1話「弱肉強食の世界」
ジリジリと暑い太陽が輝く季節。
灼熱に見舞われるコンクリートジャングルの住宅地の中を、一人の女の子が歩いていた。
名は雪ノ下エノキ。白髪の肩ラインボブで、髪の色に合わせた白いミニベレー帽を被っている。
赤と青のオッドアイの瞳の中にハイライトはなく、表情はいつも無機質な仏頂面。
服は、白いリボンが対照的になっている黒の半袖セーラーで、同じく黒い膝上丈のスカートを履いている。
十字の柄が入った黒のスクールソックスが膝の辺りまで履き揃えられていて、細い足の肌が少しだけ露出している。
右肩から左腰にかけては厚い紐がかけられていて、紐の先には小さな白色のバッグが装着されていた。
エノキは、住宅街が立ち並ぶ下り坂道で、木漏れ日に照らされながら考える。
「どっちの道に行こう……」
エノキの目前には、二つの分かれ道があった。
右の道には人が大勢いて、小さな子供を連れた母親や、性別に限らず中年の人をたくさん見かけた。
賑やかで、年齢層などを鑑みるに、ちょっとした祭りでも開かれているのだろうか。
一方で左の道は閑散としていて、シャッター通りが続いている。
一応、どちらも商店街なのだが、目に見えて景色が違っていた。
エノキは、この二つのうちどちらの道に行くのが正解なのかを考えていた。
「目的地はどっちかにあるって聞いたんだけど、忘れちゃった……」
というのも、エノキはある目的地にたどり着くために、通行人に道を聞きながらここまで来ていた。
目的地はこの左右のどちらかの道の先にあるのだが、エノキは聞いた内容を忘れてしまったので、こうして立ち尽くしてしまっていた。
数分程度悩み続けるが、悩む時間が無駄だと判断したエノキは、
「私は人の多いところが好きではないから、あえて右の道を行こう」
わざわざ、行きたくない方向へと進むことにした。エノキは右の道へと足を歩める。
坂を下ってしばらく歩いていると、その賑やかさの正体が分かった。
「バザーか……」
そこでは、バザーが開かれていた。玩具や家具などの中古品や、服やアクセサリーなどの誰かの不用品が、シートや机の上に置かれている。
バザーは中古品というだけあって、安く物を仕入れられるので、主に主婦に人気なのだろう。
子供は、手当たり次第に商品に触っては、母親に注意されていた。
(これなら通り過ぎるだけでいいし、我慢できるかな……)
エノキは胸に手を当てて安堵しながら、横を通り過ぎようとする。
すると、バザーの入り口に大きな看板が立てられているのが見えた。
目に入ったので、エノキがそれを読む。
「いじめられっ子バザー……?」
看板には、カラフルな字でそう書かれていた。文字の周りには、園児が書いた、人が人の髪を掴む胸糞悪い絵が添えられている。
初めは素通りしようと考えたが、この看板の意図が読めなかったので、立ち止まって辺りを見渡す。
だが、一見変わった様子はとくになく、普通のバザーの光景が広がるだけだった。
母親が少し傷の入った玩具を店の主に持っていってお金を支払ったり、中年の男が子供のためなのか、男児用の服を懸命に選んでいたり。
よく分からなかったが、分からないままうやむやにするのもどうかと思い、エノキは近くの中年の女に訊ねる。
「あの、おばさん。バザーについて聞きたいことがあるんですけど……」
「お、おばさん……。なかなか失礼な子ね……。まあいいわ、それで?」
おばさんと言われたことに一瞬ショックで顔を歪めていたが、それよりも質問を優先してくれた。
エノキは答える。
「すみません。それで、このバザーについてなのですが、いじめられっ子バザーと書かれていますよね? でも、いじめられっ子という言葉が関係してきそうな要素が見当たらないので、意図が分からないんです。なぜ、いじめられっ子バザーという名前なんですか?」
