2
今や世界中の人々が、その名前も偉業、人柄されも知り尽くしている英雄の中の英雄である青年が、魔王を退治することが出来た喜びに沸き、期待を胸に家族や友人、人々が待っている故郷への帰還に心を逸らす仲間達へ、ただただ深く頭を下げて自分の死を願い出る。
六人はただ、それまで全身で表していた喜びも何もかもを引き潮のように失い、唖然と目を見開いて頭を下げる勇者を見るしか出来なかった。生きる事に何よりも必要である呼吸をする音さえも消え失せてしまった空間に、音が戻るまで長い時間を有した。その間、勇者はずっと頭を下げ続け、仲間達の了承の声を待っていたのだった。
「し、死んだことって!」
ようやく声を振り絞ることが出来たのは、最もレンと付き合いが長い、エリーナ。
同郷であり、貴族の子弟が通う王立学園に同じ年に入学した、つまるところ十三歳の時から二十歳となった現在に及ぶまでの約七年という月日のレンとの付き合いがある彼女が、突然の勇者の言葉に一番早く反応することが出来た。
ただ、それも驚きと困惑による鸚鵡返しでしかなかったが。
「な、何、言ってんだよ!?ようやく魔王を倒し、胸張って帰れるって時に!?」
「そうですよ!?王都に戻ったら、婚約者とようやく婚儀をあげることが出来るではありませんか!」
故郷の国に大家族を残している一家の大黒柱であるニクス、自身も結婚を約束した相手を残してきているロベルトの戸惑いの声も飛ぶ。
「王家の一人娘なんだろ、婚約者?じゃあ王様じゃん。何の不満があるんだよ、レン?」
混乱し怯える様を見せるヨハンナを宥めながら、バーンが首を傾げる。
「貴方のことですから、何かお考えがあってのこととは思います。どうか、私達にそれを教えてはくれませんか?そうでなければ、私も皆も納得は出来ません」
小さく、納得させないのなら無理矢理にでも連れ帰る、と凄みのある笑顔を浮かべてフレイアが呟いた。
一見すると物静かで大人しい、戦場になど足を踏み入れる訳がないと思われるフレイアの、そうと決めたら恐ろしいまでの行動力と実効性を仲間全員が知っている。連れ帰る、無理矢理、と言うのなら何をもってしても決行し、勿論全員がそれに協力させられることを示していた。
「…帰る意味が、無いんだ。それにあそこは帰る場所でもない」
真剣に、強い覚悟を持って向けられてくる仲間達の六対の目に、レンはぽつりと口を開いた。その声は、これまでの『勇者』としての重た過ぎる期待を超えた活躍を重ねてきた存在から放たれたものにしては、自信もなく、年相応ともいえない、不安に揺れる子供のようなものだった。
「帰る意味…、場所?」
「何を言っているんだ!?家族に婚約者、お前が護り抜いた国民が首を長くして待ってくれているじゃないか!」
「そうそう。天涯孤独の俺とは違って、お前も、フレイア達全員、歓迎してくれんだろ?」
「バーンさん!バーンさんにだって待ってくれている人は居ます!」
何を言っているんだと戸惑うニクス、年長者としての使命感か怒号を上げて叱り付けるロベルト。自分とは違いと始めたバーンと、それに対しても怒りを露に注意するヨハンナ。
ただ、同郷のエリーナとフレイアは硬く口を引き結び、苦渋に眉を顰めていた。
「護り抜いた、か。皆は何を護りたくて、英雄という使命を受け入れた?」
笑っているようにも見える歪みを口元に浮かべ、レンは静かに口を開いた。
戦いが終わった後に聞くなんて今更過ぎるその問い掛けに、全員が目を白黒させながら、それでも何とか応えようと口を開く。
「家族を守りたくて、だな」
十五人の家族を一人として失いたくなかった、とニクス。
「貴族の子として生まれ、騎士となるべく育った私には、国やそこに住む民を護ることは当然の義務。だた、家族や婚約者を護りたかったというのも確かにあったな」
お前も同じだろう、と同じ貴族の生まれであることを踏まえて応えた、ロベルト。
「行かなきゃ死刑になるところだったんだ。そんな高尚な考えはねぇよ」
悪態をつくが、旅の中で兄妹のような関係を築いたヨハンナを見下ろすその目や表情の僅かに緩みが、バーンの今現在の思いを告げる。
「化物とさえ言われたこの力が役に立つのなら、と思いました。でも旅の最期には、出会った人々の笑顔を護りたいと思いました」
天才と呼ばれてしまうが為に孤独を味わってもいたヨハンナは人見知りどころか対人恐怖症の気があった。だが今はもう違うのだと、子供のような笑顔で断言する。
「勿論、家族に友達、落ち零れなんて言われ続けた私を支え続けてくれた先生達を護りたかったからよ」
貧乏貴族の末娘で苦労を重ねながら、その明るい性格で交友関係を広く深く築いていたエリーナが胸を張って応えた。
「英雄の助けとなれと、例え何があろうと人々を護る最後の砦となれと、教え受け継いできた一族の娘として。何より、私自身が人という存在と社会を愛しておりますから。英雄に選ばれずとも、きっと私は同行していました」
では貴方は?
