逃げるあたし。
脱出を決行するのは、今日だ。悲しいけど、あたしに今昼夜の感覚が全くないから、今が夜なのか昼なのか分からないけど。
でも、逃げなくちゃいけない。
殺されるから。
死ぬわけにはいかないのよ。あの人のためにも。
花弁の乱舞と、それから消え去ったあの人が脳裏をよぎった。
そうすると、あたしは叫びだしたくなる。
それを飲み込んで、あたしは立ち上がった。
エンデール様は行った。
見張りも来ない。
機会はたぶん一度きり。
やって見せようじゃない。
あたしは顔を上げて、鉄格子の錠前に触れて、ずっと髪の毛にさしてあったヘアピンを引き抜いた。
あたしは夜会の格好のままだから、そういうものはたくさん持っている。壊れたってかまうものか。
逃げ出せれば、生きていれば何とかなる。
引き抜いて錠前にヘアピンをさした時、向かいの牢獄から声がかかった。
「聞いてたぜ。処刑されちまうんだってな、おめぇさん」
それはあの人のもので、あたしは言い切った。
「だから逃げるの、今すぐに。あなたも逃げるでしょ?」
「そりゃそうだ。そいつぁいい事聞いたぜ、ちなみに今が夜だ」
都合がいい。
あたしは三秒で錠前を外した。
鍵の秘術は、馬鹿にならない物だったみたい。
初めてだけれど、それのとんでもなさを今実感した。
って、感心してる場合じゃないわね。
物音を立てないように左右を確認してから鉄格子を開き、そこを抜け出した。
それから、声の主のほうに行く。向かいの牢獄は、人が一人しかいない牢獄だ。
あたしは声をかけた。心の準備ってものがいるんじゃないかなって思ったからだ。
「開けるわ」
「ああ」
返事を聞きつつあたしはこれも三秒で開けて、彼が出てこないから不審に思った。
「どうしたの?」
「あ、言い忘れてたぜ、俺ぁ手足にも足かせ付きなんだ」
「早く言え」
そういう事情は先に行ってもらわないと困る。
だっていつ見つかったっておかしくないんだもの。
この脱走は、出来る限り静かに、手早く行いたいのだ。
あたしは鉄格子の中に入って、ひときわひどい悪臭に顔をゆがめた。
何、この匂い。
糞尿の匂いじゃない。お風呂に入っていないからというだけの、悪臭なんかじゃないのだ。
この匂いって……何?
なんだか予想するのがとても怖いような、気がした。
鉄格子のなかには、男の人がいる。悪臭の大本は彼で、え……
あたしは思考が止まりそうになった。だって。だって。
確かに手足には足かせがついていた。右手右足には。
それだけでも動けないのは間違いがないけれど。
でも。
「あなた、手足が」
「あ、逃げるのに支障はねぇぜ」
左側の手足が、腐り落ちて骨になっていた。
悪臭は、肉の腐った匂いだったのだ。
どういう罪状なら、こんな非道な事をされるの?
なんで、こんな状態になっても正気でいられるの。
それとも、すでに彼が狂っているというのか。
あまりの事に言葉も出ないあたしに、暗がりでもわかる彼は笑った。色はわからないけど。
「さあ、出してくれ」
あたしは言いたい事を飲み込んだ。疑問はあとだ。一緒に逃げると決めたのだから。
あたしは彼の手かせ足かせを外した。
彼がぎこちなく立ち上がる。それから、笑いかけた。
「行くぜ、お嬢ちゃん」
「ええ」
「案内してくれ。お嬢ちゃんの匂いを追う」
「え、うん」
この地下牢で、目はふつう役に立たないから。嗅覚が敏感になったのかしら。
あたしは疑問も飲み込んで、歩き出した。
「こっち」
おかしい位に道がわかる。迷宮のようなはずの地下牢が、あたしの前ではひれ伏したように。
あたしはその、わかる感じを信じて進む。後ろの人を気にかけながら。
後ろの人は片足だという事実を知っていなければ、普通の速度だと思う速さでついてきている。
彼は何者なんだろう。あたしは曲がり角を曲がった。
あたしは迷宮の、最短距離を、物音を立てない速足で移動している。
途中で兵士に会いそうになって、何度か後ろの人に引っ張られて物陰に隠れた。
ありがたい事に、兵士たちは明かりがなければ何も見えないらしく、真っ暗な物陰や暗い影に隠れたあたしたちを、見つける事はない。
それでも油断はできないだろう。あたしはあと少し、と距離を測って、曲がり角を曲がった。
その時だ。
「はっ!?」
ばあっと視界が明るくなった。
なんでかなんて、疑問にも思わない。見回りの兵士とかち合ったのだ。油断したんだ。
「どうやって?!」
驚愕の声を上げた兵士たち。あたしはとっさに逃走経路を思い浮かべた。
どうしてか、どう行けばいいのか、わかった。
「こっち!」
あたしは後ろの人の手を掴んで、無茶苦茶に見える速さで走り出した。
「待て!」
待てと言われて待つ馬鹿はいない!
