2話「女神との約束」
勇気は少女と出会った場所から大回りして家に帰って来た。
少女に兵士と呼ばれた異様な存在たちは走って少女を追いかけていたのを見るに乗り物を持ってなかったのだろう。
勇気は一先ず安心出来た。
歩き、走りである以上バイクの速度について来られるとは考えにくい。家がバレたなんてことを心配する必要はなさそうだ。
勇気からはだいぶ疲れているように見える少女をリビングではなく広い和室に通し、座布団とビーズクッションを差し出す。
ずっと逃げていたのであれば座敷で足を伸ばせた方が良いと思った勇気の案。
「ふぁあ…良いですね…これ…ずっとこうしていたいです…」
勇気の想像通り疲労が溜まっている少女は形の定まらないふにゃふにゃな声を出しながらビーズクッションを満喫していた。表情筋も完全に緩み切っている。
その間に勇気は風呂場に水を張ってお湯を沸かすスイッチを入れる。続いて台所にある冷蔵庫を開けると水、お茶、ラムネの在庫が残っていた。
白いワンピースにヴェール、身長の小ささに対して抜群のプロポーションに加えて見る人の意識を釘付けにする麗しい顔立ち。誰がどう見てもやんごとなき身分なのは分かる。
果たしてこの三つの中から何を出すべきか。
絶対安定な水。
日本と言えばの緑茶。
はたまた変化球でラムネ。
「どうしよう…水出してブチギレるとかないよね…?」
勇気はわがままなお嬢様よりはお淑やかなお姫様と言った印象を抱いているが実際どうなのかは分からない。
結局、疲れているなら水が1番だと思い、水のペットボトルとコップを和室に運んだ。
勇気がコップに注いだ水を少女はとても丁寧な仕草で両手でコップを持ち、一気に飲み干した。
「落ち着いた?」
「はい、おかげで助かりました。本当にありがとうございます」
「僕は坂本勇気。君は?」
「勇気様ですか。良い名前ですね。それで私の名前ですが…」
「言いたくない?もし嫌なら言わなくても——」
「違うのです。そうではなくて…」
追われている身だったから名前を言いたくないのかと思った勇気だがどうやら違うようだ。
「あの、驚かないでくださいね?」
「え?あ…うん。分かった、驚かないよ」
聞いて驚くような名前なのかと勇気は身構える。
約束したからには驚かないようにしようと少女の口から出る名前を聞き入れた。
「私の名前はヘスティア。あのヘスティアです」
…。
……。
………。
「えっ?」
「えっ?」
ヘスティアと名乗った少女の何処に驚くような要素があったのか分からない勇気は数秒の沈黙の後に声が漏れてしまう。
勇気の反応を見てヘスティアも困惑の声を上げる。
「まさか…?勇気様はギリシャ神話をご存知ですか!?」
「知ってるよ。ゼウスとかアテナとか出てくる神話だよね…後はなんだっけ…?オーディンとか?」
「オーディンは北欧神話です……ではオリュンポス十二神は?」
「ごめん…そこまでマイナーなのは分かんない」
「マイナー!?」
ヘスティアは勇気の発言にショックを受ける。
勇気は神話含めて過去の文化も今の文化も全く知らなかった。
考古学者である両親の影響力は強過ぎて逆に遠ざかり、漫画もアニメも、更には歴史の知識も学校で習った範囲しか頭に入れていない。唯一の趣味はバイクだけ。
オリュンポス十二神のことなど知っているはずがない。
「そ…そうでしたか…では軽く説明しましょう」
このままでは話が進まないのでヘスティアがオリュンポス十二神やその他諸々について説明することになった。
ゼウスを筆頭に名高い神の集まったオリュンポス十二神。ヘスティアはハーデスに譲るつもりだったのだが色々あってハーデスがそれを断ったので仕方なく十二神に数えられている。
説明を受けた勇気はヘスティアの顔立ちの良さに納得した。
「じゃあヘスティア様はゼウスのお姉さんで炉の女神ってこと?」
「そうなりますね…と言うか驚かないのですね]
「驚けるほどの知識が無かったから…でも凄い。神様って本当に存在したんだ」
「ギリシャ神話だけでなく北欧神話やケルト神話なども全て真実なんですよ。今となっては信じてる人はいないと思いますが」
「そうだったんだ。ところでヘスティア様は誰に追われてたの?」
