3.「愛されし者」
翌朝──
約束どおりの時間に、神官が迎えに来てくれた。
まず、当日の足取りを確認したいと、ホテルから少し下ったところにある集会場兼社交場に連れてってもらう。
歩いて10分もかからないのに、フランソワはわざわざ貸し馬車を呼んだそうだ。
「で、ここの裏手に小川がありまして。
卿は、川伝いに宿に帰ろうとしたのではないかと」
確かに、庭を抜けたあたりから、せせらぎが聴こえてきた。
木立に囲まれた幅2mほどのごく浅い小川だ。
水は澄んで、こぶし大の角ばった石が積み重なった川底がよく見える。
「発見されたのは、このあたりですか?」
「いや、上流です。
そこの道を、ホテルの方に歩かれたんでしょう。
表で待っていた御者達は、卿も金髪の女も見ていないと言っています」
遊歩道というほどのものではないが、小川の両側は誰かが踏んだ跡が道になっている。
そのまま上流に向かって進んだ。
ヴァランタンは引っかかるものを感じた。
水が染み出して足元がじゅくじゅくしているところもある一方、岩を踏んで越えなければならないところもある。
昼間でも、フランソワのような洒落者なら靴が痛むと嫌がりそうな道だ。
どうしてこんな道を、華奢な夜会用の靴で歩いたのだろう。
例の金髪女が、フランソワをなだめ、歩かせたのだろうか。
泳ぐように歩む美貌の青年に、肉は腐り落ち、骨が見えている女がまとわりつく。
耳元にささやくのは、愛の言葉か、恨み言か。
どういうわけか、青年は女の言うままになるしかない。
その頬を、絶望の涙が伝う──
そんな光景をつい想像して、ヴァランタンはぞっとした。
5、6分、歩いたところで神官は足を止めた。
馬車道が小川を横切り、橋がかかっている。
このあたり、さきほどよりも水はやや深くなっているが、それでもヴァランタンの膝上くらいだ。
「この橋桁に、引っかかるようになって、うつ伏せに浮かんでいたそうです」
「なるほど」
自死ではないな、とヴァランタンは思った。
普通、自死なら、もっと大きな川で試みるだろう。
ちょうど、ホテルの裏手に、この小川よりもはるかに川幅が大きく、深さもある川が流れている。
神官は橋から急な坂を上がったところにある野菜畑にヴァランタンを連れてゆき、遺体を発見した農夫に引き合わせた。
農夫は身振り手振りを交えて、どれだけ驚いたか雄弁に語ってくれた。
人を呼びに行っている間に、遺体が流されては捜索が大変だと、たった一人、無我夢中で遺体を岸辺に引き上げ、神官に急報したらしい。
最後に、神官とヴァランタンは神殿へと向かった。
フランソワは、神殿の裏手の墓地に仮埋葬されているという。
墓地の端、目印として年号だけ白ペンキで書いた自然石が、フランソワの墓だった。
「旅券でお名前も生年もわかってはいたんですが、法的には行路病者という扱いになるので、このように。
ああそうだ、遺体は引き取られるんでしょうか?」
「いえ、当地で、あまり目立たないようにして葬っていただきたいと。
改葬の費用は預かっていますので、手配したいのですが」
「なるほど。では、石工を呼びましょう」
神殿の脇にある平屋の建物の、がらんとした応接室にヴァランタンは案内された。
真っ白に漆喰で塗っただけの壁の上に、剥き出しの垂木が黒々と光る。
神官は見習いの少年を使いに出し、手ずから茶を淹れて持ってきてくれた。
よもやま話をしているうちに、石工がやってくる。
侯爵は、標準もしくは小さめの大理石を使い、余計な飾りはつけず、フランソワという名と生年、没年のみにしてほしいと指示していた。
要は目立ちたくないということなので、今の場所がぴったりだ。
棺は移さず、墓石のみ、今の目印と入れ替えようということになった。
「しっかし、家名もいれないんですかい?
