十号
「あれ? 十号、もう帰んの?」
「あぁ、今日はもう良いや」
顔なじみの博徒の言葉に、バットケースを背負いながら重吾は片手を上げ「そんじゃな」と言って声援と罵倒の群れから離れる様に歩き出した。
御堂鋼はブリキ。
斑鳩亮二はグロスビーク。
だから七原重吾は十号。
SOの登録名なんてその程度で良いと十号――重吾は考えている。分かり易さと言うのは結構重要だ。
重吾はその名の通り十五歳の少年だった。
趣味は野球で特技も野球と言う野球人。そして苦手なことは人付き合いと敬語。
そんな彼だから市外の野球強豪校から声を掛けられるのは当然であり、全寮制と言う環境に耐えられなかったのも、まぁ、当然と言えば当然だたのだろう。
人付き合いが苦手でもチームスポーツをやっている以上、ある程度は合わせられる。
敬語が苦手だとは言え、少しは使える。
だが、ただ年齢が上と言う点以外に見るべき所がない先輩に合わせる気も無ければ、敬語を使う気もおきない。
結果として、揉めて、囲まれて、勝った。
分かっていたことではあるが、学校と言う空間は随分と頭が悪い。
高校にでもなれば多少はマシになるかとも思ったが、未だに小学校の様に被害者加害者まとめての『喧嘩両成敗』と言う判断を下された時、重吾は心底そう思った。
だから二日の停学が開けた後も重吾はどうにも戻る気が起きず、親が放任主義であることを良いことに実家のある駒原市に留まっていた。
野球が好きだから部活の為に学校に行っていた。
なら――
野球があるなら別に学校に行く必要は特にない。
SO。ストリート・ワンボックス。たった一打席の戦争遊戯に重吾はどっぷりと嵌った。
野球が出来て、金が稼げて、何より――御堂鋼が居る。
“怪物”、“最低の球児”、重吾の世代のスター。アレがいる。それが良い。
学校と言う場所は本当に頭が悪い。あの程度のやらかしであんな才能から居場所を奪うのだから、本当に本気で救いがない。
だが――これに関してはその頭の悪さに感謝しても良い。
宝石を泥沼に落してくれたおかげで、随分と触り易くなった。
戦える。アレと戦える。
U15日本代表とそうでない選手。現在の評価はどちらが上かなど言うまでもない。それでも重吾は勝てないと思っていない。
重吾は中学生活の後半を成長痛と向き合うことに費やしてしまった。
戦えなかったのだ。
戦いたかったのだ。
――ここなら、SOなら戦える。
打者と打者なのではっきりとした勝敗は付けにくいが、それでも戦えるのだ。
だから日無鋼を御堂鋼に堕としてくれた『学校教育』に対しては本気で呆れてはいるが、同時に本気で感謝もしている。
スマホで次の電車の時間を確認してから、そのままSOのアプリを立ち上げる。今、ぐちゃぐちゃに荒らされており、メイン昇格の判定は計算しなおしになっている状況だが、そろそろ上がってもおかしくないランクだった。
「――んぁ?」
アプリのお知らせ通知に赤い1の数字が灯ったのはそんな時だった。
内容は対戦の申し込み。もう帰ったことに気が付かなかった奴が申し込んで来たのだろうか? どちらにしろ今日はもうやる気は無い。流れ作業で『拒否』をタップ。軽く、ふぅ、と息を吐き出して、スマホをポケットにしまう為にブラックアウトさせーー
「あ?」
する前に再度、赤い数字の1。
――あぁ、そう言う奴か。
くだらねぇ。こう言う奴は無視するに限る。わざわざミュート設定にするのも怠いので今は放置。さっさと帰ろう、と今度こそスマホをブラックアウトさせてポケットへ滑り込ませる。
そんな時だった。
「あら? 受けて下さいませんの?」
背後から、声。
「!」
慌てて重吾が振り返ると、そこには――
「勝負、受けて下さいませんの?」
