82話
「アイーシャ。危ないから離れていなさい」
「お父様……」
父、ウィルバートの落ち着いた声が聞こえ、ウィルバートはアイーシャの肩をとん、と押して後ろへ下がらせる。
「殿下。エリシャ・ルドランをどうなさいますか」
つい、とウィルバートから視線を向けられたマーベリックは暫し考え込む。
視線の先では、エリシャは取り乱し泣き喚いているが合成獣のように理性を失って暴れている訳ではない。
マーベリックは変貌の中途半端さに唇を噛み締めてからウィルバートに向かって声を押し殺しつつ言葉を返す。
「ウィルバート殿……やったな」
マーベリックの言葉に、ウィルバートは軽く肩を竦めて見せただけで。
何も言葉を返さない、という事が最早マーベリックの言葉を肯定しているも同じだった。
「合成獣に変貌した訳ではない。腕以外は人間だ。拘束する事はできるか?」
「ええ、殿下。クォンツ卿やアーキワンデ卿の協力があれば可能だと思います。……暴れさせず、精神干渉魔法を発動させぬよう、闇魔法で拘束します」
ウィルバートの言葉に、クォンツやリドルが戦闘態勢に入る。
アイーシャの頭を一撫でしたウィルバートは、心配そうに見つめるアイーシャに微笑んだ。
「心配ない、アイーシャ。闇魔法は何だってできるから」
ウィルバートの言葉に、アイーシャは何とも言えない顔でこくり、と頷いた。
「あ……っ、あぁっ、エリシャ、エリシャ……っ」
アイーシャの背後で、すっかり血の気が失せ、暴れる事もなくなったケネブが呆然とエリシャの名前を呟き続ける。
エリシャの名を呼ぶケネブの悲痛な声が胸に響く。
「ケネブ・ルドラン。国に背くからこうなるのだ……愚かな事をしたものだ」
嘆くケネブに一歩近付いたマーベリックがぽつり、と小さく零す。
すると俯き嘆いていたケネブがぎょろっと血走った目でアイーシャを睨み付けた。
「これも、このような事になったのもお前達が生きていたせいだっ! 馬車事故の時にイライアと一緒にウィルバートも死んでいれば……! ケティング家に選ばれた婚約者がアイーシャ、お前でなければ……っ!」
尋常ではない様子のケネブに、アイーシャは思わず後退った。
「な、何を急に……」
そして突然、脈絡もない事を話しだしアイーシャは狼狽えてしまう。
なぜ、そんな昔の事を今ここで急に口にするのか。
なぜ、ケティング侯爵家に選ばれた婚約者が自分だったから、とここまで恨みの籠った視線を向けられなければならないのだろうか。
思わず後退ったアイーシャの背中が誰かにとん、と当たる。
アイーシャの背後にいたのはウィルバートで。アイーシャの背を優しく支えている。
ウィルバートはただただじっとケネブの言葉を静かに聞いている。
「ケティング家にさえ選ばれていなければ、始末していたのに……っ。ウィルバートのせいで全てが……っ、アイーシャ、お前達のせいで全てが駄目になった! ウィルバートも、お前も! 何故私の邪魔ばかりする!」
血走った眼でケネブから睨まれたが、アイーシャはケネブの口から紡がれた言葉に「ああ、だからだったのか」と妙に納得してしまった。
それは、ウィルバートも同じだったようで。
「ベルトルト様があれほど婚約破棄を嫌がったのは侯爵家の意向だったのですね……。だからあのような強硬手段に……」
アイーシャの口から紡がれた「強硬手段」という言葉に、合成獣に向かっていた足を止め、勢い良くクォンツが振り向く。
今にも踵を返し、アイーシャの下に戻りそうなクォンツを隣にいたリドルが止め、何やら耳打ちをしている。
アイーシャやウィルバートの背後で行われているそれは、二人の視界には入らない。
ウィルバートはケネブの言葉を聞き、静かに怒りを募らせていた。
(ケティング侯爵家はアイーシャの魔力制御能力の高さに目を付けたのだろう……。ルドラン家には代々制御能力の高い人間が生まれる。なるほどな。だがケティング侯爵家がその血を欲したお陰でアイーシャが今日まで無事でいられたのは事実。……アイーシャが発した強硬手段、という言葉は気になるがそれは後でアイーシャに確認を取るしかないな)
アイーシャとウィルバート、二人が考え込んでいると、それまで二人の側で黙って話を聞いていたマーベリックが口を開いた。
「見苦しい男だな……全て自分自身が招いた結果だ。ルドラン嬢、この男の言葉に耳を貸すんじゃない」
「殿下」
聞くな、と言わんばかりにマーベリックはアイーシャの耳を自らの手のひらで塞ぐ。
「……ただの世迷言だ。ウィルバート殿も、アイーシャ・ルドラン嬢もただ必死に生きて来ただけ。それを逆恨みし、身勝手な真似をしたのはお前自身だケネブ・ルドラン。このような所業は決して許す事はできん」
しっかりケネブの目を見返し、強く言葉を告げるマーベリック。
また、一人。アイーシャを、ウィルバートの事を認めてくれる人がいる。
それだけで、その言葉をかけてもらっただけで、アイーシャはこの十年、辛かった事や悲しかった日々が報われる気がした。
「お前らさえいなければ! お前らさえあそこで死んでくれていれば……っ、私の人生は輝かしい物だったのに……っ、ウィルバートも、アイーシャも私の人生にいらないっ、いらなかったのに……っ」
ぼそぼそ、と呟くケネブの言葉にはもうアイーシャは少しも傷付かない。
「そうですね。私も、お母様をあんな目に遭わせた叔父様を、お父様を悲しませた叔父様を、私を苦しめ続けた叔父様達家族を許せません。その言葉は私の台詞です」
強くケネブを見据え、キッパリと言い放ったアイーシャに、ケネブはまさか自分が言い返されるとは思っていなかったのだろう。
一瞬アイーシャが放った言葉が理解出来ずぽかん、と口を開けたが数秒後。アイーシャの言葉を理解し、怒りに顔を真っ赤に染め上げた。
ケネブは怒りで体をぶるぶると震わせながらアイーシャに向かって怒声を張り上げる。
「アイーシャ! 貴様っ! ここまで育ててやった私に対して生意気な口を! いらないのはお前だっ! お前の存在価値などないっ!」
「──私達の人生に叔父様こそいりません!」
「貴っ、様……!」
アイーシャはマーベリックの前だと言うのを忘れてついつい怒りに駆られ、売り言葉に買い言葉で言葉を返してしまう。
どうして、ケネブにこんな事を言われなければならないのか。
自分の母と父を事故に見せかけ、殺そうとした。
実際母イライアは、事故のせいで命を落とした。
ウィルバートだって、どうなっていたか分からない。あの時、親切な人がウィルバートを助けてくれていなければ、アイーシャは本当に一人ぼっちになっていたのだ。
「そこまでだ、ケネブ・ルドラン。私の前でこれ以上醜い姿を晒すのは許さん。この者を連れていけ」
不快感を顕にしたマーベリックが護衛に命じる。護衛らが短く返事をすると拘束したケネブを立たせた。
すると、その場から離れてしまう事を悟ったのだろう。ケネブは中途半端に合成獣に変化してしまったエリシャを振り返り、エリシャの名前を叫び続ける。
「やめっ、離せっ! エリシャっ、エリシャ……っ!」
ケネブは最後まで、護送用の馬車に連れて行かれ姿が見えなくなるまでひたすらエリシャの名前を叫び続けた。




