カレー麺と問答
五月の夜気の中、蒸し暑さを厭う様にスポーツウェアの襟元を緩めて肩を一回転。そうしてからボールを握り直して、深呼吸を一回。
意識して肩を大きく、動かした。
それは何時ものルーチンワーク。
数多の打者を殺してきた予備動作。
腕を振り上げる。
深く、強く、地面に刻み込む踏み込み。
そうして得た力を腰で回し、肩を回す。
身体が撓る。腕が撓る。
力強さでなく、柔らかさ。
それが自分に配られた手札。
全身連動からなる全身運動。
それは幼い頃よりも幾度となく繰り返してきた動作。全身を使って縦の力を弾丸へと伝える旋回運動。
足から腰に、腰か肩に、腕に、指に、そして最後に白球に“己”を乗せる。
投球動作。
その球を投げる為に変質した奇形の指にてその得意な球を、得意なコースに。
それだけで打者はブリキへと代わる。
居るはずの無い己との対峙に固まった身体は軋みを上げて。
有るはずの無い己の進化を見て更にその身体は硬くなる。
それでも傍らの女神を見て、どうにか自分を奮い立たせる相手を見て。
――何故だろうか?
始めて君の気持ちが分かった様な気がした。
喉が渇いた。
お腹が減った。
シャワーが浴びたい。
学校終わってから二十一時まで真剣に練習をすれば出てくる欲望なんてその程度だ。
トレーニング後の三十分の間に持ち込んだ爆弾おにぎりとゆで卵を牛乳で流し込めば一応前二つは解消されるが、シャワーは無理。
鳳学園は陸上とソフトが全国区なので、その練習に紛れる形で無断でトレーニングルームを使っている僕とイカルガの不良少年ズだが、ラッキースケベ的な事故が怖いので流石に学校のシャワーはを使えず、一応乾いて不快感が薄れはしたけど臭い身体でお家に帰ることにしたのだが……
「コンビニ行きませんか?」
カップラーメン食いませんか? と僕。
「……いや。食いたいけどよぉ……」
流石に欲望に忠実過ぎてどうかと思うぜ? とイカルガ。
「シャワー我慢してるんだからこれ以上の我慢は身体に毒だと思うんですよ」
「本音」
「さっきの家、晩御飯、カレー」
何故か片言で僕。
とてもいい匂いがした。うっかり匂いを嗅いでしまったのでもう無理だ。
カレー食べたい。
「? そんでカップラーメンなのか? カレーじゃなくて?」
「カレーだと余裕で五百円越えじゃないですか。カップラーメン(カレー味)だと大体半分で行けるじゃないですか」
満たしたいのは食欲では無くカレー欲なのである。お腹の栄養では無く、僕は心の栄養を欲しているのである。
「まぁ僕も高校一年生なので、一人でコンビニくらい行けるので無理に君に付き合って貰う必要は――」
「バカ野郎っ! お前一人にそんな思いさせるかよッ! 俺も行く。絶対行く」
「そうか」
「あぁ、そうだ」
そう言うことになった。
そう言うことになったのでローソンに来た。棚からカップヌードルのカレーを選んで、選んで、選ん――くそぅ。BIGの三文字が僕を迷わせるぜー。
葛藤。それでもどうにか視線を切り、当初の予定通りレギュラーサイズを購入。イートインスペースに置かれた電気ポットにゴポポと言う鳴き声を上げさせてお湯を入れてからイカルガと連れ立って店外へ。
イートインスペースはあるけど、店内でカレー麺を食べるのは何らかの法に触れそうな気がする。スマホのストップウォッチを起動させて、時間の計測を開始した。
そう言えば――
「……イカルガくんはお坊ちゃんじゃないですか……」
「……まぁ、一応な」
「このカップ麺って三分で出来上がるんですけど、知ってましたか?」
「……そこまでのお坊ちゃんじゃねぇよ」
「そうですか」
そんな風に時間を潰す僕等の前を通って一団がコンビニに入って行く。エナメルバッグ。それを持って居ると言うだけで野球部だと分かるのだから、アレは中々に便利なアイテムだ。
「……今、見られてたな」
「……自意識過剰でしょ?」
流石に。
言いながら「二分経ちましたよ」と申告。イカルガは硬め派ではない様で、手は付けない。