女神が居た。
先ず目に付いたのは灰色のニット帽。腰に届こうかと言う色の薄い長い髪を夜風に靡かせ、日の光など知らぬような白い肌を月光に照らされた少女が――重吾の女神がいた。
学校がバレるのを嫌ってだろう。五月の夜とは言え、夏の気配が近付いて居る中、制服の上柄からパーカーを着た女神は右手で持ったスマホで口元を隠しながら「勝負、受けて下さいませんの、十号さん?」と言っている。
慌ててスマホを確認する。紅い数字は変わらず、1。
「これは、君なのか?」
「いえ、わたくしではありませんわ」
「? じゃぁ――」
「噂、御存じありませんこと?」
「噂?」
言いながら重吾は思い出す。
今、SOで噂となっているバッター狩りのことを。U18のバッターを次々と食い散らかし、一時的とは言え、その参加に規制を加えているピッチャーのことを。
重吾のシニア時代の先輩もやられている。
尊敬できる先輩だった。つまり、野球が上手い先輩だった。
先輩は約束を守り、今期のSOには参加せず、たった一言だけを除いて相手の情報を口にすることは無かった。
――そう言えば。
――先輩は何っつてたっけ?
そんな疑問が浮かんだのは一瞬。直ぐに脳は別のことに気が付く。バッター狩り。その噂の中に有った一つの噂。それが、もし、本当だと言うなら――
「相手はアンダーか?」
「えぇ、その通りですわ」
「それじゃ君は――」
「わたくしは賞品です」
「ッ――!」
七原重吾の女神を解放する為の戦いが今、始まる――ッ!
女神に誘われて――と言うと縁起でもないが、一目惚れの相手に釣られてのっこのこと歩いて行った先、一階建てスーパーの屋上駐車場で待っていたのは――まさかのSOの元締め、五十澤壱郎その人だった。
あの世に連れられて行った方がまだ良かった。
そんな後悔に苛まれそうになった重吾だったが……アンダーの噂の一つに『運営直営投手』と言うモノが有ったことを思い出し、肩の力を抜く。
「マジに噛んでんすね、五十澤さん」
「まぁなぁ、コイツの目的が俺の目的ってのもあるけど――それ以上に賭けてるモンが賭けてるモンだろ? 一回つまらんことをしようとした奴が居たからな」
女は守らにゃあかんだろ? と今日日建前でも謳われそうにない古いヤクザ映画の様なことを言う五十澤。
重吾は素直にその通りだと思った。思ったので、素直に言った。
「そんなら真っ先に殴んなきゃダメな奴、いますよね?」
目に確かな敵意を込めて五十澤の横に立つ人影を睨む。
大き目のサイズの白いスポーツウエアを纏い、同じ色のキャップを深く被った投手。今晩の対戦相手。
身長は小さい。百六十あるかないか。小柄だ。あの体格なら球速はマックスでも精々百十。それで全戦全勝と言うことは変化球投手。フォームは恐らく登録名の通りアンダースローなのだろう。
使い手が少ないが故に、タイミングが取り難いが、速度は出ない投法だ。
他の武器にもよるが、その程度だけなら噛み砕ける。重吾はそう言い切るだけの傲慢が許される程度の鍛錬は積んで来たし、実力は持って居る。
「テメェのことだよ、アンダー」
だから“上”から行く。
「……」
噛み付かんばかりに顔を近づけての威嚇。それに怯える様にアンダーが下がり、五十澤が間に入る。
「は。腰抜けが」
「待て、待て待て……お前、そう言うタイプだっけ? 俺、今日の立ち合いは出番無いと思ってたんだけどなぁー」
面倒起こすなよ? と、五十澤。
「あ、いや、ウス。すんません。ちょい熱くなってます」
「? 熱く?」
「ウッス」
ちら、とニット帽の女神を見る。
言うべきか? と思考する。言うべきだ! と背中を自分で押す。本当にそうか? と逡巡する。それを心中で三回繰り返して――
