嫌なこと
単打よりもホームランの方が偉い! ……と、言う訳ではないが、取り敢えずいい当たりの多かった僕が五打席打った。
「……」
こちらを睨むナナハラの眼には負けたことに対する苛立ちと、僕の実力が落ちていないことに対する嬉しさ。それと隠し切れない失望があった。
「……俺は、もうSOには出ねぇ」
「そうですか」
「あぁ、所詮こんなモンは遊びだってことが良く分かったし、お前と野球がしたいと思った」
「……」
「……もう、本当に戻ってこれねぇのか?」
「知らないんですか? 高校野球は『教育』なので僕の様なクズに居場所はないんですよ」
「教育だって言うなら『更生』を許すべきだろ?」
「そう言ってくれた監督さんも何人かいてくれたんですけどね……」
大阪光陰の監督さんも言ってくれた。
高校野球は『教育』だが『ビジネス』でもある。その世界では、野球が上手いと言うだけで僕は価値を持つ。だが――
いや。違うな。言い訳になる。だから続けられた。だが続けなかった。
この話はそこでお終いなんだ。だから――
「僕にはこっちの方が合ってるんですよ」
勝者の権限で話を逸らさせて貰おう。
「そか。そんなら――負けたら戻って来いよ」
「えぇ、合ってないと思ったらそうします」
「――言ったな?」
何でも無い様なナナハラのその言葉に何故か『言ったな?』と言いたげな、罠に嵌ったモノに対する嘲笑が混じった。
「一応、警告しといてやるよ、ブリキ。テメェを殺そうと亡霊が墓から出て来たぜ」
ナナハラはそう言って立ち去って行った。
「……」
「……」
「……イカルガ。何で彼は最後に怖い話をしたんだ?」
「……知らねぇよ」
「……イカルガ。こう見えて僕は怖い話駄目なんだが?」
「……知らねぇよ」
そんな訳で夜道が怖かったので、イカルガと一緒に帰った。
「……なぁ」
そうしていつもの分かれ道。何時もの様に別れるかと思えば、イカルガが何か言い難そうに口を開いた。
ははぁん? さては君も怖い話、ダメな人ですね? だから帰り道に付いて来て欲しいと言う訳だな? だが残念。僕の方が怖い話、ダメです。小学校にある児童書の怪談ですらダメですから。座敷童すらも恐怖の対象ですから無理で――
「スカウト蹴ったの、俺のせいか?」
「……」
違ったぜー。もっと面白くない話だったぜー。
「……何で、そう思うんですか?」
「お前も分かってんだろ? 綺麗ごと言っても、高校野球程学生のスポーツで金が動くモンはねぇ。そうなればお前の『素行不良』何て傷は傷どころか安く買えるチャンスでしかない……けど、俺は――俺は、そうじゃない」
「……」
「……俺は……不正を呑んでまで取りたい選手じゃない……」
「……そんなことは」
「有るだろ?」
揺らぐ赤。強い意志がイカルガの眼に宿る。
嘘を吐くな。そこにだけは、野球にだけは嘘を吐くな、と。
「もしお前が俺に気を使って野球を辞めたって言うな――」
「それは違うよ、イカルガ」
だから僕は呆れた様に溜息混じりに言う。
その指摘は的外れだ、と。
「その程度なら僕は野球を辞めたりしない」
そうしてから、吐き捨てる様に理不尽な怒りをイカルガに叩きつけて、帰路に付いた。
折角ナナハラと遊んで回復したテンションはその後のナナハラとイカルガとの会話でまた下がってしまった。
「……」
ペダルを踏む足が重い。
背中に背負ったバットケースが重い。
何よりも、最後にイカルガに言った自分の言葉が重い。
言う気のなかった言葉。言うはずのない言葉。それがつい、出てしまった。
間違いなく昨日の義姉との会話のせいだ。
我が家に着き、二階を見上げる。義姉の部屋には明かりがついていた。今日も勉強とやらをしているのだろう。出来れば会いたくないな。そう思いながらドアを開ける。
「……」
義父さんも未だ帰っていないようなので、チェーンロックは掛けずに、鍵だけを掛けてリビングに。
義姉は二階なのでいない。
義父さんはまだ帰っていないからいない。
「おかえり、鋼」
でも母さんは居ましたとさ。
「ただいま。……調子、良いんですか?」
「……うん、まぁ?」
嘘。通じないと分かって居ながら母さんの口からそれが出る。
「……」
思わず半目にもなろうと言うモノだ。
ただでさえ残りの寿命が少ないんだから大事にして欲しい。
「……バレた?」
「僕の目、どういうものか知ってるでしょう?」
観察の蓄積と言うなら、目の前の人程、見た人はいない。
だから母さんの感情は一番見やすい。
「夜遊びを叱るなら体調の良い日にするか、義父さんに投げて下さいよ」
「うん。でもね。これは早く言っとかないとダメだと思ったの……」
真剣さが滲む。「……」。どうやら聞かないと休みそうにない。
ローテンションなので、出来れば止めて欲しいが、無理もさせたくないので、溜息をつきつつ、椅子を引いて母さんの向かい側に座る。
「何ですか?」
「昨日、燕ちゃんと喧嘩したの?」
「……一方的に容赦なく殴られたみたいなモンですけどね」
喧嘩と言うよりは一方的だったので虐殺とか虐めだ、アレは。人の心の柔らかい所を躊躇なく正論で殴って来た義姉の方には特にダメージが無かったので、今日も当たり前の様に自転車の後ろに乗っていた。
「仲良くしてるみたいで嬉しいわ」
からから、と嬉しそうに母さん。
「……話、聞いてました?」
反撃出来ないことを良いことに僕は殴られたと言っているのですが?
