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人類が大海を渡り、大陸間の交易が始まって七十年。
人間社会は二つの大大陸と三つの大陸、そして小規模な島国で展開されている。
弱小種族の人間が数を増やし、広く姿を見せるようになったのは、凡そ1700年前からである。以前の世界は創世の女神の手で産み出された六つの因子が交配、繁殖。多様な姿に変わって、不思議な生物が大陸中を行き交っていた。人祖コハイニスィド、狼祖フェンリル、獣祖ソーシュ、鳥祖フェーネンガル、幻祖セイラウド、蛇祖ハオルノ。それらの影響を受け、世界には命が溢れていた。
「人祖コハイニスィドから、人は生まれた。しかし、祖と人は全く異なる生物だ。祖は女神の子。少数ながら長寿で、美しく、丈夫で賢い者たち。彼らは四色の血統を持っているが、全てが聖域という人類から隔絶した土地に住まい、静かに血を繋いでいる」
何かの鍵を持って帰ってきたメイシードは、学院長室の一角にあった椅子に腰掛け、まるで物語を読み聞かせるように語った。
「比べて人間は、コハイニスィドから劣化した種だ。寿命は縮み、肉体は脆く、個体差が大きい。魔力を持つ者が微かに祖の名残を持つが、もはやそれも全体の凡そ二割と衰退。故に、魔術師の家系は魔力を扱うに適した血を残そうと、現在の形となって各の血と魔術を守っている。幸い、人間は個体が劣化するに伴い、季節を選ばず繁殖する力を得た。数を増やすのは上手い。人間社会は人工の増加によって力を強め、安定に至った」
ルシアナ老は窓の外を眺めていた。
晴天の空を見上げれば、世界を貫く大聖樹の枝葉がキラキラと日差しを反射させている。それは視界を埋めるほどの大木が、学院と周辺の街街を厳しい猛暑を守っているようにも見えた。
「人類は大陸の主導権を握るに当たり、1700年前「世界との約束」を行った。不老不死の幻祖セイラウドを証人に、人祖コハイニスィドに生活圏を拡張する許しを請うたものだ。数を増やし過ぎた人間は、他の種にとって害病のようなものだろう。人類迫害の記録、それでも生きる権利を得ようと、人は祖に救いを求めた。コハイニスィドはこれを許し、引き換えに人類との関わりを絶つ。女神が触れた最初の大地、聖域にて人の進入一切を禁じ、破った者には無惨な死を与えた。ーーそうして「世界との約束」後、人は更に勢力を伸ばし、現在、最も数の多い種となったわけだ」
パチン、と指を鳴らした。
メイシードは顔を上げ、語調を少し強めた。
「以降、祖は女神の意によってのみ、歴史の節目節目に姿を見せる。一番最近の記録は、誰もが知る通り四十年前の戦乱。その終息を成した七大英雄が一人、聖レディ・リナだ。彼女は、実に希有な存在だ。歴史上に語られるコハイニスィドの中で、最も奇怪な人物だ。と、いうのも。女神の代行として聖域より出向いたのは確かだが、終戦後、十余年の時を経て彼女は英雄リーバス・アージ・ザハーランと結婚! 肉有る有限の身とはいえ神類である祖と、一人間に過ぎない男が所帯を持ったのだ! 意味が分からない。理屈で物を判別する我らには、到底、理解の及ばぬ話だ!」
生徒二人は、教師の言葉に耳を傾けながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
「そうして生まれた、二人の王子。一般的には一人とされているが、この聖霊院では正確な情報を伝えよう。大英雄リーバスと正妃レディ・リナの子は、二人だ。そして、魔術の圧倒的な才能を持ちながら、正当なる王位後継者。それが・・・・・・イーヴェル・シヴァ・ロウ・ザバーランだ」
「ひぇ〜!」
声にならない悲鳴の吐息で、ルクスとアージットは戦慄いた。
「彼は比較的自由な未成年時に、聖霊院を卒業した。私とブライトにとって、一期上の先輩だった」
「わぁ・・・・・・改めて聞くと、嘘みたい。知ってたけど信じられない。メイシード先生が面白おかしい嘘をついてるようにしか聞こえない!」
「良い度胸だな優等生!」
アージットが冗談を言うと、メイシードも怒り口調に調子を乗せて応じた。
話を聞き終えても緊張状態のルクスは、半ば呆然と呟く。
「兄さん、そんなスゴい人とすれ違いながら勉強してたのか・・・・・・」
「すれ違い? どこがだ! ブライトなんぞ正面衝突してからのUターンして併走する暴走車のようなものだ」
「へ?」
その呟きにも、すかさず突っ込みが入った。それにしても良く口が回るものだ。素直に感心する滑舌である。
