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6話「エノキの過去 その5」


     *     *     *


 それから10年後のことだった。


「もう10年は経つけど、エノキちゃん体に変化が無いね。街で意識を手に入れたときには、すでに成長が止まってたのかな? ってことは今は25歳くらいかな」

「……どうだろう。まあ、もう成長はしないんだろうけど。25歳……もしそうだとしたら、ノラリも8歳差だ。ノラリお姉さんだ」


「そうだよ。まあ、もうお姉さんって呼べるような歳でもなくなってきたかもしれないけど……」

「お姉さんの定義って何? 若い女の人のこと?」


「多分そう。だからもうすぐ私は……」

「おばさん?」

「うっ……」


 20年後のことだった。


「もしかしてだけどさ、エノキちゃんって不老不死だったりする?」

「……そうなのかもしれない。今までは成長しないものと思っていたけど、正確には変化しないってことだったのかも」


「んー……私だけ歳を取るのも(さび)しいものだね」

「そうかな。ノラリと一緒に歳を取れないだけで、ずっと一緒にいられるでしょ? なら、姿が変化してもべつにいいよ。ノラリはノラリだよ」


「……もしかして、死を知らなかったりする?」

「え、知ってるよ? でも、ずっと一緒にいるって約束したじゃん」

「そ、そうだね……」


 30年後のことだった。


「ま、待ってよ……エノキちゃん……」

「あ……疲れちゃった……?」


「はあ……はあ……ちょっと待って……」

「……大変だね、人間って。生きれば生きるほど辛くなるなんて」


「んー……間違ってはいないけど、正しくもないかなあ……」

「そうなの? だって、昔ならこんな坂道くらい簡単に登れたよね。でも、今は息が上がってとても苦しそう。今までできたことができなくなっていくことが、辛くないの?」


「辛いよ、私はね」

「私は? 違う人間もいるんだ」


「そうだよ。人っていうのは十人十色。色々な人がいるんだ。だから、人によって感じ方も、考え方もまるっきり違う。辛くない人だって、きっといるよ」

「でも、ノラリは辛いんだよね……?」


「うん、辛いよ。ちょっとだけね……。というか、少しも辛くない人なんていないと思う。幸せを得るためには、それに見合うだけの苦しみを味わう必要があるし、幸せを得ようとしなくても、向こうから苦しみがやってきちゃう。人である限り、辛いことから逃れることなんてできないんだよ」

「それって矛盾してない……? 辛くない人だっているんじゃなかったの? どれが正解なの……?」


「うん、矛盾してるね……。でも、どれも間違ったことは言ってないつもりだよ。状況によって正解なんて変わっちゃうから、こうして矛盾が生まれてしまうんだ。矛盾なくして人も世界も成り立たない。正解だけ求める必要はないんだよ」

「……つまりまとめると、それぞれ個性を持つ人間達の中で、決められた一つの正解を全員が追い求めるのはおかしい。しかも、正解は日々変化していく。感じ方も考え方も人間によって異なる以上、幸せの価値観も当然違う。なので、自分だけの正解を見つけて、そこに自由気ままにのらりくらりと進んでいこう。それが人生だ。ってこと?」


「え? あ……うん! 自由気ままなのらりくらりライフってことだよ!」

(本当はそこまで考えてないけど……)

「でもさ、結局ノラリは辛いって感じてるんでしょ? どうすれば、私はノラリを幸せにできるかな……」


「……そうだなあ。エノキちゃんが私を支えてくれる限り、どんなことだってまたできるようになると思う。だから、これからも力を貸してほしいな」

「うん、分かった!」

「というわけで、疲れちゃったから肩貸してくれない……?」

「あ、これをしてもらうために言っただけなんだね……」


 40年後のことだった。


「ねえ、ノラリ。あのときよりマシになったとはいえ、奴隷制度が廃止されてからもう60年以上は経つはずなんだけど、何で未だに差別がなくならないの?」

「そういうものなんだと思うよ。汚れた水を綺麗にするのに時間がかかるのと一緒で、一度できてしまった差別意識は世代交代を重ねてもそう簡単には払拭されない。人はそう簡単には変われないんだよ」


