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組み紐のない男

作者: 磯目かずま

 ある街はずれに一人の男が住んでいた。彼は以前とある大学で研究者をしていたと噂されているが、そのことが本当かどうか知るものは誰もいない。

 彼の家はあばら家といっていいような一階建てのところどころトタンで覆われた赤茶けたもので、彼がそこに住んでいることを示すのは無造作にポストに突っ込まれた回収されていない光熱費の帳票と、夜になってうすぼんやりと光る窓の明かりのみである。

 彼は人前にもめったに姿を現さなかった。彼がどのように生存しているのかについては諸説あったが、貯蓄を切り崩しているだとか、年金生活だとか、子供から仕送りされているだとか、ネットで何か商売をしているんだとかで、どれも確証はないのであった。

 彼を目撃した人によれば彼の相貌は、白髪の髪をやや長めに伸ばし、メガネをかけ、中肉中背のいたって普通の学者然とした様子だったという。しかし、特筆する点があるとすれば、彼はどこか生気がない様子で、服装も無頓着であり、そう、いうなれば地に足がついていないような、風が吹けばどこかへ飛ばされて行ってしまいそうな、そんな危うさを感じさせるということであった。

 いつからかその男は「組み紐のない男」と呼ばれるようになった。それは彼が、世界と紐で繋がれておらず、ふわふわとしてとらえどころがない様を表現したものであった。これは、そんな男のお話である。


 わたしはこの街に来てからどのくらい経っただろうか。日々が通り過ぎるということに注意深くなれるほどにわたしの神経はもはや充実していない。以前は手帳や日記にその日何をしてどこに行き、何を食べたのか、どんな人に会って何を思ったのかを事細かに書き記すのを常としていた。そうしていることがわたしにとっての時間の認識方法であり、それによって過ぎ去っていく時や自分を忘れないでいることができた。

 しかし、今や昨日の夜に何を食べたのかすら曖昧で、何時に起きて今まで何をしていたのかすらもぼんやりとしている。手帳に自分の履歴を書くことすらやめてしまった。やめたというよりも、書くことができない。もっと言うと、書くという発想に至らないのだ。そもそも、わたしは何か特別なことをしているわけでもなく、自分の履歴を残せるとしても、一般的な人間であれば滞りなく遂行しているであろう事柄をわざわざ拾い集めるくらいのことしか結局できないからだ。

 それでもわたしが生きていられるというのは、わたしが生きていられるように手はずを整えたからである。もう老い先短い存在であるが、体が動くうちに必要な衣食住を得るくらいの貯金はしてあるし、ささやかながら本の印税もあるし、年金もあるしその気になれば講演会や何らかの書き物仕事だってもらうことはできる。わたしは無為に日々を過ごし、生命をすり減らすことができるように生命をすり減らして今まで生きてきたのであり、なんにもないこの日々はわたしにとっての褒美といってもよいものである。

 それでもわたしはこの安穏とした生活を楽しむことはできず、むしろ憎んでいる。憎んでいるからこそ、それを書き記すこともままならないのかもしれない。

 毎日万人が行うようなことを万人が行うように遂行し、万人と同じように生まれ老い死んでいく。そういうありきたりの生というものにどうしても陳腐さを見てしまうわたし。そうして自分をありのままにしてすでに陳腐な存在だと規定してしまうことによって、わたしはわたしの首を絞めて生きているのである。


 どうしてこんなふうに思ってしまうのだろうか。わたしが一人の研究者であるからといって、一般的な感覚を捨て去ってしまう必要はないはずだ。むしろ一般的な感覚から始まって、それを新しく謎にするかのように思考することを生業としてきたはずだ。ありきたりのことは神秘であり、事実は小説より奇であり、神は細部に宿る。そう信じることで、わたしは世界を新しく解釈する方法でもって飯を食ってきたはずである。

