9話「排他主義の世界」
紅葉が美しく色付く季節。肌寒い風が吹き抜ける住宅街の中に、一人の少女が光を帯びながら突然現れる。
彼女の名前は雪ノ下エノキ。多次元に干渉することができる精神生命体だ。
赤と青のオッドアイで、瞳の中にはハイライトがない。白髪の肩ラインボブが今も風に揺られている。
服装は、白いリボンが目立つ黒の半袖セーラーに、同じく黒色の膝上丈のスカート。側から見れば寒そうだが、本人は至って平気な様子。
十字柄の黒い靴下を膝下の辺りまで履き揃えられていて、白くて細い脚が少しだけ露出している。
肩から腰にかけては小さい白色のバッグが下げられていて、中には特別な銃が入っている。
エノキは、今日も旅をしに世界を跨いでいた。
「うん……見たところ普通そうだね」
辺りを確認して、早速エノキは歩き始めた。とくに目的も無く、世界の概要を知るべく散歩を行う。
住宅街は人通りがなく、静かなところだった。道は車二台がぎりぎりすれ違えるほどの広さで、徒歩で一人のエノキには、かなりスペースが余っている。
「久しぶりに平和に過ごせそうだなー」
まだ来たばかりなので分からないが、雰囲気も落ち着いていてのどかな感じがする。
人が通らないのは、単に寒いからだろう。寒さにとことん強いエノキにとっては、風が心地良く、体に秋の丁度いい日差しが染み込む最高の環境だった。心も自然と晴れやかになる。
今回は景色をひたすら見て回って、ぶらり旅でもしようかな。エノキは、ひたすら歩き続ける歩き歩き大会を始めることにした。
落ち葉が散らばっている道路の上をしばらく歩く。すると、角から一人の女の子が歩いて来るのが見えた。
見た目は小学校低学年くらいの幼女で、バッグを肩にかけている。おつかいにでも行くのだろうか。
幼女はエノキのことをちらりと見ると、そのままじわじわと立ち塞ぐように、目の前に立ってきた。通行止めだ。これでは通れない。
「ん、どうかしたの?」
エノキが、膝を少し曲げて背中をかがめて、姿勢を比較して目線を幼女に近くする。
幼女は、さらにエノキに近付きながら、
「ねえねえ、お姉さん。お耳貸してー」
子供特有の純粋な笑みを浮かべて、エノキの耳に顔を近付ける。
「え? あ、うん……」
エノキが耳を傾けていると、少女が、
「死んでー!」
声色を一切変えずにそう言ってくる。そのときだった。幼女が、目にも止まらぬ速度でバッグからナイフを抜くと、そのままエノキの上半身、それも心臓部にめがけてナイフを突き刺した。
刃物が突き刺さった音が、静かに響いた。
「え、何で……?」
エノキは、自分の胸に刺さるナイフと、狂気にも思える笑顔を浮かべる幼女を見て、困惑した。突然出会ったかと思えば、突然エノキを刺してくる。意味が分からなかった。
エノキは、痛がる素振りも見せずにナイフをひょいっと引き抜いた。
「いや、こっちが何で……?」
平然とナイフを心臓部から引き抜き始めるエノキを見て、幼女は冷や汗を流しながら困惑を見せた。
どちらもやっていることがおかしいし、どちらも正常な反応だった。
「何だか状況がよく分からないけど、とりあえず私はナイフが刺さっても痛くないんだ。無駄だよ」
血の付いていないナイフをその辺に放り投げながら、エノキは言った。
「いや、それはおかしいでしょ……? 刃物をまともに受けて死なないなんて……」
「……っていうか、いきなり刺すほうがよく分からないよ! ツッコミ待ちなの? ねえ、何なのこれ?」
エノキは思わず突っ込んだ。物騒な状況にも関わらず、ギャグテイストな返しをする。
いきなり刺してきた理由を聞かれた幼女は、
「んー、それは答えられないや。お姉さんが殺せないことが分かってしまったことだし、逃ーげよっと」
そう言って、そそくさと立ち去ってしまった。
「何だったんだ……一体……」
エノキは、幼女を追うことはせず、そのまま散歩を再開した。結局、通り魔幼女の謎は解けないままだった。
やがて歩いているうちに住宅街を抜けて、国道に出た。片側二車線の道路の脇にある歩道の上を歩く。
国道に出ると人通りが少しずつ増えてきて、前後から人が行き交うことも多くなる。
