3話「エノキの過去 その2」
* * *
「…………んぅ?」
少女は、目を覚ました。
まぶたを開けると、数メートル先に大きな縦長の板が、一面に張られているのが分かった。
(……?)
少女は、天井を見たことがなかった。
なので、目の前に広がる景色が何なのか、正体がよく分からない。
服は、いつの間にか無地の布一枚からモコモコのパジャマに着せ替えられていた。袖が余っていて、腕を上げると折れ曲がる。
頭の下には枕が敷かれていて、羽毛の掛け布団が優しく体を包んでいた。
意識を失う直前まで森の中にいたのに、目を覚ましたと思えば、今度は見知らぬ天井(正確には、天井を見知らぬ)が広がっている。
少女は、訳も分からず固まっていた。
すると、
「あ、起きた?」
少女の耳に、人間の声が入ってきた。女の人の声だった。
少女が声のほうへ目を向けると、暖かそうな灰色のセーターに、ジーンズを履いたアホ毛が目立つ黒髪ロングボブの女が、ベッドの近くの椅子に座って、本を読んでいた。
女は、本を机に置いて少女へと近付く。
少女は、呆然としながら女性が近付いて来るのを眺めていた。
しかし、脳裏にある記憶が過った。それは、街で目覚めたときの記憶。有象無象に陰口を叩かれ、兵士に囲まれて、無我夢中で逃げたあのトラウマだった。
「ひっ……!」
少女は、恐怖に体が蝕まれて、布団を勢いよく剥がして壁際まで後退して、震えながら女性を見つめる。
睨む暇すらなかった。こんな面積の限られた室内で、逃げ切るなんてとてもできないと考えたからだ。
少女の異様な怯えに、
「あっ……ごめん。怖かったよね……」
女は少し驚いて、近付くのをやめる。
少女の目の前で冷や汗を浮かべながら、
「大丈夫だよ〜……私は安全なノラリお姉さんだよ〜……」
にっこり笑顔で相手に安心感を与えようとした。
だが、
「ひあぅ……」
少女は依然として震え続けたまま、蒼い眼を発光させながら涙目で女性、もといノラリ・ユキノシタのことを一点に見つめている。
「……あー。これ、言葉が通じてないかも……困ったな……」
ノラリは、少女に言語を操る能力がないことを悟った。
その上で、どうすれば少女に自身が害がないことを伝えられるだろうかと、模索する。
(うーん……。理由は分からないけど、人にすごく怯えている……。でも、落ち着いてもらうにしても、近付かなければ何もできないし……)
ノラリは一か八か、もうやってしまえ! と強行策に出ることにした。
ノラリは、手を差し伸べた。少女に向けて。
少女は、それを見てノラリの顔と手のひらに交互に視線を向ける。
そしてノラリは、そのまま近付いていった。
「……っ!」
少女は恐怖を感じて、もうこれ以上下がれないというのに、足を動かして後退しようとする。
そんな、逃げることのできない少女の下まで近付いて、少女の小さな手を優しく両手で包んだ。
「…………?」
少女は、動揺した。
ただし、恐怖とはまた違った、新しい感情。
少女は怯えながらも感じた。ノラリの手の温もりを。自身の手よりも少し大きい大人の手のひらに包まれて、これまで抱いたことのない安心感を抱いた。
そして理解した。目の前にいるこの人は、決して危ない人ではないのだと。自分を想ってくれている優しい人なのだと。
少女は、少しずつ体の震えが止まっていくのを感じた。焦点の定まらない目が、ノラリの優しい微笑みへと向けられる。
「うん。もう大丈夫だよ……」
そのまま、ノラリは少女の体を、そっと抱きしめた。
少女はそれを受け入れた。自分の身をノラリに預けて、呼応するように手をノラリの背中に回して抱き返す。
少女は震えが完全になくなり、恐怖の代わりに心地良さを感じるようになった。
あとはゆったりと……体の力を脱力させて……。
「zzz……」
「って寝てるー……!」
ノラリは、少女がぐっすりと眠ってしまったことに気が付いた。
「自由気ままな子だねー……」
少女は、この世のすべての呪縛から解き離れたかのようなかわいい寝顔で、すやすやと眠っている。
ノラリは、動いて起こすのも悪かったので、抱き合った姿勢のまま、少女が起きてくるのを待ち続けた。
「…………ん」
少女は、再び目を覚ました。
顔を起こすと、目の前には少女を抱きながら寝ているノラリの姿があった。
少女は一瞬戸惑ったが、どのような経緯でこうなったのかをすぐに思い出して、取り乱すのをやめた。
先に寝出したのは自分なので、どうしようかと悩んでいると、
