3
罪を暴かれ、家も国も追われたレンの母親は何故か、険しい道のりの先にある北の果て、“名無しの森”へと辿り着いた。
どのようにして、何故、という疑問をレンは知らない。
教えてくれる気があったのかも知らぬ内に、レンは母子二人の生活の中に突然押し掛けてきた父親を名乗る男によって、母と別れることになってしまった。レンが十一歳になるその前日、聖遺物が光を放った半年後の事だった。その後、父親という男、祖父母を名乗る老人達、アーガスの姓を持つ者達などから、彼等視点のあれやこれやを教えられた。だが、母との幸せでちゃんと愛情があったのだと確信がもてる日々を思えば、信じることなど出来なかった。
男が満足げに笑い「氏より育ちと言うのは間違いだったな」と言い放ったレンの礼儀作法は、彼等が悪女、最低な女と罵る母によって叩き込まれたものだった。まだまだ慣れない手つきで用意された、正式な品数と順番の料理で何度も練習させられた食事の作法に、遊び半分に教えられたダンス。母からは厳しく、間違えれば手が出る、泣き言を言えば相手が子供ということを配慮などしていない説教が降り注いだ。
男が用意した武芸の教師達も、魔術の教師も、辺境の暮らしではまともに身につけることもしていないだろうと用意された基礎教養の教師も、誰もが驚き、褒め称えて絶賛したそれら全ても、母と彼等が辺鄙で野蛮な辺境と馬鹿にする“名無しの森”の住人達の賜物だった。剣や弓、他の様々な武器の扱いは森の中に暮らす猟師に、母が対価を支払い頼み込んだからこそ教われたもの。体の動かし方も、母の頼み込みと対価を渡したからこそ、腰の曲がった体でひょいひょいと木々を飛んで見せた翁から。
魔王との戦いの旅の中、フレイアに「法術は神殿に教えを乞うた方にしか伝授されない秘匿の術ですのに!?」と驚かれた、主に治癒術に代表される法術も、森の住人であった老婆から教わったものだった。
自分達が教えたのだと鼻高々にしていたそれらは全て、レンからしてみれば母と故郷から分け与えられた生きる術だった。
「母は俺があの男によって森から連れ出された時、止めることは無かった。此処では身に付けられないものもあるだろうから学び、あとは好きにしろ。森の住人達も同じ事を言って、止めてくれはしなかった。だが、確かに王都では森では学ばなかった事や経験を身に付けることが出来た」
それには感謝している、とレンは言う。
「でも俺はまだ子供だった。何度かアーガスの屋敷を抜け出し、森へ帰ろうと試みたことがある。所詮は子供の浅知恵でしかなく、王都から出る事も敵わなかった」
「十一歳になったばかりで、身も知らぬ場所に顔見知りが一人も居ない状況に置かれたら、そりゃあ帰りたいと思っても仕方無いな」
「そんな俺にあの男は言ったよ。これ以上手間を掛けさせるつもりなら、帰る場所自体を消し去ってもいいのだぞ、と」
「それって…」
その脅しは確かに効果があった。
森の住人達による確かな教えを身に付けていたとはいっても、レンはまだ子供だった。貴族としての確固とした地位と力をもった相手の企みを阻む力は無い。
その上、
「フレイア。何故、俺が王都の中という神殿の目と鼻の先に居たというのに、八年という間見つからずに済んだのか分かるか?」
「いえ。それはずっと、私だけでなく一族全員が不思議に思っていたことです」
だが見つからなかった事に関して神殿に落ち度が有った訳ではない、とフレイアはそれを恥じることもなく、何故でしょうか、と答えを求めた。
「王家の協力と、俺もはっきりと誰とは分からないが一人の神官の協力があったからだ」
少なくともレンという『勇者』の存在を、王家とその神官は八年を待たずして見つけ出していたのだと。レンが口にした答えは示している。