亡くならはったのは、ええとこの坊っちゃんらしいて聞いてたから、久しぶりに凝ったお墓を彫れるかな思うてたんですけど」
装飾や刻む文字が多いほど、手間賃は稼げる。
腕のふるいどころがなくなった石工は露骨にがっかりし、ヴァランタンは少し気の毒になった。
「ええと、次の乗り合い馬車は明々後日の昼過ぎか。
その日の朝に間に合うように仕上げてくれれば、特急料金をつけてもらっていいから」
家名をこの地に残したくない、というだけのことだ。
侯爵だって、息子の墓をケチったと思われたくはあるまい。
「『特急料金』て言われても、今は石工仕事は入っとりませんし、小さめでええんなら石の用意もある。
字をちょっぴり彫るだけなら、明日の昼にはできて、夕方には据付できますが」
急ぎの割増料金という概念そのものがなさそうな石工に、神官が説明してやり、フランソワのフルネームを入れ、ちょいちょいと飾りもつけた場合の料金と同じくらいになるよう「特急料金」を計算してくれた。
ついでに、普段は口頭で済ませている明細書も神官が書き、ヴァランタンが支払うと、正式な領収書も神官が作ってくれる。
「いやはや、すっかりお世話になってしまいました。
それにしても、あれやこれやと大変なお仕事ですね」
ほくほく顔で帰っていく石工を見送って、ヴァランタンは思わず神官に言った。
石工との契約の立ち会いなど、大きな神殿なら事務の者がすることだろう。
「こういう村では、神殿に籠もって祈りを捧げているだけでは務まりませんからね。
ところで、ひとつ、お見せしたいものがあるのですが」
「なんでしょう?」
「フランソワ卿が亡くなった時に身につけていた衣服です」
「え、保存されていたのですか!?」
地主のところではそんな話は出なかったし、遺体が着ていた服など普通に廃棄されたのだろうと思いこんでいたヴァランタンは驚いた。
神官は薄く笑って頷いてみせると、少々お待ちをと言い置いて、やがて大きな紙箱を胸元に抱えて戻ってきた。
「軽くゆすいで、干したものです」
神官の説明を聞きながら、ヴァランタンは一つひとつ取り出して、テーブルの上に広げていった。
タイ。
白絹のシャツ。
ベスト。
テールコート。
トラウザーズ。
肌着類。
傷だらけのドレスシューズ。
「一体、これは……」
ヴァランタンは絶句した。
白物には、肌着に至るまでどれもこれも泥のような色が染みついていた。
黒のテールコートやトラウザーズも、変色している。
長い間、柔らかい泥の中に沈んでいたとしか思えない。
さっきの小川の川底は、石だらけだった。
石をどけても、出てくるのは砂だろう。
あそこで溺れて、こんなことになるはずがない。
「幸い、駆けつけてまず覆いをかけたので、ほかに気づいた者はいません。
流されたのか、ぱっと見、目立つところには泥は残っていませんでしたから」
神官は、薬草酒を小さなグラスに注ぎ、差し出してきた。
思わずヴァランタンが一息に干すと、もう一度注いでくれ、自身にも一杯注いで干すと、向かいの席に座る。
「神殿に運び込み、遺体のお清めを始めたら、あとからあとから泥が出てきました。
鼻腔からも、口からも。
あの分では、胃も肺も、泥でいっぱいだったのかもしれない。
おまけに、眼球がなくなっていて、からっぽの眼窩にも泥が詰まっていた」
え、とヴァランタンはのけぞった。
あんな小川に棲むのは小さな魚だけ。
魚が目玉を食べてしまったとは考えられない。
夜が明けてすぐに発見されたのだから、鳥がついばんだとも考えにくい。
誰かが眼球をくり抜いたのではないか。
「妙なことに、泥からはかすかに潮の匂いがしました」
「潮の匂い、ですか」
フランソワ卿が捨てた女の遺体は、ランデ河の河口付近で見つかったはずだ。
あのあたりには、潮の満ち引きにつれて、海水が入り込む。
そのことが関係あるのかないのかはさておき、小川のそばを歩いていて転落し、溺れてしまった事故という説は成り立たない。
「遺体がそんな状況だったのなら、事故とは考えられないじゃないですか。
なのに、あなたは昨日、これは事故だと主張された。
どうしてです?」
神官は苦笑した。
「『殺人』とは、思いの外、狭い概念なんですよ。
たまたま野犬の群れに遭遇し、噛み殺されたことを、殺人とは言いません。
戦争中、兵士が敵兵を殺しても、殺人とは言わない。
戦神アレートスの雷に打たれた者が死んでも、神罰を殺人と呼ぶ者もいないでしょう」
「……確かに」
「殺人とは、殺人者として裁かれるべき人間が存在する時にのみ使われる言葉なのです。
この事件では、そんな者はいない。