「そっか……。まあ、それもそうだね。ノラリだって会ったときからずっと変わってない。いつまでも優しいお姉さんのまま」

「はははっ、この歳になってお姉さんか……。懐かしいね、あの頃が。40年も経ったなんて信じられないよ。これからもずっと一緒にいられたらいいな……」


「いられるよ。約束したもん」

「……うん」

「それじゃあ、取引を済ませてくるからちょっと待ってて」

「ありがとう……」


 ──そして、50年後のことだった……。

 ある日、いつものようにエノキはベッドの上で目を覚ました。


「……ん」


 いつものように伸びをして、あくびをする。格好はパジャマ姿で、白髪の肩ラインボブに赤と青のオッドアイと、いつもと同じ変わらない姿で朝を迎えた。

 それから、いつものようにすでに起きているノラリに挨拶をするのだが、


「あれ、今日は寝てるんだ。超珍しい……」


 ノラリは、ぐっすりと寝ていた。起こすのも悪いとは思ったのだが、この日は街に出かける予定があったので、エノキはやむを得ず起こすことにした。体にゆっくりと触れて、そっと揺らす。


「朝だよ、ノラリ。起きて」


 すると、うめき声のようなものを上げながら、ゆっくりと目を開く。


「…………」


 その目は、天井のほうをただぼーっと向いていた。寝起きなのか目の中に光がない。いつもの様子とは異なっていたので、


「……ノラリ?」


 思わず声をかけた。ノラリは、そこではっと目を見開いて、


「ああ、ごめん。ぼーっとしてた……。今日は街に行かないとだもんね……今朝食を用意するから……」


 そう言ってゆっくりと体を起こし始めた。歳のせいか、体を起こすのが重く辛そうだった。

 エノキは、その様子を見てある考えが脳裏をよぎった。考えたくないけれど、いつかは……。

 そのときだった。

 バタッ……!


「!」


 エノキは、すぐに音のするほうへと顔を向けた。すると、信じられない光景がエノキの目の前に広がっていた。


「ノラリ……!」


 ノラリが、ばたりとその場に倒れてしまったのだ。体は震えていて、同じく震えている手を伸ばして助けを求めている。

 エノキは、不安を胸にすぐに駆けつけて、ノラリの体に触れながら、


「どうしたの……?! ねえ、どうしたの!」


 そう声をかけた。それを何度も繰り返すうちに、


「…… ごめん。お医者さん……呼んで……きて……」


 そう言いながらノラリは意識を失って、伸ばしていた手を意識と共に落としていった。体の震えは止まるが、それと同時に動かなくなる。

 よく見ると、床には小さな血の水溜りができていた。ノラリの頭のすぐ横にあるので、吐血してしまったのだろう。何かしらの異常が、ノラリに降りかかっていた。


「ノラリ! ノラリ!」


 エノキは、泣き叫んでしばらく何も考えられなくなった。

 今どうするべきか、本人から直接答えを聞いたばかりであるにも関わらず、行動に移せなかった。ただ名前を呼んで、無意味にも時間を消費する。

 医者を呼びに行ったのは、ここからさらに5分後のことだった。

 ──身体能力が誰よりも高いエノキは、息を切らすほど全速力で街の中を駆けて、街の中にあるありとあらゆる病院や診療所を巡った。

 エノキの服が、街の住人のような格好とは違っていたために、初めは元奴隷身分として扱われて拒否され続けてしまう。

 しかし、一人だけ受け付けてくれる若い青年の医者がいたことで、何とか診てくれることになった。

 了承を得たエノキは、準備の済んだ医者をお姫様抱っこの状態で抱えて、再び全速力で駆け出す。

 そして家の前に着いたと思ったら、今度は医者を急かしてすぐに診てもらうようにお願いした。医者も困惑しながら、マスクをつけたり道具を広げたりと準備を整えて、ノラリの状態を確認した。

 入念に状態を調べていって、判断が終わった医者は、言いづらそうに、申し訳のなさそうに、


「大変申し上げにくいのですが、おそらくノラリさんはもう長くはありません……」


 そう言った。エノキは、その瞬間思考が停止した。


「え……?」

「ノラリさんは、愚蓮烈病(ぐれんれつびょう)という世界でも非常に症例の少ない難病を(わずら)っています。症状としましては、初期段階で全身に激痛が走って吐血や目眩(めまい)などを起こします。ひどい場合ですと意識を失ったり……」


「そ、それって……助かったりは……」

「……愚蓮烈病(ぐれんれつびょう)にかかった患者は、例に漏れず全員が一週間以内に亡くなっています。現代の医療では原因を特定することすら難しく、治すことはできません。ノラリさんの歳や今の様子を見ると、もういつ亡くなられてもおかしくは……」