「……あ、起きたんだ。ごめん、私も起きるね……」
ノラリも目を覚まし始めた。
少女から手を離して、伸びをする。
それから、ベッドから降りて、椅子に座って、
「ここにおいで」
机をトントンと叩いて、対面にある椅子に向かって指を指した。
少女は言葉を分かっていなかったが、ノラリのジェスチャーの意図を何となく理解して、恐る恐る椅子に座る。
「それじゃあ、改めて自己紹介をしよっか。私の名前はノラリ、23歳。よろしくね!」
「……?」
ノラリの自己紹介に、少女はクエスチョンで返した。
何を言っているのか理解できていない少女に、
「ノラリだよ。のーらーり! ほら、言ってみて!」
ノラリは何度も何度も自分の名前を復唱させようとする。
そのうち少女が、
「のーあい……?」
拙くもノラリの名前を口にしたので、
「惜しい! それじゃあノーアイドントだよ! ノラリだよ、ノ、ラ、リ!」
ノラリは期待の表情を浮かべて、何度も自分の名前を言って、見守る。
少女は苦戦しながらも、
「のっ……。ノラ……リ?」
何とか、ノラリの名前を発音することができるようになった。
ノラリは、自分を指差しながら、
「そう、私はノラリ! よくできました〜」
椅子から立ち上がって、少女の頭を撫でた。
少女は褒められたことが嬉しくて、撫でられながら俯いて、笑みを浮かべた。
少しして、撫で終わったノラリは、
「よし、何とか伝わった……。じゃあ、次はあなたの番。私はノラリ、あなたは?」
『私はノラリ』で自分に指を差して、自分がノラリという名前であることをアピールし、『あなたは?』のタイミングで、少女に指を差す。
少女は、自分が何と呼ばれているのかを聞かれているのだろうと、ジェスチャーの意図を完璧に理解した。
しかし、少女に名前はなかった。どう答えればいいのか分からなかったので、少女は、
「……っ」
悲しそうな顔で首を必死で横に振る。
「そっか。やっぱりあなたには名前がないんだね……。──なら、せっかくだし今決めちゃおうか!」
「……?」
ノラリは、少女の名前を考えることにした。
「ちょっと待っててね! 今からあなたの名前を考えるから。……こんなにかわいいんだし、それに見合ったかわいい名前がいいよね。よし、頑張っちゃうぞ……! 白髪の肩ラインボブに、大人しいけど好奇心旺盛な性格。世界を知らない故の純粋さが瞳に表れていて、動作一つ一つがかわいい……」
少女の特徴に触れていき、頭の中でマインドマップを作って、情報をつなげていく。
『自然』『純粋』『かわいい』『好奇心旺盛』『オッドアイ』『白髪』『妹属性』『かわいい』
そうして情報を組み合わせて、適した名前を連想させていく。
「……決めたよ」
ノラリはジェスチャーを開始する。
「私はノラリで……」
そう言って自分に指を差してから、
「あなたはエノキ! 今日からエノキちゃんだよ!」
少女、もといエノキに指を差す。
エノキと呼ばれた少女は、一連の流れで自分に名前がつけられたことを理解した。
エノキは、
「え……の……き?」
「そう、エノキ。どうかな?」
「えのき……エノキ!」
何度も発音して、笑みを浮かべる。
名前を相当気に入ったみたいだ。エノキは体を揺らして、抱えきれないほどの喜びを漏らしている。
純粋さ故の素直な舞い上がるような反応。見た目はむしろ知的で冷徹なイメージがあるので、かなりのギャップがあった。
ノラリも、そんな雰囲気にそぐわない子供らしい様子を見て、
「気に入っていただけて何よりだよ。それにしても、本当にかわいいな……。これから少しずつ言葉を覚えさせていこう」
満足気な表情を浮かべて、語学の学習をさせることを決めた。
こうして、エノキとノラリの生活は幕を開いた。
「そういえば、数日間意識がなかったのに、お腹は減っていなさそうだし、トイレもしてなかったよね? 平気なの?」
「?」
椅子にお互い座りながら、言葉が通じないにも関わらず、ノラリはエノキに話しかける。
当然、何も伝わっていないので、お腹を押さえてジェスチャーを取るが、それでもエノキはその意図を理解してくれなかった。
「ただの人間じゃないってことなのかな……? 信じがたい話だけど、頭がいいこの子がこの程度のジェスチャーを理解できないはずがない。普通はお腹が空くし、排泄欲があるはずだよね……。この子を抱えたときもやけに軽かったし、中身が空っぽなのかな……」
ノラリは、エノキの正体が気になっていた。
