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日本脱出編 第二話:年上高身長お姉さん

その女性は黒で統一された装いだった。Vネックシャツにスエードのライダースジャケットを羽織り、下はぴったりとしたスキニーデニムに編み上げのコンバットブーツを履いている。透き通るように白い肌と彫りの深い顔立ちは日本人離れしているが、それでいてこの場に違和感なく馴染み、シンプルながらも洗練された雰囲気を漂わせていた。


カウンターに一列に並んだ椅子の手前から二番目に腰を下ろしていて,左手には琥珀色の液体が揺れるグラスを持ち、右手には人差し指と中指で挟んだ煙草。その先端から紫煙がゆらゆらと立ち上り、淡い靄がぼんやりと周囲に滲む。


彼女は、まるでこの店の時間すら支配しているかのように、静かにグラスを傾けた。

氷がカランと鳴り一口飲み、目を閉じる。

そして、まるで僕の存在などそこにないかのように、吐き出された紫煙がゆっくりと天井へと消えていく。

─いや,そんなことより……

店内を見まわす。カウンターの奥の棚には、ずらりと並ぶ琥珀色のボトル。店の照明にガラスが反射して,揺らめく透き通った影を作り出している。壁には、無造作に貼られた色褪せたポスター。モノクロの映画のワンシーンを切り取った写真が、控えめなライトに照らされ、かすかに浮かび上がっている。天井から流れるジャズは静かに店内を漂い、カウンターの隅で煙草の煙と絡まり合った。そして──客は僕以外いない。それどころか店員の姿すら見当たらない。


少し頭を整理する。もしほかに店員がいないのであれば必然的に彼女が店員になる。しかし当の本人はカウンターに身を預けて座って静かに酒と煙草を楽しんでいる。とても働いているようには見えない。では彼女が客なら店員はどこにいるのか。店の裏にいるのだろうか。だとしたら何かしらの調理音や足音が聞こえてもいいはずだ。

包丁がまな板を叩く音,フライパンの油が弾ける音,食器が触れ合う音──しかし耳を澄ませても聞こえるのは静かに流れるジャズだけ。

──…ってことはやっぱりこの人が店員?

30秒ほど考え込んだ末,意を決して彼女に話しかけることにした。

「あの……」

「……」

声をかけても依然と酒を口に運び,煙草の先をわずかに揺らしながら彼女はまるで僕の存在など最初からなかったかのように振舞う。

──…えっ無視?

肩透かしを食らったようで、ちょっと心がチクッとする。

「あの!」

今度は少し声を張ってもう一度声をかけた。

するとようやくこちらに反応する気になったのか,体をそのままに顔だけこちらに向けて来た。

「…なんだ」

低く,気だるげな声。

くぐもったジャズの旋律に溶けるような,乾いた響きだった。それでいて,日本語の発音にはまったく訛りがない。

だが,彼女は表情を変えない。酒を傾ける仕草も,紫煙を吐き出す角度も,先ほどまでと寸分違わない。ただわずかに視線だけをこちらへと向けられていた。

その目に宿るのは興味でも敵意でもなく,ただ淡々とした無関心のように感じられた。

「えっと…今お店空いてます?」

「空いてない」

即答だ。ではなぜ彼女はここでのんでいるのか。

「…えっ,でも,今飲んでますよね?」

「店が開くかどうかは私が決める」

──何この店員⁉ 

一切の迷いもなく淡々と言い放す。まるで当然の道理のように響くその声に,思わず口を開いたまま固まる。

「あ,えっと…」

「まだ何か用か?」

時間の無駄だと言わんばかりの,冷ややかな声。気まずい沈黙が落ち,言葉に詰まる。

だが外はすでに寒波に覆われて鈍色の空気が冬を冬たらしめている。ここを出たらまた当てもなく彷徨うことになる。

そのため何とかして彼女を説得しなければならない。だが,どうやって説得すればいいのか。彼女の態度を見る限り普通に頼んでも通りそうにない。

改めて店を見渡してもこの店にいるのは僕と彼女だけ──

──ん?ていうかこの店,店員どころか店長はいないのか?

