44話
「──あいー、しゃ……、?」
クォンツを追いながら走っていたウィルは、クォンツが叫んだ名前に体が硬直してしまったかのようにその場に立ち止まった。
「アイーシャ……?」
何処か懐かしさを感じるその名前に、ウィルはクォンツとクラウディオが飛び移った対岸に視線を向ける。
ゆらゆらと揺れる瞳で、クォンツが駆け寄る一人の女性の姿を見た瞬間、ウィルバートの瞳から涙が一筋零れ落ちた。
クォンツはアイーシャ達のいる広場に飛び移ると、アイーシャの下に一目散に駆け出す。
「──えっクォンツ、様っ?」
この場に突然姿を現したクォンツに、アイーシャは信じられないと言うように瞳を見開いた。
アイーシャの身を守るように側にいた部隊の隊員も、クォンツが現れたことに呆気に取られている様子だったが、クォンツはそんな事など気にせずアイーシャに駆け寄ったそのままの勢いでアイーシャを抱き締めた。
「えっ、あっ、きゃあ!」
「良かった! まさかアイーシャ嬢がここにいるなんて……! 何故こんな場所に……っ、リドル、リドルは何してんだ……!?」
「ちょ、ちょっとクォンツ様っ、苦しっ」
魔物が発生するこんな危険な場所にどうしてアイーシャがいるのだ、とクォンツが憤りを顕わにリドルの名前を口にする。
リドルにとってはとんだとばっちりではあるが、クォンツが消息不明の父親を探しに出る際、アイーシャのことをリドルに頼んだのだ。
危険な目に合わないよう、信頼できるリドルに頼んでいたというのにどうして危険な目に合っているんだ、とクォンツは青褪めたままアイーシャをぎゅうぎゅう抱き締める。
クォンツの声に反応したのだろう。
二人から離れた場所で、戦闘音に紛れてリドルの声が聞こた。
「──クォンツ!? 何でここにっ、いやっ、それよりも助かった、手を貸してくれ!!」
クォンツはリドルの声が聞こえた方向に顔を向け、途端眉間に皺を寄せる。
確かに魔物を先にどうにかしないと、この場にいる者達に被害が及ぶ。
「アイーシャ嬢、少しここで待っていてくれ。魔物を討伐してくる。リドルと王太子殿下もいるならどうにかなりそうだ……」
「は、はいクォンツ様。でも気を付けて下さいね、先程からアーキワンデ卿も、殿下も苦戦しているようですので……」
アイーシャを解放したクォンツが咄嗟に地面に放り出してしまっていた長剣を拾っていると、ゆったりとアイーシャとクォンツの背後から近付いて来た男性──クォンツの父クラウディオが口を開いた。
「王太子殿下がいらっしゃるならば、俺一人で事足りるだろう。アイーシャ嬢に説明してやれクォンツ」
「そう、ですね父上」
「クォンツ様のお父様ですか!? ご無事で、良かった……!」
クラウディオとクォンツの会話に、アイーシャはほっと安堵したような表情を浮かべる。
クォンツと同じ、濃紺の夜明け色の髪色をした容姿の整ったクラウディオとアイーシャの視線がぱちり、と絡み合いアイーシャは慌てた。
「アイーシャ嬢。後で挨拶させてもらおう。今はあちらに行く」
「は、はい。どうかお気を付けて!」
アイーシャの言葉を聞くなり、クラウディオは魔物へと駆け出す。
少し話をしている間に、魔物との戦闘音は激しさを増しており、早めに討伐してしまわないと被害が出そうだ、ということが雰囲気から伝わる。
「クォンツ様は合流されなくて大丈夫でしょうか? もし、私が戦闘の邪魔になるようでしたら──」
「アイーシャ嬢」
何処か邪魔にならない場所に移動しようか、と周辺を見回していたアイーシャの言葉を遮るようにしてクォンツが呼ぶ。
どこか緊張感の孕んだ硬い声音に、アイーシャは瞳を見開いた。
戸惑うアイーシャの肩を掴み、クォンツは言葉を続けた。
「驚かないで、聞いて欲しい。……いや、自分の目で確認しちまった方が良いかもな」
「──え?」
良く分からない事を告げるクォンツに、アイーシャがきょとりと瞳を瞬かせると、魔物と戦闘を行っているリドル達の方から声が上がる。
クラウディオの参戦に歓声が上がり、クラウディオの名前を呼ぶ声が響いて来る。
その歓声にはちっとも動じず、クォンツがちらり、と崖向こうのある一点を見遣った。次いでアイーシャに視線を戻した後に軽く顎をしゃくる。
どうやら、あちらを見てみろ、と言いたいらしい。アイーシャは不思議に思いつつも、クォンツの視線に倣い、崖向こうに顔を向けた。
「誰か、他にもご一緒に来られていた方が──」
「いたのですか」と言葉を続けようとしていたアイーシャの言葉がぴたり、と止まる。