「まぁ…」
その答えを聞いたフレイアは、その言葉と声だけを聞いたならば呆気なく、真剣に聞いているのかと叱責を受けそうな声を漏らした。ただ、レンから真っ直ぐに見ることが出来る彼女の顔には、鋭く細められた目が剣呑な光を放つ様子が見ることが出来た。
「は?ちょっと待てよ!お前が見つかるまでの間に、どれだけの被害が拡大してたと思ってるんだ!それを引き落としたようなもんだろ、英雄の存在を見つけておいて隠しておくなんて!!」
「…英雄を手の内に置くための準備をしておきたかったのだろうな」
いち早く発見され、魔族との戦いに引きずり回されていたニクスが、唾が周囲に勢い良く飛び散っていくことも気に留めず、怒鳴り上げた。
一方、その隣では王侯貴族のその中に身を置く者として、それらが何の不思議でもなく、有り得ることだと、ブライアンが苦々しく眉を顰めていた。
「レンが王女様を危険から助けて婚約することになった、っていうのは本当にあった話よね?じゃあ、それは全部仕組まれた茶番劇だったってことぉ!?」
ギリッ。
苦虫を噛み潰したと表現するしかない声を搾り出したエリーナは、爪を噛んでいた。
「いや、何でお前がそんな悔しそうな顔してんだよ。まさか、お前…」
好きだったのか…と口に仕掛けたバーンの声は、エリーナの鋭い眼光によって遮られた。
「レンと王女の婚約話は、貴族平民に限らず国中の乙女の憧れだったの!私も危険なところを颯爽と助けてくれる人と結ばれたい、なんてね!それを、それが、ただの茶番劇だったなんて…」
「あの男の手の者、王の手の者、それらの監視の中で全て予定通りに行われた出来事だった。一つでもミスがあれば、アーガスだけではなく王が手配した刺客を母や森に送ると言われた中、俺はそれを淡々と行っただけだった」
すまないな、とレイは乙女心の憤りというものを爆発させているエリーナに頭を下げて謝った。決してレンが悪い訳ではないことにそんな風に謝られては、エリーナは頭を冷やして冷静にならざるを得ない。
「『勇者』であることが明かされることになった時にも釘を差された。余計なことをせず、『勇者』の役目を果たしてこい。そして国に確かに戻り、王配としてその力と名を役立てろ、と」
王が『勇者』であるレンに望んだ役割とは、国が他国よりも優位にあるのだと締め付ける、張りぼて人形。そして、有事の際において魔王さえも倒した英雄の力で、国の敵を葬らせる為の、殺戮人形。ただ、それだけ。王は『勇者』という武器を手元に置き続ける為に、王女との婚約を誰よりも早く、他国が余計な口出し、手出しをしてこない、『勇者』という肩書きがつく前のレンを母と故郷を利用して首に縄をつけたのだ。
「…奴等は一つ、重大な事に気づかなかった」
クッ
突然、レンが笑い出した。ひび割れそうな乾いた、搾り出された小さく短い笑い声。それは不気味さと恐ろしさを、聞く者に抱かせるものだった。
「レン?」
「…そっか。そうですよね。レンの国の王達は大きな勘違いをしていますね」
誰よりも早く、レンの言っている意味に辿り着いたのは、元からの賢さと子供ながらの頭の柔らかさを持っているヨハンナだった。
「ふっふふふ。確かに、よくよく考えれば破綻していますわね、王達の考えは」
レンと同国出身であり、また神官一族の次期長であるが故に、レンに馬鹿げた命令を下した王を直に知るフレイアは声に出す事なく、王の顔を思い浮かべて「馬鹿ね」と吐き捨てた。
「えっと?」
「…あっ!そっか」
「えぇ、エリーナ嬢ちゃんも分かったのかよ。学がねぇんだよな、俺」
