五月の雨 ― ある遊女の物語 ―
「早月姉さん。贈り物でありんす。先刻、松秋さまの使いより預かりんした」
黒南風が雨の気配を運ぶ午後。
飾り格子の嵌められた窓傍の文机にて客への文を認めていた早月は、自身の新造である早風の声に筆を止めた。
「…これへ」
早月の隣、示されたその場所へ一抱えほどの大きさのある贈り物をコトリと置いた早風は、包まれていた紫色の亜麻の布を丁寧に解く。
そうして現れたのは、漆塗りと緻密な金細工の施された豪華な煙草盆と細長い桐の箱。
姉女郎に贈られたそれに、早風は「わぁ…!」と感嘆の溜め息を零した。
「立派な煙草盆…! さすがは松秋さまでありんす。早月姉さんが散茶女郎に位上げしたお祝いの品でありんすね」
両の手を胸の前で合わせて、キャッキャとはしゃぐ早風。
早月はそんな妹分には反応せず、添えられるように梱包されていた細長い桐の箱をそっと手に取り、その蓋を押し上げた。
「……」
殊更、大切に梱包されていたそれは新品の煙管。
美しい茜色の羅宇は煙草盆の長さに見合うほど細長く、磨き抜かれた銀の雁首と吸い口は曇天の僅かな光にも輝く。
箱から取り出してみれば、それは当然のように早月の手に馴染んだ。
雁首に彫られた栗の花を、そっと、指先でなぞる。
「わぁ…!煙管も素敵でありんすなぁ!早月姉さんにとてもよくお似合いでありんす」
手に取られた煙管を目にして、早風はさらにその瞳を輝かせ、しきりに松秋を称賛する。
早月の上客の一人であり、若くして贔屓の遊女を持つまでの財力を築き上げてしまった豪商の青年。
見目も良く、性格も軽妙洒脱。しかし垣間見える強い意志を秘める瞳に、密かに憧れを抱く遊女は少なくはない。
それは、早月自身も例外ではなかった。
上客の紹介で出会ったのは、早月が水揚げをして間もなくの頃。
元服をして間もなかった彼とは、しばらくは上客の付き添いという形でただ席を共にしていた。
一年が経ち、二年が経ち、そうしていくつの月日を数えたかはもう定かではないが、いつの間にか立派な青年になっていた彼と二人きりで席を共にするようになり、彼から与えられる熱と共に夜を過ごすようになり、…気が付けば早月の古参の常連の一人となっていたその人に、花を売る者にあるまじき想いを抱いてしまっていた。
「姉さん、今宵はその煙管に合う、うんと上等な打掛で松秋さまをお迎えいたしんしょう? 近頃はお見えになっておりんせんが、こうして煙管を贈られたのでありんすから、きっと今宵は…」
素敵な贈り物に心を躍らせる早風の言葉を、しかし早月は最後までは言わせなかった。
「松秋殿は、もうお見えにはなりんせん」
「…、…え?」
「これは、手切れの品でありんす」
朝が来るたびに。
その背を見送るたびに。
焦がれる想いに身を窶し、“次”の日を指折り数えた。
伸ばせるはずのない手を袖の中で握りしめ、空虚な掌に ぬくもりを探した。
『――…早月、言わなければならないことがあるんだ……………――』
「…松秋さまが見えない…なんて…、…何故でありんす…?」
告げられた言葉の意味が理解できず、早風は目を大きく瞠ったまま疑問を零す。
松秋がもう来ない。
それは、早月の妹分である早風にはあまりにも受け入れられない言葉であった。
何故ならば、禿の頃より仕えていた姉御分とその若き上客とは、心から想い合っているように見えて。
松秋の手掛ける事業もとても上手くいっていると、何をせずとも聞こえて来て。
いずれは、自慢の姉御分は才気溢れる青年に身請けされて、笑顔で此処を去っていくのだと。
そう信じていたから。
早月は手に持つ煙管に落とした視線をそのままに、ひとつ、ゆっくりと瞬きをしてから早風の疑問に答えを返した。
「…………………………秘密でありんす」
「!」
虚を衝かれてさらに両の目を真ん丸くした早風の顔をチラリと見た早月は、妹分のその顔にフフッと笑みを零す。
それはあまりにも美しい笑みで、早風は暗に指摘された自らの未熟さと相まって赤くなった顔をフイっと下を向くことで誤魔化す事にした。
知らず知らずに踏み込んだことを聞いてしまったことを悔いるが、それでも一度抱いてしまった不満は心のうちに渦を巻く。
“姉さんはそれでよかったのか”など聞けるはずが無く、しかし己の内に留めておけそうもなく、早風は、代わる言葉として ぽつりと松秋への悪態を吐いた。
「…松秋さまは、とんだ甲斐性無しでありんすな…」
「………」
早月は微笑むだけで、言葉を返すことは無かった。
そうして、言葉のない空間が部屋を満たした頃。
不意に ぽつぽつと屋根瓦を叩く雨の音が部屋に訪れ、早月は窓の外へと視線を向けた。
早風も俯けていた顔を上げ、早月の視線を追って窓の外を見遣る。
しとしとと柔らかな雨が空を濡らし、向こう隣の楼閣の屋根を斑に染めていた。
風は ゆるりとぬるく、雲は濃さを増していく。
「…この暗さでは、文の続きは書けそうもありんせん。早風、灯りを」
「はい、姉さん」
早風は求めに応じ、早月への礼を返した後に油を取りに行くために部屋を辞す。
静かに閉められる襖の音を意識の端に入れながら、早月は窓の外を眺めやる。
想いを馳せるのは、ひと月前のこと。
松秋と過ごした最後の夜。…