「そうです!あまりにもこの部屋の居心地が良くて本題を忘れてしまうところでした!」
部屋の居心地の良さと有名なオリュンポスの神々を知らない勇気に驚いていたおかげですっかり忘れていた。
いざ、ヘスティアが話し始めようとするとタイミングが良いのか悪いのかお風呂場からお湯が沸いたことを知らせる音楽が2人のいる和室に流れてくる。
『お風呂が沸きました。お風呂が沸きました。』
お風呂。
その電子音声はずっと走りっぱなしだったヘスティアを惹き付けた。
音が聞こえて来た方向から目を離そうとしないヘスティアに勇気が一言。
「お風呂入る?」
「はい!入らせてもらいます!入らせてください!」
「ち…近い…」
凄い勢いでヘスティアが顔を近付けてくる。
誰もが息を飲むような美女に顔を近付けられるのは嬉しい限りではある。でも、いきなりは心臓に悪いからやめてほしいと勇気は思った。
お風呂にヘスティアを案内した勇気は階段を上り、2階に行く。
幸せそうなヘスティアの顔を見るのは勇気にとって今までにない快感だった。
「いや…可愛過ぎる…一つ屋根の下、一緒にいて良い存在じゃないでしょ…」
唯人に自己評価が低過ぎると言われていた勇気も年頃の男子高校生。
従姉妹である祈は例外として女性経験のない勇気に対して最高級の美女ヘスティアは心臓の鼓動を早めるペースメーカーと化していた。
もしもヘスティアとそう言うことになったら——勇気は首を激しく左右に振る。
「駄目だ駄目!落ち着け…ヘスティア様は女神…そんなこと間違っても出来ない…しっかりしろ僕…!」
女神への煩悩をなんとか抑えて当初の目的のことに頭を切り替える。
今まさに入浴中のヘスティア。
勇気は着替えを探さなければいけない。
1人っ子の勇気に女性用の服などあるはずがなくまず母親の部屋に突撃する。
洗濯機にヘスティアの衣服を入れる時に下着らしき物が見当たらなかったと言うことで一瞬、無くても良いかなと考えた勇気。流石にまずいだろうと考え直して母親の物を拝借することにした。
上の方は良く分からないのでとりあえず下だけ確保して次は自分の部屋へ。
母親は身長が大きく、スカート好き。それに伴いクローゼットに入ってるのもスカートが多い。
身長の小さいヘスティアでは履くことが出来ない。
勇気は自分のクローゼットから白ではない色付きのTシャツ、黒いTシャツを取り出す。
「Tシャツが大きい分には問題ないよね。中学の時のだから今ほど大きくないし」
母親の影響なのか勇気の身長は178cmと日本人にしては高めだ。
急激に伸びたのが高校に入ってからなのでそれ以前の服なら大き過ぎない。
そのままクローゼットの奥にあるプラスチックの衣類入れから中学時代のジャージの半ズボンを取り出す。
腰の部分にはゴムと紐が入っている。
「これならヘスティア様でも履けるかな?」
それら着替え一式を洗面所のカゴに入れる。
「着替え、置いといたよ」
「ありがとうございます」
お風呂場から反響した返事が来る。
ヘスティアが薄い曇りガラス1枚だけで隔たれた洗面所にいることにある意味で身の危険を感じた勇気は着替えを置いてそそくさと和室に戻った。
「そう言えばヘスティア様って見た目は女の子だけど神様だから凄い長生きしてるんだよね。敬語使わなくて大丈夫かな」
今更になって言葉使いの心配をし始める。
度重なる美少女の世話の緊張と夏の暑さで体が火照ってきた勇気は冷蔵庫に入っていたラムネを飲むことにした。
キャップ部分のラベルを剥がしてプラスチックのパーツを分離させる。
凸の形をした道具で飲み口のガラス玉を瓶の中に押し込めば瓶とガラス玉が当たって心地の良い音が鳴る。
暑い夏で気分的にも涼しくさせてくれるラムネを飲んでいるとお風呂上がりのヘスティアが和室に入ってきた。
「お風呂、ありがとうございました」
ダボダボのTシャツにジャージの半ズボンが組み合わさった女神の名に似つかぬラフな格好。艶々しい滑らかな肌と温まってほんのり赤く染まった頬。
肩に掛かるか掛からないかまでのふわふわな髪の毛はまだ少し湿っている。
前に唯人から聞いた話があった。
——風呂上がりの女の子は破壊力が違う!