(それにしても……)
人が多くなること自体はとくに問題ではない。ただ一つ問題なのは、前後から来る人々から、なぜかナイフで襲われ続けているということだ。
「でさー、たまに当たるんだけ……どっ!」
「へえ、私は全然だなー……ほっ!」
会話をしながら、男女の二人組がすれ違い様に洗練された動きで、エノキの喉元やももの裏を切りつけようとしてくる。統率の取れたコンビネーションだった。
エノキは、それを首と体を同時に捻って避ける。二人がすかさず追い討ちをかけてくるので、エノキは男の鼻を殴って、女のみぞおちを蹴って、動けない状態にする。
だが、それだけでは終わらない。今度はトレーニングが趣味であろうタンクトップの男がいきなり前から現れて、エノキの頭を掴んで捻り潰そうとしてくる。
なので、エノキはしゃがんで攻撃を避けると、下からアッパーをして男の意識を落とした。
それが終わったかと思えば、今度は後ろから雄叫びを上げながら飛び膝蹴りを喰らわせてこようとする女が現れてくるので、エノキはステップを踏んで横に避ける。
女が着地したところを髪を引っ張ってのけぞらせて、顔面にかかと落としを喰らわせた。
一旦迫り来る攻撃を全部捌き切って、
「ち、治安が悪すぎるー……!」
エノキは嘆いた。
最初に、見たところ普通そうだねとか、平和に過ごせそうだなーなんて言っていた自分を憎んだ。
(フラグを立てた私もあれだけど、これはおかしいでしょ絶対……!)
まさに修羅場。エノキは、立て続けに起こる意味の分からない状況に翻弄され続けており、心が休まらなかった。
エノキは、前後左右を扇風機のように首を回して確認をしながら、恐る恐る歩く。
べつに、押し倒されたり刺されたりしたとて絶体絶命の危機に陥るわけではない。その度に起き上がったりナイフを抜けばいいだけなのだから。
しかし、だからと言って喰らって平気とはならない。絶対に喰らいたくないに決まっている。
エノキは、いつ来るかわからない攻撃に冷や冷やしながら歩いた。
「ま、まずは交番に行こう……。この無法地帯でも、警察はきっと私を助けてくれるはず……!」
エノキは、どこにあるかも分からない交番に向かうことにした。見つかるまでに果てしない時間がかかりそうだが、それよりも今のこれをどうにかしなければならなかったので、やむを得ない。
エノキは、通りすがりの人にそれを訊ねながら、そしてその度に襲われながら、通行人の襲撃を捌いて交番へと向かう。
少しして、街の地図が書かれた看板を見つけた。エノキは交番があるかどうかを念入りに探す。
「あ、見つけた……。交番はここだから……この交差点をまっすぐ突き抜ければ着く。ちょっと遠いけど、ここさえ乗り切れば……!」
交番の場所が分かったエノキは、早速向かうことにした。
目前にある歩道の信号が青になったことを確認すると、前後左右に人がいないかどうかを執拗に確認して渡り始めた。
「はあ……それにしても、まさかここまでしないといけないなんて。どうしてこんなことになるんだろう……」
エノキは、横断歩道を渡りながら自分の命が狙われる理由について考える。
(街並みは綺麗だし、通行人同士で争いが起こっているわけではない。つまり、私だけが命を狙われてるってことだよね……)
まず不可解な要素として一つ挙げられるのが、あくまで市民同士ではなく、エノキのみが殺害の対象として見られていることだった。
もし市民同士で殺し合いが起こっていれば、それが伝播していって、次第に周囲一帯で争いが起こっているはずだ。
その影響で武器や兵器などが投与されていくうちに、過酷な環境へと成り果てて、陽を拝むことなんてできなくなるだろう。
だが、狙われているのはエノキのみ。みんな、自身の肉体や刃物を使ってすれ違いざまに切りつけたりしてくるだけで、他の人に危害を加えようとする素振りは見えない。
この謎を解かなければならないのだが、エノキにはそれを特定することはできなかった。
とりあえず、交番へ向かってから考えよう。そう思いながら、交差点を半分ほど通過した頃だった。
ブゥゥゥゥン!
