73話
──夜半。
夕食が終わり、見張りの者を残し皆が天幕に入った後。
アイーシャは隣の天幕で寝ているであろうウィルバートの事を考える。
「お父様、何だか様子が変だった……?」
ぽつり、と呟いた言葉がずしりと自分の胸に重く沈む。
どこが変だったか、とはっきりとは言い表せない。だが、記憶を取り戻した頃はアイーシャが記憶している優しい父の姿と変わらなかった。
優しいのは今も変わらないが、ふとした時の雰囲気や言葉に少々引っかかりを覚えたのだ。
「何だか、不自然よね……」
何が、とは分からないが。
漠然とした不安がアイーシャの胸中を満たす。形容し難い、不安感。
そんなものがここ数日間、ずっとアイーシャをもやもやと落ち着きなくさせている。
「クォンツ様や、殿下、アーキワンデ卿と世間話をしている時は普通なのだけれど……何だか、無理、しているみたい」
そのように考えてしまう自分の感覚がおかしいのか、とアイーシャは考えるが違和感を払拭できない。
「お父様とお話してみようかしら」
もう寝ているだろうか、とウィルバートが休んでいる天幕の方へ視線を向け、もそりと起き上がる。
アイーシャは軽く外套を羽織ると、天幕の入口に向かう。
周囲はしん、と静まり返っており、虫の音だけが聞こえる。天幕から出る事に若干躊躇うが、それも一瞬。アイーシャはばさりと天幕の布を上げ、外に顔を出した。
周囲には人の気配はない。少し遠くに見張りの明かりが見える。
時折こちらの方まで見回りにやって来ているようだが、今はその見回りの時間ではないのだろう。
誰かが近付いて来る気配もなく、アイーシャは父親の天幕の出入口までそのまま近付いた。
「お父様? 私です、アイーシャです。お邪魔してもよろしいですか?」
外から話しかけるが、数秒待っても中から返事が返って来る事はない。
あれ? とアイーシャが首を傾げてもう一度「お父様?」と声をかけると、アイーシャやウィルバートの天幕の近くにクォンツの天幕もあるので、声が聞こえたのだろう。クォンツが不思議そうにしながら自分の天幕からひょこり、と顔を出した。
「アイーシャ嬢? どうした?」
「あっ、クォンツ様。お休みの所申し訳ございません」
「いや、まだ寝てなかった。ウィルバート卿がいねえのか?」
クォンツは一度天幕の中に顔を引っ込めると、軽く上着を羽織って再び外に出てくる。
アイーシャの近くまでやって来て、同じようにウィルバートの天幕の入口前に立った。
「そのようです。こんな夜中にお父様はどこに行ってしまったのでしょう」
「すぐに戻って来るかもしれねえが……一緒に待っておこうか?」
「えっ、ですがもう夜も遅いですし! 申し訳ないです、寝て下さい!」
自分に付き合おうとしてくれるクォンツに、アイーシャはそれは悪いと断るがクォンツはその場にしゃがみ込んでしまった。
「いや。周辺に獣避けの魔道具は設置してあるが……万が一って事もあるしな。外に一人でいるのは危ないだろ?」
「多少なら、攻撃魔法も使えますし……」
「複数獣が出たら?」
「う……っ。ありがとう、ございますクォンツ様」
「どういたしまして」
にいっ、と口角を上げて笑うクォンツにアイーシャも自然に笑顔を浮かべる。
暫くの間アイーシャとクォンツは会話をしつつウィルバートを待ったが、その間ウィルバートが戻って来る事はない。
「どうしましょう。こんなに長い間戻って来ないのは……、普通なのでしょうか?」
暫く会話を楽しんでいたアイーシャとクォンツだったが、ふ、と会話が止んだ時に大分時間が経過している事に気付く。アイーシャはウィルバートを心配するように困り顔で周囲を見回した。
「いや、どうだろうな。俺の場合は討伐に行った時、天幕でゆっくり休みたいから外の用事は早めに済ますが……。確かに戻りは遅いかもしれない」
「そ、それならばお父様に何かあったのかも! どうしましょうか、殿下やアーキワンデ卿にお話をした方がいいでしょうか」
わたわたと慌て始めるアイーシャにクォンツは落ち着くように伝えると、山中に視線を向けた。
「そうだな……。確かに戻りが遅い。マーベリックに伝えてからウィルバート卿を探しに出るか?」