 しかしながら、そういういわば外向きの哲学者のさわやかさとは別に、自分の口にはできない澱んだ感情が思考を支配していたということも否定できないのかもしれない。欲望、感情、感覚、身体、そういったいわば生っぽい領野を積極的に扱い思考することが、哲学的に批評性を発揮していると信じられるうちは、とてもいい気分で欲望機械だの共通感覚だの生きられた身体だのを云々することができる。しかしながら、心のどこかではそういう思考の外部や基底となる部分のプリミティブなものを嫌悪して、バカにして、そういうものから距離を取りたいがために言語によって御している自分がそこにいるのである。

 欲望?思考に頼れない人々がマスなものに呑まれる喜びを表現したものに過ぎないでしょう?それに、動物的で下品で野蛮なものでしょう?感情?感情の表出とかセンシティブなこととか、マイナー性とか特異性とか、そういうのは言葉として言うのはいいけど実際にするのはしんどいし人のそういうものを見るのもしんどいし、反吐が出るようだね。感覚も同じだよ、そしてもっとムカつくのは、感覚とかそういうのを無理して数値化したくなっちゃうようなそういう志向性だよ。あほくさ。身体?何でもかんでも議論に身体を持ち込めばいいと思っているそこのあなた!そういう安直な身体論が一番うさんくさいんだよな。なんでだろうな。でもそういう安直さが再生産性という点であなたの身体だとか場所に応じた身体だとかで七色に展開できる代物だから、虚の理論として使いやすくていいのかもしれないね。

 と、このような具合で、わたしは他人をバカにしつつ自分の首を絞めては、卑下して虚無虚無して斜に構えることしかできない困った人間なのだ。


 しかし、そのように皮肉っぽくふるまってアイロニーだよアイロニー、はっはっは!と言っていられるうちはまだ大丈夫である。問題なのは、何かに対して即座に批判という名の否定をするという行動が、頭の先から足の先の骨の髄から毛細血管まで隅々まで浸透しきってしまい、そうすることが自分の意識でどうこうできる次元より先に超越してしまったときである。

 こうなるとどうなってしまうか。まず他者を受け入れられなくなる。もちろん、このような状態になっている人間というのは、なまじ他者のことを理念として都合よく活用しているがために、何かにかこつけて他者を引き合いに出しては一つのユートピアのようにそれを称揚し、場合によっては他者とのかかわりを積極的に推進しようとする。しかし、その人は同時に、他者というものを考えるということ自体の陳腐さに打ち震えるようになっているがために、他者のことを考えつつも、そこからいかにして離れるか、断捨離するか、脱構築するか云々ということを際限なく考え続け、いつしか他者のことを考えているようで実質自分のことしか考えていないような状況に陥ることがある。こうなると、その人の頭にあるのはすでに他者という概念だけであり、生身の人間としての他者というものがぽっかりと抜け落ちてしまったというようなことはままある。もちろんそのような状態でも人は生身の人間と正常に社会的生活を過ごすことができるし、家族もあれば友人もいるかもしれない。しかし、その人|(便宜上彼と呼ばせていただきたい)は生身の人間と関わりながら当人のことは何も見ておらず、そこに概念的な他者の類型を投影し、それを分類し、他者という入れ物に収納した挙句自分の都合の良い側面しか見えないようにそれらを丁寧に陳列しているのである。

 このようなことは実のところ世界中のどんな人でも多かれ少なかれ実行している処世術であろう。人は自分の都合の良いように世界を認識して生きていくことができるし、それが一つの権能でもある。しかし、そういう世界に対する構えというものは、それがいかに順応していたとしてもふとした瞬間に崩れるということがありうる。そうしたときに人は、自分のありのままの姿を暴露され、その生のままの存在の重圧と生々しさに耐えがたい苦痛を覚える。このような剥いてはいけない皮を剥かれて世界に晒されてるような状況の自我というものは、先に自分が守られていたとき以上に世界を正確に認識することができない。世界の真実の鋭利さを一度知ったということで彼の認識はより深いところに移行したのはそうなのかもしれない。世界を見る目の解像度が高まることによって、今まで見えなかったもの、見なくてよかったもの、見ようとしなかったもののそれぞれが思念に去来し、彼の存在は盛大に攪乱される。この状態の彼は、他者が恐るべき存在のように思われることで、まともに目を合わせることもできなくなり、受け入れるなんてもってのほか、冷静になった裸の王様よろしく自分の肌を露出しないようにいち早く服を探さねばならない。