「あ……ああっ……!」


 エノキは、顔を歪ませながら頭を掻きむしって発狂し始めた。

 事実を突きつけられて、すでにかなりすり減っていた不安定な精神が、いよいよ壊れ始める。


「な……やめてください!」


 エノキの異常な様子に気が付いて、医者はエノキを止めようとするが、エノキの力が強すぎて、医者は押し飛ばされて尻もちをつく。

 そのままエノキは、目を紫色に発光させながら、爪で何度も顔を引っ掻いた。そのうち、もちもちで柔らかい頬に傷が入り、血が出始める。

 それでも、エノキは自傷行為をやめなかった。タックルをするように地面に体を打ちつけて、前髪を力強く握って悶える。

 エノキは、冷静さを保てなくなっていた。


「はぁ……はぁ……!」

(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……! ノラリが死ぬ……ノラリが死ぬ……ノラリがぁ……)


 本当はエノキも薄々気が付いていた。ずっと一緒にいることはできないと。いつかこの幸せな生活に終わりがきてしまうのだと。でも、認めたくなかった。絶対に受け入れたくなかった。

 だから、これまで約束をノラリに強いていた。ノラリは約束を破らない。ずっと一緒にいると約束したことをノラリに言い続けていれば、死なんてものが訪れないようになるのではと信じていた。いや、信じたかった。

 だが、現実はこの有様。願えば叶うなんて馬鹿げた妄想は通用しない。どれだけ善を尽くそうが、どれだけ人に優しくしようが見返りなんてない。皆平等に死が訪れる。それが摂理だった。

 エノキは、そんな常識を恨んだ。それがルールなら今すぐぶち壊してやりたいと、生物の宿命を覆したいと思った。できるはずもないのに。


「何で……何でノラリが死ななくちゃいけないの……? 私がいるじゃん! 私が今ここにいるのに、何でノラリは死ぬの?!」


 ボロボロの状態になりながら、エノキは(むせ)()く。

 自分という存在がいる時点で、説明のつかない事象が起こったっておかしくない。エノキは今度はそう考え始める。

 存在しない何かに(すが)(はじ)めた時点で、エノキには限界が近付いていた。

 まるで、森の中を三日三晩彷徨(さまよ)って精神をすり減らしたあのときのような、あの苦しみが再びエノキを襲った。


(……辛い、苦しい、ぼんやりとする。初めて森の中に迷い込んだときも、こんな感覚だったっけ……。このまま意識を失ったら、私も死ねるかな……? ノラリと一緒に逝けるかな……?)


 このままこの苦しみに身を委ねてしまえば、楽になれるのではないか。エノキは本気でそう思い始めていた。

 ノラリのいない世界なんて私は考えられない。エノキのまぶたに力が入らなくなってきた頃だった。

 

