ある夏の出来事 最強V.S怪物
鼓膜をセミの鳴き声が打つ。
降り注ぐ太陽光に全身を突き刺されつつ、頬を伝う汗を感じ、深い呼吸を一つ。
吸って、吐く。
意識して肩を動かした。
そうして力を抜いて、一度バットで肩を叩いてから、高く掲げ、構える。
とん。肩に伝わる軽い衝撃が暑さと眩しさに遠のきそうな意識を現実に繋ぎ止める。
中学三年。夏。シニアの県予選準決勝。七回表、ツーアウト。ランナー一塁で一点ビハインド。そんな状況で見据える先には最強の名を冠する投手。
だがそんな相手の目に映る自分も、怪物と呼ばれる打者だ。
彼我の実力は伯仲し、ひり付く状況。此方と彼方の視線の交差は一瞬。
それだけでセミの声も、太陽の光も霞んで消える。
音の無い世界。白い世界。高く、高く、積み上がった入道雲の下、そこにたった二人取り残されたかの様な錯覚。
極限のコンセントレイトが魅せる幻影の世界の中、投球フォームに入った投手に合わせて、打者である己を稼働させる。
深く、強く、地面に刻み込む踏み込み。
そうして得た力を腰で回す。
それは幼い頃よりも幾度となく繰り返してきた動作。全身を使って縦の力を横へと変える旋回運動。
足から腰に、腰から身体に、腕に、そうして手の中のバットに“己”を乗せる。
打撃動作。
それは人体を駆使した芸術だ。
血が覚えるまで繰り返した。骨が覚えるまで繰り返した。肉が覚えるまで繰り返した。
血が覚えた。骨が覚えた。肉が覚えた。
――金が、要る。
野球が楽しいと思ったことなんて無い。
ただ、自分には才能が有って。ただ、自分の家は貧しくて。ボロボロの母親の手を見るのが悲しかった。
ただ、ただ、それだけ。
だが、それだけで十分。
――“最強”が放った白球を、黒い妄執を纏ったバットが噛み砕くには十分だ。