80話
「──いた! エリシャ・ルドランだ! 手を貸してくれ!」
「これは酷いな。治癒術士の使用許可を殿下に!」
「このままだと手遅れになるぞ」
エリシャを見つけた護衛達が焦ったように声を荒げ、周囲の瓦礫を撤去して行く。
エリシャは先程まで自分の体を襲っていた激しい痛みがいつの間にか引いている事に気付いた。
痛みがなくなるなんて、不思議な事もあるのね。とエリシャがぼやっと考えつつ周囲に視線を向ける。すると、先ほどまで視界が真っ暗だったが今では薄っすらと周囲が見えるようになっていた。
体を動かす事ができないエリシャはきょろ、と目を動かして辺りを確認する。
すると、少し離れた場所に自分の手があった。
肘から先の衣服が転倒事故にあったせいで破れてしまっている。
肌が見えている手首には、アイーシャの婚約者、ベルトルトから贈られたブレスレットが嵌められているため、間違いなく自分の腕だ、とエリシャは思った。
だが、それと同時にどうして腕が離れた場所にあるのかがわからなかった。
(どうして、私の腕があんな離れた場所にあるの?)
これは悪い夢だろうか、とぼうっとする頭で考えているとじゃりじゃりと地面を踏み締め近付いて来る足音が聞こえた。
「──エリシャ・ルドランが見つかったと? 状況は酷いのか?」
ちらり、と見える金糸のような美しい髪が風に靡き、黒曜石のように輝く瞳がエリシャに向けられた。
誰かが言っていた事をエリシャは何となく思い出した。
黒曜石のような真っ黒い瞳はこの国の王族の証だ、と聞いた事がある。王族の証である真っ黒い煌めく瞳を向けられたエリシャはぎくり、と体を強ばらせた。
逃げ出したいのに体が動かず、苦戦している内に王太子マーベリックが数人の護衛と治癒術士を連れ、エリシャのすぐ近くまでやって来た。
じゃり、と石を踏む音が聞こえたと思ったら片膝を着いたマーベリックの顔がエリシャの視界に大きく映った。
エリシャを視界に捉えるなりマーベリックは眉を顰め、口を開く。
「──ああ、これは……」
マーベリックはゆるり、と目を細め、隣にいる治癒術士に問うた。
「転倒事故で右腕が吹き飛んだか。元に戻す事は可能か?」
「些か損傷が激しく……治癒魔法では難しいかもしれません」
「ならば止血してくれ。失血死してしまっては困る」
マーベリックと治癒術士の会話に、エリシャはぱちくりと瞳を瞬いた。
言っている言葉の意味が分からなくて。
そして、その言葉を理解した瞬間にエリシャは目の前に落ちている自分の腕を見て悲鳴を上げた。
◇
「殿下。エリシャ・ルドランは? ケネブの娘は無事でしょうか?」
「ウィルバート殿か。ああ、生きてはいる。転倒事故に巻き込まれ腕が切断されたようだ。今、止血中だ。……自分の腕が目の前に落ちているのを見て悲鳴を上げて気を失ったよ」
マーベリックはそこで一旦言葉を切ると、ウィルバートが引き摺るケネブにちらりと視線を向けた。
「ケネブ・ルドランに怪我は? 死んでいないか?」
「ええ。危ない所でしたが命はなんとか」
「命があれば十分だ」
マーベリックは「それよりも」と言葉を続ける。
「それより罪人の移送用馬車が壊れてしまった。これから先をどうするか……早く王都に戻りたいと言うのに」
「馬車を待つしかありませんか?」
「ああ。それしかないかもな。私はクォンツ達にそれを伝えて来る。治癒術士の下にケネブ・ルドランを連れて行ってもらってもいいか?」
「構いませんよ」
マーベリックの言葉にウィルバートは笑顔で頷き、去って行くマーベリックの後ろ姿を見つめる。
「馬車にはまだアイーシャがいるのかな」
外に出ていないのであればちょうどいい、と呟くとウィルバートはケネブにぐっと顔を近付けた。
「殿下はお前が転倒事故を起こしたとはまだお気付きではないようだな? 馬鹿な弟だ。自分の娘は腕を失い、失血死寸前だったようだぞ?」
「──っ」
冷たい声と顔でケネブに告げると、ケネブはウィルバートを強く睨め付ける。
だがケネブは喋る事が出来ないのか、必死に口をぱくぱくと動かしているが声は出ない。
暴れるケネブを物ともせず、ウィルバートはケネブを引き摺り、治癒術士の近くまで歩いて行く。
「治癒術士殿!」
「ウィルバート卿。そこにいるのはケネブ・ルドランですか?」
エリシャに治癒魔法をかけていた治癒術士は、俯いていた顔を上げ、ウィルバートに答えを返す。
