74話
天幕の外から慌ただしく走る音がする。時折大きな声も聞こえてきて、深い眠りの底にあったアイーシャの意識が浮上した。
「――なに?」
胸騒ぎを覚えたアイーシャがぱちり、と目を開けたと同時。
天幕の外からクォンツの焦ったような声が聞こえた。
「アイーシャ嬢! 起きているか!? 聞きたい事がある!」
「は、はい! 起きております!」
クォンツの切羽詰まったような声に、アイーシャは寝台から飛び起きた。
ローチェストに向かい、着替えを手に取り素早く実支度をする。
軽く顔を洗い、髪の毛を整えつつクォンツの声に耳を傾ける。
「良かった起きていたか! 支度を終えたらすぐに出てきてくれ。ウィルバート卿が姿を消した」
「お父様が!? すぐに出ます!」
クォンツから聞かされた信じられない言葉に、アイーシャは狼狽えつつ支度を進める。緩く纏めた髪の毛を髪紐で縛り、着替えている間にも外のクォンツは状況を説明してくれた。
「早朝の事だ。日が昇り見張りの者が気付いた時には既にウィルバート卿の天幕が忽然となくなっていたらしい。周囲をいくら探しても当人が見つからない。痕跡を一つも残さず消えた事から、闇魔法によって姿を消した。……という事しか今は分かってねえ」
「痕跡一つ残さず、ですか……!?」
「ああ。昨夜、ウィルバート卿はどこかに向かっていたみたいだろ? あの後、アイーシャ嬢はウィルバート卿と話していたようだし、何か聞いてないか?」
支度が終わったアイーシャは、天幕の布を上げて外に出る。
クォンツも朝早くに叩き起されたのだろう。
最低限の身支度を終えたような状態で、その場に立っていた。
アイーシャはクォンツの問いに答える。
「昨夜お父様は、橋を見つけた。と言っていました」
「橋を?」
クォンツの言葉にアイーシャが頷くと「そうか」と呟いたクォンツはアイーシャの手を取る。
「マーベリックに話そう。リドルも慌てて周囲の情報を探ってはいるが、橋が見つかったなんて報告は今の所上がってない……。昨夜、ウィルバート卿は橋以外に何か言っていたか?」
「ケネブ・ルドラン……叔父様は恐らくその橋から隣国に渡ったのだろう、と。それに、協力者がいるだろう、と言っておりました」
「協力者、か……。それは十中八九、邪教の人間だろうな。牢番を殺したあの男は合成獣に変貌したが討伐された。人間を合成獣に変貌させる薬をまだ邪教が持っていたら……」
クォンツは不自然な所で言葉を切る。
アイーシャもクォンツの言いたい事が分かったのだろう。
頷いたあと、言葉を続けた。
「……ええ。また誰かが犠牲になってしまうかもしれません」
◇
アイーシャはクォンツに手を引かれるまま、マーベリックの天幕に駆け込んだ。
「マーベリック!」
ばさり、と天幕の布を跳ね上げ、クォンツとアイーシャがやってくると室内の皆が困惑し、情報を得るために混乱しているような状況だった。
「クォンツ。それにルドラン嬢も朝早くからすまないな」
困ったように眉を下げたマーベリックが二人に視線を向けると手招きをする。
周囲にはマーベリックの護衛や、リドルの姿もある。
クォンツはアイーシャの手を引いたまま皆の輪に加わる。
「ウィルバート殿が姿を消してしまっていてな……。状況から、敵の手に落ちた訳ではない。だが、このような場所で姿を消した事が不可解だ。事件に巻き込まれたという可能性も払拭できず……だが何も手掛かりが残っていない、調べるにも時間も人員も足りていない」
ほとほと困った、という様子のマーベリックがアイーシャに視線を向ける。
「昨夜だが、ウィルバート殿に変わった様子はなかっただろうか?」
