5話
アイーシャは声を掛けてくれた男性と別れた後、学園の建物内に足を進めていた。
催しが行われる、と教えてもらった会場に向かうため、入学前に渡されていた書類を取り出して広げる。
「──えっと、……そもそも、ここは……何処かしら……」
取り出した書類には、新学年の入学に伴い学園内の高位貴族を中心とした「学園役員」と言う複数人からなるグループだろうか。そのグループの代表者が祝いの言葉を述べたり、学園内の説明をしたり、とする式が設けられるということが記載されていた。
「それ」は学園内の大講堂で行われるらしいが、その大講堂が何処にあるのか、アイーシャ自身、今自分が何処に居るのかが分からない。
「困ったわ……どうしよう……」
自分を置いて、さっさと先に行ってしまったベルトルトとエリシャに恨み言をぶつぶつと呟きながら、アイーシャは廊下を進む。
一先ず歩けば何処かで生徒に出くわすだろう、と考えて足を進めたのだが、道に迷う人間がやってはならない事をアイーシャは自ら率先して行ってしまう。
アイーシャは自分の邸内や、行き慣れた街しか知らない。
そのため、まさか自分が「方向音痴」だとは露知らず、自分が建物内で迷うことなどありはしないだろうと言う謎の自信に突き動かされ、スタスタと足を進め、どんどんと建物内の入り組んだ場所へと迷い込んでしまった。
「──……おかしいわ……何で誰も生徒がいないの?」
人の姿が全く見当たらない所か、先程までは太陽の光が燦々と入り込む大きな硝子窓が取り付けられた廊下を歩いていたはずなのに。
今では薄暗く、何処かひんやりとした廊下に佇んでいた。
誰も人がいない、静かすぎる場所にぽつんと一人で立っていると不安が湧き上がって来る。
「だ、駄目だわ……こんな……初日から迷って催しに参加出来なかったら……っ」
邸に帰り、義母のエリザベートに知られたら何と言われるか。
まともに学園にも通えないのであれば無駄なことはやめて学園に通うな、と言われてしまう可能性がある。
アイーシャは焦りながら自分の手の中にある書類を再度確認する。
学園内の簡易的な地図が記載されたページを全面に出して、その紙をくるくると回しながら自分が今いる場所、向いている方向を確認するが、回し過ぎてしまい最早自分がどの方向を向いているのかすら分からなくなってくる。
「ど、どうしよう……っ」
おろおろとしながらアイーシャが紙を回していると、アイーシャの背後、自分が歩いて来た廊下の曲がり角付近からだろうか。
カツン、と誰かの足音が聞こえた。
「──……は、? さっきのご令嬢じゃないか……。こんな所で何をしてるんだ?」
「……っ!?」
アイーシャは声をかけられた方向に勢い良く振り返る。
廊下の曲がり角までは距離があるため、顔ははっきりとは分からないが、聞こえて来た声と、学園の制服を着ていること。
そして。
アイーシャが美しい、と感じた夜明け前のような髪の毛が薄らと差し込む太陽の光に照らされて煌めいているように感じた。
「えっ、と……?」
アイーシャが躊躇いながら声を発すると、男子生徒がアイーシャに向かって歩いて来る。
その男子生徒が近付いて来るにつれて、先程までアイーシャがいる位置からは分からなかった顔がはっきりと分かるようになって、アイーシャは思わず息を飲んだ。
整った外見は、婚約者のベルトルトで見慣れていたと思っていたが、ベルトルトよりも端正な顔立ちをしているのがはっきりと分かる。
切れ長で涼し気な金色の瞳はアイーシャを訝し気に見つめ、すっと通った鼻梁は高く、何処か気怠げな表情ではあるが歩む姿は気品を感じられる。
「こんな所に、何か用──……ではなさそうだな。……迷子か?」
「──まっ」
アイーシャの目の前までやって来たその生徒は、何処か揶揄うような表情でアイーシャに話しかけ、アイーシャは「迷子」と言う言葉に羞恥で頬を赤く染める。
「ち、違います……っ! 迷子では……っ」
咄嗟に言い返したアイーシャではあったが、辿り着きたい大講堂には辿り着けていない。
今の状況を迷子、と言わずして何を迷子と言うのか。
アイーシャ自身もその事実を自覚してつい口篭ってしまう。
「──ふっ、やっぱり迷子だな。……新しく入学して来たご令嬢が流石に催しをサボるのはあり得ないよな」
「う、うぅ……。お恥ずかしい限りですが……大講堂に辿り着けず……気付けばここに……」
アイーシャは観念したようにその学生から顔を逸らしてごにょごにょと言葉を紡ぐ。
羞恥で顔がどんどん赤くなっているような気がする、とアイーシャは自分の頬を手のひらで隠すようにしてから、言葉を続ける。
「も、もしよろしければ……大講堂の近くまで……案内していただいてもよろしいでしょうか……」
「……困っているご令嬢を無視することは出来ないからな……。分かった、案内しよう」
柔らかい声音の中に、若干揶揄うような色が含まれているような気がするが、アイーシャは気にしない。
気にして追求し、案内を止められてしまっては大講堂に辿り着けなくなってしまう。
アイーシャは、自分が迷子になっている事にばかり気が取られていたが、男子生徒に案内され始めて冷静になってくるとふと疑問が浮かぶ。
アイーシャ自身は、迷子によって大講堂に向かうのが遅れてしまっているが、男子生徒は何故ここにいるのだろう、とちらりと隣を見上げる。
新しく入学して来た者か、と言う口振りから、男子生徒は今年入学した者ではないのだろう。
ということは、この学園の先輩だ。
新入学の学生を迎える催しは、確か在学生も参加が必須となっていた筈である。
それなのに、敢えて大講堂から離れた場所にやって来ていたこの男子生徒は──とアイーシャが考えていると、隣を歩いていた男子生徒が徐に口を開いた。
「──ご令嬢、と呼ぶのも面倒臭いな……。名前は? ちなみに、俺はクォンツ。クォンツ・ユルドラークと言う」
「あっ、申し遅れました……! 私はアイーシャ・ルドランと申します……!」
「アイーシャ……、アイーシャ嬢か」
「はい……! ユルドラーク卿、ご迷惑をおかけいたしますがよろしくお願いいたします!」
ぺこり、と頭を下げるアイーシャにクォンツはふはっ、と笑い声を上げる。
「こちらこそ。……ああ、畏まった呼び方はしなくていい。ここは学園だし、クォンツで良い」
優し気に瞳を細めて告げるクォンツに、アイーシャは「ではお言葉に甘えて」と笑顔を返した。
迷子になってしまった羞恥と、大講堂に向かうのが遅れてしまう焦りでアイーシャはクォンツの家名をついつい聞き流してしまったが、クォンツに笑顔を向けたままクォンツが口にした家名を思い出して笑顔がぴしり、と固まってしまう。
クォンツ・ユルドラーク。
ユルドラークはこの国の侯爵家の家名では無かっただろうか。
そして、その侯爵家の嫡男の名前も、クォンツ、という名前だった、とアイーシャは記憶している。
次期当主であるクォンツ・ユルドラークは剣術の才を持ち、座学も優秀。また魔力量も豊富で学生でありながら魔法剣士として活動しているとんでもない人物だと聞いたことがある。
そのような人物に、自分は道案内をさせてしまっている、ということに気付いたアイーシャは顔色を悪くさせた。