1.フランソワ卿の死
騒動の後、フランソワは、父の厳命で「見聞を広めるための外国旅行」に出ることになった。
少なくとも二、三年、ほとぼりが冷めるまで帰ってくるなということだ。
向かったのは、大陸の南にある古い国。
かつては大陸南部に覇を唱えたものの、内紛で傾いてしまった国で、物価は安い。
母国ではいつも手元不如意だったフランソワも、余裕ある旅ができた。
自然、曇っていた心も晴れてくる。
だんだん人恋しくなってきて、有名な避暑地リヴェーラのホテルに移り、トランクの底から夜会服を取り出して舞踏会に行ってみた。
黒髪に浅黒い肌の者が多いこの国では、金髪に白い肌のフランソワは人目を惹いた。
何度か顔を出すうちに、フランソワはやたら色っぽい男爵夫人と知り合い、男爵が急用で領地に戻っているのを良いことに、一緒に遊び回るようになった。
情熱的な夫人は、驚くほど大胆。
つい深入りしかかった時に、フランソワの学校時代の同級生が夫人を連れて、そのホテルにやってきた。
フランソワを認めてぱっと明るくなった顔がすぐに曇り、挙げかけた手が行き場を失って中途半端に泳ぐ。
過去の罪──あれは罪なのか?──に追いつかれた心地がして、フランソワはもっと南へと逃げ出すことにした。
外海に長靴を突き出したような形の海岸線をたどり、つま先から踵へとまわりこんだあたりで、海の色が変わった。
故郷と同じ濃い青ではなく、微妙に淡い。
黄色みが混ざったようにも見える。
ようやく、フランソワは地の果てまで逃げおおせた気がして、安堵した。
といって、子供の頃から人に傅かれる生活を送ってきたフランソワには、身の回りのことを自分でしなければならない漁村の商人宿を転々とする暮らしは苦しい。
旅行程度ならこの国の言葉に不自由はないが、それでも方言でまくしたてられると、聞き取るのがつらくなってくる。
結局、フランソワは高原の避暑地に流れ着いた。
避暑地といっても、鉱泉のそばに小さなホテルが1軒あり、ほかに商人宿が2軒、別荘が大小合わせて十数軒だけのところだ。
外国から来た客は自分しかいない。
フランソワは、しばらくここに腰を据えることにした。
一番自分を心配してくれていた姉に、例の件では本当に反省している、落ち着ける環境を見つけたので、静かに自分と向き合うつもりだと手紙を書く。
しおらしい手紙は出したが、しかし暇である。
新聞は4日遅れ、雑誌は半月遅れで、ホテルのロビーの本棚にだいぶ傷んだ本が少しあるくらい。
閑散としたホテルは、胃腸病に効くという鉱泉目当ての老人客ばかりで、訛りが強く、会話は楽しめない。
日課になった散歩の途中、村の中心部から少し離れたところに、社交場のように見える古い建物を見つけた。
昔は白亜の建物だったのだろうが、だいぶ薄汚れている。
窓はすべて鎧戸で閉ざされ、人の気配もない。
遺跡でも見物するような気持ちで、建物を囲む庭を一周したが、誰にも会わなかった。
ただし、庭の雑草は刈られているし、大理石の女性像を真ん中に据えた噴水には澄んだ水が湛えられている。
宿の者に訊くと、普段は村の集会所として使っているが、夏の週末の夜だけ社交場として開けている建物だと言う。
特に紹介もいらないとのことで、次の金曜の夜、フランソワはさっそくでかけてみた。
客は、別荘に遊びに来た者やら、近在の地主の一族など。
だいぶ田舎じみた舞踏会だったが、ワルツの調べを聞けば、それでも心が浮き立ってくる。
フランソワは、驚くほど暖かく迎えられた。
いったいなぜこんなところに、外国の若い紳士が一人で来たのだろうと、話題になっていたらしい。
フランソワは、母国で辛いことがあり、人に勧められて旅に出たのだと説明した。
よんどころない事情で恋人を失った風に眼を伏せてみせると、皆、特に婦人たちは同情してくれた。
嘘は言っていない。
あともう少しで、尊大で鼻持ちならないが、莫大な財産を持つエステラと結婚できるはずだったのに、かつてわりない仲だったマリアンヌが王都の社交場に乗り込んできて、フランソワの不実を責め立て、すべてがめちゃくちゃになったのだから。
フランソワは、確かに結婚の約束をしたと主張するマリアンヌの言葉を全力で否定し、一方的に懸想されただけ、彼女の妄想だと言いはった。
エステラも、良家の令嬢とは思えないような汚い言葉でマリアンヌを罵った。