じっ、とマーベリックに真っ直ぐ見つめられ、アイーシャは無意識に背筋が伸びた。
──警戒、疑念、不審。
――気遣い、憂慮。
様々な気持ちがマーベリックの瞳に浮かんでいるように見え、アイーシャは口を開いた。
「昨夜の事です。橋を見つけた。と言っておりました」
「橋、だと?」
アイーシャの言葉に目を見開いたマーベリックが呟く。
「我々が長時間調査しても、橋など見つからなかったが。……そうか、闇魔法か。改めてとんでもないな、規格外だ」
小さく呟くマーベリックは自分の考えを整理するように顎に手を当て、続ける。
「クォンツから、昨夜ウィルバート殿が一時姿を消していた、と聞いたがそうか。その時に橋を見つけた、か……」
そこまで呟くとマーベリックは徐に顔を上げ、アイーシャとしっかり目を合わせた。
「それで……。彼はそれ以外に何か言っていたか?」
「はい。ケネブ・ルドランは恐らくその橋を渡って隣国に入ったのだろう、と……それと、協力者がいるはずだ、とも……」
「なるほど……。ならば姿を消したのは隣国に入り込み、見失う前に捕らえるためか? だが、それならば我々に一言残して行くのが普通だが……」
「昨夜、お父様は朝になったら殿下にご報告を、と言っておりましたが……まさかされていないとは思わず……大変申し訳ございません」
早朝から大騒ぎでウィルバートの消息を追っている状況に、アイーシャが謝罪を告げる。そんなアイーシャにマーベリックは苦笑いを浮かべた。
「いや、ルドラン嬢が謝る事ではない。──そうか、だが……自分の娘にも告げていたと言うのにそれをせずに後を追った、という事であれば……」
マーベリックはふと至った考えに、思わず自分の額を覆った。
「不味いな。最悪、ケネブ・ルドランが殺される」
ケネブ・ルドランが殺される。
マーベリックが紡いだ言葉に、アイーシャは信じられない、とばかりに瞳を見開いた。
「殺される、って……何故……誰に……」
「……分かるだろう? あの男を一番恨み、殺したい程憎んでいるのは……ウィルバート殿だ」
「……っ」
マーベリックのしっかりとした口調、視線。アイーシャを射貫くようにして語られた言葉に、アイーシャは自分の唇をきゅっと噛み締め俯いた。
無意識に握り込んだ拳が震える。
(確かに、確かに殿下の仰る通りだわ。お母様の身に起きた事を思えば……。お父様自身、苦しんだ十年間を思えば……とても叔父様を許せる筈、ない)
愛する人を異形の魔物に変貌させられた悲しみや苦しみ、恨みは幾ばくか。
その事を思うと、アイーシャは胸が苦しくなった。
「ルドラン嬢……、もしウィルバート殿がケネブ・ルドランに手にかけてしまえば……、我々は彼を裁かねばならない。罪人とは言え、奴からはまだ情報を得る必要がある。それをウィルバート殿の独断で殺してしまえば……、ああ、そうか……。だからウィルバート殿は独断で動いたのか……」
参ったな、と言うように頭を振るマーベリックにアイーシャはどう答えればいいのか分からない。
ウィルバートの気持ちを考えれば、気持ちは痛い程良く分かる。
だが、マーベリックの言う通りケネブ・ルドランから引き出さねばならない情報は山ほどある。
「──殿下」
「殿下! お話中の所、申し訳ございません!」
アイーシャが口を開いた瞬間、天幕の外から慌てた様子で一人の私兵が転がり込んで来た。
私兵は顔を真っ青にして、マーベリックに駆け寄る。
「……大事な話の最中だ。それを中断させる程の事か?」
「──っ、申し訳ございません……っ、ですがこの件は……っ! 殿下のご判断が必要です!」