それを聞いた女は、「ああっ、知らないのね」と質問の意図を汲み取って、微笑みながら教えてくれた。
「ここにあるものはね、全部いじめられっ子の物なのよ」
「……と言いますと?」
「文字通りよ。いじめられた子供達の私物がすべてここに並んでいるの。自ら差し出したものだったり、回収されたものだったりね。それを私達が、慈しみの心を持って買ってあげてるのよ」
要は、いじめを受けた人間の私物が出回っているということだ。
しかし、世界を渡り歩くエノキにとっては、なぜそうするのか分からなかった。
世界によって常識は違う。だからこそ、相手の機嫌を損ねないように、下手に出て女にそれとなくなぜそうするのかを聞いた。
返ってきた答えは、
「……ん? それが普通だからよ? もしかして相当田舎からやって来た子なのかしら。なら、トラブルが起きないように教えてあげるわね」
そんなものだった。どうやら、ここではいじめられっ子の私物が出回るのは普通のようだ。女は続ける。
「ここでは弱肉強食が普通なの。強き者が弱き者を喰らう。弱者はそれに従うしかない。だから、弱者は自分の持つ私物をすべて差し出して、強者の子分となって、その子の言うことを聞くことになっている。分かった?」
「え、ええ……。よく理解しました。わざわざ教えてくれてありがとうございます」
エノキは、そう言って一刻も早くその場をあとにした。バザーのエリアを抜けて、道の先へと向かう。
歩きながら、エノキはため息をつく。
「はあ……物騒な世界だ。賑やかどころじゃないじゃん……」
世界はそれなりに発展していて、人々の様子も気さくで普通。
それがエノキが抱いた第一印象だったが、話を聞いているうちに不穏な部分が露出してきて、気分は一気に穏やかでなくなってしまう。
「まあいっか……。私は目的地を目指せばいいだけだし」
肩と気分を落としながら、猫背気味になりながら歩いていると、
「って、行き止まり……」
目の前は行き止まり。つまり壁だった。家の塀がそこにあって、そこから戸建ての二階が見える。
「ついてないな……私……」
エノキは、結局来た道を引き返すことになってしまった。
「私の経験則だと、自分のこうあってほしい願望とは違うことが起こるのが常なんだけどな……。初めから左の道に進めば良かったよ」
左の道を進んで、住宅地を抜けた先でエノキはそう呟く。
住宅地の先には、店や会社が横に立ち並んでいる片側二車線の道路があって、車やトラックが行き交っている。
道路の脇には歩道があり、そこをエノキは歩いていた。
「それにしても、本当に弱肉強食の世界だったとして、何でこんなに治安がいいんだろう……」
辺りを見渡しても、治安が悪そうな雰囲気は無かった。
サラリーマンが時計を見ながら急いでいたり、中学生の女子が数人で談笑を楽しみながら列になって歩いていたり、おつかいの帰りなのか、子供が一人で歩いてさえいる。
強者が弱者を喰らうのが普通で、人々の意識にそれが埋め込まれているのであれば、こんな光景はありえない。
エノキはそれを疑問に思ったが、考えたところで答えが出てこなかったので、諦める。
それから、しばらく歩いた。横断歩道や歩道橋を渡って、着々と目的地に近付いていく。
やがて、それが見えてきた。
「さて、ここが学校だね」
目的地とは、学校だった。
門はレンガでできていて、そこから網状のフェンスが伸びて、学校全体を覆っている。
門は今は開いていて、敷地内から生徒の声が時々聞こえてきた。
エノキは、躊躇いもなく敷地内に侵入していく。
(ここは夏休みがある世界なんだね……。すると、今学校にいる生徒は大抵が部活中ってところか)
門の入り口から普通教室がいくつか見えるが、そのどこにも人はおらず、声は聞こえてこない。
その代わりに、近くにある運動場からはかけ声や応援の声が絶えず聞こえてくる。
エノキの推測通り、今は夏休み期間で、生徒の大半は家の中で長期の休暇を楽しんでいる最中だった。
