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八年前に出会ったとき。七大英雄の一角、生ける伝説の一人、ルシアナ・マゼンタは一言も喋らなかった。
その頃の記憶は朧気で、ルクスはこの顔をよく覚えていない。
世話係の女性がやたら気を遣ってくれたのと、初めて会ったフォルジュ家当主が話をしていたのは、記憶に残っている。その後は自宅に戻って、二年間ひたすらに勉強した。聖霊院に入ることを、ご当主と約束したからだ。
「来たか」
「ルクス!」
学院長室は、その頃の印象とあまり変わらなかった。
入ってすぐのソファに教師が一人、立ち上がって駆け寄ってくる友人が一人。友はルクスを見て驚いていた。
「アージット」
「鼻血が出てる! 大丈夫? すぐ戻ると言ったのにごめん、呼び止められてしまって」
「いいよ、俺は平気。リックは?」
「別の先生が取られた物を回収しに連れて行った。でも君、やり合うつもりはないって言ってなかった?」
「あは、やってしまいました・・・・・・」
布を貰って顔を拭く。ルクスは申し訳なく答えた。
「ならいっそ、最初からすれば良かったんだ! 僕も一緒に戦ったのに。あーあ、ノルサーに鬱憤を晴らす機会を逃してしまったよ!」
残念、とアージットは大げさなジェスチャーをした。教師の手前、冗談っぽく言ったが、結構本気だということがルクスには分かった。
「ふっふっふっふ!」
「楽しそうですね、学院長。先ほどの騒ぎ、余程お気に召しましたか」
「若い頃を思い出してな。君はどうかね? ジェン」
「面倒はごめんです。しかし、アージット・フォルジュの手腕には関心しました。先手を打つといって、もうフォルジュの当主に手紙を出しましたよ」
ルクスはぎょっとした。
「早!」
「ノルサーが自分に良いように報告して、君が不利になるのは頂けないだろ。事実を簡略化して、リックの参考書や鞄を弁償してやりたいんですーって、頼んだ形だ。君が助けに入ったけれど、意図せず騒ぎが大きくなった旨も書いてある。メイシード先生から「子細に及ばず、学院内の些細な諍い」と一筆頂いたから、そう大きくはならないさ」
「さすがぁ」
友はえっへんと胸を張った。優秀な上にこの敏腕さ、頼もしすぎる。
さて、と呟いて、ルシアナ老は一人掛けの椅子に座った。ルクスはアージットの隣に座り、向かいのソファでメイシードが紅茶を淹れた。香り高く、良い色が出て美味しそうだ。食堂や寮の安物とは違う。乱雑なようで調和の取れた調度品もそう。机やペン立ての中身まで、上等な品が揃っていた。
「気になる物があったらコッソリ持って行け、大抵気づかれん」
「え! いえ、そんなつもりでは!」
「冗談だよ。・・・・・・メイシード先生は悉く本気のように言うけれど、実際やったら弱みを握られて、卒業まで忙しなく雑用を押し付けられるんだ。悪魔学専攻の生徒には、結構いるんだよ」
「正当な交換条件だろう? 窃盗は大罪だが、学生の内は名誉挽回の機会を与えてやれるのだ。専攻学科の役に立って働けるのだから、泣いて喜ぶところだろうに。特にアージット、お前は優秀なのだから私の助手でもやればいい」
「良いように言って、結局は馬車馬のように働かされるだけでしょう? 三年次の恨みは忘れません」
「ちっ」
舌打ちが聞こえた。対するアージットは、どこ吹く風。不思議な距離感だ。
「お前は可愛げがなければ、ルームメイトのような面白味もないな。童顔を生かして年をごまかし、下級生の授業に忍び込んでは暇を潰す位の遊びを覚えろ、優等生!」
「何で知って!?」
「あーごめん、君の事をいろいろ聞かれて、ついつい話してしまった」
「えー!」
「安心しろ、別に学則違反ではない。お前の兄貴は上級生のカーディガンをカードで奪い、忍び込んだ上に堂々と挙手して質問こともあるぞ」
「兄さんが!?」
「あれは勤勉を拗らせた真面目な暴走車だ。因みに私も便乗したが、ヤツが目立ったせいで追い出された」
知らなかった。ルクスは兄のエピソードに驚嘆した。彼の中の兄は確かに勤勉な青年だが、どちらかと言えば大人しい物静かな印象だった。
アージットから専攻学科の担当教師、メイシードについての話はよく聞いている。授業でも顔を合わせていて、以前「お前の兄は同期だった」と聞いたことがあった。
こうして向かい合って話すのは初めてで、淡々とした口調と表情でお堅い印象の男が、びっくり箱のようなに次々話すのは新鮮だ。メイシードは紅茶を配り終わり、受け取ったルシアナ老がカップを口に運ぶ。
ルクスはようやく鼻血が止まり、ホッとする。温かな紅茶を流し込んで、息をついた。
「一息ついたところで、本題を話すとしよう。先に確認するがね、ブライトに関わる、引いてはアーリン一族の資産にも関わる話だが、アージット・フォルジュの同席は許して良いかね? ルクス」
「大事な話?」
アージットは首を傾げた。騒ぎの経緯や罰を話す為に残されていたと思っていたのだろう。自分もそう思っていたので、ルクスはコクリと頷いた。
「兄さんの話なんだって。私は構いません、むしろ同席して貰った方が良いです。アージットは親しい友人ですから」