森で倒れていたエノキを見つけたときは、なぜこんなところに女の子が一人で歩いているのかと気になっていたものだが、いざ目を覚ましたかと思えば、さらに言葉も話せないときた。
しかも、人間のノラリに怯えていたわりには、優しいことを知るとすぐに人に懐柔したし、過去に何か深い事情を抱えている素振りもなかった。
ノラリにとって、エノキは謎の塊だった。
「まあ、考えても仕方ないか。言葉を覚えて話せるようになってから聞こっと」
ノラリは思考を放棄して、昼ご飯でも作ることにした。ノラリは厨房に立って、料理を始める。
「……」
エノキは、ノラリがフライパンを持って何かをしていることに疑問と好奇心を覚えて、そろりと近くから覗き込んだ。
ノラリは、目の前の料理に集中しながら、
「危ないからあんまり近付かないでねー……」
そう言葉をかけられる。
エノキは、初めて見るその行動に興味を示しつつも、何となく危ないことが分かっていたので、ノラリの言葉通りに、少し離れてずっと眺め続ける。
やがて料理が完成して、ノラリが机にその料理を運ぶ。
エノキは、ノラリの後ろをとことこ着いていき、椅子に座った。
「食べよっか!」
ノラリは、エノキにスプーンとフォークを渡した。
「……?」
先ほどから何が何だかよく分かっていないエノキに、
「えっとね……」
持ち方や使い方を説明する。
今回食卓に並べられているのは、野菜炒めにえのきの肉巻き、カルボナーラとかぼちゃのスープだ。
それらを、フォークで刺してこうやって食べるんだよと、手本になって丁寧にエノキに食べ方を教えていく。
エノキはノラリの真似をして、手を震わせながらぎこちない動きで野菜炒めを口の中に運ぶ。
初めて食事を行った感想は……、
「……!」
美味しかったようだ。
大きく目を見開いて、ノラリに味が良かったことを必死に訴える。
そんな、目をキラキラと輝かせるエノキを見て、
「ははっ、美味しいんだね。たんとお食べ」
ノラリもまた、嬉しそうにエノキの食事の様子を眺めている。
食事の楽しさを覚えたエノキは、一口、また一口と料理を平らげていく。
その勢いは凄まじく、大食いの大会に紛れ込ませても優勝しそうなほどであった。
気が付けば、残るはえのきの肉巻きとかぼちゃのスープのみとなっていた。
「そういえばエノキちゃん。その料理の名前はえのきの肉巻きって言うんだよ」
「にく……まき……?」
「そう肉巻き。あなたの名前はエノキでしょ?」
そう言ってエノキに指を差す。エノキはジェスチャーを理解して、縦に首を振った。それから、
「それで、今見えるこの白いキノコもえのきなんだよ。エノキとえのき。お揃いだね!」
今度は、そう言いながらキノコのほうのえのきを指し、エノキとえのきに交互に指を指して、どちらもエノキであることをアピールする。
エノキは、何度も何度も指を指されているうちに、どちらも同じエノキであることを理解した。
そして、
「ひぃっ……!」
怯えながら、突然食器を放って、壁際まで後退してしまう。
「え……? どうしたの……?」
脈絡のないその行動に、ノラリは驚いた。
ノラリが近付こうとすると、エノキはまた怯え始めて、ノラリをひどく恐れる。
(まさか……)
ノラリは、机の上にあったフォークで、えのきの肉巻きを刺した。
すると、
「ひやぁっ……!」
飛び上がって震え始めた。
「やっぱり……。自分が食べられると勘違いしてる……」
そう、エノキは次は自分自身が調理されるのではないかと勘違いをしてしまったのだ。
エノキとえのきは似ている=調理される。普通に考えればされるわけがないのだが、エノキは違った。
生まれて数日で何も知らなくて、ましてやこれまで料理なんて食べたことがなかった。なので、変な勘違いをしてしまうのも無理もない。
とにかく、ノラリは誤解されていることを理解したので、えのきの肉巻きが乗った皿を持って、怯えるエノキに近付いた。
「……っ!」
「あー……これはね、えのきっていうただの料理だよ。ほら、エノキちゃんの髪、このえのきのかさの部分に似てるでしょ? ほら、」
エノキのさらさらな髪を触って、ただ見た目が似ていることを伝えたかっただけなんだよと教える。
エノキは、自分の髪と肉に巻かれたえのきを比較しながら、その意図を汲もうとする。
「……!」
「そう、似てるだけ! エノキちゃんを食べたいわけじゃないからね!」
「……ん。じぶん、たべられない……。ノラリはあんぜんなおねえさん……」
「うんうん!」
ほっ……。