「……ん?」
まだ信号は点滅すらしていないにも関わらず、左奥に止まっていた車が、エンジンをかけてエノキに向かって発進し始めた。
「う、嘘でしょ……」
通行人の次は、何と車が襲ってくる。エノキは、咄嗟に前に飛び込んで、間一髪で車を躱わした。
「せ、セーフ……」
と思ったが矢先、
ブゥゥゥゥン!
ブゥゥゥゥン!
ブゥゥゥゥン!
ブゥゥゥゥン!
「ええ……」
今度は止まっていたありとあらゆる十数台の車が、発作のように全員エンジンをかけ始めて、後先なんて考えずにエノキのほうへと発進する。
当然、逃げ場なんてない。十数台が囲むようにエノキのほうへ直接向かってくるのだから。
「がはっ……」
エノキは、真上に飛んで逃げる間もなく、無事では済まされない勢いで迫ってくる車に跳ね飛ばされ、跳ね飛ばされた先で数台の車に轢かれた。
後続車がいなかったのが唯一の救いだった。
「め、めちゃくちゃすぎる……」
エノキは、ベレー帽と鞄を拾ってゆっくりと立ち上がった。服には汚れが付着していて、タイヤの跡だったりがくっきり残っていた。
今、歩道側の信号がようやく赤になって、車道側の信号が青になった。
車は信号と法律を無視したということになるのだが、すでに襲われ続けているエノキは、そんなことは気にもならなかった。
しかし、露骨に不機嫌そうな表情をしていた。エノキは、怒りマークを浮かべながら、そのまま交番を目指した。
「むう……お気に入りの服なのに……」
しばらく歩いた頃だった。人通りの少ない通りを歩きながら、エノキは不満を一人でに吐露する。
服自体はエノキと同様かなり丈夫なので、破れたりする心配こそなかったが、だからと言って大切な服が汚されるのは気分のいいものでもなかった。
大好きな人に選んでもらった大切なコーデ。すぐにでも汚れを洗い落としたかった。
「はあ……」
エノキは、またため息をつく。ため息に不満を込めて、不機嫌を消化しようとした。そうでもしないと、やっていられなかったからだ。
そんなときだった。
「あ、交番……」
目的地である交番が、ようやく見えてきた。エノキは、気持ちを切り替えて交番の敷地内を覗き込む。
すると、扉が閉まっていて、『ただいまパトロール中です。ご用の方は交番内の電話で連絡してください。』と書かれた紙が扉に貼り付けられていた。
エノキは、扉を開けて中に入る。中は、交番というだけあって、そこまで広い作りではなかった。交番内を見回すと、机の上に固定電話があって、その下にはまた紙が貼られている。そこには、『急ぎの方は○○へ、そうでない方はこの番号へおかけください。』といった言葉と、それぞれの電話番号が書かれていた。
刺されても問題なかったエノキにとっては急ぎの用ではなかったので、そうでないほうの電話番号を入力して、警察署へと電話をつないだ。
プルルルルル……。という呼び出し音が数回鳴り響いた後、担当の者が応じた。
「はい、もしもし。こちら警察署。お名前とご用件をお話しください」
若い男の声だった。エノキは、早速今回の件について説明する。
「もしもし、エノキと言います。一般人です。一つ相談があるのですが、聞いていただけませんか?」
「相談……? はい、何でしょう」
「道端を歩いていたら、道行く人から凶器などで襲われるのですが、どうすればいいでしょうか?」
男は、
「あー、地区を間違えられましたか。今は何地区にいますか? 出身地区もお答えください」
そう返してきた。
「え、地区……ですか?」
「ええ、あなたは何地区出身で、今は何地区にいますか?」
「えっと……」
地区……? それがこの問題とどう関係してくるんだろう……。エノキは意図していない発言に言葉が詰まってしまう。
何が関係するかも分からないし、どう答えればいいのかも分からない。A地区なのか1地区なのか、はたまた○○地区と名前があるのか。答えられずにもたもたしていると、
「どうしました? 何地区ですか? 答えてください」