急に店長の存在を思い付く。そうだ。店長なりオーナーなりに報告すればいいんだ。こんな営業スタイルがまかり通るなら店の責任者に相談すれば何とかなるかもしれない。

「あの~店長はいますか?」

「私だ」

──この人かよ⁉

予想外の返答に衝撃を受ける。本気なのか冗談なのか──いや,彼女の表情を見る限り本気だ。

「だから私が店をやるかどうか決める」

「えぇ……じゃあ、今日は休みってことですか?」

「気分次第だ」

「適当すぎる!そんなので店やっていけるんですか⁉」

思わず声を荒げてツッコんでしまう。

「やれてる」

迷いなく言い切った。むしろそんなことを聞く方が間違っているとでも言いたげな顔。

「いや、いやいや、経営大丈夫!? こんな接客で客,来るんですか!?」

「現にお前が来ている」

──確かにそうだけど!来てるけど!でもそういう事じゃない!

何か言い返そうと口を開きかけるが言葉が出てこない。言葉を探していると先ほど彼女が言った言葉,『現にお前が来ている』を頭の中で反芻してみる。

──……会話の流れで考えると彼女は僕を客と認めたってことになるかも

「あっ,なら適当に酒を頼むんでできれば…」

「すぐに帰ってもらうがな」

「ひどい⁉」

彼女はこちらに向けていた顔をもとに向きに戻して,再び煙草を唇に咥える。目の前で静かに紫煙が立ち上がり天井へと溶けていく。

まるでこの会話すら,煙のように消えていくかのように──

──うぅ…この人話通じないよ…

とはいえ、ここで引き下がるのも嫌だった。また寒空の下を当てもなく歩き続けるのは,さすがに勘弁してほしい。今ならまだ体が温まっているが、外に出れば一瞬で現実に引き戻されてしまう。

せめて……せめてスマホの充電だけでもさせてほしい。ならもう少し粘ってみるほかない。

「お願いしますよ。スマホの充電だけでいいんです。10分だけ!充電させてくれればそれで行きますから!」

再び僕に視線をやる。先ほど無関心とは違い,何かを見極めているようだった。それは僕と言う存在を〝どう扱うか決める〟かのような目。そして静かに口を開いた。

「お前,迷子か?」

──ぐっ

いきなり核心を突かれ,思わず言葉に詰まる。とは言え事実でしかない。僕は気まずさを誤魔化すように視線を落とし,観念したように白状する。

「は,はい…実は…そうです」

彼女はグラスを軽く回しながらしばらく考え込むような素振りを見せる。相変わらず表情は変えていない。わずかに目を細め,琥珀色の液体を指の動きは,どこか思案するようでもある。

そして──

「……まぁいいだろう」

短く淡々とした声が落ちた。

──良かった,追い返されずに済んだ……

ホッと息をつく僕をよそに彼女は一気にグラスの酒を飲み干し,煙草を近くに置いてある灰皿に押し付け。スッと立ち上がる。

──え?

視線が自然と上に引っ張られる。思ったより…彼女,背が高い。座っているときはよく分からなかったが,いざ立ち上がると僕より頭一つ分は高い。僕の身長が166.4cmであることを考慮すると10cmほど高い176cmぐらいだろうか。

何も変わらないのに立っただけで数割増しで威圧感を感じる。むしろ僕の身長が縮んだのではないかと錯覚するほどだ。そんな僕を彼女は気にも留める様子もなく本来いるべきカウンターの奥側へ向かった。

歩みは堂々としており,履いているブーツのせいか,コツ,コツ,コツ──と靴音を鳴らしながら歩く姿はまるで自分の縄張りを侵されて,威嚇する野生動物のようだった。

「そこに座れ」

カウンターの向こうに立つと、彼女は 軽く顎をしゃくる。

「はっ,はい!」

反射的に指定された席に座る。彼女に命令されると不思議と拒否するという選択肢が最初からなくなる気がした。

「何を飲みたい?」

「えっと,何かおすすめはありますか?」

「スコッチかウォッカ」

「そんな強いの飲めませんよ!」

即座に拒否した。だが彼女は意に介さず,ボトルのラベルを指でなぞる。

「ここはバーだ,なぜ飲まない?」

「僕そんな酒強くないので…もっと飲みやすいのありませんか?」

今度こそ飲みやすいを提示してほしいと願ったのだが──

「バーボン」

「だから何で強いのしかないんですか⁉」

その願いが叶うことはなかった。彼女は表情一つ変えずに、強い酒しかおススメしてこない。

──なんでそんなDeath or dieのような選択肢しかないの⁉

「強い酒を飲めば強くなる」

「筋トレ理論!? 酒でレベルアップするゲームじゃないんですけど!」

「お前は弱いのか?」

「……はい、めちゃくちゃ弱いです」



「……」

「……」

二人の間に静寂が落ちる。彼女は灰皿に押し付けた煙草を再び手に取り,ゆっくりと煙草を肺にいっぱいに満たしてから──

「では、ミルクでも飲むか?」

「なんで極端なんですか⁉」

──Death or dieからDeath or aliveのような選択肢へと進化。…いや選択肢の幅が広がっただけでマシなのか?