「さっきも話しただろうが。ヤツは魔術に関して生真面目が過ぎた。目の前に神秘の泉があるんだぞ? 飛び込まずにいられるはずもない! ヤツの基本は大人しく慇懃だが、ことイーヴェル殿下に関しては理性と礼節を弁えただけの、知識欲に駆られた悪魔の様相だった!」
「・・・・・・? ・・・・・・!?」
「先生ー、ルクスの思考が追いついてませーん」
そこで。
ふっふっふ、と笑い声が響いた。ルシアナ老は背後を振り返り、教え子三人に微笑んだ。カーペットに零れた紅茶をトントンと叩いていたルクスは、何故か楽しそうな老爺を眩しそうに見上げた。彼はとても純粋な黒目をしていて、決して年や疲れというものを感じさせなかった。
ルシアナ老は、自身の机から何をか持ち上げる。頑丈そうなボックスバッグだ。それを、ソファの前のテーブルへ。メイシードが持ってきた鍵とともにそっと置いた。
「今回、君に頼みたいと思った理由は、そこだ」
箱には見覚えがあった。論文や資料の保管に遣う、個人用の資料箱。
少し古びれているが、強固な錠と魔術とで封じられているのはルクスたちのものと同じだ。
「イーヴェルとブライト、彼らは友人だった。誰もが崇拝し、魅了されたイーヴェルを、ブライトは特別視しなかった。つまり、魔術師的に言うとーー貴重な研究対象として、観察していた」
「はっ?」
「奇妙な関係であったが、イーヴェルは楽しんでいた。なんせ生まれてこの方、珍獣扱いなどされたことがなかったのでな。そんな気さくに、遠慮のない友人など、彼は望むことすらなかったのだ」
ルクスは思った。
(何やってんの、兄さん!)
と。
「ブライトが入学するまでの一年、私はイーヴェルに帰国を促すこともあった。彼は、自分が周囲にもたらす影響を加減することが出来なかった、分からなかったのだ。自分がどれほど、他者に比べて特別か、ひと目で人の心を捕らえるかを。それで自身が苦しむことも多かった。恐らく、あまりにも多くを持って生まれたが故に、それらの扱い方を身につける時間が足りていなかったのだ。学院の卒業生で教育係のクリスと、我が友リーバスに頼まれ、受け入れたが・・・・・・。イーヴェルの才覚は、私の手に余るほどだった」
ルシアナ老はあくまで明るい空気で話した。
「それが、真面目かつ奇抜な友人を得て、瞬く間に好転した。一期下とはいえ同い年で、何でも思ったことを話す友と関わり、イーヴェルは一般的な常識と物差しを手に入れたのだ。そこからは簡単。目安さえあれば、彼は人付合いも立居振舞いも、最適値で示して見せた。ほんの少し、しかし誰にも出来なかったキッカケを、ブライトはイーヴェルに与えたのだ」
ルクスはそれらを、唖然として聞いていた。
聞けば聞くほど規格外な王子様と、自分の実の兄が、そこまで親しかったなど。なかなかに衝撃だった。
「イーヴェルが卒業する少し前、ブライトは消息を絶った。・・・・・・イーヴェルは国へ戻り、数ヶ月後アーリン家の事が明らかとなる。卒業時、あの子はブライトのことを随分気にしていたよ。連絡がなかったのでな」
どき、と心臓が跳ねた。
「そう・・・・・・だったんですか」
ルクスは俯き、そっと息を吐き出した。意識して、深い呼吸を繰り返す。
「何も聞いていないかね?」
「・・・・・・初めて聞く話です」
ルシアナ老は、すと目を細めた。
そこにメイシードが手を挙げ、割って入る。
「ブライトはアーリン家を信用していませんでした。学院長、イーヴェル王子と親しいなどと明かしては、身内に何を企てられたか。友人としての義理立てでしょう。あいつは弟にも、何も言わなかったはずです」
「なるほど」
老はまた笑顔になって、ルクスとアージットを向かいのソファに促した。二人はカーペットの掃除を止めて、ちょこんと座る。
「ルクス、これがブライトの資料箱だ。君に託そう。一つ、約束をしておくれ。この中には、あの子の姿が記された資料が入っている。イーヴェルという子が、どういう存在かを心に留め、慎重に扱ってほしい。・・・・・・君の愛する兄が友と過ごした相手は、今、あらゆる危険に晒されている。この資料が命取りになりかねないと、心得て」
その意味を漠然と理解して、ルクスは震える手で鍵を受け取った。
目眩がしたが、それを受け取ることを躊躇いはしなかった。
(兄さんの、生きた証・・・・・・)
入学したばかりの頃、ルクスは文字通り学園中を走り回った。兄の名前、彼が過ごした場所、残したもの、何か、何でも良いから必死で求めた。
(家には、何も・・・・・・何もなくて。やっとだ)
若くして亡くなった兄。
卒業の記録にも載らなかった。名家とは名ばかりの末席では、出来ることも少なかった。彼の足跡はいつも薄く消えかけ、あるいははじめから存在しなかったかのように、微かだった。