「ではそうしよう。ジェン、鍵を取ってきてくれるかね?」
「はい」
メイシードは席を立ち、一度部屋の外へ出た。
「君たちが聖霊院に来て、六年目。最終学年となり、今は卒業論文の制作に追われている頃だろう。知っての通り、聖霊院の卒業生が発表する論文は、我が学院の名の下に世界中の魔術師や各国要人へと届けられる。人材発掘の場であり、世界の物事の様々な可能性を示唆する場。君たちの中には助言を求める貴族に雇われ、教育者となる者や、研究に興味を持った団体がスポンサーとなり、支援を受ける者も出てくるだろう。ここで言いたいのは、卒業論文とその資料は魔術師にとって努力の結晶、一生ものの財産だということだ」
「はい」とルクスは相づちを打った。
「それらの資料は厳重に保管し、不正や漏洩のないよう大切に扱われなければならない。二人とも、学院の個人用資料箱は利用しているかね? よろしい。あれは私の発明の中でも、とびっきりの自信作だ。三十年前から導入しているが、未だ不当に開けられたことはない。さて。それらの中身は原則、個人の資産として扱われる為、本人以外は触れられない。唯一例外があるとすれば・・・・・・」
「持ち主が死亡した場合、ですね?」
「うむ」
ルシアナ老は紅茶に角砂糖と落とした。
「その場合、資産は正当な後継者に。或いは、一族の代表に引き継がれる。己の一族の発展を望む魔術師が多いのでな、二十七名家は特にその傾向が強い。とはいえ、いざ開けてみたら全く無関係な研究をしていて、期待していたようなものはなかった、なんて話も良く聞くのだが」
「学院長、それでいくとルクスの兄の研究資料は、順当にルクスに引き継がれ、彼が個人資料箱を開けてることが出来る、ということですよね?」
「その通り」
「すごいじゃないか!」
アージットは声を上げた。
「ブライトは優秀だったって聞いてるよ! 彼の卒業論文の資料なら、きっと価値がある!」
「いや、でも・・・・・・。でも学院長、私は兄の研究テーマを知りません。本当は彼自身のことも、ほとんど知らないんです。卒業論文や資料箱の存在ことも失念していたくらいで・・・・・・いえ、入学したばかりの頃は、兄の足跡を辿ったこともありましたが。そのときは、途中でダメになったんです」
「知っているとも。君はブライトの記録を探ったが、「成人もしていない低学年に他の魔術師の記録は見せられない」と断られただろう? 申し訳ないことに、そう指示を出したのは私なのだ」
「は!?」
二人は声を揃えて聞き返した。
「君は、兄の研究テーマを知らなかった。だから躊躇った。その資格が君にあるとしても、気軽に託して良いものではないと判断したのだ。フォルジュも一枚噛んでな、せめて成人するまで君には知らせないことにした」
「伯父さんも!? でも、ルクスが成人したのは二年も前です! 後見人と言っても、成人して正式な当主になったルクスには、速やかに知らせるべきでは?」
アージットは正論だった。友のための抗議をし、ルクスは感謝した。
しかし彼の腕を掴んで、留まるように促す。アージットは困惑していたが、ルクスは確信めいたものを持っていた。
「俺はまだ、子どもでい居させて貰ってたんですね」
ルシアナ老は、子どもで居られたことがあったかと尋ねた。自覚の程を聞かれていたのだ。「まだ子どもでいて良い」という意味を含んで、彼は問いかけた。即ち、君には守る大人がいるのだ、と。
「だがそれも、あと少しのこと。君が卒業する前に、私のタイミングで知らせることを後見人は了承している。そろそろとは思っていたが、兄の資料を見せる前に、君自身の論文を見たいと思っていたのでな。実を言えば、まだしばらくは黙っているつもりだった」
「お心遣いは分かります。でも結局、論文はお見せできたか分かりません・・・・・・正直、煮詰まっていたので」
「サボりまくってたもんね?」
「はい・・・・・・」
「それならいっそ、君には良い刺激になるかもしれんな」
ルシアナ老は、呆れもせず叱りもせずに微笑んだ。
「黙っているつもりだったが、状況が変わった。そこでブライトの資料を君に託し、君にはそれを手がかりとして、とある人物を探しに行って貰いたい」
ルクスは、目を丸めた。
「人探し・・・・・・?」
「うむ」
「兄の研究資料で?」
「そう」
「行くってどこに?」
「遙か辺境の山奥、地図にも載らぬ小さな村へ」
どこだよ。
二人は声には出さず突っ込んだ。
「つまり、研究旅行ですか?」
「旅行と言うには過酷になろう。修行半分、冒険半分といった所か」
「一人で?」
「いやいや、ちゃあんと協力者が来ておるよ」
「人探しって事は、生きてる人間・・・・・・なんですよね?」
「然り」
「学院長にとって、重要な人物なんですか?」
「世界にとって、重要だ」
世界。
ここに来てようやく、ルクスは自分が何かとんでもない事に関わろうとしているのに気付いた。
「・・・・・・その人は、誰ですか?」
避けてきた核心に触れた。
微笑みを絶やさぬ老爺は、静かに紅茶を飲み干した。そして空になったカップはソーサーに戻され、無機質な音を鳴らせる。
「亡国ラディアの王子、イーヴェル・シヴァ・ロウ・ザハーラン」
ルクスは紅茶を取り落とした。