徐々に圧が強くなって、回答を急かしてくる。向こうは仕事なのだから仕方ない。
エノキは、それでも答えられずに戸惑う。やばい、どうしよう……。
あたふたとしていると、
「あの、どうかされました……?」
交番署の玄関から、警察官がやって来た。パトロールが一旦終了して、戻ってきたみたいだ。
エノキは、
「す、すみません……! パトロールの人が帰ってきたのでそちらのほうで相談します……! ありがとうございました!」
テンパりながら急いで電話を切った。やっていることは非常に悪手だが、焦りすぎて正常な判断ができなくなっていたエノキは、それを理解できなかった。
受話器を置いて、エノキはふう……と長い息を吐く。すると、
「大丈夫ですか? 何やらただ事ではないご様子でしたが……」
帰ってきた警察官が、通話の終了を察して話しかけてきた。
「あ、はい……。街を歩いていたら住民から襲われ続けている件について相談していたんですけど……」
エノキは、再び事情を説明する。
「あー、それですか。通りで見かけない姿だと思いましたよ」
「……?」
「じゃあ、あなたのお名前と出身地区を教えてください。そこまで送り届けるので」
やはり、警察官の言っている意味が分からなかった。難を逃れたかと思えば、先ほどとまったく同じ質問が向こうから返ってくる。
きっと、エノキが知らないルールのようなものがこの世界には存在するのだろう。地区によってどうのこうの的な。
だがエノキはそれを知らないがために、飛び飛びに進んでしまう話を理解できなかった。
エノキは、さっきから頻出している地区とやらについて訊ねることにした。
「エノキと言います。……あの、さっきからあなた方が言っている地区というのは何なのでしょうか? 意味がよく分からなくて……」
警察官は、
「は? 分からない?」
こいつは何を言っているのだという返しをしてくる。ああ、これは説明しても話が通じないパターンだとエノキは思った。
地区がどうだったりというのは、この世界では誰もが知っている共通認識の話なのだろう。エノキは部外者なので知らないが、それを警察が知っているはずがない。
エノキは、目を紅く発光させて、
「はい、別の世界から来た者でして……」
不自然の点同士を線で結んで言葉を返した。能力の影響を受けた警察官は、
「ああ、だから地区の意味を理解されていたかったんですね!」
事情をようやく察してくれて、にっこりと笑顔を浮かべる。そのまま説明をしてくれた。
「この世界ではですね、A地区からZ地区までの26地区にエリアが分かれていて、自身の出身地区内でのみ生活することが許されているという仕組みになっているんですよ。地区同士は相互不干渉で、基本的に住民の出入りも許されていません」
「では、私が襲われたのは……」
「はい、知らない別地区の住民だと勘違いした地元の方が、あなたを敵だと認識したわけです。何せ、この世界では地区同士での争いが絶えないものですから。正当な手続きを踏んだ移民は愚か、偶然踏み入れてしまった幼子であろうと、容赦なく抹殺されるんですよ〜」
「は、はあ……。その声のトーンで言うセリフなんですかね……?」
どうやら、エノキが襲われていたのは、住民同士の敵対意識の強さからくるものだったらしい。
先ほどエノキを襲った連中も、平然を装いながら心の内では憎らしさを抱いていたのだろうか。
小さな子供がナイフで襲うほどなのだから、よほどの恨みでもあるのだろう。世界の過去までは聞き出すことができなかったが、とりあえず世界の概要を理解することができた。
さて、これからどうしようかとエノキは考え始める。そんなときだった。
警察は話が終わると、
「──それじゃあ、ご理解いただけたようですし、殺しますね〜」
「……へ?」
懐から拳銃を引き抜いて、エノキが反応する間もなく焦点を当てて、エノキの額の中心を捉える。そして、
パンッ……!