あたしは全速力で走った。足音が迷宮のような牢獄で反響する。音にかまっていられない。何とかして、兵士たちをまかなくてはいけないのだから。
事実として、暗がりに慣れていない人間の目の彼らは、ほどなくしてあたしたちを見失ったらしい。
かすかに、どこだ、と逃げた、と、言う声がした。
「いそがにゃならねぇな」
彼が呟くように言ったのは事実で、あたしも何も言わないで頷いた。
「道、分かるかぃ?」
「わかるわ。どうしてかわからないけれど」
「俺ぁおめぇさんを信じるぜ、お嬢ちゃん」
「ありがとう」
「一蓮托生ってわけだ」
そんなやり取りをして、あたしは灰色の道を見つめた。
「行くわ」
「いつでも」
あたしたちの逃走が知られているからだろう。地下牢に、一気に人が増えたのがわかる。
音が多いのだ。
それでもあたしたちは、彼らをかいくぐり、今度こそ本当に、地下牢の複数ある出入り口の一つの前まで来た。
あたしは耳を澄ませた。音はしないから、ここで誰かがいるかがわからない。
「あとちょっとよ」
「ああ」
彼は荒い息を吐いていた。片足で走るのは大変だっただろう。そんなのあたしでも、十分にわかる。
彼を励ますように言ってから、あたしはそっと、地下牢の入り口を開けた。
……ここどこ。
あたしはどうやら、おかしな道を進んでいたらしい。
見渡す限りの森なのよ。
「森だな」
あたしの後ろから出てきた彼が、そんな、見ればわかる事を言った。
「どこだろう……ごめん、分からない」
「気にすんじゃねぇよ。あー。久しぶりの地上だぜ」
地下牢の暗闇ですら視える目にとって、満月の地上は真昼と同じだけ明るい。
その月光のまぶしさに目を細めて、あたしは推測を口にした。
「たぶんあたしたち、いざという時のための抜け道みたいな場所を通ったんだと思うわ」
「ま、王宮の中をいつまでもうろちょろすんのは、あぶねぇからいいんじゃねぇか?」
「そうね。早くここからも離れましょ」
あたしはそう言って彼を振り返った。
実を言えばここでようやく余裕ができたから、相手を見る事になったのだ。
見て、びっくりした。
腕と足がないのはわかっていたけれど。
あたしは彼の顔立ちを見て、びっくりしたのだ。
なんでかって?
「あなた……ずいぶんと爬虫類顔なのね」
彼は、蜥蜴を思わせる顔をしていたのだ。
あいにく、彼の色彩は満月でもわからなかったんだけど。
白目の少なすぎる両目。かなり低めの鼻。口は普通の人間をはるかに超えて大きくて、まあそういう顔なのだ。
気持ち悪いとは思わないんだけど。気持ち悪さで言ったらたぶんあたしの方が上回るわよ。
あたしの身も蓋もない感想に、彼が気分を悪くするかと思ったんだけど。
彼は、その、おっきな口をあけて笑った。そうしたら、彼のぞろりと生えそろった歯が全部見えた。ずいぶんと尖り気味の歯をしている。
「俺ぁそれでも、人間に見えるのかい」
「え、あたしよりは」
「そいつぁ、いい事を聞いたぜ」
彼はひとしきり笑ってから、あたしをまじまじと見た。
「わりぃな、俺ぁお嬢ちゃんほど目がよくねぇから、お嬢ちゃんがぼんやりとしかわからねぇ。でも安心しな、ちゃんと見たって、悲鳴何ざあげねぇよ」