問い掛けに全員が応えたのだから貴方も言うべきでしょう、と。
フレイアの有無を言わさぬという空気を孕んだ促しに、レンは少しだけ目元を伏せて応じた。
「同じだ。俺も家族を護りたかった。笑顔を護りたかった、というのも考えたことは無かったが、その想いも確かに有ったのだと思う」
その答えは確かに納得できるものではあったが、それでとレンが問い掛けを行った意味などを説明するものでは無かった。ただ英雄達の戸惑いを増すばかりのレンの言葉や態度に、僅かな苛立ちが生まれようとしていた。
「何が言いたいんだ、レン!はっきりと言え!護りたかったと、私達と同じ願いがあったというのなら、何故帰る意味が無いなどと言う!?」
苛立ちを真っ先に露にしたのは、ロベルト。貴族として生まれ、貴族として育ち、今も貴族としての矜持、誇り、そして青き血の義務を背負って英雄として立っている彼には、同じ貴族でありながら人々の期待を投げ遣りに捨てようもして見えるレンに、誰よりも苛立ちと、そして不快感を示すのも仕方ない。
「同じ、か」
ふっ、と。
ロベルトの追及を受けてレンが見せた反応は、笑いだった。大笑いでも、苦笑でも、嘲笑でもなく。ほの暗い、影を秘めた小さな笑い。いや、それは影などと言い表すには深く、そして恐怖を与える迫力を秘めていた。
ロベルト達は今まさに、魔族達との戦いに次ぐ戦いを制し、その最たる存在であった魔王を倒すという偉業を成し遂げた。魔族にしても、人にしても、彼等の前に立ちはだかる事の出来る存在は居ないだろう。それだけの力と実績が、ある。
だというのに何故だろうか。
相手は信頼を寄せる仲間の一人だというのに、年齢に関係なく尊敬の念を向けてさえいる勇者だというのに、ロベルト達は皆、恐怖を感じていた。
ぞくりという背筋に走った恐怖、息をすることを一瞬忘れてしまった絶望感、それは旅の途中で気紛れに接触を図ってきた魔王と対峙してしまった時に味わった感覚に似ている。
「れ、レン?」
何とか声を振り絞り、レンの名を呼ぶ。
すると、レンはその恐ろしい笑みをあっさりと消し、それと同時に周囲一帯に降りかかっていた重圧感が霧散した。
「俺の護りたかったのは、アーガス家でも国でも国民達でも無いんだ。…母と故郷だ」
レンは、レン・アーガス。貴族であるアーガス家の子であるレンの母だというのに、アーガス家を護りたい訳では無い。故郷と言いながら、国には帰る意味が無いと言い放つ。
最年少であるヨハンナでも、並みの大人以上に頭が回る。
レンの告げたそれが何を意味しているのか、察する事の出来なかった者はいなかった。
「…やはり、貴方はアーガス家の本当の子では無かったのですね」
何と言い出せばいいものか、とレンに注目を集めながらも躊躇いを覚え口を開けずに彼等は居た。その中で、口火を切ったのは注目を集めるレンではなく、狼狽える皆の中で平静を保っていられた二人の内のフレイアだった。
「…知っていたのか?」
「えっ、フレイアも知ってたの?」
知られていないものと思っていたレンも、平静を保っていた二人の内のもつ一人、自分しか知らないのだろうと思っていたエリーナも驚いた様子で、フレイアに目を向けた。
「エリーナ?」
エリーナが同時に反応したということに、レンはフレイアへと向けた目をエリーナに移す。
「これでも貴族のはしくれよ?アーガス家の次男が養子なんて、少し調べれば教えてくれる人は沢山居た」
公然の秘密みたいなものだったと、エリーナは肩を竦める。
英雄探しが始まった後に突然、姿を見るようになった静養に出していたという子供が英雄の、しかも『勇者』だったとあっては、上手くやったものだ、と口傘の無い者達が囀るのを止める事は出来ない。