 彼は寒さに震える小動物のように脆弱な存在になって、自分の矮小さに恐れおののく。彼は自分を守るために世界を遮断し、他者との関りというユートピアはもはやまさに理想郷の彼方に消え薄れていって、そこに見えているのは自分が参入する世界、自分がいなくても存在している世界、そして、自分なんて別に大したものじゃないんだっていうありきたりの再帰的な自分への認識なのである。そして彼は自分を守るために服を着て厚着をして、武装して、そのうち家を作って拠点にして、勢力を築きあげようとする。そのときに着る服や家を建てるための資材、他者を殺すためのナイフ等々は、それがすでに他者の作ったものであるがゆえにますます彼は憂鬱になる。彼は以前そうした他者との交感をおめおめと享受して、それをよきものとして吹聴していた。しかし本当の本当は、そうした関係性が逃れがたき苦痛であり、そうであるからこそ無意識に余所行きの格好でごまかしていたのである。


 彼は身の回りのものがすべからくデザインされていることに憤慨した。ときには無垢な自然を求めて山奥に籠ろうとしたが、そこで県境を示す標識を見つけて自分は誰かのものに囲まれることから逃れられないということに心底嫌になったりした。

 それでも彼は自然に対しての憧憬を保つ努力をすることでなにがしかの息苦しさから逃れられるのではないかと考え、草花を愛でてみたり、ことさらにくだらないエポケーを遂行しようとして意識を判断停止で満たすことで世界それ自体を認識しようという古典的な方法を試してみたりもした。しかしながら、不可知論もかくやというように彼は自然には到達できないし、エポケーしようとして行ったエポケーが本当に本当であることなんて決してなかったわけであるから、彼はいつも失意のうちに自らの愚かさに沈殿していったのである。

 彼は結局人間であることの限界に直面していた。もちろん彼は、古今東西の哲学が直面してきた内と外の議論や、自然と人間、神と人間、心身問題、主観客観もろもろの議論に通じていたわけであるから、自らが直面しているような問題をすでに誰かが一通り考えつくしていて、それを学ぶことでそこから新しい思想を構築すべきであるということをわかっていた。彼は世界を記号として認識しているのであるし、記号の連鎖から逃れられないのであるし、それと同程度に物質としての彼の身体からも逃れられないのであった。

 彼はそんな自分が吐き気を催すほどに嫌いだった。彼は自分が哲学的に矮小な存在にすべからく当てはまるかのように感じていた。再現=表象、引き写し、素朴実在論、相対主義、還元主義、人間中心主義、モダン、ポストモダン、思弁的実在論、質的転回、知の欺瞞、似非科学、経験主義、観念論、現象学、自然主義、詩的な論理……もう何でもいいけどありとあらゆる思想というものが自分を世界の裏側まで追いかけてきて外延から内包から取り込んでくるがゆえに彼はどうしようもなく陳腐になってしまう。彼はそうした思想の影にいつもおびえながら過ごした。怖くて怖くて仕方がなかった。なぜならそれらは彼を否定の輪廻にいやおうなく誘うからである。


 去来する相反するものはわたしに全か無かの判断を迫る。それが二項対立として解消できるものではなくともそのようなものとしてわたしに迫る。何か、何か、その間。そのそれぞれを考えている間は結局のところ何か、それだけ一つしか考えられていない。間であってもそれは何かに否定されるまでの何かに過ぎない。

 ああ、何でいつだってことばは、わたしに世界をそういうものとして突きつけるのだろうか。苦しい、苦しいよ。すべてわかっているようなそぶりで、わたしはそのそれぞれを否定する。これもだめ、あれもだめ。君も、だめだったんだね。