クォンツがそう判断した時。
少し離れた場所からこちらに近付いて来る足音が二人の耳に届いた。
かさかさと草を踏みしめる音が聞こえ、アイーシャとクォンツ二人の間に緊張が走る。
クォンツは長剣の柄に手をかけつつアイーシャを自分の背後に隠し、真っ直ぐ前を見据える。
アイーシャはクォンツの服の裾を握り、前方を凝視する。もし獣か何かが出て来た時、すぐに対応出来るように二人ともいつでも魔法を放てるように準備をしながらじっと前方を見つめていると──。
「お? 何だ、どうしたどうした二人とも。アイーシャもそろそろ寝ないと明日に響くぞ?」
ひょこり、と暗がりからウィルバートが顔を覗かせ、きょとんとした顔であっけらかんと告げる。
アイーシャとクォンツは肩から力を抜いた。
「お、お父様。もうっ、びっくりさせないで下さいっ」
「ウィルバート卿……こんな夜分に一人でどこに? 危ないんで、単独行動は止めて下さいよ」
クォンツの陰から出たアイーシャはたたた、とウィルバートに駆け寄り、怪我をしていないか確認し、クォンツは自分の後頭部をがしがしと書きながら呆れ混じりに声をかける。
アイーシャが心配してくれる事に嬉しそうに表情を崩していたウィルバートは「すまんすまん」と二人に声をけると、二人を天幕に促す。
クォンツが天幕に戻った事を確認したウィルバートは、欠伸を噛み殺している様子のアイーシャの肩を叩いて自分の天幕を顎で示す。
「お父様?」
どうかしたのか、とアイーシャが続きを口にする前にウィルバートは天幕の入口を開けて中に入るよう促す。
不思議そうな顔をしつつ、後ろを着いて来るアイーシャを天幕に入れ、ウィルバートはくるりと振り返った。
振り返った時のウィルバートの悲しげな顔を見て、アイーシャは目を見開いた。
どうして悲しそうな顔をしているのか分からず、アイーシャが混乱しているとウィルバートがおもむろに口を開いた。
「橋を見つけたよ。恐らくケネブはその橋から隣国に渡ったのだと思う」
「橋が!? お父様はそれを探されていたのですか?」
「うん。私や、クォンツ卿。クラウディオ卿が隣国に辿り着いたのは、崖から落下して川を流されたからだが……。ケネブが同じように川に流されるとは思えない。やはり協力者がいて橋を作らせたのだろう」
そのような事をして大怪我を負ったら動けなくなるからね、とウィルバートは自嘲気味に呟く。
「橋の場所は把握したから、明日殿下に報告して橋を渡って隣国に入ろう」
「分かりました」
アイーシャがこくり、と頷くのを見届けたウィルバートは、ぱっと表情を明るく切り替え「さあ、もう寝なければ」と声を上げる。
だが、ウィルバートの態度に微かな違和感を感じたアイーシャは、じいっとウィルバートの顔を見つめながら躊躇いがちに口を開いた。
「そのお話をするためだけに、私だけを天幕に? クォンツ様も一緒で良かったと思うのですが……お父様は他にもお話したい事があったのではないでしょうか?」
「……いや、無いよ。クォンツ卿も疲れているだろう、と思って先に戻ってもらっただけだからね」
にこり、と笑いはっきり告げるウィルバートに、アイーシャは胸騒ぎを覚える。
確かな違和感。
違和感があるのに、それが上手く言葉にできずウィルバートに問い質す事もできない。
「さあさあ、アイーシャ。睡眠はお肌の大敵なんだろう? 早く寝なくてはいけないね」
「お、お父様っ! 何かあれば、私にすぐ教えて下さいね!」
「──ああ、勿論だよ」
先程とは打って変わり、アイーシャを自分の天幕へ誘導するウィルバートにアイーシャは益々首を傾げる。
(絶対に、何かあるはずなのに……! お父様はさっき何か……伝えるべきか否か……考えていたはずなのに……!)
それを伝えてもらえない事が歯痒くて。
アイーシャは優しく自分の背を押すウィルバートを最後までちらちら振り返りながら天幕に戻った。
アイーシャを天幕に戻し、一人になったウィルバートは、入り口に立ったまま俯いた。
「ごめんな」
そして、翌朝。
ウィルバートは忽然と姿を消していた。