「お前の昔のチームメイト混ざってたぞ?」
「シニアの?」
「シニアの。ほれ、確かレフトの……」
「あー……居ますね。レフト。名前覚えてないけど、レフトの……レフトくん」
あ、目が合った。相手も気付いた。嫌そう。
「覚えてねぇのかよ……」
「そこまで印象に残る選手じゃなかったので」
そして僕を嫌っては居ても、怒りに任せて僕を殴らなかった相手なので覚えていない。
「……俺、お前嫌い」
「心配しないでも君の名前は覚えてましたよ?」
「それでも、お前嫌い」
「……そうですか」
でも声に『黄色』混ざってますよ? そう言う代わりに「三分経過ー」と言う。お坊ちゃんのイカルガはカップラーメンとの接し方もお行儀が良い様で、そこで素直にペリペリと蓋を剥がしてラーメンを食べだした。
「? 食わねぇの?」
「四分待ってでろでろにするのが僕の好みです」
その点、僕はアウトローだ。隣から立ち上るカレーの香りに挫けそうになりながらも、後一分、耐える。そんな永遠とも思える地獄の一分を耐えきると、レフトくんたちが自分達の自転車に向かってまた前を通って行った。
「――」
レフトくんが、僕達を見ない様に、露骨な態度を取ろうとする。だが、その眼がうっかり僕のバットケースを捉え、思わず二度見からの持ち主の確認。
バットケースの持ち主が僕だと理解した驚愕、そして僅かに混ざる黄色。
「……」
イカルガと言い、レフトくんと言い、ちょっと君達は良い人過ぎるので、もっとクソ野郎に成った方がスポーツマンとしては正しいと思います。
『次は俺もでろでろにしてみる』
と、別れ際に次の約束をしつつ、イカルガにお手々を振ってまた明日。
家に辿り着いたのは二十二時少し過ぎ。外から見た所、義姉の部屋と両親の寝室に明かりは無く、義父さんの車も無し。つまり怒られるリスクは少なそうだ。
そんな訳で音を立てない様に自転車を戻して、音を立てない様に扉を開けて室内に。上下のロックはしっかり閉めて、チェーンロックはしない。
ロックを確認した後、踵を踏みつけてスニーカーを脱いで顔を上げてみれば――
「おかえりなさい、はがねくん」
「……ただいま。義姉さん」
風呂上りらしく、ピンクの頬でほかほかした義姉が出迎えて下さった。「……」。相も変わらず着ぐるみパジャマが似合ってますね?
「また野球?」
「いえ。食べ過ぎ食べ過ぎ言われたからトレーニングルームで筋トレですよ」
「そう。今日は良い子にしてたのね」
頭、撫でてあげましょうか? と笑う義姉はなにやら上機嫌。何か良いことでも有ったのだろうか?
そんな上機嫌の義姉に汗で汚れた頭を撫でさせて機嫌を悪くするのも面白くないので「いえ結構です」と言って上がる。さっさと風呂に入ってしまおう。
「あ、はがねくん、お風呂。抜いておいてね」
「……義父さんは良いんですか?」
「今日は遅くなりそうだからシャワーで済ますんですって」
「そうですか。それはそれは――」
夜遅くまでお疲れ様、だ。
医者は儲かると言うが、義父さんを見てると『働く時間が長いから儲かっている』様に見える。時給に換算するとどうなるんだろう? でも開業医はエグイと言う話を聞いたことがあるから時給換算でもエグイのかもしれない。
そんなことを考えながら汗を流し、言われた通りに風呂の栓を抜いて風呂場を後にする。
買い食いしたので飢えてはいないが、しっかり食べた訳ではないのでそれなりに腹は減っている。だから今日の晩御飯は何だろう? と台所へ。
「……食事、遅くないですか?」
義姉がクリームシチューを食べていた。……そうか。ご飯に掛けない派の人なのか。
「ちょっと勉強に集中し過ぎちゃったのよ」
「ちょっと聞いたことの無い文化ですね……」
ベンキョウニシュウチュウ? 何だろう? 聞いたことの無い言葉なのに何故かとても恐ろしい言葉の様な気がする。
「こんな時間に食べて大丈夫なんですか?」
太りますよ?
