良くない日
ちりちりと、首の後ろが焼かれる。
ただ一人、マウンドに立ち。
この世でただ一人、負けたくないと思える相手の前に立つ。
グローブの中でボールを握り直して、深呼吸を一回。
意識して肩を大きく、動かした。
それは何時ものルーチンワーク。
数多の打者を殺してきた予備動作。
腕を振り上げる。
深く、強く、地面に刻み込む踏み込み。
そうして得た力を腰で回し、肩を回す。
身体が撓る。腕が撓る。
力強さでなく、柔らかさ。
それが自分に配られた手札。
全身連動からなる全身運動。
それは幼い頃よりも幾度となく繰り返してきた動作。全身を使って縦の力を弾丸へと伝える旋回運動。
足から腰に、腰か肩に、腕に、指に、そして最後に白球に“己”を乗せる。
投球動作。
人体を駆使した芸術で以って放った必殺のアウトローは――
月曜朝五時五十五分。
一応新婚である両親が未だ寝室にいる時間。
もっすもすと僕がパンを齧っていると――
「あ。はがねくん。私、バス停までで良いから」
なにやら昨日の休日のお出かけで味をしめたらしい義姉がそんなことを言ってきた。
オレンジジュースが出され、パンに目玉焼きが乗せられ――と僕の朝食の準備をしていたと思えばこのセリフだ。
女子校でなければ男子を何人も勘違いさせてきたであろうにっこり笑顔で『早く食べて自転車で送って行ってね』とお義姉様はおっしゃっておられた。
「……二人乗りは道交法で違反らしいですよ?」
「子供を乗せる分には問題ないのよ?」
「……お義姉ちゃんは大人の女性でしょう?」
「深夜徘徊してるんだから道交法くらい大したことないでしょ?」
「……これ以上罪を重ねたくないのですが?」
「お姉ちゃんに口答えをしない」
ぴしゃり、と義姉。
「……」
ザ・理不尽。
どうやら昨日の休日のお出かけで義姉は可愛い可愛い義弟の鋼くんをある程度は雑に使っても良い存在であると定義したらしい。すんな。
「……乗せて行くのは構わないのですが……僕、もっとカロリーとらないと駄目なのでまだ暫く食いますよ?」
ンこもしたいし。
「朝食をしっかり取るのは偉いけれど、やっぱり食べ過ぎじゃない?」
太るわよ? と義姉。言いながら僕の脇腹を突いて「……」無言になって「……」自分の脇腹を触って――
「……あの?」
何故か僕の頬を抓って来た。
「ねぇ、はがねくん? どうして君、あんなに食べて余分なお肉が無いの?」
また義姉さんが目だけが嗤ってる笑顔浮かべてるぅー。
そんな義姉から目を逸らしつつ――
「運動してますので」
この後もちょっと河川敷でバット振りますので。
ちょっと真剣にSOのランク上げることにしたので。
……あと今日は何か重りを乗せてチャリ漕がないと駄目っぽいので。
「……痛いのですが?」
頬のねじりが強くなったのですが?
「言ったでしょ、はがねくん? 女の子は勘が鋭くて、君は分かりやすいって?」
「……」
目だけじゃなくて口元まで嗤いだしたぜー。超怖いぜー。
「それで? どうするの? お姉ちゃんの言うこと聞く? それともほっぺ千切られる?」
「……千切らないで下さいよ」
どんな脅し文句だよ。
それでも僕がその訳の分からない脅し文句に屈したことに気が付いたのだろう。義姉は義父さんの通勤カバンを無断で漁ると、恐らく緊急時のエネルギー補給用と思われるミニサイズのスニッカーズを僕に投げて寄越してきた。
ご褒美&運賃。そんな所だろう。左手と口で封を切りながら口の中にカロリーの塊を放り込む。噛む。じん、とする様な強い甘み。それを感じつつ、バットケースを背負い、リュックを掴み、玄関へ。
何時もの調子でリュックをカゴに放り投げ、何時もの調子で自転車に跨った所で後ろに義姉が乗り込み、昨日と同じ調子で僕の腰に手を回して――
「バットが邪魔」
昨日とは違って文句を言って来た。
「カゴに入らないんだから我慢して下さいよ」
「私が持ってあげる」
「……」
手に力が入る。一瞬の抵抗。他人にバットを触られることに対する嫌悪。触るな。シンプルな赤い感情。それが――
「良いでしょ、別に? たかが野球の道具なんだから」
一瞬で冷やされる。「は、」と零れる乾いた笑い。それを見る義姉の目には明らかな悪意。何がしたい? 何がしたい? 何がしたい? それが分からない。
――あぁ、くそ。
久しぶりに観え過ぎている。
