70話
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地下牢の暗い通路に、足音が響く。
カツンカツンと音を立てながら男が進む。
「あーあぁ……。いじめがいのある方はどっか行っちゃったし、残ってるのは声が出せない女か。まだ殺しちゃ駄目だって殿下は言うけど、ほんとその塩梅って難しいんだよなぁ」
男の声が聞こえたのだろうか。牢の中から身じろぎする音が聞こえる。
かつり、と靴音が止まった場所は、身じろぎの音が聞こえた――エリシャ・ルドランが収監されている牢の前。
「エリシャ・ルドラン、お待たせ。さあ昨日の続きと行こうか」
にっこりと微笑んだ男はガシャリ、と鉄柵を掴んで牢の奥で縮こまっているエリシャに向かって愉しげに声を掛けた。
光の入らぬ薄暗い地下牢でも、男の服に飛び散った誰かの返り血はしっかりとエリシャの目に入っている。
牢の鍵を開け、ゆっくり中に入ってくる男にエリシャは恐怖によって声にならない叫び声を上げたのだった。
◇◆◇
王城で話し合いを終えたアイーシャは、ウィルバートから聞かされた通りユルドラーク侯爵邸に向かった。
夜遅く着いたアイーシャとクォンツは、ユルドラーク侯爵であるクォンツの母親に挨拶だけをしてすぐに眠りについた。
そして、翌日。
「アイーシャさん! おはようございます!」
「えっ、シャ、シャーロット嬢!?」
朝食よりも早い時間。
アイーシャが着替え終わった頃、タイミング良く客間の扉が勢い良く開き、クォンツの妹シャーロットが部屋に駆け込んで来た。
驚くアイーシャをよそに、シャーロットはぱたぱたとアイーシャに駆け寄ると、そこではっとする。
表情を引き締め慌ててドレスの裾を持ち上げるとちょこん、と軽く頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。突然お邪魔してしまって。えっと……、昨夜邸に到着したとお聞きして。嬉しくてつい! 来ちゃいました」
怒ってませんか? と小首を傾げ恐る恐るアイーシャに視線を向けるシャーロット。アイーシャは笑顔を返した。
「ふふ、おはようございますシャーロット嬢。昨夜はご挨拶ができず、申し訳ございません。またお会いできて嬉しいです」
アイーシャもデイドレスの裾を持ち上げ、軽く頭を下げてシャーロットに挨拶を返す。
二人は顔を見合わせた後に笑い合うと、シャーロットがととっ、とアイーシャの傍に駆け寄った。
「改めて、ユルドラーク侯爵家にようこそアイーシャさん。また一緒に過ごせて嬉しいです」
「ありがとうございます、シャーロット嬢。私も同じ気持ちですわ。また暫くよろしくお願いいたしますね」
「もちろんです!」
大人びて見えても、シャーロットはまだ十一歳。
嬉しそうに笑う姿は年相応に見えて、アイーシャは笑みを深くした。
自分の父親が消息不明と聞いた時はとても不安だっただろう。
自分の兄が父親を探しに向かった後も、どれだけ不安だっただろうか。
父親も、兄も無事戻ってきてようやっと安心したのかシャーロットの顔から硬さは消えていて、年相応の可愛らしい笑顔が覗いている。
「アイーシャさん。一緒に食堂に向かいませんか? お母様も、お父様ももう食堂に到着しておりますの!」
「まあ、そうだったのですね……! 遅くなってしまい申し訳ございません。準備をいたします!」
アイーシャが慌てて支度を始めると、シャーロットは室内のソファに座り「大丈夫ですわ」と明るく声をかける。
「食堂に来るのが一番遅いのはいつもお兄様ですので、急がなくても大丈夫です!」
にっこりと楽しそうに告げるシャーロットの声に、アイーシャも自然と笑みが零れる。
他家の者である自分を優しく迎え入れてくれるユルドラーク侯爵家の人達に、アイーシャはその懐の深さに心から感謝した。
シャーロットと共に食堂に向かうと、シャーロットが言った通り既に侯爵と、クラウディオが席に着いていた。
「──お、おはようございますユルドラーク侯爵! クラウディオ卿!」
「ああ、おはようルドラン嬢」
「おはよう。良く眠れたか?」
アイーシャの挨拶に、クォンツの母はにこやかに、クラウディオはへらり、と何処か気の抜けた笑顔でひらりと手を振りながらアイーシャに言葉を返す。
「またご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございません。少しの間、よろしくお願いいたします」
「なに、かしこまる必要はないよルドラン嬢。元々貴女の身を侯爵家で預かる予定だったのだから」
母親の言葉にクラウディオもうんうんと頷いている。