「一食抜く方がよっぽど不健康でしょ?」
それもそうだ。素直にそう思ったので、それ以上の追求はしない。
カレー皿にご飯を盛ってシチューを掛ける。
時間も時間なのでテレビも付けずに静かに食事を勧める。カチャカチャと食器の音だけが白い蛍光灯が照らす部屋の中に響いている。
「……ねぇ、はがねくん」
そんな静寂を破ったのは義姉の方だった。「……」。何となく四月のあの夜。義姉に八百長のことを話した夜の様な雰囲気がする。あまり楽しく無さそうな予感がする。
「君、どうして野球をやらないの?」
「……やってますよ」
一打席勝負のSOだけれど。
「そう。それじゃぁ――どうして“真剣”に野球をやらないの? 練習、ほぼ毎朝やって、今日みたいに遅くまで練習してから帰ってくることもあるのに……どうして『あんな場所』で野球モドキをやってるの?」
声音はシリアス。「……」。適当に返事をしても良いが――まぁ、良い機会だ。少し僕は義姉に懐き過ぎたし、義姉も僕に懐き過ぎている。これはあまりよろしくない距離感だ。
「金になるからですよ。その口ぶりだと知ってるんですよね?」
「……違法賭博。その部類よね」
「そうです。だからSOは金になる。でも真面目に野球をやっても金にはならない」
だからやらない。単純にそれだけだ。
「……何でそんなにお金が必要なの?」
「母さんが死ぬからですよ」
皿に残ったご飯を一ヵ所に集めながら、何でも無い様に僕。
そう、僕の母さんは死ぬ。
心臓の病。構造上の欠陥。発作起こす度に削られる寿命は後どれくらい残っているのだろうか? 長くて五年。早ければそれこそ明日死んでもおかしくない。
あの人はそう言う状況なのだ。
「だから金が要る。生きて行く為に」
「それが君の言い訳?」
冷たい声。
「お嬢様には分からないかもしれませんが、金が無ければ生きて行けませんよ」
言葉を紡ぐ度に、募る苛立ち。
持って居る奴が、持って居ない僕を否定するなと言う怒り。
「私がお嬢様なら今の君はおぼっちゃまでしょう? お金はあるわ」
青。
「……再婚相手の連れ子ですよ? 惚れた女の為になら兎も角、僕にまで金を使わせるのは罰ゲームの部類でしょう?」
赤。
「お父さんはそんなの気にしないわよ?」
青。
「義姉さんは義父さんじゃないでしょう?」
赤。
「そうね。でも私は君よりもお父さんを知ってるわ。だから断言してあげる」
「そうですか。それは心強い。それでも心配なので、やっぱり金は要ります」
「そう。大変ね。それならバイトでもしたら?」
「バイトよりもSOの方が効率が――」
「あら? 効率は良いわよ、バイトの方が」
「は。一回の試合で結構稼げ――」
「一回の試合だけならそうでしょうね。でも朝夜の練習時間も入れたらそうでもないでしょう? 準備も立派な仕事よ、はがねくん」
「……」
「校則でバイトが禁止されてる? でも賭博は法律で禁止されてるわよね? こう言うことは余り言いたくないのだけれど――バレた場合の効率もバイトの方が良いわよ?」
「…………」
青、赤、青、赤、青、透明、青、透明。
「ねぇ、はがねくん?」
「――何ですか?」
「当てて良い?」
「何をですか?」
「君が野球をやらない理由。君がSOをやる理由」
「義姉さんに分かる訳ないでしょう?」
「答えなさい。当てて良いか、って聞いてるの」
「……」
「ね? どうなの?」
「――――――――――――――――――――――――どうぞ」
「そ。それなら遠慮なく。――やらない理由はお義母さんのせい」
「……は?」
「八百長をやって、真っ直ぐに高校野球が出来なくなって、その八百長の理由がお義母さんの入院費の為だったから、お義母さんが気にしない様に『高校野球に興味がない』ことにする為」
「……違う。僕は野球を楽しいと思ったことは一度も――」
「無い? 嘘ね。だってSOをやるのは野球が好きだからだもの」
「そんな訳っ――」
「野球が大好きで、野球がやりたいから裏の、表に出てこない場所で野球をやってる。だってそこならお義母さんに野球やってること、バレないし、バレてもさっきみたいな言い訳が出来るもの。『野球は好きじゃないけどお金の為にやりました』『だから母さんは八百長のこと気にしないで下さい』って」
「……義姉さんは文系でしたっけ? 小説家とか向いてると思いますよ?」
「そう? ありがとう。でも私の妄想だって言うなら――」
青、赤、青、赤、青、赤、青赤青赤青赤青赤青赤青赤青――
「睨むのを辞めなさい、お義母さん思いのはがねくん。それじゃぁ図星に見えるわよ?」
氷の様に冷たい――蒼。
受けて、僕の口からは――
その言葉を受けた僕の口からは――
「……部屋に、戻ります」
それを絞り出すのが精一杯だった。




