無題
こく、と一口。
散らかったデスクに置き去りの、
いつ淹れたのかわからないそのブラックコーヒーを口に含んだ。
予想通りの苦さだった。
瞬間、飲み込むのを待って甘さを探せど、どこにも見つからない。
ああ、と思った。
飲まなければよかった、と思った。
この味を私は知っている。
予想通りに苦くて、待てど暮らせど甘さはみつからず、飲み込んだあとも重く、苦く、私を支配するこの味を、私は知っている。
この味は、私の恋に似ている。
敵わないのも、叶わないのも分かっている。
あの日見た髪の茶色い、目の大きい、背が少し低いあの人に、私は敵わない。
私はあんなに無邪気に先生の名前を呼べない。
先生はあんな顔で私に笑ってはくれない。
どうしてだろう。
私、もっと早く生まれればよかった?
それか、先生がもっと遅く生まれてくれたら良かったんだ。
それなら私たち、出会ったに違いない。
そうだ。
だから次の人生なら、会えるかもしれない。
もう一度、今度はハンデなしで、恋できるかもしれない。
なんて、もうそんなことを考えるのも億劫だった。
何かをすれば良かったとか、何かをできたかもしれないとか、そんなことを考えるのは今、私が生きている今は、
その私の考えとは全く違うということなのだ。
つまり、今私の頭の中のたらればが幸せであればあるほど、私の生きるこの瞬間が、たまらなく虚しくなるのだ。
本の埃と生ぬるい扇風機の風がまじって
部屋の中を通り過ぎた。
夕日が私の重い前髪をさす。
おい、諦めろ。
おい、前を見ろ。
おい、現実を見ろ。
と言わんばかりに。
諦めてやるもんか。
見てやるもんか、前なんか、現実なんか。
しがみついていたい。
17歳に。
高校生に。
わからない、と丸投げしたい。
いや、いっそのこと早く大人になって、
ブラックコーヒーをすうっと飲んで、
そんなこともあったね なんて、口元だけ笑って言いたい。
その頃には、いろんな苦さとも馴れ合っているだろうから。
「宇津木?」
あ。
その声に、
心臓をぎゅう、と掴まれる。
「何してんだ、こんなとこで…」
「失礼しました」
「おい、宇津木…」
私は駆け出した。
何かを振り払いたかった。
何を?
_______全部を、か。
普段は使わない方の廊下をつっきって、階段を駆け下りた。
悔しさと、恥ずかしさと、情けなさとで
みるみる上がる頬の温度を冷ますように、つうっと涙が流れては落ちた。
好きです。
あなたの、困ったみたいに笑った顔が。
好きです。
女の人みたいに細いのに、なぜか、どこか頼もしい後ろ姿が。
大好きです。
私の名前を呼んでくれる、その声が。
全部が。
私の何が悪かったんだろう。
だって、ブラックコーヒーだなんて聞いてなかったのだ。
飲んだらこんなに苦いだなんて。
知らなかった。
誰かを好きになることが、こんなに苦しいなんて。
どうして?
本当は、ずっと苦いだけじゃあ、ないのだ。
あなたを見ていると、数秒だけ、私の心は綿菓子みたいに甘くなる。
ピンクと水色と、その他諸々みたいな、そんな綺麗な色になる。
その数秒のために、
その数秒に焦がれて、
その数秒に私はずっと、ずうっとしがみついている。
だけどもう、やめよう。
私の大好きなあなたの笑顔は、
きっと、私ではない誰かに向けられて、
私の大好きなあなたの後ろ姿は、
私ではない誰かを励まし、
私の大好きなあなたの声は、
私ではないだれかの名を呼ぶのだ。
先生の薬指には、
私には眩しすぎる何かがきらめいていた。
銀色にきらきら光るそれは、
確かに美しいのだろう。
だけど私は、そのきらめきを、美しいと思えない。
そして、そんな私の美しくない心を、私は許せない。