「なら、お子様用のカクテルを作ってやる」

「いや、それはそれで恥ずかしい……」

「お前が飲めるものを聞いているんだ。決めろ」

彼女は近くにあるメニューを無造作に掴み、僕に押し付けてきた。受け取ったのをペラペラめくってみるが──

「え、えぇっと……」

聞いたことのないようなカタカナの羅列。カクテルの名前だけ見ても、何がどういう味なのか全く分からない。考えあぐねていると、彼女がふとカウンターの棚を見上げた。

「甘いやつでいいか?」

「あ、それなら……」

「決まりだな」

「いや、まだ答えてないんですけど!?」

僕の抗議を無視して、イリーナは手際よくボトルを取り、カウンターの奥へと移動する。

その動きは滑らかで、まるで長年この仕事をしているプロのようだった。

──なんだかんだ、ちゃんとしたバーテンダーなのかな?

そんなことを考えていると、目の前にスッとグラスが置かれた。琥珀色の液体に氷が浮かぶ、美しいカクテル。

「飲め」

「……ちょっと待って、これって何?」

「飲んでから考えろ」

「いや、それ怖くないですか!? ちゃんと教えてくださいよ!」

「いいから飲め」

彼女に説明する気はないようだ。意を決して、目の前のカクテルに口をつける。

──あれ?

思ったほど強烈なアルコールじゃない。最初にわずかにスモーキーな香りが広がり、そのあとにほんのりまろやかな甘みが舌に馴染む。クセがありそうで、意外と飲みやすい。

「……意外と飲める?」

「ほう?」

カウンターの向こうでグラスを傾けながら、イリーナが口角をわずかに上げた。

「お前、意外といけるんじゃないか?」

「いやいや、まだ一口飲んだだけですって!」

「ならもう一口飲んでみろ」

「……いや、それは……」

「ほら」

「……」

──なんか飲まないと負けみたいな空気を出すのやめてほしい…

しかし、ここで「もう無理です」と言うのも妙に悔しくて、僕は再びグラスを持ち上げる。

ゴクリ─

やっぱり飲める。舌がじんわりと温まり、むしろ心地よい。

「……うん、普通に美味しいですね」

くっと喉を鳴らしながら、イリーナは再び煙草を口に運ぶ。指先に挟まれた煙草の先端が赤く染まり、ふわりと紫煙が立ち上る。

僕はグラスを見つめながら、口の中でカクテルを転がし、ゆっくりとその風味を確かめた。

二十歳になってから何度かビールやワインを飲んだことはある。けれど、どれも苦いとか渋いとか、ただアルコールを口にしているだけで、美味しいと感じたことはなかった。

だが──

このカクテルは違う。柔らかい甘さがじんわりと舌に広がり、アルコールの熱がじわじわと後を追ってくる。ゆるやかに沁み込むような──そんな感覚。

「……あの,やっぱり美味しいですね」

返事はない。その代わりに紫煙を吐き出し,先ほど違って多少柔らかくなった表情で無言の同意で返した。

「これって,なんていうカクテルなんですか?」

「ラスティ・ネイル」

「ラスティネイル?」

カクテルの名前を彼女に続いて反芻する。

「錆びた釘って意味だ」

「なんか物騒ですね⁉」

思っていたよりも物騒な名前だった。

「こいつは強いが甘くて飲みやすい。スコッチとドランブイの組み合わせが絶妙だ」

──ん?ちょっと待って今スコッチが入ってるって言った?


「あの…スコッチが入ってるんですか?」

「スコーち(少し)だけな」

──…………なぜだろう?ここは暖房が効いていてアルコールを摂ったっていうのに……えらく寒く感じるのは……いや,それより問題は……

「やっぱり強い酒じゃないですか⁉これ!」

「問題ない。お前は飲めている」

「なんかもう、ツッコんだら負けた気がしてきた……」

そう言うと彼女は煙草を口に咥え始め,ライターで火をつける。口に咥えたままさっき置いたグラスを取って後ろの棚から適当に取った洋酒をグラスに注ぐ。今度は氷を入れずストレートで飲むようだ。その横顔をぼんやりと見つめる。