二人の優しさにアイーシャがじん、と感動しているとクォンツが眠そうな顔をして食堂にやってきた。
「おはよう。……アイーシャ嬢、何で突っ立ってんだ? 早く飯食おうぜ」
「え、あっ、クォンツ様おはようございます!」
食堂にやって来たクォンツはまだ席に着いていなかったアイーシャに不思議そうに首を傾げる。アイーシャの腕を取ってスタスタと歩き、自分の隣に座らせた。
アイーシャとクォンツが腰を下ろすなり、見計らったように朝食が運ばれ、談笑が始まった。
アイーシャが過ごしたルドラン子爵邸では、ケネブやエリザベート。エリシャと同じテーブルについて食事を摂る事はあったが、アイーシャは談笑する家族三人の輪に入る事はできなかった。
アイーシャが話しかけるとケネブが不快感を顕に眉を顰め、エリザベートがアイーシャを叱責する。
そしてアイーシャを叱責するエリザベートに倣い、エリシャもアイーシャを責めるのだ。
だから、アイーシャは食事を摂る時は決して言葉を発さなかった。
声を出せば、怒られる。
だから息を殺し、静かに食事を進める。
アイーシャにとって、この十年の間、食事の時間は苦痛でしかなかった。
だが、このユルドラーク侯爵邸では。
「何だ、アイーシャ嬢。全然食ってねえじゃねえか。それっぽっちで足りんのか?」
「ああ、本当だな。何か苦手な食べ物でもあったのか? それならば別の食事を作らせようか」
「アイーシャ嬢、しっかり食べなければ力が出ませんわ! 私のもお食べ下さい!」
「……シャーロット。それはお前が苦手な物だろう。押し付けるな押し付けるな」
「ま、まぁ! お父様っ、失礼ですわ!」
ちゃんと食えよ? とアイーシャに声をかけてくれるクォンツ。
苦手な物があるのか、と心配して他の料理を作らせようか、と提案してくれるクォンツの母。
心配する振りをして、自分の苦手な食べ物を押し付けようとするちょっぴり悪い事を考えるシャーロット。
けれど、それを当たり前のように見破り諌めるクラウディオ。
「──いえっ、苦手な物はございません……、ありがとうございます」
アイーシャはじわり、と滲んでしまう涙を何とか堪えて笑顔を浮かべると、食事を進めた。
食事が終わり、食堂から自室に戻る前。
食堂から出た所でクォンツに呼び止められた。
「アイーシャ嬢。少し良いか?」
「クォンツ様? はい、何でしょうか?」
少しだけ緊張した面持ちで声をかけて来たクォンツに、アイーシャは瞳を瞬かせて言葉を返す。
するとクォンツはアイーシャを手招いて、食堂から少しだけ離れた場所にあるサロンにアイーシャを案内した。
人払いがされているのだろうか。
付近には人の気配はなく、サロンにはアイーシャとクォンツのみだ。
サロンの扉を閉めたクォンツは、ソファに座るようにアイーシャに促し、自分も向かいのソファに腰を下ろす。
「アイーシャ嬢」
「はい」
躊躇うような、言い淀んでいるような様子のクォンツが珍しく、アイーシャは益々不思議そうに首を傾げる。
いつもきっぱりと物を言うクォンツにしては珍しく、歯切れが悪い。
いったいどうしたのだろうか、と疑問に思っているとクォンツがゆっくり口を開いた。
「昨夜。エリシャ・ルドランが父親が潜んでいると思われる場所を吐いた、らしい。……その場所はウィルバート卿が話してくれた内容から割り出した場所とも一致している」
「……!」
「ケネブ・ルドランがいると思わしき場所が分かったので……エリシャ・ルドランを使い、ケネブを誘き出す事になった。明朝、マーベリックとリドル、ウィルバート卿と……俺がその場所に向かう事になった。アイーシャ嬢は、どうしたい?」
「──っ」
クォンツの口から語られた言葉に、アイーシャはどくり、と心臓が跳ねた。
ケネブの居所を掴めた、可能性が。
クォンツの口振りから、本来はアイーシャを連れて行く予定ではないのだろう。
だが、クォンツはアイーシャの気持ちを考えて敢えて聞いてくれたのだ。
もし、自分一人で待っていて。
もし、ケネブやエリシャが万が一取り返しの付かない事をして、即刻命を奪われてしまったら。
「あの人達が犯した罪を、償うのを見届けたいです。もし、万が一私のいない場所で、いなくなってしまったら一生悔やみます……私も一緒に行かせて下さい!」
足手まといになるのは自分でも分かっている。
だが、ルドラン子爵家の者として、自分だけ蚊帳の外にいる訳には行かない。
そう考えたアイーシャは膝に置いた手をきゅう、と握り締める。
向かいに座っていたクォンツはアイーシャの返答を聞いて優しく瞳を細めると「分かった」と一言だけ言葉を返した。




