今のあたし。
化け物になったあたしには、この国の住人であっても容赦がないらしい。
あたしはずるずると引きずられたまま、あたりを見回した。
エンデール様があたしを近づけようとしなかった区画に入ってきている。
ここはおそらく、牢獄がある区画だ。
牢獄で死んでいった者たちの怨嗟の声が夜な夜な聞こえてきて、長い間夜の見張りを続けていると精神が病んでいく、とまで言われている区画でもある。
……あたしがどんな事をしてきたって、見た目が化け物になっちゃったらこれなのか。
残念だと思った。この国の人でも、やっぱり見た目がすべてを左右するのか。
魚の水かきのある手を眺めて、鋭く尖った爪を見つめて、あたしは首を巡らせた。
気のせいかしら……だんだんと、寒気がしてきた。
兵士たちは何も言わないで進んでいく。
そしてとうとう、そこについた。
そこはその区画の中庭のような場所で、彼らはあたしを拘束したまま、地面をいじった。
いじったんじゃない。
彼らがいじった地面、そこに扉があったのだ。厳重に閉められている扉だ。
地下牢。そんな言葉が頭をよぎった。
この世界は近世に近い文明を持っている。という事は、地下牢は最悪の牢獄だ。
なるほど、化け物を入れるのはちょうどいいのか。
抵抗はしなかった。ここで抵抗すれば、今までみたいに気を使われる事はない。
化け物として、ただ殺されるだけだろう。
そんな予測ができてしまったせいで、あたしは抵抗をしなかった。
ただ黙って彼らを見つめた。
「はいれ」
兵士たちが言った。あたしは彼らをちらりと見やった。
彼らは面白いほどびくりと体をすくめた。……あたしの今の見た目、そんなに不気味かしら。
広間の鏡で確認したといっても、細部までは確認していないから、そこまであたしは自分の見た目がわかっていないのだ。
それでもこの反応からしてみて、結構怖い見た目なんだろう。
「それこそ、あの女の子が言った通り悪魔みたいな容姿かも」
あたしは階段を下りて行きながら、小さく呟いた。兵士たちは階段を下りる音が反響しているから、聞こえていないらしかった。
それでもあたしには何も変わらないのだから、どうでもいい。
あたしは兵士たちが、かすかな物音にいちいち怖がるのを見ながら、頼りない蝋燭の光で進んでいく。
まさにそこは牢獄だった。見渡す限り、鉄格子ばかり。
呻くように聞こえてきているのは、誰かの恨みの声なのかしら。
それとも、亡霊の声なのかしら、と思う程度には、不気味な声がかすかにあたりを揺らしている。
兵士たちは固い顔をしたまま鉄格子の扉を開いた。
「はいれ」
また同じように命令されたから、あたしは従った。
軋む様な音を立てて、鉄格子の扉が施錠される。
あたしは遠のく蝋燭の明かりを見ながら、だんだんと暗闇に慣れていく視界にも安堵した。
真っ暗闇は、ちょっと怖いのだ。自分の手さえ見えない世界というものは、精神を蝕む。
物狂いにはなりたくないから、あたしは自分というものを認識できる世界に、ほっとした。
地下牢は基本、光一つないといってもいい位の暗闇だ。
そして身を切るように冷たい石造りの建造物だ。
こういう場所に長い事いたら、肺炎でも患ってあっという間にお陀仏ね。
……噂には聞いた事があるのだ。ラジャラウトスの地下牢は、地獄の底よりなお始末が悪い。
その噂が本当で、それを実感するなんて、聞いた時は思ってもみなかったわね。
実体験としては過酷な環境だろう。
汚物入れは満杯になっても、なかなか交換してもらえない。
おかげで骨にまで汚臭が染みつきそうだ。
さらに自分の汚物だけでなく、他の場所の汚物の臭いまで漂う。
そういう場所で、環境で、食事をとるのはなかなか辛いものがある。
食べたけどね。石ころみたいにかたいパンと、氷みたいに冷たい油の固まった、味のしないスープだったけど。
まずいなんて贅沢は言っていられないから、意地でも飲み込んだわ。
臭いのせいで吐きそうになったという落ちまである。
とりあえず言いたい。
「くさい」
確かに明かり一つないのも、凍死しかけるほど寒い黴臭いむしろも、そのくせじめじめとして不快な空気も、ひどいものよ。
でも、これが一番つらい、くさい!