 反証可能性を残した正統的な科学のことばたち。彼らは真実を語るにはもろく、儚い。その正しさをわたしは、無表情のままクシャっとつぶして、それを積み上げることでわたしのことばを紡いでいく。

 いつからだろうか、そうしているうちにわたしは、世界との組み紐をなくしてしまった。いや、もともとなかったのかもしれない。わたしが物質であることも、生き物であることも、切ったら血が出るし、毎日食べてうんこをすることも、全部全部、忘れてしまっていたんだ。目に見えるものをありのまま。それ自体として。そんなことが、全部全部実在論としてしかわかれなくなって。そんな素朴な感覚なんて陳腐だよ、でも表象しかわからないのも陳腐だよ、それなら両方まとめて組み紐の一部として生きればいいんじゃないのかな。それならわたしは組み紐なのだろうか。でもその紐はそれ自体で世界なのだろう。それならば組み紐は何と何を組んでいるの。それは世界だろう。そう、ならよかったね、でもそれであなたを切ったときに血が出るということを説明できたことになるのかな。わからないね。


 わたしはわたしを受け入れられなくなった。なった、のではなくとうの昔からなっていた。他者を受け入れられないわたしは、すべてを無人称に否定して、わたしのことも否定した。わたしを否定した後に、それを他者にして、もういっぺん否定した。そうしてわたしは、組み紐それ自体を否定した。組み紐が紐であることも、紐のような何かであることも、全部全部否定した。そうして残ったものは何か。親切な方は、それでも今日もうんこをしたあなたはそこにいるではないかと、教えてくれるだろう。でもわたしは、何かを食べても、寝ても、射精をしてみても、うんこをしても、人と話しても、何にも感じることができなかった。そこで起きていることとわたしにつながりがあることが感じられないのに、それをどう感じればいいのか、わたしにはわからなかった。わからなくなってしまったのだろうか。

 昔は全部わかっていたのだろうか。生れ落ちて白紙だったころは、お腹がすいたら泣き、満足して寝た。教えてもらうより前に快楽を得る方法なんて知っていた。でも、快楽が分析できるものになって、欲望という概念になって、動物が人間の反対になって、子どもが大人の反対になるころに、全部忘れてしまった。だからといってピカソになんてわたしはなれないし、ピカソだって子どもには、決してなれなかった。

 わたしの中の最初の記憶。それは茜色の世界だった。なぜだかはわからない。ひょっとすると羊水の中で見た光だったのかもしれないし、夕暮れのベッドに寝かされて西日を浴びていたときの記憶なのかもしれない。その次の記憶はもう思い出せない。いつからわたしはわたしだったのだろう。最初に覚えたことばは何だっただろう。たぶんパパ、ママとかはすぐにしゃべっていたと思う。文字だったらゴジラのラを読めたことはよく覚えている。もう死んでしまったおばあちゃんが、いつも一緒に図鑑を読んでくれた。これは何、あれは何。そうするとこれはライオンだよキリンだよと教えてくれる。そうなんだ、とわたしは本物を見たこともないそれらに思いをはせる。ライオンさん、キリンさん、ゴジラさん。それらがわたしのなかでわたしを形づくっていた。わたしはわたしではなく、ライオンさんやゴジラさんだった。そして、石をひっくり返してうごめいているだんごむしさんや、自分の家のあすふぁるとや、家の中を渦巻いているたばこのくさい臭いだった。

 いつからだろう、そうしたものと、わたしが別のものになってしまったのは。でも、それは喜ばしいことだったし、そうしなければ生きていくことはできない。ことばはわたしと世界の距離を適切に保ってくれる。ことばそれ自体がわたしではないし、世界それ自体がわたしではないというように。そして、わたしが痛いとか苦しいとかということも、それを他者が知りうるということを考えるならば、それはわたしだけのものではなく、何かの共通のものがどこかにある。