「……」
「うぃー」
「…………」
「……うぃー」
「……………」
「うぃーうぃーうぃーうぃーうぃーうぃーうぃーうぃーうぃーうぃーうぃーうぃーうぃー」
「……壊れましたか?」
イカルガだけに。
「お前が挨拶無視するからだろーが、ミドーくん」
言いながら隣に座ってもっかい、うぃー。
「……この前、僕の挨拶も無視された気がするんですけどね、イカルガくん?」
机につっぷしたまま、おはざー、と返す。
「……今日朝なんでこんかったん?」
「……体調が悪かったん」
生理だったん、と僕。
教室の空気が一気に冷えた。
「……周り九割女子でソレは笑えねぇよ」
「……何人か本気で睨んでますね」
生理なめんな。ぶち殺すぞ。そんな視線が突き刺さり、机に顔を伏せる。
あぁ、ダメだ。今日は、もう、ほんとダメな日だ。ダメな日だけど――
「マジで調子悪そうだな? 大丈夫か? 今日、アレどうすんだ?」
「やる。非公式だが店長から頼まれてるんだよ、お仕置きを」
「あー……迷惑プレイヤーの掃除だっけ? そんなん正社員に任せといた方がいいんじゃね?」
「腕に自信があるタイプらしいから、先ずはイジメてみるらしい」
「……やれんの?」
声に僅かな心配。
「やれるし――」
それを聞きながらスマホをいじいじ。
「さっき僕の保持ポイント全賭けしといた」
ダメな日だけれど――稼ぎ時だ。
笑う、笑う、笑う、嗤う。
「……あぁ、そうかぃ。お前の顔、久しぶりに見たぜ――“怪物”日無鋼くん?」
そんな僕の様子を見て、イカルガも笑う。
ダメだ。あぁ、本当にダメだ。本当に、本当に今日はダメな日だ。
相手の感情が見え過ぎている。
これじゃ駆け引き何てモノは全く意味をなさない。
SOには公式戦では今一だが、非公式戦の野良試合だと無類の強さを誇る選手と言うモノが居る。
『プレッシャーに弱い』と言う理解出来そうな理由から『一子相伝の魔球を投げるので人の目に付く公式戦では投げられない』と言うアホな漫画見たいな理由まで様々だが、一番多いのは『審判の問題』と言う奴だ。
SOでは野球の実力とは別に、ルックス、人柄などが評価されている選手が何人かいる。
顔が良ければギャラリーの応援が集まり、空気が傾く。
人柄が好かれて居れば、勝たせてやりたいと思う人が多くなり、空気が傾く。
金を賭けてはいても、ゲームはゲーム。
正社員が審判をやる公式戦では流石に有り得ないが、非公式戦であれば露骨過ぎ無ければ際どい判定の際に場の空気が天秤を傾けることを正社員の皆さんは咎めたりしない。
そう言うグレーゾーンがSOの非公式戦にはある。
僕は割とこのグレーゾーンが嫌いではない。不真面目で不健全で大変ヨロシイとすら思っている。
だが、そのグレーゾーンを意図的に悪用する人もいる。
だって審判をやるのはその辺の博徒だ。
その試合は賭けられないと言う制約はあっても、幾らでも悪意が入る隙はある。
俗に言う選手のオトモダチが審判と言うパターンだ。
勝負に手段を選ばない――と言えば聞こえは良いが、ルールの中で遊べないオトモダチがいる遊び場程シラケる場所は無い。
だから彼等は癌だ。
SOを続ける上で居ない方がいい。
だから出てくると掃除しておく様に五十澤店長からお達しがくる。
居ない方が良い、程度なら先ずは僕らバイトに。
居ない方が良い、或いは話が通じないなら正社員に。
そんな感じだ。
今回の相手の目的は金――でなく、レート。
僕らの漢気店長、五十澤店長から貰った履歴書によるとガチ勢。強豪校にてエースを勤め、本気で高校時代を野球に費やして甲子園を目指していた相手。店長評価ではなんとサウダージ氏よりも上。
それでも去年の夏、味方のエラーでサウダージ氏と同じ場所に行けなかった悲劇の左腕。
「……」
気持ちの切り替えが出来なかったのだろう。そこには少し同情する。
エラーしたチームメイトを責めることも出来ず、かと言って『自分』が負けた訳でもないのに夢を断たれた彼は胸の内の衝動を間違った方向に奔らせてしまった。
煙草に手を出した。クスリに手を出した。そう言うモノを入手できる人脈と繋がり、そして――この街の裏側で行われてるSOの存在に少しの希望を見出した。
あの夏の続き。
甲子園経験者も偶に参戦すると言う公式戦。錆び付いた身体と心がそこを目指した。
自分は勝てるのか?