「……! ……な! ……たが……ば……が……でしょ?!」

「……?」


 エノキの耳に何か声が届いてくる。内容までは分からないが、必死に何かを訴えていた。

 エノキはそれが気になって、仕方なく体に力を入れた。意識を保とうと呼吸を整えて、遠のいていく意識をむりやり起こしていく。

 少しして、その言葉が聞こえるようになった。その声は、医者によるものだった。


「聞け! 死ぬな! あなたがいなければ、ノラリさんが報われないでしょ?!」


 医者は涙を流しながら、ノラリの肩をゆすっていそう叫ぶ。


「……うぅ」


 エノキはそれを聞いて、ああ、自分はなんて情けないのだろうと思いながら、頭痛でズキズキとする頭を押さえながら、体を起こしていく。

 体の周辺には新たな血の溜まりができていて、それが服を通して自分の頬へとつながっていた。

 手首の辺りが血で染まっている。爪で引っ掻いたせいでできた傷が、地面でのたうち回ることによって悪化でもしたのだろうか。

 こんなに傷付けた覚えはないけどな……と不思議に思っていると、


「ああ、良かった……! 戻ってきてくれたんですね……」


 医者が、心底ほっとしながら、エノキにそう声をかけてくる。医者は続ける。


「犠牲者をこれ以上増やしたなかったんです。あなたまでいなくなってしまっては、ノラリさんも報われなかったでしょうから……」


 医者は怒るわけでもなく、悲しそうな顔でエノキに言った。それが、エノキの心には深々と突き刺さる。


「そうですね……。色々無責任で、本当にごめんなさい……」


 いきなり押しかけて、連れ帰ってすぐに診てもらうように急かして、挙げ句の果てには医者をおいて自分もいなくなろうとする。そんな愚行を恥じて、頭を下げて謝罪をした。

 それを見た医者は、


「いえいえ、理解していただけたのであれば。それよりも一つお伝えしておかなければならないことが……」


「……何でしょうか?」


 改まって覚悟の決まったかのような表情で、エノキを真剣に見つめる。医者は口を開いた。


「よく聞いておいてください。あなたにノラリさんしかいないように、ノラリさんもまた、エノキさんしか頼れる人がいません。エノキさんにとっては、一緒に死んでしまいたいと思えるくらい大切な人であることは十分承知しています。だからこそ、最期を隣で見守ってあげてください。天国に行くノラリさんを見届けてください……」

「そうですね……ありがとうございます……」


 エノキは、ベッドの上で寝込むノラリの下まで歩いた。それから床に膝をついて、ノラリの表情を横から覗き込む。

 まるで眠っているかのようだった。死の兆候である下顎呼吸(かがくこきゅう)などは見られず、倒れる前にあれだけ苦しんでいたとは思えないくらい、安らかな状態だった。もちろん、死んではいない。

 エノキは、手を握って、


「ノラリ、私が側についてるよ。絶対にいなくなったりしないから……」


 涙ぐみながら言葉をかけた。


「今まで色んなことがあったよね……。おでかけしたり、仕事したり。楽しいことも悲しいこともたくさん経験した。楽しかったよ、本当に……。私を拾ってくれて、ありがとう……」


 聞こえているかは分からない。それでも、エノキはこれまでの感謝の言葉を込めて、ノラリに伝える。

 伝えきると、それだけでやるべきことが終わってしまい、また涙が止まらなくなってしまう。エノキは、服の袖で何度も涙を拭って、(こら)えた。


「あとは見届けましょう……」

「はい……」


 ノラリの最期を見届けるために、二人はじっと待ち続けた。

 ノラリの絶命が確認されたのは、この数時間後のことだった。




「11時12分、ご臨終です……」


 医者の手によって、ノラリの死亡が確認された。エノキの心に、ぽっかりと穴が空いた。

 まるで心臓がストンと落ちてしまった感覚。死ぬことは分かっていたはずなのに、理解できなかった。受け入れることができなかった。


「え……?」


 エノキはノラリの顔を見る。それは、数時間前と同じで、まるで眠っているかのような顔つきをしていた。

 とても死んでいるようには見えず、体を揺らせば起きてきそうな気さえした。でも、死んでいる。

 エノキはノラリの手に触れる。ノラリの手は冷たかった。たしかに死んでいることが、嫌でも分かってしまう。

 エノキは、涙があふれて景色が見えなくなった。ぼんやりとした景色の中で、おろおろと目を泳がせている。空いた口は塞がらず、体も震えが止まらない。

 (こら)えていた何もかもが、あふれかえってしまった。我慢ができなくなった。エノキは、人生最大の苦しみの中で、


「オエェッ…………ゲホッ……ゲホッ……」


 床に吐瀉物(としゃぶつ)()()らした。

 エノキは、知識(ことば)を有して以来、初めての絶望と恐怖、それと不条理を知った。人間という無限大の可能性を秘めた生物も、時代という時間の壁の前では、ただ無力になるしかないことを思い知らされた。

 エノキは、しばらく何も考えられなくなった。


「エノキさん!」


 医者が、苦しみに喘ぐエノキを支える。だが、エノキはそのことすら認識できなくなっていた。辛すぎてどうにかなってしまいそうだった。

 エノキは今、二つの矛盾で成り立っていた。一つは(空っぽ)で、もう一つは(ぎちぎち)だった。

 エノキは、ノラリの死によって頭が空っぽになっていた。失ったことで、まるで穴が空いたように何も考えられなくなっていた。

 一方で、ぎちぎちに詰まってもいた。ノラリの死によって、頭の中がノラリのことでいっぱいになっていた。エノキは、ノラリと過ごした時間があまりにも長すぎた。人生のすべてがノラリで埋め尽くされていると言っても過言ではない。故に、脳裏に浮かぶ全部がノラリだった。