 あの人は苦しんでいる、楽しそうだ、美しい。そういう感覚、感情が、その人の身振り、表情からわかる。その目に映るものが、ことばにして感情として理解できる。そのときわたしは痛さを認識しているが自分が痛いのではない。でも、悲痛なものを見ていたら自分も辛くなってくる。そんなことはない、と心で思っても、それを見ただけで辛い気持ちは消すことができない。これはことばの問題なのか。よくわからない。そこではことばやそれと結びついている人間の生、そしてそれらの土台となっている何か大きなものがそこにあるのである。

 結局のところ、わたしはすべてを否定しながらも、先回りしてというか変われない部分でというか、わたしと他者と世界によってそのようにしてそこにあるということであり、それゆえにそんな事態を受け入れられないのだ。イメージは遠く離れた場所からわたしに直接的に感覚を提供する。わたしがあばら家にて一人過ごしているこの場所へ、感染症や紛争の状況が、その中身のわからない分断された、しかし痛みを伴う像が提供される。何も見なければそうならないのだろうか。でも着実に世界は情報で色を変えていく。道行く人は皆マスクをして、今もどこかで街が燃えている。そういう物事が、ことばに感情に浸透して、わたしが発することばもわたしという存在すらも、わたしが何もしていないようなこの状態でも変えてしまっている。これが組み紐なのだろうか。


 わたしは組み紐をなくしたと思っていた。実際にわたしは、自身の身体や実在性についてどうしようもなく希薄な実感しかなくなっている。これは、わたし自身の否定の性行が再帰的にあらゆるものを否定した結果でもある。しかしながら、わたし自身の脆弱な存在如何ではなく、もっと確実で普遍的な領野においてわたしは世界に逃れようもなく組み結ばれているのだ。

 わたしは先ほどシチューを飲んだ。中には豚肉、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎが入っていた。大変に美味しいと感じた。それが確かに喜びに感じられず、罪悪感を呼び起こすようなものとしてわたしに引き受けられたとしても、口にした瞬間に舌から、脳から、内臓から発せられた感覚は確かに「美味しい」というものだった。世界と結びついているということがそうしたエレメンタルで一時性質的で、センスデータ的な領域を吹き飛ばして一足飛びに罪や悪そして否定の意識に結びついているという状況は「不自然」である。実際には、わたしは美味しいと感じているのに、なんだか気分が晴れないだけであって、階層的に自分を構築しているかもしれない諸機能はそこで暗黙知的に(不遇さによって)そこにあるのだ。わたしの罪も含めてそれが自然にそこにあるというならば、それは確かに第二の自然として、人間という自然としてそうして合理的な帰結かもしれない余計なものをそこに作り出しているのだ。

 実在論ではわたしの「美味しさ」を説明することはできない。わたしの身体を説明することはできない。それは実在論ではなく実在であり、実在論が直接的に認識できると保証してくれなくてもそれ以前にわたしとともにそこにあるものだからだ。それを実在や身体と名指すことですら足りない。それは直示的に自分を指し示し、わたし自身を突き刺し、切り刻んだほうが余程それを認識できるようなものである。そんなことをしなくても、じっと手を見て、指を左右に動かして、その動きを確認しさえすれば、自分の想いと自分の身体の不思議な連動性についてはいつでも確認することができる。それは、実在論や記号論がもしこの世になくても、わたしが確かにそこに存在していれば必ず存在している何かである。もちろん、手が動かせない人も、手がない人も、手がなんだかわからない人もいるに違いない。ただ、その場合でも同様にそこにそのような事実が存在し、そのようにしてそれは実在しているのだ。