引き金を引いた。エノキは、銃弾を脳天に喰らった。
* * *
「何でこんな物騒な世界なのに、これだけ秩序を保てているんだろう……」
銃弾を脳天にぶち込まれたエノキは、安全地帯が無いことを察して、その場からそそくさと立ち去って、また人通りの少ない住宅街を歩いていた。額を撫でながら、疑問を唱える。
容赦なく他所から来た人間を刺せるほどの倫理観のなさを持ち合わせているにも関わらず、行き過ぎた行動までは行かないし、ルールもきちんと守っている。
そんな、謎の国民性を持ち合わせているこの世界の住民が不思議で仕方がなかった。
「そういうもので片付けるしかないんだろうけど。それだと何だかなあ……」
それよりも、これからどうしようかとエノキは考える。安全な場所がないと分かった以上、この世界に留まるのはリスクが多いだろうし、これ以上新たな価値観に触れる機会もおそらくない。
だからと言って、服を汚されたのにも関わらず、このまま易々と世界から離れるのはエノキの性には合わなかった。
誰かのためなら我慢できるエノキだが、その誰かがいないので、我慢することができなかった。
それに、能力の使用には精神力を消費する。多次元干渉ともなると、それなりに精神を喰うことになる。次に転移した世界でゆったりと過ごせる保証もないので、この世界から逃げるのもそれはそれでリスクだった。
逃げても逃げなくてもリスク。エノキは、どちらを選択しようか迷っていた。
そんなことを考えながら歩いていると、道端の先に何かがあるのを見つけた。
「ん、何だろう……? あれ……」
白い何かが、奇妙にもうごめいている。近付いてみると、その白い何かは服で、誰かの背中であることが分かった。人間が、地面に膝をついて何かをしている。
エノキは、恐れつつも好奇心が勝ってしまったので、そのままゆっくりと覗き込むように歩いた。
さらに近付くうちに、どんどん正体が分かってきた。白い服は白衣で、それを着ているのは謎の女だった。ぶつぶつと何かを呟いている。
エノキは、一歩ずつ踏み込み、独り言の内容が聞こえるまでの距離まで来た。耳をすませると、言葉がはっきりと聞こえてくる。
「よし……! これで幼女を捕獲する罠が完成したぜ……! ああ、早く来ないかなあ! 幼女!」
よし、逃げようとエノキは思った。いや、決めた。すぐに回れ右をして、その場から立ち去ろうとする。
だが、
「おや、消費期限がもうすぐ切れそうな見た目だけ幼女がいるね。見た目だけでも構わないからさ、良かったらうちに来ない……?」
「ひいっ……!」
いつの間にか女がエノキの背後に立っていて、両肩を掴まれている。蛇に睨まれた蛙のように、エノキは動くことができなくなった。
「大丈夫だよ。悪いようにはしないからさ……。私は真の幼女と親からの仕送りは大切に扱う主義でね……。さあ、おいで……!」
「それ、どこから突っ込めばいいんですか……?」
エノキは、終わりを確信した。来てすぐに幼女に胸元を刺されたとき、数々の通行人に襲われたとき、警察官に脳天に銃弾をぶち込まれたときと、数々の災難に遭ったが、今この女に迫られているこの瞬間が一番怖かった。
見た目が少々幼いだけでこんな目に遭ってしまうなんて……。エノキが震えながら萎縮していると、
「あ、そうそう一つ言い忘れてた。君、別地区の人間だよね。命を狙ったりはしないからさ、うちに一時避難していかない? 匿ってあげる。このままここにいても危ないしさ」
急に真面目なトーンで、エノキを一時的に身を隠してくれる約束を取り付けてくれた。一瞬罠とも思ったが、声色からそんな素振りは感じられなかった。
