8話
医務室に無作法にも飛び込んで来たのはアイーシャの義妹であるエリシャ。
エリシャは肩でぜいぜいと息をすると、ベッドに腰かけているアイーシャ、アイーシャの足を治療するためにしゃがみ込んでいた常勤医、そしてその側に立っているクォンツの姿を見付け、アイーシャを心配するようにたたたっ、と駆け寄った。
「──お姉様!」
「エ、エリシャ……っ」
エリシャが入って来た扉からはアイーシャの婚約者であるベルトルトも入って来たようで、ベルトルトは扉を閉め、突然入室して来たエリシャの姿に訝しむクォンツと常勤医に対してぺこりと頭を下げた。
「エ、エリシャ。ここには私だけがいる訳ではないのよ……。ご挨拶を……」
「ひ、酷いですっ、お姉様! 私はお姉様が心配で、急いでここにやって来たのに……」
アイーシャの言葉にエリシャはぐしゃり、と顔を歪ませ俯いてしまう。
アイーシャの言葉に傷付いたエリシャを見たベルトルトは、怒りを顕に踵を鳴らしながらアイーシャに向かって歩いて行く。
「アイーシャ……! エリシャがせっかく君を心配してやって来たと言うのに、お礼も告げずにそんなことを言うなんて……! 君には感謝の気持ちも何もないのかい!?」
「……感謝はいたしますが、先ずはご挨拶を述べるのが先ではないでしょうか。学園とは言え、ここは貴族の子息、子女が通う学び舎です。挨拶は基本的なマナー。エリシャ、こちらにいらっしゃるのはクォンツ・ユルドラーク卿です。怪我をした私をわざわざここまで運んで下さったの。……そして、こちらは学園の常勤医の先生です。手当をしていただきました」
ベルトルトのアイーシャを糾弾するような言葉に、アイーシャは強い視線をベルトルト、エリシャ、と順に向けて毅然とした態度で言葉を返す。
これ以上、礼儀も学べていないのか。と呆れられてしまうことも。
女性にうつつを抜かして愚かな言葉を紡ぐ侯爵家の子息の姿を晒し続ける訳にはいかない。
アイーシャがきっぱりと強い視線でベルトルトに言い切った瞬間、エリシャは真顔になった。エリシャの横にいるベルトルトは、羞恥により怒りを覚え、エリシャの様子には気付かない。
だが、二人がアイーシャに言い返すことはせず、クォンツと常勤医に対して挨拶の姿勢を取る。
アイーシャが口にした言葉は尤もなことだ。何も間違ったことは言っていない。
クォンツは、先程エリシャが一瞬だけ真顔になった瞬間をしっかりと目にしており、心の中で「ふうん」と面白そうに呟いた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません……。私、エリシャ・ルドランと申します。……お姉様が大変お世話になりました」
「申し遅れてしまい失礼いたしました。私はベルトルト・ケティングと申します。アイーシャを運んで下さりありがとうございます」
「──?」
クォンツは、ベルトルトの言葉に違和感を覚え、片眉をぴくりと上げる。
何故、ベルトルトがアイーシャの名前を呼び捨てで呼んでいるのだろうか、と疑問に思った所で、アイーシャがその疑問に答えるように口を開いた。
「クォンツ様、先生。騒々しくそして失礼な態度を取ってしまい申し訳ございません。私の義妹、エリシャ・ルドランと……婚約者のベルトルト・ケティングですわ」
「婚約者?」
アイーシャの言葉にクォンツはついつい怪訝そうに言葉を返す。
だが、クォンツがそのような態度になってしまうのも無理はない。アイーシャは苦笑しながら「ええ」と肯定するように頷いてみせると、クォンツの眉間の皺が益々増える。
「アイーシャ嬢。本気で言ってるのか……? ケティング卿がアイーシャ嬢の婚約者? 妹君の婚約者ではなく?」
クォンツの言葉に、何故かエリシャは「まぁ」などと頬を赤く染め。ベルトルトは気まずそうにクォンツからさっ、と視線を逸らした。
「……ええ。ベルトルト様は、義妹のエリシャではなく、私の婚約者です」
「本気か……?」
アイーシャの言葉に、クォンツは疑うようにベルトルトに視線を向ける。
クォンツの疑念に満ちた視線に耐えきれなくなったベルトルトは、エリシャを連れて早く教室へ戻ろうと考えるが、それを口にするより早くクォンツが次の言葉を紡ぐことの方が早かった。
「婚約者、と言うのであれば何故アイーシャ嬢は一人で学園内を彷徨っていたんだ? ケティング卿を見るに……この学園の生徒だろう? この学園は広大な敷地面積を有している。初めて来た人間は確実に迷う。それはこの学園に通う生徒は分かる筈だ」
クォンツの冷たい視線と声音に、ベルトルトは顔色を悪くさせていき俯く。
だがクォンツは逃げるような態度のベルトルトに対して怒りを滲ませつつ言葉を続けた。
「それに、見知らぬ場所でアイーシャ嬢は不安を感じていた筈。それをここに通っている学生なら簡単に想像できるだろう? それなのにどうして婚約者のアイーシャ嬢を放置した?」
「──そっ、それ、は……っ」
クォンツの追及の言葉に、ベルトルトは口ごもってしまう。
正に正論、としか言いようのないクォンツの言葉にベルトルトは背中に嫌な汗をかきながらどう言い訳をしようか、と必死に考えているとエリシャが場違いな言葉を発した。