正直、理性が破壊されそうである。
「可愛い…」
「はぇっ!?な、なんですかいきなり!?」
「ご、ごめん!つい本音が…」
「謝るようことでは…うぅ…思いの外、真正面から褒められるのは恥ずかしいのですね…」
「神様なのに?」
「あれはただ崇めているだけですから今の勇気様とは話が違うんです。何人かに求婚されたこともありますが…まあさっき説明した通り処女神なので察してくだい」
素で可愛いと言われたのは初めてなヘスティアであった。
「とにかく!事の次第を説明しますね!」
ヘスティアは重要な部分を掻い摘んで勇気に説明する。
遥か昔の時代、今では神話として語り継がれている物語に登場する神々は地球に存在していた。
ヘスティアの登場するギリシャ神話は当然、有名なところでいくと北欧神話も日本神話なども全て事実。神話に記されている逸話と実際の出来事に多少の差異はあるのだが。
かつてのブリテン島——現在のイギリスで人々と良好な関係を築いていたヘスティアたちオリュンポス十二神。ゼウスの雷霆やヘパイストスの鍛冶技術と言った神々の強大な力に憧れた人々はゼウスに望んだ。
——我らにも異能を授けてください。
その願いを聞き入れたゼウスは人々に『魔術』を授けた。
言葉での詠唱や魔法陣を介して使うことの出来る魔法。この魔術を使い始めたことで世界に魔法が定着するのはまた後の話。
「えっ?ちょっと待って、イギリス?《《ギリシャ》》神話なのに?」
「えーっと…では勇気様は学校の先生や両親のことを物語として書こうと思いますか?」
「……思わないかな。だって面白くないと思う」
「それが答えですよ。ブリテンの人々にとって私たちは当たり前の存在ですからわざわざ書物には記してないのです。海を挟んだ島に住む私たちの噂を聞いたギリシャの方々が書いたからギリシャ神話になった。と言う訳ですね」
神様に会えたことだけでも驚きなのにまさかの事実に勇気は感心する。
ヘスティアの話は続く。ここからが本題。
魔術を取得した人々はある日、神を恐れるようになった。
こんな便利な力を簡単に授けられる神をこのまま放ったらかしにしていいのか。
自分たちの生活を豊かにしてくれた神々を恐れた人々は大規模な魔術を生み出して、ヘスティアたち神様を全員遠い遠い外宇宙へ飛ばしてしまった。
その恩知らずな行動は多数の神々の逆鱗に触れた。
時間を掛けて地球へと帰還したゼウス一行はブリテン島で栄えていたオリュンポス王国に宣戦布告。
しかし、大激戦の末、当時の王となったレイトの真摯な態度に負けを認めたゼウスは地球から身を退いて深い深い海の底に国を建てて暮らすことにした。
「この後も色々ありますが私たちとは関係ないから省きますね」
「じゃあヘスティア様が出てきたってことは地球で何か問題があったってこと?話の流れから原因は僕たち人間な気がするけど」
「汚染された空気や自然破壊、人では修復不可能なオゾン層の破壊…挙げればキリがありません」
「うっ…やっぱり…」
「ゼウスの目的は地球の支配…ですが!私は違います。確かに結果としては悪くなったのかも知れませんが科学は魔法を失った人々が編み出した叡智の結晶。私は必死に生き抜こうとした人間を悪く言うつもりはありません」
悪い影響もあるのは確かだが神の恩恵を失った人間が現代まで科学の発展で生き抜いてきたのもまた事実。
ヘスティアは人間の意思を尊重する側だ。
「私の目的はゼウスたち、世界支配組とでも言いましょうか。それを止めることです」
「つまり相手は神様で残りの11の神々?」
「いいえ。全員が全員同じ考えではないので…ですが私も皆んなのことを把握してはいません…ゼウスが支配組、ヘルメスが中立なことくらいしか…」
それにオリュンポス十二神以外にも神はいる。
「もし勇気様が良ければ協力してくれないでしょうか?」
「大したこと出来ないけどそれでも?」
「私は家内安全の神でもあります。ゼウスの統治下でも人々の安らぎに私の存在は必要不可欠なので私を匿ってくれるだけでも計画が遅れるのです」
私って凄い神様でしょと言わんばかりにヘスティアが得意げな顔をする。
小さい頃の祈を見ているようだ。