出会ったら襲ってくる人間しかいない中で、なぜこのような行動をとってきたのかは分からないが、断る理由も見当たらなかったので、ここは厚意に甘えることにした。
「あ、ありがとうございます……。ぜひそうさせてもらいます……。でも、それを最初に言っていただけませんか……?」
「いやー、つい欲が出ちゃってね。そういうことあるでしょ?」
「ありません」
「そっか……」
女は幼女を捕獲する罠を手に持って、すぐ真横にあるアパートへと向かう。ちなみに、罠とは少女漫画の月刊誌とチョコレートだったのだが、とても幼女が捕獲できるものとは思えなかった。
エノキは女のあとに着いていき、自宅へとお邪魔させてもらうことにした。
「お邪魔します……」
家の中は綺麗だった。女の髪がボサボサのロングヘアであるのに対して、家には物やゴミなどが一切落ちていないので、そういう面ではギャップすら感じられた。
エノキは廊下を抜けて大広間へと案内をされる。壁に向かって机と椅子が一つ。それと、布団やキッチンが置いてあるだけの質素な部屋だった。
女は、お茶の準備をしながらエノキに床に座るよう指示を出す。エノキは、言われるがまま床へと座った。準備を終えて、二人はお茶を飲みながら話を始める。
「さて、別地区まで迷い込んでしまって大変だったね、見た目だけ幼女ちゃん。君の名前とここまで迷い込んできた経緯をお姉さんに教えてくれ」
「……私の名前はエノキです。別地区ではなく、別世界から旅をしに来ました。それで、迷い込んで散々な目に遭って、ここまで逃げてきました」
目を紅く発光させて、別世界から来たことを説明する。
「……へえ、それは実に興味深いね。車に轢かれたりしても平気なのはそういうところからきているのかい?」
「ええ、まあそういうことです……。ちなみに、あなたの名前と職業は?」
「職業は学生だよ。一人暮らしで親の仕送りを受けながら大学院に通っている。名前については教えない。あるけど教えない。ぜひともお姉さん。何ならお姉ちゃんと呼んでくれ」
「……」
やはりやばい人だった。
名前を教えれば、エノキはその通りに○○さんと呼ぶだろう。それを見越した上でお姉さんと呼ぶように仕向けているのだ。
エノキは、垣間見える欲望に恐怖を覚えつつも、目を瞑って聞くことにした。
「そ、それでお姉さんに聞きたいことがあるんですけど、この世界ではなぜこのようなルールが設けられているんですか? なぜ、こんなルールで秩序が保てているんですか?」
「ルール……。他所のエリアから来た人を殺すあのルールだね。いいよ、教えてあげる。なぜこうなったのか」
女は、改めて深呼吸をして話し始めた。
「まずは秩序を保つことができている理由について話そうか。それは、この世界の人間がルールを守る国民性だからだよ」
「ルールを守る……?」
「そう、ルールは絶対だと考えているから、どんなことがあっても基本的に別地区に足を踏み入れたりはしないし、踏み入れられない限りは誰かを殺害したりはしない。でも、逆に言えばルールの範囲外のことはお構いなしということ。君を容赦なく殺しにかかれるのは、自分の住む地に足を踏み入れた人間を殺害しても、罪には問われないから。ルールは守るけど、ルールでないならどんな悪いことも平気でする。極端な連中なんだよ」
「……では、なぜこうなってしまったのでしょうか? ルールができるのにも、何かきっかけがありますよね?」
「うん、そうだね。理由は簡単だ。それは誤情報の蔓延によるものだよ」
「……と言いますと?」