なぜか排水溝があるけれど、それが何を意味しているかなんて考えたくないわ。
あたしは暗闇を眺めて、何日目だっけ、と思い出そうとした。
最初は時間の感覚があったんだけれど、太陽も月も何もないという空間は、時間の感覚を著しく狂わせていく。今が昼なのか夜なのか、今のあたしには見当がつかない。
たぶん、食事も減らされているのはうっすら感じている。
はじめは質だった。地下牢の質だからキリが知れているんだけど、下がった。
そして次は量だった。なんだか少ない気がする、がどんどん回数を重ねていった。
最後は回数である。
……あたし前の食事いつしたんだっけ?
忘れるほどぼけているとは思いたくないのだが、思い出せない位食事をしていない可能性も否めない。
それでもあたしは弱っていない。立てるし腕立て伏せだって腹筋だって背筋だって、できる。
ラジャラウトスに移ってから覚えた護身術の型を繰り返しても、息切れもしない。
明らかな程異常だ。となると。
あたしは顔だったり腕だったりを触った。樹木の肌である。
もしかしたらこれが、答えなのかもしれない。
ここは水気が大量にある。
寒いけど凍るわけじゃない。
……光をそこまで必要としない植物の特性を、持っちゃったのかもしれない。
そうやって思えば、トイレとかの回数が極端に減ったのもなんだか納得できる。
回数が少ないから、汚物入れが満杯になるのも遅くて、ちょっと苦痛が和らいでいる最近でもあるし。
それに。
あたしは周りを見回した。前は真っ暗闇だと思っていたのだけれど。
「見えるのよね……」
あたしの目は、おかしいのかもしれない。
真っ暗としか言いようがないはずの、人間の目には光をとらえられないはずの空間の、つまりこの地下牢の造りが、よく視えるのだ。
何不自由ない位見えるのよ。びっくりな位見えるのよ。
あたし……見た目だけじゃなくて、中身まで人間じゃなくなったんだろうか。
普通だったら気が狂っているかもしれない事態なんだけど。
幸いなのかなんなのか、あたしには絶望も苦痛も嘆きも生まれてこない。
神罰としては間違いだっただろう。
あたしはむしろに寝っ転がって、ねずみの足音を聞きながら、兵士たちが見回りの時に噂していた事を整理し始めた。
もうそれ位しかやる事ないのよ。毎日体を動かして、一人音のしないピアノの演奏会もどきをして、寝て、ってやってると、考えるのが一番なのだ。
それはさておき。
あの、名前忘れた女の子、神の選ばれた乙女、もうみんな単純に聖女って呼んでたわね。
彼女はあたしが行ったという災いを、次々と告白したというのだ。
蠱毒で無辜の民を殺して回って、邪神への生贄にしたとか。
凝った闇、あたしが一時的に抑え込んだあれを自分で呼び寄せたとか召喚したとか、つまり戦いは自作自演だったとか。
王魚を魚にして食ってしまったとか。
花の王……魔王の事なんだけど、その封印を解くために暗躍していたとか。
最大級の傑作は、……ラジャラウトスを手中に収めるために、エンデール様の思考力や判断力を狂わせていたとか。
彼女はあたしが邪神に祈りをささげる現場を見てしまったとか。
やってないし知らねえよ、と思う。
開いた口が塞がらない程度には荒唐無稽。
でも、皆信じているらしい。理性とかどこ行った。
そして考えながら、あたしはある事に思い至った。
「この展開、乙女ゲームの“断罪”イベントに似てないか?」