 そのことが仮に主観的にしか認識できないからといって、その何が問題なのだろうか。エポケーしたり思弁をしたり、そんなことを試みなくたって自分は自分だ。自分だと認識する以前に自分なのだ。わたしがわたしでなくライオンさんと一体化していたとしても、わたしが自分を否定したり意識を失っていても。それはわたしの存在に何らの危害も及ぼさない。そう考えることが実在論だと指摘する人がいたら、それはそうなのかもしれないと認めよう。わたしがいいたいのは、それで何が問題なのかということだ。そうしていることが記号や社会をないがしろにしているとか、自己中心的だとか、独我論だとか、素朴だとかそういう否定的な考え方によってシチューが美味しいことは覆るものではない。それを美味しいと判定することが主観的で定量化できず、質としてしか考えられず、不確かであいまいで、どうしようもなく考えるに値しないといわれたって、わたしはそれを美味しいと思ったし、美味しくても毎日食べようとはならないし、栄養価を考えて次食べるものを考えたりする。そういうあたりまえで、ありきたりで、ありふれたことが、陳腐であるということは決してない。なぜならそれは繰り返される下らないことであったとしても、堪えようのない真実であり普遍性だからだ。

 このことが認められないと、それ以上に積みあがっているものも同様に認められないのだ。これを共通感覚と名指して陳腐化する気持ちを宙づりにして、生物としての人間の基盤としてとらえることが必要だ。痛みを快楽としてとらえる人、罰を報酬としてとらえる人、白を黒ととらえる人、そういう人は、斜に構えてそうしているのでないのであればそれはそういう自然ではあるが、一般性からは逸脱している。そういうマイナー性というようなものは、それがマイナーであったりずれているということが知られる程度にはより大きなものが共有されている必要があるのであって、それらの存在によって大きな存在を否定するようなものではない。それらを踏まえて基盤といえるものを認めることからしかその上の建造物は作れない。だから作られるものは人間のインターフェースとして作られ、それは記号やことばだってそういうものなのだ。

 それは人間中心主義だとか独善的だとか自然破壊だとかそういうことではないのだ。人間なのだから、人間として生きるしかないし、考えるしかない。いくら人間でないものに変容するということを考えたところであなたは明日朝起きて芋虫になっていますか?小説の世界以外では無理ですよね、そういうことだ。今、このことばを誰に向かって言っていると思う?それはわたしだ。そして、組み紐を失ったわたしであり、彼に向かってだ。組み紐というのは、仮にそれを失ったとしても、本当に失えるものではない。もっとも、死んだらどうなるかなんてことは、わたしにはわからないけど。


 あばら家の傍らに、庭の草木を眺める男が立っていた。わたしは彼の姿を初めて見た。風貌は聞き及んでいたものにおおむね合致していた。しかしわたしには彼は、「組み紐がない男」という風には、そのときは見えなかった。

 彼は虚ろな目をしていたが、その目に映るものに対して、限りなく愛情を注いでいるかのような眼差しで、庭の桜の木を眺めていた。桜はもう盛りを過ぎ、風が吹くたびに舞い散る花びらは男の肩や髪に舞い降りて、彼を少しだけ桜色にしていた。にょきにょきと生えてきたつくしや熟れた匂いのする菜の花に囲まれて彼はただそこに立っていた。

 ふと、彼と目が合った。彼はわたしのことを見つめた。それはほんの刹那の出来事であったはずなのに、なぜだか走馬灯でも見るときのように永遠に感じられる時間だった。その目は、わたしを見、わたしでないものを見、まっすぐにこちらをとらえて離さなかった。

 その目がにこりと笑い、彼はわたしに軽い会釈をした。わたしは金縛りから解放されたかのようになりながら同様に会釈をした。彼は何事もなかったかのようにまた庭を眺めだした。わたしは何かいけないことをしてしまったかのような、いたたまれない気持ちになってそそくさとその場を離れたのだった。

 その数週間後、人づてに聞き及んだ話だがあの男が息を引き取ったということだった。見つかった経緯はよくわからないが、自宅で亡くなっていたらしい。心筋梗塞だとか脳溢血だとか言われていたが、それも定かではない。

 ある人は、「これで彼も本当にこの世界から離れていってしまったな」と言った。またある人は、「彼はそもそも生きながらにして死んでいるようなものだった」と言った。しかしわたしは、最期に見た彼の澄み切った眼差しを忘れることができない。彼はきっとまだ、この世界と組み紐で繋がっている。わたしはもう新緑で眩しい桜を見ながら、そう思うのだった。

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