「鋼は不器用だからそうやって叩いて貰わないと真っ直ぐ歩けないでしょ?」
「……」
「――まだ曲がってる、と。本当に誰に似たのかしらね、鋼は」
我が息子ながら本当にメンドクサイ。
そんな心無い言葉を聞きながら安堵の溜息を一つ。
ただの姉弟喧嘩に対するお説教らしい。
それなら随分と気が楽だ。
「ねぇ、鋼?」
そう思っていたのに、声音が変わる。
「……はい」
「――あのことに関して、絶対に『ごめんね』も『ありがとう』も鋼には言わないから」
「……あぁ、成程……」
あの音量だ。昨日の僕らの姉弟喧嘩は母さんに聞かれていたのだろう。
だから母さんは言う。
気にするな。遠慮なく自分のせいにしろと言う。
金が稼げず、貧しさから子供の才能を悪事に染めさせた自分が悪いのだからと母さんは言う。
だから――
だから、お前は野球をやれと――母さんは言う。
「そう、ですか。それはそれは――」
泣きたくなる程に有り難いことだ。
気が付いたら夜の街に居た。
「……」
月が真上に昇り、下がり出す午前零時過ぎ。
気が付かない内に買っていた炭酸飲料を一口。喉を撫でる炭酸の感触が少しだけ意識を『今』へと繋ぐ。
口癖の様に母さんは言う。
僕の不器用さは誰に似たのかしら? と。
僕に言わせれば明確だ。僕の不器用さは間違いなく母さん譲りだ。
貧しかった。それが嫌だった。
だって母さんが何時だって申し訳なさそうにしていたから。
生きることに向いていない身体。病に侵されたその身体で『母親』になってしまったことを、本当に本当に申し訳なさそうにしていたから、嫌だった。
僕は金があれば病気を治せると思った。
僕は金があれば母さんが笑ってくれると思った。
だから僕は『僕の才能』を金に換えた。
そうして見たのは――今までにない程に悲しい顔をした母さんだった。
成程。確かに僕は不器用だ。
本気で笑って貰う為に頑張って/本気で悲しませる結果に辿り着く
でもその滑稽な光景は鏡の様に傍に合った。
母さんは僕から野球を奪ったことを悔いている。
母さんは僕に八百長をさせた自分を許せなく思っている。
だから母さんは僕に言う。『わたしのせいにして野球に戻れ』と言う。
本気で喜んで貰う為に強がって/本気で悲しませる結果に辿り着く
自己満足の果てに辿り着く誰も幸せにならないその結末。
真っ直ぐにそこに向かえる人間のどこか器用だ? 不器用そのものだ。
――あぁ、本当に僕にそっくりだ。
母さんを言い訳に野球に戻る。
出来るだろう。やれるだろう。SNS当りで言い訳の様に拡散すれば『正義の人』や『良い人』たちは僕ら親子に同情して、未成年ながら道を開こうとした僕のことも『未成年だから』と許してくれるだろう。
だけど、それは嫌だった。それだけは絶対に嫌だった。
貧しさの、母さんのせいにする。それだけは絶対に嫌だった。
野球を好きだと思ったことは一度も無い。
それでも――
ホームランを打った時、観客席に居る母さんを見ることが好きだった。
強肩キャッチャーから三塁を盗み、ざわつく球場で居る母さんを見ることが好きだった。
それは好きだった。野球は好きではないが、それは好きだった。
「嘘だ」
母さんを笑顔に出来る野球。
それが嫌いな訳なんて無い。
反復練習の果てに左手の小指側の手の平の形が変わった奇形の手。それが誇りと言い切れる程に野球は好きだ。
SOの存在も知らず、高校で野球が出来ないことが決まっても練習を続けるくらい野球が好きだ。
野球が好きだ。野球がやりたい。でも、僕が野球をやってしまったら――八百長が母さんのせいになる。
それが嫌だった。
それだけは嫌だった。
それなのに母さんにそうしろと言われてしまった。
だから、僕は、もう――
「……野球が、出来ない」
僕が野球をやったら、あの夏の悪事は母さんのせいになるから。
だから――
明日死ぬかもしれない母さんに、甲子園に連れて行くから待っていてと言えない。
「……、……」
五年後に居ない母さんにプロに行くまで待っていてくれと言うことも出来ない。
「……が、……い」
ホームランを打っても観客席に居るのはスマホのライトを掲げる博徒で。
「野球が、……い」
SOには盗塁と言う概念すらない。
それでも――
それでも、僕は――
「野球が、したい」
俯き、祈る様に、願いを吐き出す。
それを拾う者はいない。
それは届くことはない。
そのはずだったのに――
「ならやろうか」
答えが、帰る。