「まだ後少しだけ学校があるんだけどその間はどうしよっか。1人で家にいるのも退屈だと思うんだけど」
「学校に私も連れてってください」
「……え?」
「あれ?私も学校に連れてってください」
「語順の問題じゃないよ!?だって先生とかにどうやって説明するの!?」
「勇気様は高校生でしたよね?」
「うん。それが何か関係あるの?」
「なら大丈夫です。きっと私を見ることは出来ません。今の人たちはギリシャ神話の信仰なんて無いに等しいので普通の人は視認出来なければ声も聞こえません」
ヘスティアたち神を認識するにはそれ相応の信仰が必要になる。
信じてない人に神を視認することは出来ない。だからヘスティアは勇気のように見える誰かを探して走り回っていた。
その時から周りに見られていたのなら朝のニュースで鎧を着た不審者出没のニュースが流れているはずだ。
「きっと私に関われば幾つもの危険に晒されることになるでしょう。常識だってひっくり返るかも知れない。それでも私を助けてくれますか?」
助けを求めること。
それはヘスティアのわがままだ。
何も知らない人にいきなり地球の存亡を賭けた戦いに参加してくれと頼んでも普通は受け入れはしない。
たとえ受け入れたとしてもその先にはどんな危険が待ち構えているのか、死ぬ可能性だって十分にある。
ヘスティアは最後の念押しをして勇気に問いかける。
困り果てた女神が何の取り柄もない自分に助けを求めている。
「約束する。絶対にヘスティア様を守る」
勇気は助けを求める可愛い女神の願いを聞き入れた。
そっと小指を差し出す勇気。
ヘスティアも知っている日本のおまじない。
「よろしくお願いします。勇気様っ!」
同じく小指を差し出し——指切った。
話が終わり、勇気がお風呂……ではなくシャワーを浴びた後のこと。
「そう言えば勇気様のご両親は?」
親の影が見えないのが気になったヘスティアが勇気に聞く。
「お父さんとお母さんはずっと帰ってきてないんだ。考古学者なんだけどムー?レムリア?そんな感じの大陸の調査行ったっきり行方不明になっちゃって」
「えっ…?」
勇気の発言にヘスティアが驚愕する。
「驚いた?僕はきっと帰ってくるって思ってるんだけど周りはもう…ね。一応お金だけは貯まってたから生活に苦労はしてないから心配しないで」
「そうだったんですか…帰ってくると良いですね」
「そう言ってくれたのはヘスティア様だけだね。ありがとう」
ヘスティアの心が締め付けられていることを勇気は知らない。
その胸中を知らないまま勇気が気になっていることを聞いてみる。
「敬語使わなくても大丈夫?」
「構いませんよ。寧ろ砕けた口調が友達みたいで新鮮なのでこれからもそのままでお願いします。呼び方も様付けなんてせずに…あだ名が欲しいです!考えてください」
「あだ名…あだ名かぁ…」
「あれ!?変なこと言いましたか?」
生まれてこのかた人をあだ名で読んだことがなければ友達も多くない勇気にあだ名を考える発想は無い。
困ったヘスティアは自分で提案することにした。
「ではティアと呼んでください。これなら兵士が近くにいても隠し通せるかも知れません」
「ティア…ティア…うん、分かったよティア」
「あぁ…なんだかよく分からないけど良い気持ちです…」
「そうなんだ…」
勇気に神様の感性は理解出来なかった。
母親の部屋にヘスティアを案内して勇気も自室のベッドに横たわる。
ベッドに寝ているヘスティアは嬉しそうにしていた。
「まさかこんなに早く協力してくれる方が見つかるなんて…それに…ティアって呼んでくれました…こんなの初めてです」
神話知識の無い勇気ではあったがヘスティアは優しい人だと思えた。
突然の出会いでもバイクの後ろに乗せて逃走を手伝い、その後も飲み物やお風呂、着替えまで用意してくれて、頼みまで聞いてくれた。
あんな突飛な話を聞かされて即断即決などそうそう出来ることじゃない。
ただ、1つだけ気になることがあった。
「特に何らかの影響も信仰もなかったようですがどうして私たちが見えたのでしょうか?」
ともあれ助けてくれたことに感謝しかないヘスティアは追いかけ回された疲れで気付かぬうちに深い眠りへと誘われていた。