「うーん……。暇だから授業でも受けてみようと思ったんだけどなー。でも何もせずに帰るのも嫌だし……」
首を傾げて、エノキはうーん……と何をしようか悩み続ける。
当初の目的は授業を受けて暇を潰すことだったので、その予定が丸潰れでやることに困ってしまう。
そうして立ち尽くしていると、
「おーい君! 大丈夫かい?」
近くを偶然歩いていた男が声をかけてきた。
「ん?」
身なりの整えられたスーツを着ていて、髪は七三分けで丸メガネをつけている。
良くも悪くも、真面目で勤勉な教師であることが見た目から分かった。
その教師は近付いてきて、
「何かあった?」
そう聞いてくる。大方、訳もなく生徒が何もせずに一人で立ち尽くしていたら、それは声をかけてくるというものだ。
エノキは、下手に怪しまれないように答える。
「いえ、何もありません」
「じゃあ、何で何もしないで突っ立ってたの?」
「部活に行こうと思ったのですが、遅れて怒られるのが嫌で、心の準備をしてました」
その答えを聞いて男は、
「あははっ! そりゃあ億劫になるよね。そっかそっか……。あははは」
陽気に笑い始めた。
エノキがこの学校の生徒でないことを少しも疑いもしない。
そのうち笑いが止んで、
「で、どこの部活? 一緒についていってあげるよ」
その場所へと案内してくれることになった。
ここにきて答えられないと色々まずいので、エノキは、
「ありがとうございます。美術部です」
適当に答えた。
ちなみに美術部にした理由は、自身がミニベレー帽を被っているからという雑な理由なのだが、それをこの男が知ることはない。
美術部の場所も知らないエノキだったが、先生が把握していたので、ついでに案内をしてくれた。
美術室の中には一人の女の教師と五名の生徒がいて、そこに男が入っていき、女の教師に事情を説明し始めた。
説明を終えた男が、
「ほら、おいで!」
気さくにそう言うので、エノキは部屋の中へと入った。
エノキの光る紅い眼を見た女の教師は、
「……あら、雪ノ下さん。遅かったじゃない。おはよう」
エノキの苗字を呼んで、挨拶をした。
「おはようございます。遅れてごめんなさい……」
「雪ノ下さんはいつも真面目だからね。今回だけは許してあげる。さあ座って準備をしなさい」
「用意もすべて忘れました……」
「……」
そんなこんなで絵を描くのに必要な道具を貸してもらい、絵を描くことになった。
今回描くのは果物だ。カゴの中に入ったりんごやバナナなどを見ながら、鉛筆で模写をしていく。
(むう……何回かやったことはあるけど、やっぱり難しいな……)
周りの生徒がすらすらと線を引いていくなか、エノキだけはぎこちない動きで、線を紡いでいた。
(でも、ここ数百年くらいたまに絵を描いてきたんだ。簡単に負けてたまるか……)
エノキは、気合を入れてすらすらと描き始める。
周りの生徒達もその様子に驚き、負けじと気合を入れ直して描いていく。この瞬間だけは共鳴していた。
「できたー」
エノキが一番乗りだった。
生徒達は悔しそうにしながらも、讃えるかのように、そして負けを認めるかのように一旦描くのをやめて、エノキの絵を覗きにいく。
「こ、これは……」
生徒達は絵を見て思った。
(((((下手すぎる……)))))
味があるとも言えない不恰好な線。がったがたのりんごに薄汚れたバナナなど、どれだけ擁護しても斬新とは言い難い不恰好な絵だった。
女の教師も追々エノキの絵を鑑賞しにくるが、
「あ……ああ。いいと……思うわよ?」
明らかに反応に困っていた。
エノキは変な勘違いを起こすほど鈍感ではないので、周りの反応を見て、
(あー……下手なんだー……)
自身の絵の不出来さを呪った。
エノキは、物事の出来不出来に時間の長さは関係ないことを知るのであった。
(才能なんてクソ喰らえだ……!)
