順調だったか?」
思わずカップを持つ手が止まる。
「えっいや,なんでそれを?」
面接があったことなんて一言も言っていない。それなのに当然のように聞かれたものだから,心を読まれた気がして,自分を見透かされたような,得体のしれない圧を感じる。
──まぁ,でも別に隠すことでもないよね…
「…あー,まぁ就活しているんですよ,一応。去年の夏ぐらいから動き始めてインターンとか履歴書の写真撮ったり──」
先ほどの会話の停滞が嘘のようにスラスラと話す。イリーナは何も言わずに聞いているが,沈黙が〝話せ〟と圧をかけているようにも思える。
「──それに今日三回も面接あったんですよ,三回も。」
少し肩をすくめて見せる。
「いや~なんで今日面接を三回も入れてしまったんですかね。三社目の時に何を話したのかもよく覚えてないし…」
カクテルのせいか,それともようやく美人な店長に話せる話題が見つかったからか,口が回る。おそらく後者の方だと思う。
「あーでもですよ。今日の面接は三社とも感触が良かったんですよ!なんかようやく自分の努力が正しい方向に向かっているような気がしてうれしんですよね!」
相変わらず口を挟まない。代わりにじっとグラスを傾ける。でも,その沈黙がやけに心地よい。
「でもすごい疲れちゃって…だから『頑張ったし自分を甘やかすか!』みたいなテンションでなっちゃって。それで抹茶パフェを食べに行ったんですよ!」
「……抹茶パフェ?」
ここでようやくイリーナが反応をみせる。
「そうです!そうです!もうめっちゃ美味かったんですよ! 抹茶アイスが濃厚で、白玉がもちもちで……いやほんと、一口食べた瞬間、『今日の疲れ全部吹き飛んだわ』って思いましたね。」
「……ふん」
イリーナはグラスを置き,煙草を淡々とくゆらせる。でも,ちょっとだけ眉が動いたような気ががした。
「何でしたら一緒に行きません?すごい美味しいんですよ!場所はアリストテレスっていう喫茶店で……」
勢いのままに話していたがすぐに自分の発言の意味に気づく。
──あれ?僕,今なんて……?
年上で,美人で,ちょっとミステリアスな雰囲気を持つ彼女を,イリーナをさりげなくスイーツに誘っている。これでは完全にデートの誘いだ。思わず視線を横にそらす。
違う,そういうつもりじゃなかった。あまりに自然な流れで言ってしまったことだ。でもそうつもりじゃなかったら何だと言うのか。
頭の中でぐるぐると言い訳を探していると,イリーナ肺に吸い込んだ薄煙を吐き出し──
「お前,軽いな」
じっと僕を見つめながら,ズバッと,核心を突かれた。
「い,いやそういうつもりじゃなくて!ただ…ただ美味しいものを共有したくて…あ,えっと…」
イリーナのような美人と一緒に出かける,そう考えた瞬間,強く否定することできなくなる。必死に言い訳を並べようとするが,逆に墓穴を掘っているような気もしてしまう。
イリーナはそんな僕のことを何を言うでもなく淡い口調でグラスを傾けてながら,煙草の先を軽く揺らす。
「……あ,あの…」
「どうした?続けろ」
余裕のある低い声。まるで僕がもがく様子を楽しんでいるようにさえ思えて、その余裕が余計に焦りを煽る。
「い、いや……だから、その……えっと……」
どう取り繕えばいいか分からない。デートの誘いじゃない、と言いたいのに、言えば言うほど意識してしまう。イリーナのような美人を誘ったという自覚が、今さらになって重くのしかかる。
「面白いな。」
「えっ?」
「必死に言い訳するのに、全然否定しきれてない。」
──⁉
結局何も言えず顔が熱くなっていくのを感じながらそのまま机に突っ伏してしまった。
「うぅ…」
肩まで沈み込む勢いで、額をカウンターに押し付ける。今ならこのまま溶けて消えたくなるくらい恥ずかしい。
「おい,どうした?」
「………いじわる……」
突っ伏したまま細い声で話す。
「ふん,やっぱり面白いな。」
突っ伏したままだからイリーナの顔を見られない。でも──
──……絶対,ニヤニヤしてる
そのまま沈黙が落ちる。いや、落ちるというより──ただ、僕が動けなくなっただけだ。
「……お前、もう一杯飲むか?」
「もう無理です……」
机に突っ伏したまま、僕は泣きそうな声で呟いた。
イリーナは静かに煙草を吸いきり,再び灰皿に押し付けた。火の消えた煙草の残骸が灰皿の上に転がる。同時にグラスの中にあった蜂蜜色の酒もすっかり空になっていた。彼女は何も言わずに飲み切ったグラスのふちをなぞる。どこか無表情で何を考えているか分からない。だが先ほどより多少穏やかもなったようにも見える。