外部の者が、誰にも気づかれずにこの村に忍び込み、金髪の女を使ってフランソワ卿を舞踏会から誘い出し、わざわざ持ち込んだ海泥で窒息死させたあげく、小川に投じて逃げることなど不可能です。
この界隈の者には、あの夜、初めて知己を得たフランソワ卿を殺す理由はまったくない。
そもそも彼がこの村に来てから、亡くなるまで一週間も経っていないんです」
ここで神官は言葉を切った。
「彼は自死したのではなく、殺人でもない。
もちろん病死でもない。
『事故』としかいいようがないではありませんか」
「それはそう……ですが」
ヴァランタンは考え込んだ。
神官の言う通りだ。
外部の者、たとえばフランソワに恨みを持つ者が入り込んで殺したと考えるのは難しい。
そもそも、フランソワがここにいることなど、誰も知らなかったはずだ。
彼が家族に出した手紙は、亡くなった日にはまだ王都に届いていない。
一方で、村の者にとっては、フランソワはふらっとやって来た新顔にすぎない。
数週間以上滞在してから事件が起きたのなら、外部の者がフランソワがここにいると把握する可能性も出てくるし、当地の人々とトラブルを起こす余地もあるが、たったの数日ではどうにもならない。
ヴァランタンはふと、もう一つ別の可能性を思いついた。
仮に、この神官自身が、フランソワを恨んでいる者だったとしたらどうだろう。
フランソワの元恋人がこの国に来たことがあったか、逆に神官が自分たちの母国に赴任していたことがあったか、元々なにかしらの接点があり、彼女の死を引き起こしたフランソワに制裁を加えたいと願っていたところに、恐ろしい偶然で、当人がやって来てしまった。
遺体を検認し、遺品も預かっていた彼ならば、やりたい放題だ。
発見者はとにかく遺体を引き上げただけで、ろくに確認していなかったようだし、いくらでもごまかせる。
とはいえ、舞踏会に出た者全員が見たという金髪の女の謎は残る。
都会なら、それっぽい振る舞いができる女を雇って舞踏会に潜り込ませることもできるが、近辺の農婦に金髪のかつらをかぶせたところで秒でバレる。
だいいち、ほんの数日の間に、どこから新しいドレスを調達し、誰が着付けをしたというのだ。
こういう狭いコミュニティでは、女性たちは誰がどういうドレスを持っているのか、異様なまでに正確に把握しているものだ。
神官黒幕説には無理がありすぎる。
「いずれにしても、あなたがいらしてくださってよかった。
私の立場では、なかなか人に言えることではありませんから、一人で抱え込むしかなくて」
妙に晴れやかな顔で、神官は言い、もう一杯酒を飲んだ。
ヴァランタンは、お役に立てたのなら、よかったですとかなんとか、もぞもぞ言うしかなかった。
結局、ヴァランタンは、舞踏会の帰りに起きた、不幸な事故死だと結論する報告書の下書きを書き始めた。
もちろん「泉の奥様」の話はナシ、「金髪の背の高い女」の話もナシだ。
念のため、舞踏会で給仕を務めていたホテルの使用人や、村の噂話ネットワークの中心であるよろず屋のおかみ、ちょうど買い物に来ていた別荘組の夫人にも話は聞いたが、引っかかる情報は出てこなかった。
出発する前日、無事、フランソワの墓が仕上がったという知らせが来た。
「ちいとサービスさしてもらいました。
名前だけじゃ、いくらなんでも寂しすぎるけんね」
にこにこと胸を張る石工の様子に、嫌な予感がした。
回り込んで見てみると、やたらと凝った字体で、フランソワの名と生没年が刻まれているのはいいとして、その間に、「愛されし者」という短い墓碑銘が刻まれている。
ヴァランタンは軽くのけぞった。
恋人に愛されたが故に、こんなところで客死する破目になったフランソワには、ものすごい皮肉だ。
「わざわざヴァランタンさんを派遣されるほど、ご遺族は彼を愛していらっしゃるのですから、これほどふさわしい墓碑銘もありませんね」
神官がしれっとそれっぽいことを言って頷く。
「そ、そうですね。君、立派な墓碑銘をありがとう。
故人もきっと喜んでいるだろう」
ヴァランタンは、半分やけくそで言うしかなかった。
神官は墓の前で片膝を突いた。
祈りを捧げる神官の後ろで、ヴァランタンと石工と人夫達も唱和する。
「ところで、彼はこんなに遠いところまで逃げてきたのに、どうして死ぬことになったんでしょうか」
石工達を見送った後、ふとヴァランタンは神官に訊ねた。
「さあ……
もしかしたら、ふと思い出してしまったんじゃないでしょうか。
彼なりに、彼女を愛していたことを」
聖職者らしからぬことを口にすると、神官はお茶でもいかがです?と微笑した。
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