この後数時間、今度は絵の具を使って絵を描くことになり、エノキは自身の実力の無さと向き合い続けることになってしまった。
「はい、今日はここまで。次集まるのは来週だから、忘れ物をせずに来ましょうね。では解散!」
やがて、苦難の部活の時間が終わり、解散になった。
エノキは、借りた道具を洗っていく。
(もうしばらくは絵を描かないようにしよう。疲れた……)
元々は、怪しまれないようにその場で適当に答えて入った部活なので、合わないこともある。
エノキには、絵を描くという行為が根本的に向いていないようだ。
しばらく絵を描かないことを誓い、丁寧にパレットについた絵の具を落としていく。
そこに、先ほど絵を描いていた生徒のうち女子二名が、エノキの下までやって来た。
「ねえ雪ノ下さん」
「……む?」
エノキを取り囲むように、横から顔を出して話しかける。
「さっきの絵だけどさー。ちょっと下手すぎない? 弱者を決めるにしても、何か緊張感が無くて面白くなかったんだよねー」
「……それはどういう」
そんかエノキの言葉を遮って、一人の女子がエノキの胸ぐらを掴んだ。
「わっ……!」
その勢いでパレットも筆もシンクに落としてしまう。水は蛇口から垂れ流したまま、女子は続けた。
「分かるでしょ? ここは弱肉強食の世界。敗北者にはいじめられる義務がある。逆に私達勝者にはいじめる権利がある。絵の実力で負けたあんたを、私達はいじめにきたの」
(ああ、そういうことか……)
この世界の実態を、エノキはようやく理解してきた。
法律なのか、教育により植え付けられた選民意識なのか、単に自分達がそうしてきただけなのかは知らないが、ここでは勝者が敗者を自由にできるというルールが存在している。
つまり、どんな場所であろうが、どんな物事であろうが、人々の中で戦いが始まったと共通した認識が生まれた時点で、いじめという劇の役を決める必要が出てくるのだ。
エノキは知らなかったが、今回の部活でも、絵の出来具合によって敗者を決めるという共通認識が生徒の間にあったらしい。
そこで、その場にいる誰よりも不出来な絵を描いたエノキは、敗者と認定され、こうして絡まれる事態となったのだ。
「これからは私達の奴隷ね? 分かったらさっさと返事しなさいよ!」
「ほらほら認めなさい! 弱者であることを自覚して自らが持つ物や権利をすべて差し出しなさい!」
女子は、エノキに敗者であることを認めさせようとする。
認めた時点で、一生奴隷としてこき使われる生活が待っているのだろう。
エノキは思った。
(そういえば、人間って何かのカテゴリーに当てはめたくなるんだったっけ……。自分が何者だとか、相手はこういう人間だとか。忘れてたよ……)
エノキは胸ぐらを掴まれて、足が少し浮いてしまっている。それでも、考え事をしながら黙り続けた。
女子はこれに激怒して、
「何か言いなさい! 言わないなら殴るわよ?」
「10ー、9ー、」
エノキを脅して、殴るまでのカウントダウンを始めた。
8、7とどんどんカウントは減っていく。だが、それでもエノキは黙り続けた。
次第にカウントは0になり、
「ちっ……面白くないわね! 泣いて縋っても許さないから!」
そう言って、胸ぐらを掴んでいる女子が、もう片方の空いた手で、エノキの顔面にめがけて拳を振るった。
(……)
拳はすぐに顔面を捉え、そして、
「なっ……!」
エノキの手によって受け止められた。
エノキは、それから自分の服を掴む手を力強く掴んで、
「痛っ! 痛い! やめて!」
そのままその女子を地面に叩きつけて馬乗りになる。
女子は仰向けのまま助けを懇願し、もう一人の女子は唖然として立ち尽くすしかなかった。
エノキは、
「一つ聞いてもいいかな?」
そう言って馬乗りになっている女子の指の骨を少しずつ折り曲げていく。
これ以上折り曲げたら指の骨が折れるというくらいまで指は折れ曲がり、女子は痛みで叫び始める。そんななかエノキは質問をする。