「ひっ、酷いです、クォンツ様……! ベルトルト様を責めないで下さい! ベルトルト様はちゃんとお姉様を案内するつもりだったんです……っ、私達から離れてしまったのはお姉様なんですっ!」
わっ、と声を上げてクォンツを責めるエリシャにアイーシャはさぁっと顔色を悪くさせた。
許可を得る前に高位貴族の名前を勝手に呼ぶなど言語道断である。
いくら「平等」を謳う学園内であっても、礼儀は必要だ。
そんな簡単なこともわからないのか、とアイーシャがエリシャを叱責しようとする前にクォンツが口を開く方が早かった。
「……ご令嬢。俺はご令嬢に名を呼ぶ許可を出していない。不愉快だから止めてくれ。……それに、例えアイーシャ嬢が離れて行ってしまっても、大事な婚約者殿であればすぐに探すと思うのだが?」
クォンツは、エリシャに冷たい視線を向けた後、ベルトルトへ責めるような視線を向ける。
エリシャは、まさか自分がハッキリと「不愉快だ」と言われるとは思わなかったのだろう。
クォンツに言われた言葉が一瞬理解出来ないかのようにぽかん、とした後瞬時に羞恥に顔を真っ赤に染める。
悔しそうにアイーシャにぎりっ、と鋭い視線を向けた。
ベルトルトはクォンツの言葉に何も言葉を返すことが出来ず、もごもごと何かを呟いているが、結局何もクォンツに言葉を返すことができず、悔しそうに俯いた。
クォンツは、エリシャとベルトルト二人に向かって呆れ果てたような視線を向けると深く溜息を付く。
その溜息に反応したのはエリシャで。
クォンツにちらり、と視線を向けるとアイーシャとクォンツが小さく会話をしているのを見て益々憎しみが込み上げてくる。
(何で……っ、私が怒られなくちゃいけないの……っ)
「クォンツ様……義妹と、ベルトルト様が申し訳ございません」
「アイーシャ嬢、貴女が謝ることではないだろう? 常識知らずなのは君の妹君と、君の婚約者だ」
アイーシャがクォンツの事を「クォンツ」と名前で呼ぶことを許され、クォンツもまたアイーシャを名前で呼んでいる。
エリシャは自身のことを「ご令嬢」としか呼ばれていないのに! と恨みを募らせ、自分の魔力をこっそりと誰にも分からない程度に練り上げた。
(これ、で……っ。ベルトルト様と同じように、私の魔法で……っ)
アイーシャへの不信感を、疑念をちょこっと刺激してやれば良い。
その回数を増やしていけば、今までアイーシャの友人だった者達と同じように、アイーシャの友人達は勝手にエリシャを慕い近寄って来る。
「ク、クォン……あっ、ごめんなさい……っ、えっと……ユルドラーク卿……っ。ごめんなさい、これだから私はいつもお姉様に沢山怒られてしまうんだわ……」
ひっく、と小さくしゃくり上げ自分の目元をそっと小さな手のひらで覆う。
エリシャの背後では、エリシャを気遣うようにベルトルトが「エリシャ……」と小さく呟き、優しく肩を抱いてくれる。
エリシャは、自分の言葉に纏わせた魔力がじんわりと空間を満たして行くのを感じて口元が歪んでしまわないよう、細心の注意を払う。
笑みを浮かべてしまっては、目の前にいるアイーシャや、クォンツに不審に思われてしまう。
少しでも不信感を抱かれてしまえば、この魔法のかかりは悪くなってしまうのだから。
エリシャは自分自身の可憐な見た目を最大限利用して昔からアイーシャの味方を、友人を全て奪い去って来たのだ。
「……?」
だが。
いつも、エリシャの言葉を信じ込み、悪い方向に「勘違い」をしてくれる人達とは違うようで、いつまで経ってもクォンツから優しい言葉をかけられない。
おかしいな、とエリシャがクォンツを盗み見ると、クォンツは驚くほど冷たい視線をエリシャに向けていた。
「言いたいことはそれだけか……? アイーシャ嬢が休むことができないだろう。……そろそろ出て行ってくれないか?」
「──ぇっ、……あっ、あの……っ」
エリシャは、初めて予想外のことが起きあからさまに狼狽える。
だが、エリシャが狼狽えていることなど気にも止めずクォンツはさっと視線を逸らし、アイーシャに向かって優しく笑いかけている。
「アイーシャ嬢、余計な時間を使ってしまったな。足は? 痛むのなら支えてやるからベッドに横になると良い」
「えっ、えぇっ!? そんな、クォンツ様に支えていただくのは申し訳ないです……っ! 私一人で横になれますので、大丈夫ですっ」
「いやいや。頭が痛くなっただろう? それに疲れも蓄積したはずだ。ほら、横になるんだ」
エリシャにも。ベルトルトにも。
一切興味を無くしたクォンツから完全に無視され、まるで同じ空間にいないものとして扱われている。
「エリシャ……、エリシャ嬢……一先ず戻ろう。もうすぐ授業が始まるだろう?」
「──分かり、ました……っ」
エリシャは悔しそうな表情を浮かべたまま、アイーシャとクォンツから顔を逸らし、そのまま医務室の出入口に歩いて行く。
こんなにも恥ずかしい思いをさせたアイーシャに、どうしてやろうかとエリシャが考えていると、エリシャの目の前で医務室の扉が手を触れる前に開いた。
「──クォンツ……! ……っ、と、失礼ご令嬢! 大丈夫だろうか?」
「……っ、は、はいっ」
エリシャは、目の前に現れた男が先程まで大講堂の壇上で話をしていた「公爵家の嫡男」だと気付き、ぱっと瞳を輝かせた。