──…なんか静かだな
僕はさっきまでの〝撃沈〟を引きずりながらなんとなくまだ三割ほど残っているカップを指で転がしている。恥ずかしさの余韻は残っているけど,不思議と居心地の良さも感じていた。
カラン──
突然扉が開かれて,鈴が鳴る。イリーナはグラスの縁をなぞる動きを止めて扉の方に顔を向ける。僕もこの店にはもう客は来ないと思い込んでいたため,突然鳴った鈴の音に内心驚き,扉の方へと体を向ける。
果たしてそこにいたのは一人の男だった。黒に近いダークグレーの,ストライプが入ったスーツを着ている。シャツは派手で赤色。短く刈り込まれた髪は,灰色が混じった黒髪。年齢は50を過ぎているだろう。無頓着で,それでいて余裕のある雰囲気を纏いながら,ゆったりとした足取りで店に入った。
イリーナと違い威圧的な感じはしない。だがイリーナとは別の意味で,ミステリアスな空気をま纏っている。
「…ボリス」
イリーナが、低く名前を呼ぶ。その声は淡々としているようで,かすかに湿り気を帯びているようにも感じた。しかし,すぐに表情を引き締め,いつもの仮面をかぶり直した。
「よお」
その男──ボリスは軽く片手を上げて挨拶して僕の一席挟んだ位置に座ろうとする。
「おや?」
「…?」
座る直前に僕一瞥する。そして,座りながら何かを面白がるような口調で,言葉を続けた。
「Наконец-то у тебя появился завсегдатай, а?»(ついに、お前にも常連ってやつができたのか?)」
聞いたこともない言語を目の当たりにして混乱してしまう。何を言っているかは分からない。だがこの独特のな響き──ニュースで聞いたことがある気がする。
──えっロシア語?
そう気づいた瞬間,記憶がフラシュバックする。──プーチン大統領の演説
ここ最近、テレビで何度も流れていたニュース。ウクライナ情勢がどうとか、NATOがどうとか、俺には詳しく分からなかったけど、ロシアの偉い人が、こんな感じの言葉で喋ってたのは覚えてる。
「……」
イリーナは黙ったまま。だが明らかに目が鋭くなった。カウンター越しにグラスを拭いていた手がわずかに止まる。
「Это тебя не касается.(あんたには関係ない)」
短く,静かに。しかしわずかにムキになったような響きがあった。ボリスは,くつくつと喉を鳴らして笑う。
「Однако… Никогда не видел, чтобы Ирина не прогоняла клиента.(それにしても…イリーナが客を追い返さずにいるなんて、初めて見たぞ。)」
「……Ты выпить пришёл или просто надо мной смеёшься?(……酒を飲みに来たのか?それとも茶化しに来たのか?)」
「Оба. Плюс посмотреть, как ты поживаешь.(どっちもだ。お前が顔を見に来たついでにな。)」
ボリスは軽く指を一本立て、注文を示すように振る。
「Как всегда.(いつものを)」
イリーナは何も言わず、無駄のない動きでボトルを取り出し、淡々とウォッカを注ぐ。その仕草には慣れた手つきがあり、まるで長年の儀式のようだった。
ふと、視線を横にやる。
ボリス──そう呼ばれた男が気になる。
この店の顔なじみのような振る舞い。しかも、馴染みのない言語でイリーナと自然に会話していた。まるで、昔からの知り合いのように。
イリーナに常連がいることがどうにも想像しづらい。彼女の接客態度は〝客を歓迎する〟という言葉とは真逆だった。無駄な言葉はない。愛想もない。不機嫌ともとれるほど寡黙。
何なら「帰れ」と言われてもおかしくないレベル。
それなのに、この男は慣れた様子で座っている。
何気なくイリーナの表情を伺う。
だが、彼女は何事もないように平然としていた。ウォッカを注ぎ終えると、ゴンッと音を立ててグラスをボリスの前に置く。
今度はボリスを観察する。彼は待ってましたと言わんばかりにウォッカを一気に飲み干した。そして──グラスを置くなり、体ごとこちらへ向き直った。
「あっ、えっと…」
目が合い、言葉が詰まる。
「ス,スパシーバ?」
頑張って聞いたことのあるロシア語で、「こんにちは」のつもりで話してみる。だが──
ボリスは一瞬、目を瞬かせた。
次の瞬間──
「……Ха-ха-ха!!」
喉の奥で低く笑いが漏れる。それは抑えきれなかったかのような、どこか楽しそうな笑いだった。
「スパシーバだ?」
突然の笑いに僕は戸惑ってしまう。
──何かおかしなことを言ったかな?