「次元に干渉するだけの余所者がその世界での常識に口を出す気はないけどさ、人を傷つけて楽しいの?」
「や……やめっ……!」
ボキッ……。
「ああああああああっ!!!!」
「何かのカテゴリーに勝手に人を当てはめるのも構わないけど、そのカテゴリーに当てはまった人に当てはまったからという理由で意地悪をするのも間違ってるよね?」
エノキは指の骨を一本折ったと思えば、今度は次々と指の骨を折っていく。それが終わる気配は無い。
「わ、分かっ……分かったから、ごめんなさい……! だからお願いっ……! 許して……!」
痛みに苦しみ悶える女子に、エノキは珍しく笑みを浮かべて、
「ん、その泣いてる顔すっごくかわいいね。もっと泣こ?」
そう言って、無慈悲にも腕の骨をもろとも折った。鈍く痛ましい音が部屋中に響く。その女子は、意識を失った。
「あれっ? 意識がなくなったら泣けないじゃん。もったいない……。まあいいか、これで絵も描けなくなるし、いじめもできなくなるだろうし」
エノキは、何事もなかったかのように立ち上がると、今度はもう一人の女子へと近づいて行く。
ただ傍観するしかなかった女子は頭を抱えながら泣き続けていて、恐怖で顔を歪ませていた。
そんな女子の下までやって来て、両の手首を縛るかのように片手で強く握って、馬乗りになりながら地面へ押さえつける。
空いたもう片方の手で握り拳を作りながら、
「じゅうー、きゅうー、はちー」
先ほど女子がしたように、カウントダウンを始めた。
もうすぐ自分もあの子のようになってしまう。
それを本格的な自覚した女子は、必死に抵抗して全身をジタバタと動かすが、
「ごー、よんー」
ぴくりとも動かなかった。
もう諦めるしか選択が残されていない女子は、
「なっ……! なんなのよあんた?! 人間じゃないでしょ?! 何の躊躇いもなく骨なんて折れないわよ普通! やめて! やめてよ! 私だけでも助けてよ!」
無様にも、必死に想いを叫び続ける。
「ぜろー……」
「ひっ……!」
カウントダウンが終わったエノキは、置き土産のように女子の質問に、必死の想いに答えた。
「あ、ごめん。殴る前に一つだけ言うけど、多分私人間じゃないよ。理由もなく人の骨を折れるなんて普通じゃないことだと思う。結局こうしたところで何も感じないし、何も満たされない。正直言って何の意味もないんだよね」
「なっ……! なら助け……」
「でもさ、理由があったら人をいじめられるあなた達人間のほうがよほどおかしいと思うよ? もしかしたら、このいじめも法律で許されているのかもしれないけどさ、許されていたらやるの? やらないよね? 普通は」
女子は、もう自分がまともな状態で帰られないことを理解して、
「あっ……ああっ……!」
何も言えずにただ震え出した。
エノキは最後に、
「だから私は私刑を下す。たしか、理由があったら許されるんだよね? 私はここでいう強者だから、いじめられないように、あなた達弱者をいじめることにするよ。じゃあね」
そう言って正義という名目で拳を振るい続けた。
* * *
「んー。これからどうしようかな……」
あのあと、絡んできた女子二名を二度と絵を描けない状態にしたエノキは、学校の中をうろうろしていた。
「授業は受けられなかったけど、美術室で生徒らしいことは一応できたし、もうやりたいことも残ってなさそうだなー……。でもこの世界に来たばかりだし、別世界に行くには早いし……」
何かやりたいことはないか。エノキはうろうろしながら考えていた。
あてのない旅ではあるが、だからこそ目的を持って動かないと損をした気になる。それがエノキの考え方だった。
校内を散歩しながら歩いていると、体育館裏に出た。
「……あれ?」
そこには四人の男子生徒がいた。
一人はうずくまっていて、残りの三人がその男子の頭や体を、踏んだり蹴ったりしている。
エノキは、壁の裏に隠れて様子を見ることにした。