「私も同じです。御親切に色々と教えてくださる方は少なくはありませんでしたから。それに、私を含めた英雄の生い立ちや力が、古来の英雄達と重なることは御存じの事でしょう?」
フレイアは言葉を発するのと同時に、全員の顔をゆっくりと見回した。
「あ、あぁ」
生まれた境遇など、伝承に記されるそれらとの共通点が多いという事は、英雄探しが始まって以来誰もが知る事だった。最後の方に探し出されたニクスやエリーナなどはそれを元にして探され、その上で聖遺物と対面を果たすことになった程だ。
貴族の血を受け継ぎ、罪を背負った女を母として、閑散とした森の中の村にて生まれ育つ。
「ですから、私達は『勇者の剣』を持つ方が現れないとなった時、まだ捜索の手が届いていない辺境の地にて見つかるものと思っておりました」
けれど違った、と当時を思い出して語ったフレイアは何故か落胆した様子で溜息までついて見せた。
「いや、そこで何を落ち込むんだよ」
「『勇者』が最後でしたから。我が一族の中では、何処の森で見つかるのかと少々予想立てが行われていたのです。断定した土地の名前をあげたり、国名、大雑把に方向だけなど。私も少しだけ」
「…賭け事かよ。神官様が何してんだよ」
賭け事の酸いも甘いも知り尽くす裏社会に生まれ育ったバーンも、呆れたと口を開いた。
魔王が現れるまで影が薄かったとはいえ、神殿を守り続けてきた神官一族で行われていた、しかも世界がまさに危機に瀕しているという状況下という、不謹慎と言わざるを得ない事だ。不祥事とも言える。
何をしていたんだ、という呆れた視線はバーンの物だけではなく、話題の中心であったレンからさえも向けられた。
「ほほほっ」
けれど、それらの視線を集めたフレイアはただ穏やかに笑うだけ。それだけで、何も語ろうとはしなかった。
こほんっと咳払いを一つ。
柔らかな笑顔からある種の圧力を発したフレイアは、これでそれに関する話は終わりだと無言で示し、そのまま何事も無かったと言うように話を元へと戻した。
「貴方が漸く見つかった際には、貴族の御子息、しかも神殿からそう遠くもない同じ国内から、と聞かされ。私達は本当に驚いたのですよ?」
その光景は阿鼻叫喚とも言えるものでした、とフレイアはまたフゥと溜息を吐く。
「後々に御親切な方から聞かせて頂いた御話にも、本当に一族では一騒動起こってしまいましたし」
大変でしたのよ、フレイアは口先を尖らせ拗ねた様子を見せるが、あまりにあまりな話に誰も何も言えることは無かった。
「それで、本当はどちらの御出身なのですか?」
そんな空気を物ともせず、フレイアはにこやかに「興味があるだけです」とレイに尋ねる。
「…それは…結果にまだ反映するのか?」
「というよりも、その時に勝者はいたのか?」
ニクスとロベルトが恐る恐るフレイアに尋ねるが、その質問は一切聞こえていないというフレイアの態度によって切り捨てられた。
「私としましては、私達の国から南の方角に位置していると思っておりました」
「いや、北だ」
すまない。
別にレンが悪い訳では決して無いのだが。南の方角に、きっとそれなりの金額を賭けたのだろうフレイアに謝罪せずにはいられなかった。
「まぁ、残念ですわ」
「…本当に幾ら賭けたの、フレイア?」
心底残念だと顔に出しているフレイアに、エリーナが尋ねてみるが、フレイアはホホホッと笑って答えることはしなかった。
「それにしても北ですか…。大きく有名な森といえば、アルメア国、ハルニア国…」