「静かなところで開けるといい。相談があれば、いつでも頼りなさい。ーーそして、もう一つの本題だ」
ルシアナ老は背筋を伸ばし、真剣な声音で言った。
「君には、この資料を元にイーヴェル捜索の任に就いて貰いたい」
柔らかな言葉だったが、そこに異論は許されない空気が、確かにあった。
「あ、あの、学院長! イーヴェル王子は死んだと言われています。ラディア崩壊から、たくさんの魔導師が行方を追い、何年も探したはず。フォルジュの家の魔術師もです。それを、どうして今になって?」
アージットは、思い切って尋ねた。
完全に飲まれているルクスに変わって、彼はいくつもの疑問を口に出した。有名な魔術師の名前、使用された魔術、捜索範囲など、彼は数年前のことも正確に記憶していた。そして、それだけやっても「見つからなかった」ことを、「死んだ」と結論づけたのがルシアナ老自身であることも指摘した。
「確かにそう思った。そのとき、私は諦めた。捜索から四年、何一つ情報は手に入らず・・・・・・あの美しい子はもう、この世界のどこにもいないのだと。ーーだが、ここに来て有力な情報が入った」
「有力な情報?」
「君たちは、ディア・ログストを知っているかね?」
「ラディアを滅ぼし、以降、勢力を増して国潰しを進める新デュオン帝国。その非情な行いに、力を合わせて立ち上がった諸国の連合国軍、ですよね? 終戦の七大英雄を参考として、国・人種・能力に関わらず力を集めた、反帝国軍勢力の主力。でも・・・・・・発足こそせど、足並みが揃わず、実際に戦功と呼べるような成果は上げていないとか。・・・・・・規模が大きすぎたのでしょう」
「恐らくな」
「って、まさか?」
ルシアナ老は大きく頷いた。
「ディア・ログストこそ、この情報の提供者だ。総監のリビランテ・アウロレスから特命の遣いが来、彼らは魔術師の協力を求めてきた。世間から身を隠すイーヴェルに、結界など使われては太刀打ちできん。聖霊院を頼るのは妥当だろう」
「し、しかし」
ようやく、ルクスは声を上げた。
「いくら兄の資料が、王子のことを記しているとはいえ・・・・・・彼を見つける術に成り得るでしょうか? それに、どうして私がっ? ご存じでしょうが、私は【無才の魔術師】です!」
「自分で言う?」
「きっぱり言い切るとは、潔いな」
「いや、だって本当ですし」
とにかく、とルクスは必死に訴えた。
「私には荷が勝ちすぎます! 王子の捜索なんて重要な役目・・・・・・罰ですから、やれと言われればやりますが。でも、ご期待には添えないかと・・・・・・っ」
「そうかね?」
そうかね、とは。ルクスは面食らった。
「優秀な魔術師、魔導師、そして賢者と呼ばれた私も、四年もの間を探し続けた。諦めても尚、心のどこかでは「まだ生きているかもしれない」と考えながら。だが、見つからなかったのだ」
敬愛する友人の子。誇らしい教え子。彼にとって、その心痛がいかばかりかは知れない。
だが、死んだと思った相手のことを、諦めきれないでいることの重さは、ルクスにも分かることだった。
「それが・・・・・・生きていた。生きているのに、これまで情報の一つもなかった。誰にも、出来なかったのだ。ーー結果的に、その方が良かったのかもしれん。それで静かに暮らせていたのなら。だが私は己を恥じたよ。何故あの時、諦めてしまったのかと・・・・・・リーバスとレディに、申し訳がなくてなぁ。何もなかった私に、希望をくれた仲間たち。その愛する子どもに、私は何もしてやれていないのだ」
何もということはない、と思った。彼は己の持つ実力と権力とを振るい、精一杯に探した。その片鱗を、誰もが感じていたはずだ。
「今回、イーヴェルが身を寄せる土地、その大体が絞られている。そこへ同じ者を向かわせたとて、結果は変わらんのだろう。それだけ、イーヴェルは警戒している。己が世に及ばす影響を恐れているのか。彼は全力で、外からの接触を拒んでいる。再び「死」という結論がつくまで」
これが冗談や憶測でないことを、ルシアナ老のまとう空気が物語っていた。確信を持ってのことだとルクスには思えた。
「見つけて、伝えて欲しい。我々は彼の味方であり、あらゆるものから守る決意があることを。その力を蓄えたことを。私がそれ程までに、リーバスやレディに強く恩を感じていることを。・・・・・・残された可能性は、もはや資料箱にしかない。心許した友、ブライトにしか、我らは頼りがないのだ」
魔術の最高位を持つ老爺に、優しく手を握られた。その手はしわだらけで、温かかった。そして、微かに震えていることも見て取れた。
「あの子はまだ、まだ、生きていたのだ・・・・・・」
あの子は、と。彼は嬉しそうに繰り返した。