75話(閲覧注意)
人道に反した描写がございます、ご注意ください。
「ウィルバート・ルドラン……!」
ぎりっ、と奥歯を噛み締め、憎しみの籠った声でケネブが叫ぶ。
ケネブの叫びを聞き、男──ウィルバートはこてりと首を傾げた。
「おや。もう兄上とは呼んでくれないのか。せっかく可愛い姪っ子を連れて来てやったと言うのに悲しいな」
「……白々しいっ!」
可愛い姪っ子、などと微塵も思っていないくせに、とケネブは足元に横たわるエリシャをウィルバートから視線を外さないようにしつつ、揺り起こす。
「エリシャ。エリシャ、起きろ……」
「──ん、んん? おとうさま……?」
体を揺らされ、むにゃむにゃと呑気にエリシャが目を開く。
「なんですか、ここはどこ?」
「いいから早く立つんだ。この場を脱するぞ……」
「──えぇ?」
口封じの布が取れている状態のエリシャはむくり、と起き上がると状況を把握するようにくるり、と周囲を見回した。
ケネブが見つめる先を追うようにエリシャも顔を向ける。
その先には、ウィルバートが立っている。
「──あの人っ」
エリシャはひゅっ、と息を呑んだ。
顔はみるみるうちに真っ青になり、怯えるようにケネブに縋った。
「なんであの人が、それにここは……? お母様……! お母様は!?」
「落ち着け、エリシャ。エリザベートはまだ捕らえられたままだ。失敗したのだろう? エリザベートを救い出すのは私達が無事隣国に逃げおおせた後だ」
「──いやっ! 違うっ、お母様はあの時合成獣に襲われて……!」
要領を得ないエリシャの動揺した声に、ケネブは眉を顰める。
「エリザベートが合成獣に襲われた……?」
「そ、そうなのっ! それに、あの人は……っ」
一瞬で恐ろしい合成獣を、と怯え、震えながらウィルバートを指差すエリシャに、ケネブは益々眉を顰めた。
「エリザベートが襲われたと言うのか? 怪我の程度は? 命はあるのか?」
「なんで、なんであの人がここにっ」
ケネブの言葉に答えず、エリシャはウィルバートに怯えるだけだ。
恐ろしい合成獣を屠る力を持つウィルバートに、純粋に怯え恐れている。
そんなエリシャの姿に、ケネブはウィルバートを凝視する。
(なぜ、あの男にここまで怯えるのだ。あの男は虫も殺せぬほど甘い男だぞ……? エリシャがここまで怯える理由が分からん)
昔のウィルバートを思い出し、ケネブは目の前に佇むウィルバートを強く睨み付ける。
(なぜこの場所が分かったのか。どうやってやって来たのかは分からんが……エリシャを連れて来てくれたのは好都合だ。こちらにはエリシャがいる。消滅魔術でエリシャにウィルバートを操らせれば……!)
ちらり、とエリシャを見ると未だにウィルバートに怯えている様子が伺える。
だが、怯えていようが関係ないと考えたケネブはエリシャに向かって口を開いた。
「──エリシャ! 目の前にいる男を操る魔法を発動するんだ!」
勝ち誇ったような笑みを浮かべ、声高に叫ぶ。
精神干渉魔法さえ発動してしまえば、耐性を持たないウィルバートなど容易に操れる。自死しろ、と命令する事だってできるのだ、とケネブが得意気な顔でエリシャが魔法を発動するのを待っていると――。
「え? 操る? 何を言っているのですか、お父様。私にそんな魔法が使えるはずないじゃないですか!」
私はお姉様より魔法の才能がないのを忘れているのですか? と不思議そうに告げるエリシャにケネブはぽかん、と口を開けた。
「な、にを言って……、エリシャ、消滅魔術を、消滅魔術を忘れたのか!?」
今度はケネブが真っ青な顔になってエリシャに詰め寄る。
エリシャの肩を掴み、がくがくと揺さぶって「今すぐウィルバートに消滅魔術を発動しろ!」叫ぶが当のエリシャはきょとんとした顔でケネブの言葉に首を捻るばかりだ。
「お待ち下さいお父様、何が何だか……」
「エリシャ! 幼い頃に別邸で覚えさせた事を忘れたのか!?」
どうして突然そんな事を、と慌てふためきケネブが叫んでいるその時。背後からくくっ、と堪え切れずに笑う声が聞こえた。
ケネブは勢い良く振り返る。
ケネブの視線の先には、口元に手を当て俯いているウィルバート姿がある。薄っすらと笑みに歪んだ口元を見て、ケネブは怒りで頭に血が上った。
「ウィルバート!! 貴様がっ、貴様っ! エリシャに何をした!?」
ケネブの荒い声に、それまで肩を震わせていたウィルバートがぴたり、と静止する。
ゆらり、と俯いていた顔を上げたウィルバートは感情がごっそりと抜け落ちたような瞳でケネブをひたり、と見据えている。
「兄上、と呼べケネブ。お兄様には敬意を払うものだろう?」
「──ケネブ・ルドラン!」
ウィルバートが冷たい声でそう告げた瞬間、教団の男が叫ぶ。
教団の男は駆け出し、ケネブとエリシャの前に躍り出ると何かから二人を守るため、両腕を前方に突き出した。
瞬間。
──バチン!