改めて見ても、彼女はかなりの美人だ。

短く切り揃えられた黒髪に切れ目の瞳。トップには程よいボリュームがあり,襟足はやや長めに流している。前髪を片方だけ無造作に下ろして片目を覆っているせいで表情の一部が隠れ,どこかミステリアスな雰囲気を醸し出している。

先ほど立ち上がってことで分かったが,スタイルも良くすらりとしたシルエットは洗練されているように見える。

だがその鋭い眼差しと気だるげな仕草のせいか,どこか〝危うさ〟のようなものが滲んでいる。もっともその〝危うさ〟は社会不適合者のそれかどうかは判別できない。

そんな女性が静かにバーの片隅で,淡々と煙草を燻らせながら酒を嗜んでいるものだから一見誰にも興味を持たない孤高の存在のようでいる。──けれど、それが逆に、より一層興味を惹かれるのだった。

「えっと……」

とりあえず何か言葉を発する。だがそれは会話のスタートにしてぎこちないものだった。

「ん?」

「このお店って、どんなバーなんです?」

「バーだ」

「いや、それは分かります!! そうじゃなくて!」

彼女と話すと,言葉は通じるのにまるで別の言語で会話しているような感覚に陥る。

「……ふむ」

イリーナはグラスを軽く揺らしながら、少し考えるような仕草をした。

「まあ、客は少ない」

「でしょうね」

間髪入れずに同意してしまう。それもそうだ。あんな接客で、もし客が多かったら、それこそ天変地異レベルの異常事態だ。

「静かに飲めるやつだけが来る。それでいい」


「いや、バーってそういうもんなんですか……?」

「うるさいのは嫌いだ」

短い言葉。だけどまるで自分のことを名指しで否定されたように感じて,ムカムカとした気持ちが胸の奥で膨らんだ。だからすこしぶっきらぼうに問いかけた。

「じゃあ、なんでバーをやってるんです?」

「……」

僕の棘のある問いかけに、彼女はグラスを揺らす手をわずかに止めた。琥珀色の液体がグラスで波打つ。視線はカウンターの一角に座らせたまま。

「気に入ってるから。こういう場所が。」

淡々とした口調。でもその言葉には飾り気がなく,ただ事実を述べるような響きだった。そこに余計な感傷も、言い訳めいたものも感じられない。ただ、そうだからとだけ言っているような、そんな率直さがあった。

「へぇ……」

さっきまでムカムカしていたのに、彼女のその真な顔を見た瞬間、怒りはすっかり霧散してしまった。それに───

なんとなく、彼女の言葉には〝それ以上踏み込ませない〟雰囲気があった。理由を聞いたはずなのに、肝心な部分が霧に包まれているような、そんな感覚。

──……まあ、あんまり詮索するのも失礼か…

少し間ができる。手元のカクテルを眺めながら、もう一口飲む。

飲みながらふと気が付く。酒を入れてもらって,しかも二人きりだというのに,ここまで自己紹介もしていない。向こうは僕のことを〝お前〟としか呼ばず、僕も彼女の名前を知らない。

「……あの」

「なんだ」

「お名前、聞いてもいいですか?」

彼女は少しだけ目を細め、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。その表情には微妙な変化があった。

──……え? なんか聞いちゃダメだった?

ほんの一瞬、沈黙。そして、イリーナは短く答えた。

「……イリーナ」

「イリーナ……さん?」

名前を反芻してみるが,最後にさん付けをする。

「呼び捨てでいい」

「え、でも……」

「〝さん〟はつけるな。違和感がある」

「えぇ……」

さすがに呼び捨ては気が引ける。イリーナは恐らく僕より年上だし,社会経験も……あるかどうかは営業態度を見る限り怪しいが,少なくとも僕よりは全然ある。だが当の本人は気にする素振りもなく、再びグラスを傾ける。

「で、お前の名前は?」

今度はこちらの名前を聞いてくる。

「あ、僕は橘祐一です」

「祐一か」

そう呟いたあと、イリーナはふっと笑う。

「妙に素直な名前だな」

「え,えーっとどういう意味ですか…?」

褒められたのか,からかわれたのか,判別しづらい。

「そのままの意味だ」

意味が分からないまま,会話はそこで終わる。イリーナは僕に視線を向けたまま、再びグラスの酒を揺らす。

「イリーナ、ですか……」

彼女をもう一度,今度はストレートに呼んでみる。

「ああ」


短い肯定が返る。それだけなのに、ほんの少し距離が縮まった気がした。名前を知っただけなのに、彼女に対する印象ががらりと変わった気がする。さっきまでの 〝謎の美人店員(?)〟が、今は少しだけ 〝知っている人〟 に思える。とはいえ、この人のことを知ったとは到底言えない。それに何か聞いても、はぐらかされる気がする。それでも、黙っているのも妙に気まずい。