ノラリは、安堵してほっと息をついた。どうやら分かってくれたみたいだ。再び怯えられてしまったので、一時はどうなるかと思ったのだが、結果的に無事に終わって良かった。ノラリは心の底からそう思った。
ようやく誤解が解けたので、ノラリは食事を再開しようとしたのだが……。
「……って、あれ? 喋ってない?」
エノキが言葉を話していることに、ノラリは今さら気が付いた。ノラリの驚く表情に、エノキは笑みを浮かべて、
「しゃべってるよ。ことば、ちょっとおぼえた。ノラリのおかげ」
平然とそう言った。
「えぇぇええぇぇえ……?」
あ、確実にこの子、普通じゃない。
ノラリの疑問は、この時をもって確信へと変わった。
食後のことだった。ノラリは、エノキに家や周辺のこと。また、エノキを拾ったときの状況について詳しく説明した。
家については、部屋や洗面所などの案内が行われた。部屋は、個室を持てるほど余っていないので、ノラリとエノキは同じ部屋で寝ることになる。
それから、ノラリはエノキにこの家の周辺が森であることや、エノキが森の中で倒れていたところを偶然発見したことを簡単に説明した。
エノキは目を覚ますまでの経緯を知って、改めてノラリに感謝を伝えた。
「いいよいいよ! べつに人が一人増えても負担にはならないしさ。それより一ついい? エノキちゃん」
「……なに、ノラリ」
「名前に不満はない? 大丈夫?」
「うん、こまってない。エノキ・ユキノシタ、とってもかわいいからすき……」
ノラリが決めた名前について、
パジャマの余った袖で口元を隠しながら、照れてそう言った。
「それは良かった。でも、私フルネーム言ったっけ?」
「ん、いってない」
「じゃあ、何で分かったの?」
「たまにね、めがあおくひかるの。そしたら、ノラリのなまえがノラリ・ユキノシタってことがわかったの」
「何かすごい力が眠ってるってことなのかな?」
「わからない。わたしにはなにもわからない……」
「そっか。これからは分からないことをどんどん知っていこうね」
「うん、がんばる」
本人も知らない謎の正体を、二人は生活を通して解明していくことを決めた。
そんな話を続けていたときだった。
「あ、そろそろ夜になるかも」
時計を見て、日が暮れて夜が近付いてきたことに、ノラリが気が付いた。
立ち上がりながら、窓のほうへと向かう。
「よる? なにそれ」
「空が真っ暗になることだよ。名前は知らなくても遭遇したことはあると思うよ、ほら」
そう言って、ノラリは締め切っていたカーテンを開ける。
すると、窓の外は真っ暗だった。森の中なのでそもそも陽が木に遮られるというのもあるのだが、それでも太陽がすでに沈みかけているので、かなり暗かった。
「ひぁぅ……」
エノキは、相変わらず夜が怖かった。外の景色を見た瞬間、表情が真っ青になって、萎縮し始める。
夜がくる度に、暗闇と睨み合って存在しない敵に怯えて神経をすり減らしていたので、エノキにとって夜は一つのトラウマになっていた。
ノラリは、その夜に怯える様子に気が付いて、すぐにカーテンを閉める。
「ごめん、夜が怖かったんだね……」
「……だいきらい」
ノラリは再び椅子に座って、話を始めた。
「何か、夜にトラウマでもあるの? もちろん、答えたくないなら答えなくていいんだけど……」
ノラリが訊ねると、
「いや、ないよ。ないけど、こわい……」
エノキは、恐怖に理由がないことを口にした。
「そうだったんだね……。でもまあ、分かるよ。私も何も知らない状態で夜の森の中に一人でいたら、恐怖で精神が壊れると思う。むしろ、それを乗り越えられるエノキちゃんは立派だよ。自信を持って!」
「うれしくない……」
「だ、だよね……。えっと……これからは、私がずっと側にいるからさ、少しは安心して……くれるかな……?」
「ずっと……?」
「うん、ずっと。エノキちゃんの前からいなくなったりしない」
「やくそくだよ……。なら、あんしん……」
「ほっ……」
何とか、ノラリはエノキを落ち着かせることができた。克服したとまではいかないが、これからは、ノラリがエノキの心の支えになることで、夜を乗り越えられるようになるだろう。
こうして、エノキの数日間にわたる忙しい流浪の旅は、一時的に終わりを迎えるのであった。
補足:ノラリがフルネームを言っていないのにエノキがフルネームを理解していたのは、エノキ自身の能力が関係しています。エノキは多次元に干渉する能力を用いて、無自覚ながらこの小説の地の文に干渉していました。