固いマーベリックの声に、やってきた私兵は一瞬怯んだものの表情を引き締めると言葉を続ける。その様子を見てマーベリックもただ事では無い、と判断したのだろう。
アイーシャに向けていた顔を私兵に移し「何事だ」と問うた。
「──はっ。先程、王都から緊急用の連絡が入りました。エリシャ・ルドランが……地下牢から忽然と姿を消した、と報告が!」
私兵の声に、周囲は一瞬静まり返った。
◇◆◇
場所は変わり、陽の光が差し込まぬ薄暗い森の中。
男──ケネブ・ルドランはぜいぜいと息を乱しながら、自分の少し後ろを歩く男をちらりと見やった。
険しい山道を長時間歩いているのに、息一つ乱さず口元には笑みさえ浮かべている薄気味悪さに背筋がぞっとする。
(──本当に、この教団の連中は皆薄気味悪い。だが、私が逃げるためには協力が必要だ……仕方ない)
一人だけ逃げ出してしまった後ろめたさはあるが、すぐにエリシャもエリザベートも合流する手筈になっている。
(そうだ。この国さえ出てしまえば、隣国に落ち延びてしまえばどうとでもなる。ウィルバートめ……! 再び私に出し抜かれてっ、間抜けな奴め……アレの妻ももういない、娘もその内合成獣にして、絶望させてやる……っ)
最愛の妻を合成獣にされた事を知り、どんな心境だっただろうか。
手にかけた時の心境は?
どれだけ絶望しただろうか。
それをもう一度、娘で味わわせてやりたい。
(アイーシャをここまで育ててやった意味があると言うものだな……!)
ケネブがにたり、と汚らしい笑みを浮かべると、後ろを歩いていた教団の男が突然ぴたり、と足を止めた。
「……ケネブ卿。止まって下さい、誰かいます」
「なに!?」
緊張を孕んだ固い声に、びくりと体を震わせたケネブは慌ててその場に立ち止まる。
薄暗く、視界も悪い中だ。人がいるなど良く分かったな、とケネブが視線の先を目を細めて見つめていると、ゆらり、と影のようなものが動いたのが分かった。
本当に、誰かがいる。
それを察したケネブはずり、と一歩後退ると震える声で叫んだ。
「そ、そこにいるのは誰だ……!」
自国の者に見つかる筈ない。
教団の協力者に強力な魔法で橋を作らせ、渡って来た。
その橋は既に破壊させ、後を追う者はいない筈。
追手がやってくるのはまだまだ先だろう、と踏んでいた分ケネブは動揺した。
だが、ゆらりと揺らめく人影が薄らと差し込む光に照らされて姿を現す。
日が昇る前に移動していたが、大分時間も経っている。
朝日が昇ってきた。
鬱蒼と茂る葉の隙間から差し込んだ陽の光が、その者の姿を照らして、ケネブは驚愕に瞳を見開いた。
「──なぜ、ここにいる……」
ケネブは、目の前にいる者の姿が信じられなくてぽつり、と呟く。
その声は恐怖に塗れ、少しだけ震えている。
「なぜ? お前を追って来たのだから当然だろう?」
ケネブの声に答えた男は、一歩一歩足を進める。
じゃりじゃり、と小石を踏む音が嫌にケネブの耳に響く。
「ああ、そうだった。地下牢に忘れ物だよ。会いたかっただろう?」
にこり、と微笑んだ男は無造作に抱えていた物をケネブの方へ放り投げた。
どしゃり、とそれは地面を転がりケネブの足元に辿り着く。
ケネブは自分の足元をただただじっと見つめ、からからに乾いた喉がしゃがれた声を絞り出す。
「──えり、しゃ」
「……んぅ」
すうすう、と呑気に寝息を立てている自分の娘を茫然と見つめ、ケネブはゆっくりと視線を上げていく。
風など吹いていないと言うのに、ケネブの視線の先にいる男の綺麗な躑躅色の髪の毛がふわりふわりと風に靡いていて、ケネブは自分の膝が笑っている事におくらばせながら気付いた。