「えっと……」

「なんだ」

「その……イリーナさん、いや、イリーナは普段どういうお客さんを相手にしてるんですか?」

少しの間,考え込むような仕草を見せた。そして──

「……いろいろだ。」

返ってきた答えはひどく曖昧なのだった。

「えっと…もうちょっと詳しく言うと?」

「さっき言った通りだ。静かに飲めるやつだけだ。それ以外は追い返す。」

「……ってことは、僕みたいにベラベラ喋る客は珍しい?」

「珍しいし、面倒だし,本来なら追い返していたところだ。」

「正直! もうちょっとオブラートに包んでくれませんか⁉」

「ふん」

イリーナは笑いもせず、淡々と煙草を燻らせる。たぶん本気でそう思っているのだろう。

──ん?でもなんだかんだ,店には入れてくたし,飲みやすい酒を出してくれた……

「……でも、追い出さないんですね」

確かめるように聞いてみる。

「気が向いた」

「その"気"が向く条件ってなんですか……?」

「さあな」

──この人、まじでマイペースすぎる…

ため息をつきながら、もう一口カクテルを飲む。アルコールがじんわりと体に広がり、芯から温められるような感覚がする。イリーナは短くなった煙草を指先で転がし、灰皿へと落とした。

「それにしても…」

ふと、イリーナが少しだけ目を細めた。

「お前、今日はついてないな」

「え?」

「迷子になった上に、スマホも充電切れ。しかもこんな場所にたどり着くとは」

「……確かに」

言われてみれば、本当に運が悪い一日だった。というか、そもそもなぜ僕はこんな道を選んだのか。普通に考えたら、充電がない時点で店に戻って助けを求めるのが一番だったはずなのに──

───なんで,僕ここに来たんだろう

少しぼんやりと考えていると、イリーナが静かにグラスを傾ける。

「まあ、悪くはない選択だったかもしれない」

「え?」

「こうして、酒を飲めたんだからな」

イリーナは淡々とした口調でそう言い、グラスの縁を指でなぞった。

悪くはない,か。

確かに、ただ迷子になって彷徨っているよりはずっと良かったのかもしれない。少なくとも、この妙な店で、妙な人と話している分、退屈ではない。

「まあ……そういうことにしておきます」

「……」

「ん? なんですか」

「……お前、意外と面白いな」

「え、そうですか?」

唐突な評価。

傲岸不遜な営業態度で妙に会話がかみ合わないイリーナの方がよっぽど面白いように映るが…

「ああ。最初はただの迷い込んだ小動物かと思ったが」

「小動物扱い⁉」

「だが、案外しぶとい。しかも酒も飲めた」

「〝飲めた〟 って言っても、まだちょっとだけですよ!?」

「十分だ。お前、飲んだ後にあまり顔に出ないな」

「そうですか?」

言われて気づく。確かに、特に酔った感じはしない。おそらくまだ飲んだ量が少ないからだろう。

「その調子なら、もう一杯いける」

「いや、調子に乗らせないでください!!」

「ふっ……」

ふいに、イリーナが小さく笑った。ほんの一瞬,口元が緩んだだけの微笑み。

けれどもそれは初めて見るような,おそらく彼女は笑わないと身勝手に決めつけていて,見れるとは思えなかった肩の力が抜けられる柔和な頬のわずかなゆるみ。それは氷の隙間から零れるひとしずくの温もりのよう。

最初の彼女とは違う,不機嫌で不愛想で何かを拒絶する,そんなとは違うまったく別のペルソナを覗けて背徳感にすら似た感情を感じさせるような感覚が胸から全身へと波紋のように広がる。

そんな彼女…いや,イリーナの意外すぎるギャップに、一瞬だけ心臓が跳ねて全身に微熱が伝わったかのような気がする。


──が、その直後。

イリーナは、いつものクールな表情に戻る。そして、内ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。細く長い煙をくゆらせながら、静かに言葉を紡ぐ。

「さて───次は何を飲む?」

「いや、だから、もう飲まないって言ってるじゃないですか!」

「ふむ、なら紅茶でも淹れるか」

「ねぇちょっと待って⁉ なんで最初からその選択肢を提示しなかったの⁉」

僕のツッコミをよそに、イリーナは黙々と紅茶を淹れ始めた。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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感想ももらえたら泣いて喜びます(本当に!)。

ではでは、次回もよろしくお願いします!

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