と大きな破裂音が響き、ケネブ達三人は何かに弾かれるように後方に吹き飛ばされた。
「ぐぁ……っ」
「きぁああっ!」
どしゃり、と地面に倒れ込んだ二人は前方で自分を守るように何かの魔法を使った教団の男を咄嗟に見上げる。
教団の男はぶるぶると震えながら地面から起き上がり、顔色を真っ青にしたままケネブに向かって叫んだ。
「おい、逃げるぞ……! 何が何だか分からんが、早くこの場を離れた方がいい!」
教団の男の声にはっとしたケネブは急いで立ち上がる。地面に倒れていたエリシャの腕を掴み立たせ、腕を引きウィルバートとは逆方向へ駆け出す。
未だにエリシャは何が起きているのか理解していないようで目を白黒させながら「お父様のお兄様!!? 何で?」などと叫んでいるが、今はエリシャに説明してやる時間などない。
ざわざわ、とケネブの胸中が騒いでいる。
これは本能だろうか。
本能がこの場所にいるのは危険だ、と警告しているかのように胸騒ぎがする。
混乱にぐちゃぐちゃな頭の中でも、どこか妙に冷静な部分でふ、と思う。
(あれは誰だ……!? あれが、ウィルバートだと!?)
あんな人間だっただろうか、とケネブは乱れる呼吸で必死に足を動かし続ける。
虫も殺せぬ男だった。
争いも苦手で、誰にでも優しい男だった。
(それなのに、私達に攻撃魔法を放ったのか!? あのウィルバートが……!?)
エリシャを引っ張りながら足を動かし、ケネブはちらりと背後を見やる。
すると、ウィルバートは教団の男の目の前までやって来ており、足を止めているのが見えた。
(もう駄目だ。また教団から人を送ってもらわねば……)
どうしてそう思ってしまうのかは分からないが、ケネブはウィルバートと教団の男の姿を瞳に映し、振り切るように前を向いて未だ薄暗い森の中へとエリシャと共に姿を消した。
◇
教団の男を残して逃げ出したケネブとエリシャの姿を興味なさげに見やったウィルバートは、目の前で全身を震えさせ、恐怖によって今にも泣き出しそうになっている教団の男につい、と視線を戻す。
「行ってしまった、な?」
妙に静まり返ったその場に、ウィルバートの静かな声が響く。
ウィルバートの声に返事をする事もできず、教団の男は信じられないものを見るように、ウィルバートを凝視する。
ぶるぶると震える男の唇がウィルバートを唖然と見上げながらやっとの思いで一言だけ呟いた。
「化け、物」
「……ありがとう」
その言葉にウィルバートはにこり、と微笑む。
微笑みを見た教団の男はその瞳からつうっ、と涙を流す。
ウィルバートが発動した闇魔法の粒子が視界いっぱいに広がった。
真っ黒い粒子が男を包み込んだ後、ウィルバートは興味を失ったようにふいっと踵を返し、ケネブとエリシャが姿を消した方向とは逆方向に足を向ける。
さくさくと地面を踏みしめ、足を動かし続ける。
「感情を、殺さなければ。良心など捨てなければ」
ぶつぶつと自分自身に言い聞かせるように呟き続ける。
そうしなければ、きっと途中で挫折する。
「イライア、イライア……っ、早く会いたいっ」
ぐしゃり、と前髪を握りつぶして嗚咽混じりの声を絞り出す。
まだ薄暗い森の中、太陽の光に恋焦がれるように頭上を見上げた。だが、視界には鬱蒼と茂り光を遮る葉しかなく、ウィルバートはぽたりぽたりと自分の瞳から涙を幾筋も流した。
ウィルバートの後方。
先程まで教団の男がいた場所には、得体の知れない巨大な影が突如出現した。
その巨体は、のそり、と身じろぐと獣のような汚い声で咆哮を上げ、何かに導かれるようにケネブとエリシャが去った方へ動き出した。まるで逃げる何かを追うように。
ウィルバートは涙を流しながら「鬼ごっこの始まりだ」と無感情に呟いた。