いじめを行う三人が、
「おーい、お前のせいでチームが負けたんだけど、どう責任取ってくれんの?」
「キャプテン失格だよな? 決めたルールでは俺達全員があの学校の奴隷になることになってるけど、お前一人で責任取れよ?」
「ばーか!」
そう言いながら暴行を続ける。どうやら、部活の命運を賭けた勝負に敗北したことで、その全責任をキャプテンに押し付けているようだ。
「うっ、うう……」
一方でキャプテンであるいじめられっ子は、泣きながら、ただ言葉と暴力を受け入れていた。
「助ける……? いや、いいか。手を出す理由がないし」
エノキは、ぼそっと呟いて、いじめの光景をただ眺め続けた。
しばらくして、暴力を振り続けて疲れた三人は、
「じゃあな。向こうの奴等に言っとけよ? 僕が全部の責任取るから僕だけをいじめてくださいってな」
そう言って、笑いながらその場を去っていった。
取り残されたボロボロの男子の下に、
「大丈夫?」
エノキは話しかける。
「お、お前は……さっきから横で見てた……」
男子はエノキの存在に気付いていたようで、そのことを呟く。
「うん、見てたよ。それで大丈夫? 怪我してるみたいだけど、生活に支障は出なさそう?」
とくに躊躇いもなくそのことを認め、再び怪我の心配をする。
男子は、体を震わせて涙声になったかと思うと、
「何で……何もしないで見てたんだよ……!」
エノキが傍観していたことを責めるような発言をした。
「何もしないでってどういうこと? 何か悪いの?」
エノキが疑問をぶつけると。
「普通は助けを呼ぶとかするだろ! せめて何かしろよ……! 何もせず見てるだけなんて、無責任だ! 性悪女だ!」
男子は泣き叫び散らした。
そんな彼にエノキは、声色を変えることもせず、ただ指摘する。
「そう言われてもな……。君がいじめを受け入れているから黙って見てたんだよ?」
「へっ……?」
「ここは弱肉強食の世界なんでしょ? 強者が弱者を喰らう世界。つまり、あの三人が君をいじめるのは何も間違っていることではない。もし、君が弱者なりに少しでも彼等に抵抗していたのなら、話は別だったんだけどね。でも、君は惨めに言葉を受け入れて、暴力を振られたままだった。今のこの状況を自分の意思で変えようとしなかった。だから、助ける義理はない。当然でしょ?」
「お前……! ……っ!」
その男子は、声を荒げてエノキに近付いて暴力を振るおうとした。
だがやめた。エノキの奥底から、得体の知れない闇を見てしまった。そんな気がしたからだ。
「うん、正解。話し合いで不快な気持ちになったからって、暴力に走るなんて許されないことだからね。それで怪我は大丈夫なんだっけ?」
エノキは伸びをしながら言った。
「あ、ああ……」
男子は怖気付いて、返事を返すことしかできない。
「なら良し。抗えるだけの権利はちゃんとあるね。私はもうここを去るけど、君に一つ言っておくことがある」
「……言っておくことって?」
「君の人生に深く関わることだ。よく聞いておいてね。この世界ではいじめが認められていて、いじめられっ子は弱者とみなされ、大衆の嘲笑の対象となってしまう。今の君みたいにね。もし君に変わりたいという意思があるなら、これから先抗い続けること。この世界を否定したいのであれば、たとえ世界に否定されても抵抗し続けなさい。……伝わったかな?」
男子はそれを聞いて、覚悟を決めた目で、たくましい顔で言った。
「あ、ああ……伝わった……。わざわざありがとう。こんな俺に道を指し示すために残ってくれたんだな……。これからは、自分を貫くことにするよ」
エノキは、その表情から意志を感じ取って、
「うん、頑張ってね。応援はできないけど、心には留めておいてあげる」
そう言いながら、彼に背後を向けた。
「ありがとう」
彼からその言葉を受け取ったエノキは、片手を上げて返事をしながらその場を去り、やがて目を蒼く光らせて世界を去っていった。