 この二つの矛盾を、自身の中で確立して、抱えていた。


「あ……ひぁぅ……」


 エノキにはもう、何かをする力が残っていなかった。ストレスが直接エノキの核にダメージを与えることで、エノキは言葉を失っていた。

 もうエノキにまともな精神状態を保つだけの余力は残されていなかった。


「……あとは任せてください」


 それから医者は、ノラリを土に埋めて、土葬を行なった。その場でやるべきことを終わらせていって、最後にエノキを自身の診療所へと連れ帰る。

 そこで、看護師の協力のもと、保護してメンタルをケアしていく生活を始めることにした。心の内側では、複雑な矛盾を抱えるエノキだったが、側から見ればただの放心状態だったので、大人しく入院の生活を過ごした。

 時にご飯を食べて、時に寝て、時に医者や看護師から話を聞いて、時に見舞いに来たシセンから慰められて、時に診療所に新しく入ってきたノラリに顔が似ている看護師がしがみついて、少しずつ心の傷を癒していった。

 再び意思疎通が取れるようになるのは、この五年後のことだった。


「──では、もう大丈夫そうですね」

「はい……。先生のおかげで何とか」


 医者とエノキは、それぞれ椅子とベッドの上で会話をしていた。


「この悲しみを乗り越えたあなたなら、きっとこの先もやっていけるはずです。退院おめでとうございます」

「ありがとうございます。何から何まで……。先生がいなければ、私はどうなっていたことか……」


「構いませんよ。この人助けは、個人的な興味も混じっていましたから」

「興味……ですか?」


「はい、知りませんか? エノキさんはずっと街で噂になっていたんですよ。何十年経っても姿が変わらない不老不死の少女がいるって」

「う、噂になってたんですか……」


 また少女か……とエノキは思った。


「ええ、ですからそんな少女のことが個人的に気になっていたんですよ。小さい頃から。ですが、見かける機会こそあっても、話す機会には恵まれませんでした。周りの人はエノキさんを恐れていましたし、私も会って話したいことがあるわけでもなく……。なので、エノキさんに興味を持ちつつも、心の中にその想いは閉じ込めて、ひっそり生活をしていました」

「……それで、私のほうから診療所に来たと?」


「そうです。三年前のあの日、エノキさんが私の診療所を訪れてきました。初めて会ったときは何事かと思って混乱しましたよ」

「ごめんなさい……」


「いえいえ……。で、あとはご存知の通りですね。なので、エノキさんを助けたのはそんな興味からきています。気にする必要はございません」

「そうですか……。失礼ですが、変わり者なんですね」

「ふふっ。それはお互い様ですよ」

「ですね……」


 二人は、互いに顔を見つめて、笑い合った。街の住人とは違うこの世界での変わり者。唯一分かり合える者同士として、二人は楽しく会話を弾ませた。

 だが、それも終わりの時が近付いてきた。二人は、話したいことを話したいだけ話すと、あっという間に外に出ることになった。エノキは、パジャマ姿で診療所から外へと足を踏み出す。


「では、お別れですね」

「はい、ノラリや私を助けてくださり、誠にありがとうございました。このご恩は決して忘れません」


「はい、お元気で。……ところで、エノキさんはこれからどうされるのでしょうか? またあの家に戻るのでしょうか?」

「一度だけ準備をしに戻りますが、もうあの家に住み続ける予定はありません……」


 エノキは、しんみりとした表情でそう呟く。


「では、どこに……?」


 医者が訊ねると、


新しい場所(べつせかい)に行きます」


 そんな答えが返ってくる。


「別世界……?」


 答えの意味が分からず医者が聞き返すと、


「はい、この世界でやることをすべて済ましたら、色々な世界をふらふらと旅をしようと思っています。どうやら、私にはそういう力があるみたいで……」


 エノキが蒼い目を薄く発光させながら、そう返す。医者はその目を見て、エノキの中に異能があることを確信した。


「そうですか。では、今生の別れになりますね……」


 医者も、寂しそうに呟いた。それから二人は握手を交わす。


「では、お気を付けて。さようなら」

「はい、先生もお元気で……。さようなら」


 二人は、最後に笑ってそう言った。

 エノキは、そのまま振り返って、医者に背を向けながら奥へ奥へと進んでいく。やがて、エノキの姿は見えなくなった。


     *     *     *


 とある病室に、少女と後期高齢者がいた。


「──それで、シセンさんにも挨拶を済ませて、家の中にかけてあるノラリさんの選んだいつものあの服を着て、別世界を巡る旅を始めたんだよね。それで、最初にやって来たのがこの世界だったと……」