『――…早月、言わなければならないことがあるんだ』
『何でありんしょう』
『………嫁を、貰うことになった』
『…、…』
『早坂さんの末娘だ。三ヶ月後に、式を挙げる。…恐らく、もうここには来れない』
『…それは、おめでたいことでありんす。松秋殿も、ご立派になられてようござんした』
『…早月、』
『なれど、それを わちきに言うは野暮。ただ、“廓遊びには飽いた”と、そう言っておくんなんし』
『…私は、貴女を娶りたいと思っている』
『、……』
『あの日。早坂さんの紹介で貴女と出会ったあの日から、私は貴女の虜となった。貴女をいつかこの手にするために金を稼いだ。私が欲しいのは、今も昔も貴女だけだ。他の女など欲しくはない』
『……わちきを、側妻にお望みでありんすか』
『私と、共に生きてはくれないか。貴女の居ない人生になど、価値は無い』
『…、……』
好いた人から望まれた。
望むべくもない人から、こんなにも真っ直ぐな想いを告げられた。
これほどまでに、しあわせなことはあるのだろうか。
『…、……松秋殿』
けれど早月は、同時に思ってしまった。
“…ああ、ダメだ”と。
“この話を、自分は受けるわけにはいかない”と。
早坂は、東の商会組合の総元締めである。そんな人物の娘を貰い受けるという事は、早坂が松秋をとても高く買っているという事の証左に他ならない。
けれど、早月の居ない人生に価値は無い とまで言い切るこの人は、“早月以外の女は要らない”と言う。
松秋という青年は、早月との会話においては想いの乗らない言葉は決して使わない。
早月が彼の手を取って側妻となれば、それはそれは大事にしてくれるのだろう。
それこそ、正妻を顧みずに。
早坂は、身内をとても大事にする。
娘が蔑ろになどされたなら、松秋はもう今までのように生きていくことは出来なくなるだろう。
買い物一つ、満足に出来なくなるかもしれない。
いつだったか早坂は、長女が嫁ぎ先から不当な扱いを受けているとの報せを受けて、謝罪と待遇の改善がなされるまで相手一族を商会組合から爪弾きにしてやったのだと、長女への思いと共に口にしていたことがある。
その他にも自身の身内に何かあれば黙っている事などしない人であり、こういった話は枚挙に暇がない。
下手な大名家であっても早坂には手出しは出来ず、味方であればとても心強く頼もしいが、敵となるとこの上なく恐ろしい。
決して敵に回してはいけない人。
早坂とはそういう人物だと、早月はよく知っていた。
あくまでも憂慮であることは分かっている。
松秋のことだ、きっとうまく立ち回る。
早月は ただ松秋を信じて、差し出されたこの愛しい手に縋りつけばいい。
…それでも、無邪気に手を取るには あまりにも相手が悪すぎた。
早坂は恐らく、松秋が側妻を持つことを望んではいない。
末娘は目に入れても痛くないのだと、嬉しそうに話していた姿が思い出される。
目を掛けている松秋であれば、大事な娘を任せられると思ってのことだという事も分かってしまう。
仮に松秋が側妻を持つこと自体は許されたとしても、それが“早月”だなどと、どんな裏切りに思うだろうか。
遊女は それ自体が、持つ者の社会的地位を示す一種の飾りである。
嗜むものであり、入れ込むものではない。
…だから、早月は。
『……このお話、頷くわけには参りんせん』
『っ早月…!』
『わちきは遊女でありんす。主は、ただの客でありんすよ』
『…ならば、何故泣いている…!何とも思っていないのならば、涙など流す必要はないはずだ!』
『…、っふふ…。遊女の涙を、信じてはなりんせん』
『……どうしても、頷いてはくれないのか』
『…、…』
『…っ早月…!』
掻き抱かれた腕の熱さに、制御の利かない涙が止め処もなく流れていく。
手放さなければならない背中に両の手を添え、彼の温度を身体に刻み付けるように抱きしめ返した。
『……、…なれば、一つだけ。一つだけ、我が儘を叶えておくんなんし』
『…何をすればいい。どんな願いでも叶えてみせよう』
『…想いの、証が欲しいのでありんす。“わちきと過ごした時間は満たされていた”、という、主の想いの証が』
乞われたものの示す意味に、松秋は悲痛に顔を歪ませる。
早月が強請ったのは、手切れの品。
“わたしを想い出にしてください” という願い。
固く口を引き結んだ松秋へ、早月は静かに笑みを見せる。
…そうして、“これ以上の言葉は不要”と告げるように唇を重ねたのだ。―――……
しとしとと、雨が降り頻る。
ひと月も前のことだというのに、鮮明に思い出せる自分に 早月は小さく自嘲の笑みを溢した。
呼ばれるように、手に持つ煙管へと視線を落とす。
「…栗の花に込める想いは多々あれど、わちきが受け取るべきは“満足”でありんしょう。…贈るに適した花とは言い難くはありんすが………おかけで、主の名に迷わずに済んで ようござんした」
煙管をそっと撫で、早月は微笑む。
「“つゆり”。これから、どうぞよしなにお願い致しんすね」
痛む胸も苦しい想いも、いずれは全て記憶になるだろう。
それまでは、噎び泣く心は雨に委ねて時を待とうと、早月は再び空を眺める。
膝に置いた右手の甲に、ぽたりと、一粒の雫が触れた。