ボリスは笑いながらグラスを指で軽く叩くと、にやりと口角を上げてイリーナの方を向いた。
「おい,聞いたか,イリーナ。スパシーバだとよ。」
「え……?」
再びこちらに目を向ける。
「坊主、お前が今何を言ったか分かってるのか?」
思わずイリーナを見る。彼女は呆れたようにため息をつきながら、煙草の箱を軽く叩いた。
「……スパシーバは〝ありがとう〟だ」
──……マジか。
俺はロシア語に詳しくないが、「スパシーバ」という単語がロシア語なのは知っていた。けど、それが「こんにちは」じゃなくて「ありがとう」だったなんて──。
「あ、いや、その……」
言い訳しようとしたが、ボリスは楽しそうに肩をすくめた。
「まぁ、礼儀正しいのはいいことだ」
そう言って、もう一口ウォッカを飲む。
だが──グラスを置いた瞬間、ボリスの目が一瞬だけ鋭くなった。
「──で、お前は何者だ?」
場の空気が一変する。
暖房が効いているはずなのに、ふと肌寒さを感じた。
「え、あの……」
どう答えるべきか分からず目が泳ぐ。その様子を見て、ボリスが口元を少し歪めた。
「落ち着けよ。ただの興味だ。」
「いや、その……」
何とか言葉を紡ぎ出そうとしていると、イリーナが煙草に火をつけながら低く呟いた。
「ボリス,そいつは私の客だ。」
「ほう! “私”の客ね……へぇ、“私”の客か。」
ボリスは「私の客」という言葉を味わうように繰り返し、ふっと笑みを漏らす。
「そいつは驚きだな」
グラスを持ち上げ、軽く傾ける。そして、まるで面白いことを思いついたように、ニヤリと笑った。
「坊主,どうやってイリーナを口説いたんだ?」
──は?
予想外すぎる質問に、思考が一瞬フリーズする。
「い、いや…別に口説いたわけじゃなくて…」
どう答えればいいのか分からず、苦し紛れに出てきたのは、よりによって この一言 だった。
「えっと…スイーツで?」
ボリスの動きが止まる。
──言った瞬間に、自分で墓穴を掘ったことを悟る。
次の瞬間、喉の奥から低い笑い声が響いた。
「そうか!イリーナにそんな面があるとはな!」
目を輝かせながら楽しげにグラスを掲げるボリス に対し、イリーナは冷たく睨みながら、煙草の灰を灰皿に落とした。
「おい,そうじゃない。こいつがしつこいから仕方なく入れただけだ。」
短く言い捨てる。だが、その割に追い出したわけではないという事実が、彼女の言葉に微妙な説得力のなさを生んでいた。
「それにしても、随分長居を許してるじゃないか?」
カウンターに一瞬の沈黙が落ちる。イリーナはわずかに視線を逸らしながら、淡々と答えた。
「……甘いものに興味はない。」
──今、話そらした……?
「ってことは甘いもんじゃなくて──」
「ボリス,今すぐ黙れ。」
イリーナは静かにグラスを磨いている。だが、手の動きがほんのわずかに力を込めているのが分かった。
ボリスは喉の奥で小さく笑いながら、グラスに残っているウォッカを飲み干すと、満足そうに息をついた。
「まぁ,これからが楽しみだな。」
ふっと笑う。
「さて──」
軽く背伸びをして、イリーナを振り返る。
「俺はそろそろ行くよ。お前が元気にやってるのも分かったしな。」
「Ирина, только не бей его. Всё-таки, кандидат в завсегдатаи.(イリーナ,こいつには暴力振るなよ。せっかくの〝常連候補〟だ)」
イリーナは何も言わず、ただ煙草の煙をくゆらせる。ボリスはその沈黙を楽しむように、軽く肩をすくめた。
「Фу, мне больше не нужны драки. (ふん,もう暴力沙汰は勘弁だからな。)」
「Прошлый раз тот ублюдок сам начал. (前のはあのクソ野郎が先に仕掛けてきた)」
イリーナは低く、淡々とした声で答えた。その口調には揺るぎない自信があった。
「Этот парнишка же другой, да? Если побьёшь его, ‘будущий муж’ может сбежать.(こいつは違うだろ?せっかくの 〝未来のダンナ候補〟 が逃げちまうぞ。)」
イリーナの指がピクリと動いた。すぐに煙草をくわえ,支援を深く吸い込み,長く吐き出す。そして言い放った。
次の瞬間──
「Я тебя убью. (殺すぞ。)」
冷たく、静かな声。
「О-о, страшно. Ну, я пошёл. Пока. (お~怖い。)」
ボリスは特に気にする様子もなく、肩をすくめた。
「Это росток, который наконец-то пророс. Не дай ему засохнуть. Кажется, у тебя нет привычки поливать растения.(せっかく出た芽だ。枯らすなよ?お前に水やりの習慣はなさそうだからなぁ。)」
ボリスは軽く手を挙げて店を後にした。
「チッ」
扉が閉まるのと同時に、イリーナが小さく舌打ちをする。
──イリーナ、少し動揺してる?
だがそれを指摘するのはやめておいた方がいい気がしたので、黙っていることにした。
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