「つまり、嘘や誇張された情報で扇動された結果、他の地区に対する負の感情が増大してしまったってことさ。たとえば、『A地区の住民が大量にZ地区に移り住んだせいで治安が悪くなっている。現在進行形でZ地区はA地区の住民に乗っ取られているので、我々Z地区の住民はZ地区の長を打倒して自衛しなければならない』みたいな、具体的に根拠が示されていない情報を、影響力のある人が発信し続けるとする。すると、根拠の示されていない嘘であっても、繰り返し発信していくうちに大勢の人が信じるようになってしまう。こうして、地区同士で差別意識が高まることによって、足を踏み入れた他地区の住民に襲いかかるようになってしまったんだ。ルールはそれからできた」
「ふむ……。誤った情報が広まりすぎて、それが世界の人々の中で真実になってしまったんですね……」
ようやく、エノキ世界の全貌を理解した。
いきなり自分が襲われた理由も、なぜそうなってしまったのかも。エノキの中で、すべてがつながった。
「ありがとうございます……。知りたいことを知れて、何だかすっきりしました」
「構わないよ。分からないことを分からないまま終わらせるのは良くないからね」
「……変なところはありますけど、こうして私を匿ってくれますし、意外とお優しいんですね。お姉さん」
エノキは、この謎の女への見方が変わったのか、指摘はしつつも思ったことを伝える。女は、
「はははっ、優しくなんてないよ」
笑いながら、
「だって、これから君を実験台にするところだったし」
平然とそう言った。
「……へ?」
「そろそろ効いてくるはずだよ。即効性が売りのものを混ぜたからね」
「な、何を……?」
エノキが女の唐突な言動に困惑していると、自身の頬を涙が伝っていることが分かった。
「何で……? 突然涙が……」
エノキは、突如として悲しみに苛まれて、涙が止まらなくなった。体が震えて、すすり泣くようになってしまう。
どれだけ手で拭っても、手のひらで目を抑えても、涙があふれ出てしまう。
心の中がぐるぐると回り出し、正常な判断ができなくなった。エノキがその場で動けなくなっていると、
「さっき出したお茶に、私が独自に開発した認可の降りていない薬を混ぜた。効果としては喜怒哀楽の哀の感情が心を蝕むというもの。君は今、悲しみによる心の痛みで何も考えられなくなっているはずだよ」
女が状況を説明し始めた。どうやら、最初から仕組まれていたことだったらしい。出会った頃から、匿うのではなく、薬の効果を試すのが目的だったのだろう。
エノキはぐるぐる回る感情を必死に抑え込んで耐える。
「いやー、物理攻撃が通じなさそうだったから精神攻撃に切り替えてみたけど、これなら効くみたいだね。ちゃんと効果があって安心したよ」
「な、何でこんなこと……」
「興味本位さ。タイヤの跡の付いた服や帽子を見て、もしかしてこの世界の住人ではないのでは? とくだらない妄想をしたんだ。それで、薬の実験台にするべく薬を混ぜた。どうせ、この地区の住人ではないから結果的に死んでしまっても、罪には問われないからね。まあ、実際本当に妄想した通りだったんだけど」
「よ、幼女を大切にするのでは……? 己のポリシーに反していますよね……?」
「それは真の幼女のことだよ。君は幼女じゃないだろ? 見た目が幼いだけの、ただの多次元干渉少女だ。だから大切には扱わない」
女は、顔を抑えて泣くエノキの手を振り解いて、両頬を手のひらで包んで、目と目を合わせる。その状態で、
「ほら、思い出そうよ。過去の悲しい出来事を。君は今までどんな辛いことを経験した? それを乗り換えるまでにどれだけ苦しい思いをした? さあ、思い出して……」
「あっ……ああっ……!」