「――女神さんっ!」
絶叫。
その場の空気が一瞬固まり、数秒の後に五十澤と、五十澤の部下、そしてアンダーの視線が一人に向かう。
「……………………?」
向かった先にいた人は何故自分が見られているか分からず、きょろきょろと自分の背後を確認などしている。――そんな所も可愛い。
「あ! わたくしのことですのね? はいはい、どうなさいました?」
やっと気が付いたかと思うとてこてこと自分の前にやってくる。――もう、ほんと好き。
「この試合、俺が勝ったら――」
「えぇ、勝ったらわたくしを好きに――」
「――お友達からで良いのでッ! 真剣にお願いします!」
頭を下げて、右手を前に。
腹の底から絞り出した声のせいで勇気はもう空っぽだ。返事を待つ間、重吾の両目は怯えを孕み、固く閉ざされていた。
「……えーと……それは別に構わないのですけれど……」
「!」
「わたくし、野球の上手い人が好きなので……」
「……つまり?」
顔を上げる。アンダーに腕を絡める女神の姿が見えた。
「貴方がダーリンに勝てたら考えますわー」
五十澤の会社の関係故に使えるスーパーの屋上。
コンクリートの上にテープで簡易的に造られたフラットな戦場で重吾はアンダーと向かい合う。光源も持ち込まれてはいるが、光量が足りずに幾分か打者不利な状況。それを考慮してかアンダーが立つのは十九メートル先。グローブも外し、握りは丸見え。変化球投手にとっては致命的なハンデだ。
「……」
それを見て、重吾は嫌そうに顔をしかめた。
そんなハンデは必要ない。
“怪物”と呼ばれたことは無くとも、重吾はそんな化け物に負けたと思ったことは一度もない。
更に痛みを伴う成長は緩やかに終わりに向かい、ソレに伴って身体に筋肉を積むことを許し、その成長した身体を、鍛えた身体の操縦技術も磨いている。
U15日本代表。
凄くない――とは間違っても言わないし、言えない。
だが所詮は周りが身体が出来ていない状況での称号だ。早熟。それは一つの才能ではあるが、恐怖は無い。本当の勝負はこれから。身体が育ち、操縦技術の精度を上げられるここからだ。
―― “怪物”は、俺が殺す!
それを言葉にしても笑われない実力が今の重吾にはある。
だからこんな見たことも無いアンダースローの投手ごときに――
「は?」
――ワインドアップ。
両手は臍の位置においてのセットアップでは無く、高らかに、ダイナミックに腕を振り上げることから始まるその投法は――オーバースロー。
そのフォームを見て、ふいに背中から汗が噴き出した。
自分が立つ場所がキルゾーンだと言う錯覚に陥る。
何度も三振に取られ、殺されたと言う幻視を見る。
果たして本当にそれは、錯覚と幻視だったのだろうか?
その自問に返される答えは無い。
口が酷く乾く。それでも鍛え上げた身体は反射の様にバットを握り直し、初動を造る。それでどうにか冷静になろうとするが――
――待て。
小柄な体躯が、マウンドも無いのに大きく見える。
――待てって。
脳が痺れる程のレッドアラート。恐怖が身体を縛る。
――本当に待てって!
重吾の脳内に一人の投手が浮かぶ。それは駒原市は愚か、S県にて野球をやっていた同年代のバッター全ての恐怖の象徴。
小さな身体をダイナミックに。
柔らかな身体を撓らせて。
リリースポイントを自在に操り。
空気を切り裂く直球を武器にした県下“最強”の投手の姿。
それが脳裏に浮かぶ。だが有り得ない。有り得るはずがない。
“怪物”、日無鋼が御堂鋼となり野球をやっているのとは訳が違う。
有るはずが無い。有り得るはずが無い。有って良いはずが無い。
だって――
だって、お前は。もう、お前の野球は――終わったはずだ。