自分は負けるのか?
それを知りたくなった。
そこまでは良い。そこから不良少年の更生物語が始まるのならそれで安いドラマのシナリオとしては十分で十二分に素敵なことだ。ネットで流すと良い。
だが残念。大学でも続けることを前提に練習を重ね、新球まで用意していたサウダージ氏とは違い、煙草とクスリをやった“彼”の左腕は腐って居ましたとさ。
犯罪者に優しい我が国では闇バイトをやっても指示役に身分証のコピーを撮られたと言う『保険』を使って被害者ぶりながら『反省してましゅぅ』『ボクなんか死んだ方が良いんでしゅぅ』と心にもないことを謳って数年ムショに入れば、出て来て『一度の失敗も許さない社会は酷いと思います(キリッ』とでも言っておけば大して問題無いが……スポーツは、野球は残酷だ。
自分がやったことは自分の身体に帰って来る。
罪を軽くしてくれる指示役も居ないし、身体は失敗の責任を容赦なく取り立てる。
ボロボロになるモノを使ったら、身体はボロボロになる。
ボロボロになった身体では勝てない。
勝てないから、勝つ為に再び身体を鍛え――ることは無かった。
スポーツは、野球は残酷だ。
才能。そう言うモノが確かに存在する。
腐臭混じりの残り香とは言え、甲子園球児よりも上の評価を貰った“彼”は並よりは上だった。だから鍛えなおさなくても手段を選べば勝ててしまった。
審判を用意する。
暴力をチラつかせて脅す。
バックについているのが五十澤店長の会社とは違う会社であることから、そこからの意志も感じられる。そうして色々と問題を起こして店に苦情が入った結果、“彼”――ハヤミ氏は掃除の対象になってしまったと言う訳だ。
「……んで、どうやるんだ?」
今日のバイト先まで道路一つ挟んであと少し。
そんなコンビニ前にて、買ったばかりの総菜パンを左手に、ハヤミ氏の履歴書を右のスマホに映してイカルガ。
「先ずは実力差を見せて、それで引かないなら公式撮影班の前で恥をかかせる――そんな感じらしいです」
――だから折をみて公式撮影班への連絡をお願いしますね?
そう言いながら本日二本目の牛乳パックをずこーと鳴かせて僕。
ただいまの時刻は午後八時半。九時から開始なのであと三十分。ハヤミ氏のお仲間と思われる県外ナンバーの車を眺めつつ、ハヤミ氏の持ち球を確認する。
「……そんなんで改心するのかねぇ?」
「改心はしないでしょうね」
僕の持論だが、人間、本当に悪いと思っていることは絶対にやらない。だから人は改心はしない。世間に合わせることを覚える。或いはちょっと賢くなるだけだ。
正直、僕も八百長をあまり悪いことだとは思っていない。シニアの監督が「お前ッ! 何てことをしたんだ――ッ!」とキレてた時も『キレ過ぎじゃね?』と思っていたくらいだ。
それでも、ちょっと賢くなって僕以外の世間はそう考えていないし、目の前で焼きそばパンの紅ショウガだけ袋に戻しているイカルガの様に巻き込まれる人がいることを理解したから『もうやらない』と決めてはいる。
つまり『申し訳ない』とは思っていても『悪いことをした』とあまり思っていないのである。
だが、五十澤店長は本人の自己申告通り漢気マンなのでハヤミ氏に残った野球人としてのプライドを信じて正社員ではなくバイトを派遣したと言う訳だ。
「――まぁ、全盛期なら兎も角、今の彼なら別に良いでしょう」
このコンビニは外にゴミ箱があるからありがたい。そう思いながら空になった牛乳パックを叩き込む。
「? 良い?」
くしゃ、と惣菜パンの袋を細くして縛りながらイカルガ。
「はい。動画、見ましたが、もう野球辞めさせて良い程度の実力でしょう?」
「……俺、お前のことが嫌いだったことを今思い出したわ」
泥色の言葉。
「力強い声援をどうも、イカルガ」
それを受け取り、僕は本日のバイト先である高架橋下に向かった。
闇バイトを許さない正義の主人公(ただし八百長の前科があって、現在進行形で賭博をやってる)
せいぎ( ˘•ω•˘ )?