「彼等の国の王達は卑怯にも、レンの母親の命と故郷、そこに住む親しい人々の命を人質に、魔王を倒した後のレンの人生までも縛りつけようとしたんだ。つまり、」
「あぁ、そっか。分かった、分かったわ!」
頭を掻き、頭を捻って考え込んだニクスに、ロベルトが説明しようとした。ロベルトは口にはしないだけで、実はいち早くに王達の意図とその破綻に気づけていた。だが、他国とはいえ貴族であるロベルトには、王達がそう考える意味も理解出来てしまった。そして、他国の貴族階級であるがゆえに、他国の王の行いに口を挟むことが躊躇われていた。
それらの躊躇を押しのけてロベルトは悩むニクスへと説明しようとしたのだが、ロベルトの説明を少しだけ聞いたニクスは仲間達に遅れて気づくことが出来た。
「魔王倒せたレンを脅すなんて、一国の兵士全部注ぎ込んでもやってらんねぇな」
「偉業を成し遂げた『勇者』なら、人質への攻撃を全部薙ぎ払って、ついでに大本の国も消滅させられるだろうな…」
自分がようやく辿り着いたそれに、ニクスは無理無理と首が飛びそうな程の勢いで横に振る。バーンはというと、元々が王侯貴族への印象が良くない為、事も無げに起こりえる光景を口にする。
「止められるとしたら、同じ仲間の英雄である私達?いやよ、私。レンと戦うなんて」
「魔術では負けない自負はありますが、他の攻撃を防いで勝てる自信はありません」
エリーナとヨハンナは、その光景の後に自分達へと寄せられるであろう声を想像し、ニクスと同じ勢いで首を横に振り、顔を青褪めさせていた。
「魔王を倒せたのは、別に俺だけの力じゃない。皆の助力があってこそだろ?」
まるでレンだけの力のように言う仲間達に、レンは表情を緩ませ、苦笑を浮かべて否定した。
「それでも、お前がいなけりゃ決定打にはならなかった。…自分が死んだことにして、お前はお袋さんの所へ帰るのか?」
「あぁ、多くの戦いを経験して、この力を手に入れた今の俺なら、あの男や国が何を送り込んでこようと屈せずに居られるからな」
ロベルトの確認に、レンは力強く頷いた。
「頼む。『勇者』は死んだことにしてくれ。でないと俺は、何を仕出かすか分からない」
顔に影を生み、声を重苦しく潜めたレンから、まるで先程まで死闘を繰り広げていた恐るべき人間の大敵、邪悪と闇の化身のようだった魔王を思わせる凄みが放出された。
「皆が魔族の脅威から護る為に魔族と戦ってきた中ずっと、俺は人から母と故郷を護る為に魔族を殺してきた。魔王という敵が居なくなった今、俺の中の怒りや憎しみをあの男や王に向けずに耐え切れるか、分からない」
迷いの無い声で言い切ったレンの目に、混沌として不気味な闇が渦巻くのを、全員が感じ取った。
「無関係な人々を傷つける事態も、大切な仲間である皆と戦うことになる事態も、俺は出来る事なら起こしたくない」
絶対に避けたい、したくない、とレンは言わなかった。
その意味に、レンのその不気味でいて決意を固めた目を見てしまった全員が、理解してしまった。
出来る事なら、と言ったのだ。それはつまり、いざ戦うことになったなら、レンは本気をもって仲間であろうと戦うのだろう。無関係な人々を犠牲にしても、その力で彼を卑怯な方法で支配しようとした父親も王達も殺すのだろう。後で後悔することが訪れようと、その時には一切の躊躇いも何も抱かずに。
「分かりました。貴方の願い、聞き届けましょう」
「フレイア!?」
レンの理由と覚悟を示した願いに、フレイアが応じた。
「ありがとう。………すまない」
最初に願い出た時に負けない程、レンは深く腰を曲げて頭を下げた。
自分が何れだけの我儘を言っているのか、何れだけの迷惑をかけるのか分かっているからこその、深い深い御礼と謝罪だった。