「そういえば極北の冬国の端に、"名無しの森"という場所があると聞いたことがあります」
それもまた、一族内での賭け事に出てきた地名なのか、フレイアがすらすらと自国の北に位置している国の名前を口にしていく。
それらを聞いていたヨハンナが、持てる知識の中からある一つの地名を出した。
「俗世を捨てた方、様々な理由を負って辿り着いた人々が隠れ住む場所だと」
「あぁ、それなら俺も聞いたことがあるな。死にたくなかったら、その森に逃げ込んだ奴を追いかけるなって」
「そこだよ」
ヨハンナとバーンの口から出た"名無しの森"という地名は、レンの表情を懐かしげに緩ませた。
「俺はその森で生まれ育った、あの男が俺を連れ去った時まで」
優しく緩んでいた表情も、その言葉が最後に差しかかろうとした時には不機嫌に歪んでしまった。
「じゃあ、アーガス候と親子っていうのは本当なの?その部分に関しては噂は沢山あったから」
私もずっと分かず仕舞いだった、とエリーナ。
「貴族の血を持つという伝承がありましたから、その点については間違い無いだろうとは私は思っておりました。それにしても、"名無しの森"と言えば陸路で出向く事が出来る北の果てですわよね。よくアーガス候はレン(むすこ)を、こう言って正しいのかは分かりませんが、連れ戻しましたね?」
北の果てへと出向き戻る為には、時間も費用も貴族と言えど笑い捨てるのは難しいものとなる。レンは次男という事になっているのだから、アーガス候にはすでに嫡男という存在があり、手間隙を掛けてまでレンを連れ去ってくる理由が無い、とフレイアは首を傾げた。
「レンが静養から戻ったって姿を見せ始めたのは、英雄探しが始まった後だったわよね。レンが『勇者』だって分かっていた、とか?」
「いや、どうやって?本当に確信が無いと、そんな時間と金を浪費するような事はしねぇだろ」
エリーナが推測するが、違うのではないか、とバーンが口を挟む。
「可能性として、俺という存在がそれに当たるかも知れない、と半分程考えていたらしい」
悩むエリーナ達にレンはあっさりと正解をもたらす。
罪を負った母から生まれ、森の中の村に生まれ森によって育まれた、貴族の血を受け継ぐ少年。
「あの男は『勇者』の伝承を耳にした瞬間、もしかしたら、と俺と母を頭に過ぎらせたそうだ。もし 違ったとしても、魔族との攻防に貴族の義務として駆り出されることになった際に、息子の代わりを押し付ければいい、と思ったんだそうだ。あの男にとって運がいいことに、俺は『勇者』だった」
貴族の血を絶やさぬ為、と嫡男である息子ではなく、その異母弟を一人兵役へと差し出して、貴族としての義務を果たしたように見せようと。そんな目論見もあって連れ去ってきたレンが、確かに『勇者の剣』に選ばれていた。
「レンのお母さんは、侯爵が伝承を聞いて思い付く程、罪を持つ人だったの?」
訳が分からないと、エリーナが吠えた。
「アーガスの者達が言うにはそうらしい。元は貴族の娘で、罪を犯して家も国からも追われた馬鹿な女。隠すこともなく、彼等は俺にそう聞かせたよ」
よっぽど腹に据えかねていたのだろう、レンは苦々しく眉を顰めている。
「俺がそう思ったことは一度も無かった。まるで別人の話を聞いている気になる話ばかりを聞かされても、俺は納得することはなかった」
何度も反論しようとしても、レンのその声を侯爵(父親)も義母、アーガス家に関わる使用人を始めとする多くが、馬鹿にするように切り捨て去ってきた。やはり、あれの息子か、と蔑む者さえ居た。
「俺にとっては、家事に関しては不器用なことも多かったが、確かに俺の事を愛してくれていた、大好きな母親だった」