崖向こうに佇み、ぴくりとも微動だにしない人物を視界に入れた瞬間、アイーシャは言葉を失い目を見開いた。
みるみるうちに驚愕に見開かれていくアイーシャの目を見て、クォンツはそっとアイーシャの背中に手を添えてやりながら同じようにウィルバートがいるであろう方向に視線を向けた。
その瞬間、アイーシャの口から小さく小さく呟かれた言葉がクォンツの耳に届いた。
「──お父様っ」
夢幻だろうか。
死んでしまったのではなかったのか――。
本当は、生きていたのか――。
アイーシャの頭の中は、様々な疑問が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返すがそれよりも。
アイーシャはぐしゃり、と泣きそうに顔を歪め「お父様っ」と悲痛な声を上げた。
アイーシャの言葉が届いたのかどうか分からないが、崖向こうに立っていたウィルバートの体がびくり、と跳ねる。
クォンツは今にも泣き出しそうなアイーシャの背に添えた手に力を込め、そのまま彼女の体を支えるようにして話す。
「アイーシャ嬢。あの男性はウィルと言って……。俺と、父上が怪我を負い、隣国の川の下流に流されている所を助けて下さった」
「りん、こく……。そうなのですね……隣国に……でも、何故お父様がウィル、と……? お父様はウィルバート・ルドランです。それにっ、それにお母様は……っ?」
目尻を赤く染めたアイーシャがクォンツを見上げ、問いかける。
その問いに、クォンツはどう説明したものかと考え、そして事実だけをアイーシャに告げる事にした。
記憶を失い、娘の事を覚えていない、と言えばアイーシャは傷付くだろう。
だが、避けては通れない。
どのみち、いずれはアイーシャにも知られてしまう。それならば、まだ自らの言葉でアイーシャに説明した方が良い、と考えたクォンツは口を開いた。
「ウィルバート殿も、馬車の転落事故で酷い怪我を負ったそうだ。その事故の影響で、記憶に欠損がある……。自分の名前も何もかも、目覚めた時には忘れていた」
「──そんなっ」
クォンツの言葉に、アイーシャの瞳からとうとう涙が零れ落ちる。
アイーシャの涙にクォンツはぎくりと体を強ばらせると躊躇いつつ、そっと自分の親指でアイーシャの涙を拭ってやる。
だが、クォンツがいくら涙を拭ってやってもアイーシャの瞳からは次々と涙が零れ落ち、クォンツはおろおろとしながらアイーシャに声をかける。
「ア、アイーシャ嬢……っ、泣き止んでくれ……っ、」
「──っ、ご、ごめんなさ……っ、頭がっ、混乱して……っ」
ひくっ、としゃくり上げるアイーシャの背中を擦ってやりながらクォンツは崖向こうに未だ立ち尽くしているだろうウィルバートの方に顔を向ける。
無意識に助けを求めるように顔を向けてしまったクォンツだが。
「──……っ、」
ウィルバートを視界に入れた瞬間、クォンツの背筋に悪寒が走った。
ここからはウィルバートの表情が分からないが、クォンツはアイーシャの背中を擦っていた自分の腕と、アイーシャの涙を拭っていた手をぱっと離す。
他意は無い、と言い訳をするような気持ちで自分の両腕を上げる。
クォンツの突然の行動に不審がったアイーシャが、涙に濡れた声でクォンツを呼んだ。
「ク、クォンツ様……、どうされ、」
「──いや、俺も……良く分からん」
良く分からないが、だが。
このままアイーシャに触れていては何だか不味い事になる、とクォンツは無意識の内に悟った。そしてすすす、とアイーシャから若干距離を取る。
クォンツの一連の動きに、アイーシャは首を傾げながら再度自分の父親のいる崖向こうに視線を向けた。
すると、先程まで微動だにせず佇んでいたウィルバートが動き出した。
「──えっ、」
「……ウィル殿!?」
ウィルバートは、クォンツとクラウディオに倣うように飛び移ろうとしているようで。
顔色を真っ青にしたアイーシャは咄嗟にウィルバートへと駆け出した。
ウィルバートは身体強化魔法を発動できない筈だ。
ウィルバートを止めなければ、と考えたアイーシャは真っ青な顔のまま走り寄ろうとした。
だが、アイーシャの懸念など物ともせずにウィルバートは地面を軽くとん、と自分のつま先で蹴るとふわり、と体が浮いた。
鬱蒼と茂る木々の影で周囲は薄暗く、あまりはっきりとは見えないが黒い粒子がウィルバートの周囲を漂っているように見える。
「──ぇっ」
アイーシャがその姿に驚き、目を見開いている内にウィルバートはいとも簡単にアイーシャ達のいる広場に飛び移っていた。
駆け寄って来ていたアイーシャに、ウィルバートもそのまま駆け出した。