そしてウィルバートが連れてきたケネブを見るなり、顔を顰めた。
「ケネブを見つけた時に酷い怪我をしていたので応急処置をしたのだが……ケネブの喉がおかしいようだ。声が出ない」
「本当ですか? 少し見てみますね。エリシャ・ルドランを見ていていただいても? 口封じの布が事故にあった際に取れてしまってますが、今は怪我の痛みと混乱で魔法は発動できないと思いますので、安心して下さい」
「ああ、分かった。どれ、姪っ子を見ててやろう」
後半の言葉は、ケネブをちらりと見やりつつ告げる。
治癒術士に預けたケネブが声にならない声を上げ、藻掻いたがすぐに治癒術士と護衛に抑えられた。
ウィルバートは軽やかな足取りでエリシャの下へ向かう。
先程後方を確認したが、アイーシャはまだ馬車の中にいるようで安心した。
(周囲の安全が確保されるまでは外に出さない。クォンツ卿は状況判断に優れているな)
愛娘の側にいるクォンツを思い出し、若干面白くない気持ちにはなるがアイーシャの元婚約者の事を思えば、断然クォンツの方が心象は良い。
(この先、アイーシャが辛い思いをしたとしても彼が側にいてくれれば乗り越えられるだろう。アイーシャが大人になっていくのを見れないかもしれないから、な……)
ウィルバートはエリシャの側に辿り着き、その場に膝を着いた。
「エリシャ、エリシャ。しっかりしろ」
「ひっ!」
痛み。恐怖。混乱。様々な感情によってエリシャは過呼吸になりかけているようで、ウィルバートは瞳を細めた。
近くにいる護衛も困ったように眉を下げているのが見える。
「治癒術士に出血は止めてもらった。次第に痛みも治まるから落ち着け」
「ひっ、うぅっ、助けてっ! 何でもするから私の腕を治してよおっ!」
「腕……? ああ、ちぎれた腕か。ケネブも愚かな事を」
治癒魔法では再生までは出来なかったのだろう。
少し離れた場所に、肘から下のエリシャの腕がある。
闇魔法をエリシャに使ってやれば、失った肘から下部を再生する事は簡単だ。
だが、ウィルバートはその事実を誰にも伝えない。
(アイーシャが苦しみ続けた十年間に比べれば、このような痛み苦しみなど生温いだろう?)
エリシャ・ルドランがこの十年間、アイーシャに対して何をしたのかはもう知っている。
「治してよぉっ! あなた、凄い魔法が使えるんでしょっ!? 私の腕を治しなさいよっ!!」
「魔力が乗っているな。愚かな……この場で再び精神干渉魔法を発動したのか。そんなもの私には効かないぞ?」
ふん、と鼻で笑ったウィルバートは「待てよ」とふと考えた。
「エリシャには精神魔法耐性がない……反射したら、自分で発動した魔法にかかるのか?」
「ねぇっ! 訳の分からない事を言ってないで私を治しなさいよ! こんな姿じゃあっ」
ウィルバートはエリシャの言葉に口角を上げ、ひょいとエリシャの腕を持ち上げた。
自分の腕を目の前にさらされたエリシャは「きゃあ!」と叫びながら腕から目を逸らす。
だが、エリシャの様子など気にも止めず、ウィルバートは護衛達に聞こえない程度に声を潜めて話しかけた。
「そう言えば……教団の男から薬をもらっていなかったか? その薬は、怪我を治す物?」
「──!? あ!」
ウィルバートの言葉に、思い出したかのようにエリシャは大きく目を見開いた。
(そうだ……! お母様を助けに行く時……! 教団の人から薬を渡されてた……! 困った時に飲めばいいって言ってた……!)
邪教の男が言った言葉を、ウィルバートがどうして知っているのか。
通常の精神状態であれば、そう疑問に思う筈だがエリシャは反射された自分の魔法をまともに受けてしまい、ウィルバートの言葉に疑問も疑念も抱かず、すんなりと受け入れてしまった。
「そうっ、そうよ! あの薬っ!」
エリシャは喜色に濡れた声を上げる。
エリシャは無事な片腕を自分の胸元に入れ、ネックレスを取り出す。
小さな小物入れになっているそれは、可愛らしい宝飾が施されている。ベルトルトから贈られたもので、アイーシャに見せびらかせてやろうとエリシャが肌身離さず身に着けていたもの。
牢に入れられた際に私物は全て取り上げられたのになぜかエリシャの首元にはネックレスが戻っていた。
(また取り上げられたら大変だわ……!)
エリシャはそう考えると、近くにいたウィルバートの体を力一杯押しのける。
ウィルバートがよろけた隙をついて、エリシャはネックレスにしまい込んでいた小さな薬を取り出した――。