ショックを受けたマリアンヌは、以前フランソワが贈ったアメジストのネックレスを二人に投げつけ、社交場から飛び出した。
一週間ほどして、膨れ上がったマリアンヌの遺体が、王都を流れるランデ河の下流で発見された。
ドレスは剥ぎ取られ、いつも嵌めていた、母の形見だという金無垢の指輪を奪うためか左の人差し指が切断されていた。
警察は、マリアンヌは誤って河に転落し、ならず者が遺体から金目の物を奪ったのだろうと発表した。
マリアンヌの名誉のために、あくまで不幸な事故だと丸めようとしたのだ。
だが、それを信じる者はいなかった。
マリアンヌの遺体が酷く傷つけられていたという噂が広がったからだ。
醜聞を立てられた報復のため、フランソワが彼女を痛めつけて殺した。
エステラが恋敵を拷問し、やりすぎて殺してしまった。
憶測は憶測を呼び、エステラは王都から逃げ出して領地の館に閉じこもり、フランソワは流れ流れてこんなところにいる──
実のところ、一時期、フランソワはマリアンヌに夢中だった。
濃い金色の髪に、きらめく紫の瞳。
長いすらりとした首は女神のように神々しいくせに、くちづけを待っているような、なまめかしさもあった。
声は深みがあり、彼女が朗読してくれると、フランソワのつまらない詩も才気溢れて聴こえた。
十分な財産があれば、フランソワはマリアンヌに結婚を請うただろう。
だが、フランソワは名家の出だが所詮四男。
相応の資産を分けてもらっていたが、フランソワが望む暮らしを続けるには到底足りない。
そして、貴族の血を引いてはいるが、傍系の傍系、しかも父母を子供の頃に亡くして、母親の親族にとりあえず養われているマリアンヌには、持参金はほとんどなかった。
確かに幾度か、フランソワはマリアンヌに溺れた。
だがはかない夢から醒めてみれば、彼女を忘れるしかなかったのだ。
マリアンヌだって、わかっていたはずなのに。
「つらい思いをされたのね」
いつの間にか、マリアンヌのことを思い返していたフランソワは、はっと眼を上げた。
眼の前には、マリアンヌともエステラともまるで似ていない、波打たたせた黒髪を下ろし、耳元に赤い南国の花を飾った美しい女がいる。
「ああ、すみません。
しかし、人生とはそういうものではないですか?
不意に、思ってもみなかった嵐に襲われてしまう」
「そうね。でも、嫌なことばかりではないでしょう?
こうして、あなたとわたしは出会ったのだから」
黒い瞳をきらめかせながら女はいたずらっぽく笑ってみせ、フランソワも笑顔になって「私達の出会いに」とグラスを掲げた。
「ねえあなた。
水は世界をめぐっているの。
あなたの故郷に降った雪は、融けて海へと流れこみ、海流に乗ってこの国まで来て……また雲になり、雨になって、畑に降り注ぎ、このお酒になったのかもしれない。
だからきっと、恋しい方とまた会える日が来るわ」
この酒に、マリアンヌが浮かんでいたあの河の濁った水が混ざり込んでいるというのか。
フランソワは、ぞっとしてグラスの中の酒に視線を落とした。
赤い花の女は、そんなフランソワを不思議な笑みを湛えてじいっと見つめている。
まるで証拠を隠滅するように、フランソワは酒を飲み干すしかなかった。
強い酒ではないのに、くらりとめまいがする。
楽団が古い俗謡を演奏しはじめた。
甘ったるく、恋人に抱きしめてほしいとねだるだけの歌詞。
マリアンヌが好きだった曲だ。
いや、おかしい。
母国の、それも庶民の間で昔流行っただけの曲が、遠く離れたこの国で知られているわけがない。
こんな田舎の楽団がわざわざ演奏するはずがない。
彼女が、くるのか?
マリアンヌがくるのか?
まずい。
まずいまずいまずい。
さっきまで目の前にいた黒髪の女は消えている。
気がつけば、ホールいっぱいに踊っていた客も消えている。
楽団席もからっぽなのに、あの曲が鳴り響いている。
わんわんと、頭がおかしくなりそうになるほど大きな音で。
不意に、フランソワの背にそっとなにかが触れた。
「あなた」
懐かしい声が、呼びかけてくる。
──彼の遺体は、舞踏会の翌朝、社交場からさほど離れていない小川で発見された。
Judy Bridgewater - Never Let Me Go
https://www.youtube.com/watch?v=4UX6tzE7P44