「よく覚えてるね。その話をしたのって、たしか君が5歳のときだったはずなんだけど……」


「だから、70年前だね……。私、記憶力とかそういうのには自信があるからさ」

「だとしても相当だよ……。さすがクラリだ」


「ふふっ……。急にどうしたのー? エノキちゃんが褒めるなんて珍しい」

「……まあね」


「さて、与太話(よたばなし)はこれくらいにしておいて……。もう何となく勘付いてるよね。私が近いうちに死ぬこと」

「……うん、分かってる。その様子だと、一週間も持てばいいほうだと思う」


「だね。私も、一週間は無理そうかなって思ってたところ。人間病気には勝てないよねー……」

「それで、何が言いたいの……?」


「……今すぐこの世界を出ていってほしいんだ」

「な……何で……? 突然どうしたの……?!」


「このままだと、エノキちゃんも一緒に死んでしまうからだよ。エノキちゃんの過去話を聞いて思った。あなたは、精神のダメージがそのまま身体のダメージに直結する精神生命体なんだよ。最初に森の中を迷い込んだとき、三日三晩歩き続けて倒れたって言ってたよね。でも、それは体が疲れたからではない。初めて経験した夜や、ジャイアントボアーの魔力を帯びた一撃を喰らうことによって、じわじわと精神が削られていったからだよ。実際、あの医者は見抜いている様子だったし」

「で、でも……」


「でもじゃない! エノキちゃんは優しいから、そうやってすぐに抱え込もうとする。だから、壊れる。そんな分かりきったことを無視できるほど、私は自分勝手じゃない。私が死ぬ前に、この世界を去って本当の旅を始めてほしい……」

「…………分かった。でも嫌だ……!」


「は……?」

「クラリを見届けることができないなんて、そんなの嫌だよ……! せめて最後くらい、一緒にいたいよ……」


「……そっか。私がエノキちゃんを想うように、エノキちゃんも私を想うんだね。べつに、それでもいいけどね……。私はもう言葉でしかエノキちゃんを止められないわけだし、それを無視されたら、もう私には何もできない」

「なら……!」


「でもね、ノラリさんのときとは状況が違うんだよ。もし私を見届けたとしても、そのあと壊れたエノキちゃんを助けてくれる人なんていない。そのまま消えていくだけ……。自分のせいで大切な人が死んでしまうのが、どれだけ辛いことなのか分かってないの?! ちょっとは私の気持ちも考えてよ!」

「あっ…………。ごめん……なさい……。そこまで考えが行き届いてなかった……」


「……いいよ。分かってくれたのなら。私だって最後に喧嘩なんてしたくないからね。仲直りしよ?」

「うん……。ごめんなさい……」


「はい、私もごめんなさい。……これで仲直りだね。暗い話はこれくらいにしようか」

「そうだね……。クラリとは笑顔でお別れしたいから……。それじゃあ……行くね……。あ……ありが……とう……。ううっ……」


「言ったそばから泣いてる……。そんなに心配しなくても、私はエノキちゃんの心の中にずっといるよ。エノキちゃんが私のことを忘れない限り、ずっと生きてるから。だから落ち込まないで」

「…………すっかり、大人になったね。私よりあとに生まれたはずなのに、私のほうが子供みたい……」


「エノキちゃんと違って、人は短命だからね。日々移り変わっていく景色を通して、豊かな心を形成していくんだ。エノキちゃんも、これから旅をすれば成長していけるはずだよ」


「だといいけど……。それじゃあ、行けなくなる前にこの世界を去ろうと思う。今まで、本当にありがとう」

「うん、こちらこそ。ばいばい!」


 エノキは、笑顔で返して、病室を去った。

 そして心に決めた。もうこれ以上、大切な人を作らないと。失うくらいなら、出会いなんていらないと。ノラリとクラリさえいれば、もういいと。

 エノキは、目からハイライトが消えていく。覚悟を決めたからだ。これからが本当の始まり。終わりがあるかは分からない。けれど、途中でくたばってはいけない。でないと、ノラリやクラリが本当に死んでしまうから。エノキは、二人の命を心に宿して、目を蒼く光らせて、旅を始めた。

 多次元干渉少女(エノキ)の自由気ままなのらりくらりライフが、幕を開いた。

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