エノキに言葉を投げかける。エノキは、考えてはいけないと分かっていつつも、ずきずきと心が傷んでいるが故に、過去の辛い出来事が、ノラリやクラリの死が脳裏に浮かんできて、その時の心情が明確に呼び起こされてしまう。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ゛っ……!」
エノキは、そのまま地面で髪を強く握りながら、泣き叫ぶ。薬の効果が、イメージによってより増大されてしまった。
「うん、興奮するね……。とても可哀想だけど、小さくてかわいい女の子が苦しんでいる姿を見ると、私は快楽を覚えてしまうみたいだ。これから、この子を実験台にして薬の効果を試せると思うと楽しみで仕方がない」
女は、下卑た笑みを浮かべながら、エノキを鑑賞して悦に入る。性格の悪さが滲み出ていた。
所詮は、女もこの世界の住民だったということだ。ルールに忠実で、誤情報にこそ惑わされていないものの、自身の感情を乱暴に振り回してしまう排他主義の人間だったのだ。
エノキは、何とかしなければならないと理屈で思いつつも、感情に支配されてしまうことで、その解決策を考え始めることができなかった。
能力も、精神の乱れの影響により、発動させることができなかった。事実上、逃げることができなかった。
絶望と言い表すしかない状況の中、女は言う。
「さて、本当に楽しみなのは君を完全に拘束して自由を奪ってからだね。これから私は、君に強力な睡眠薬を投入して、むりやり意識を落とす。次に目覚めた頃には、君は私の実験室で両手両足を固定されて、晴れて実験台となる。これからよろしくね、エノキちゃん……!」
女はそう言うと、用意したカプセル状の睡眠薬を親指と人差し指でつまんで、心がボロボロになっているエノキの口にそのまま突っ込む。
エノキは、拒否する余力も残っておらず、女の指が口内に突っ込まれているために吐き出すこともできず、むりやり飲み込まされた。
ごくっ……。
やがて、脳の神経活動が抑制されていくことで、エノキは眠気が誘発される。
「よし、もうすぐ……! もうすぐ実験台に……!」
女は、今か今かと待ち侘びていた。
だが……、
「おねえさん……」
「……!」
エノキは、眠そうにしながらも、気力を保っていた。エノキは続ける。
「このすいみんやく……ぼーっとするんですけど……なんだか、ふあんがとりのぞかれていくんですよね……」
ふわふわとした口調で、エノキは言う。あまりに声に力が籠っていないので、本当に幼女が喋っているみたいだった。
「……それが、どうかしたの?」
理解していない女に、エノキは言った。
「わたしは、せいしんがふかくかんけいするせいめいたい……。のうりょくのはつどうにもせいしんがおおきくかんけいする……」
「ま、まさか……!」
女はそこで理解した。エノキは別世界へ渡るのに精神状態が大きく関係することを。不安定な場合にはうまく発動できず、できたとしてもそれ相応のリスクを伴うことを。 そして、脳の活動が抑制されたことで精神が安定し、たった今能力が発動できるようになったことを。
「ま、待っ……!」
しかし、気が付いたときには遅かった。エノキは、半開きの目を蒼く発光させながら、
「多次元干渉」
光を体に包んで、世界から消えていった。今、たしかにそこにいたはずの女の子は、もう見えなくなっていた。
一人取り残された女は、絶望でその場で膝をつき、四つん這いになる。息を大きく吸って、
「くっそがああああ……!」
エノキを取り逃がしたことを悔いた。とても悔しそうだった。エノキは、転移した先で、眠りについた。