迷い込んだ森4
時間がたちました。
素振りを始めてから季節が変わり、岩穴の外が肌寒く感じてきたころ、晴彦は森の中にいた。
石斧を構え、体勢を低くする。正面、右、左、上、下。注視するポイントを素早く切り替えながら周囲を探る。噛みつかれながら身に着けた警戒のコツだ。
(いる……。感じる。獣の息吹が、獣の体毛がすれる音すら聞こえる。……気がする。)
まるでそこにそそり立つ壁があるような、そんな精神的圧迫を感じる。こういった気配を感じるようになったのも、幾度となく奇襲され、死にかけ、それでも治癒の魔法によって生き延びた結果だ。
とはいえ、所詮素人の感覚だ。頼りになるかどうかなど、判ったものではない。しかし、その感覚を頼るしかないと感じていた。不安がないとは言わないが、それでも手立てが全くないよりは、はるかにマシだ。
ガサガサッ
飛びかかる黒い影をはっきりと確認した晴彦は、その鍛え上げられ発達した右足で飛び出してきた巨狼に回し蹴りを放ち、その動きを利用してくるりと振り向くと、背後から襲い掛かってきた巨狼に対して石斧を上から叩き付けた。一撃で仕留められたのは偏に繰り返し石斧を振ってきた成果だろう。
「ギャウン!」
回し蹴りに当たった巨狼は木の幹に痛烈にぶつかり、一瞬にしてその意識を奪い、石斧を叩き付けられた巨狼はその頭蓋を陥没させ息絶えた。
(1……2……まだいるか。)
油断せずに叩き落した体制のまま周囲を警戒する。
ガサッ
右手から巨狼が飛び出してくるのに合わせるようにして右手を向ける。
「≪斬撃≫!」
右手から放たれた斬撃の魔法は巨狼の体を二つに切り分けた。
(……逃げたか。)
先ほどから感じていた視線の気配がなくなり、何者かが急速に遠ざかっていくのを感じる。
晴彦は仕留めた巨狼に近づくとその躯に手を当てる。
「≪空間・転送≫」
フッと巨狼の躯が消える。この空間の魔法は魔法大全を読み進めた成果だ。収納も魔法で、この魔法は二つの魔法を組み合わせて発動していることになる。こういった魔法の組み合わせも魔法大全に記載されていた。空間の魔法は次元と次元の隙間にある空間を支配する魔法、そして転送の魔法はその名の通り物質を転送する魔法で、単体では整理整頓をするときによく使用される魔法だ。
(魔法の組み合わせもありふれた技術らしいし、な。)
両手を見る。初めて素振りを行った日から大分体つきも変わっていた。何故か疲労をほとんど感じないし、筋肉痛がないのだ。調子に乗って鍛えに鍛え続けた結果。腕は二回り太くなり、だらしなく出ていた腹はその面影を残さずきれいに引っ込み、ぶ厚かった脂肪はなく代わりに筋肉で割れていた。
(まさか、石斧で木を圧し折れるほどになるとは……)
夢にも思わなかったことである。数日前に試しに振るい、圧し折った若木を見る。細目ながらもしなやかさを持った立派な木だった。
圧し折った木は斬撃の魔法の修練がてら加工を行い、簡素ながらも寝台となっている。岩の上に直で寝るよりもよく眠れ、その効果のほどは異世界に来てから怯え続けていた晴彦も会心の笑みを浮かべたほどである。
自ら圧し折った細木の隣に皮がはがされたようになっている木を見つけた。はがされている高さから、おそらく、晴彦と同程度の大きさの動物が爪を研いでいったのだろう。
(怖い……な。熊か、大型の猫科か? 巨狼は爪研ぐんだろうか? わからんが……。)
鍛えに鍛え続け、だいぶ強くなった。そう実感するほどであっても、怖いものは怖い。圧倒しているように見えた先ほどの戦闘でさえ、晴彦の心には恐怖があった。それでも動けたのは鍛え続けてきたことがある程度の自信につながったのと、初見ではないからだ。
(力はどのくらいだ? 体の大きさは? 主に使うのはどこだ? 爪か? 突進の威力は?)
熊だとしても、実物を見る機会があるのは動物園位なものだ。野生の、ましてや襲ってくる可能性があるような熊など会ったこと等ないし、その生態を知るわけもない。
(早めに戻った方がよさそうだな。)
そう安全策を取ると晴彦は拠点へと足を向ける。
(噛まれるときは噛まれるし、きっと死ぬときは死ぬのだろう。)
自身は決して物語の主人公ではない。今ではそう晴彦は思っていた。
(いくら車でスピードを出しても、飛行機に乗っても事故が起きるとは思わなかった。自分は大丈夫。自分だけは何とかなると、そう思っていた。……でもそれは間違いだった。)
噛まれれば痛いし怪我もする。無論、ちょっとした不注意で事故だって起きる。この森で、自らの体で学んだことだ。しかし、それは異世界に来る前だってきっと同じで
(そのことすら気が付いてなかったんだなぁ。)
当たり前と言えば当たり前のことだ。危ないことはしない。それは子供だってわかることだ。
(っと、着いたか。)
拠点にしている岩穴の淵へ手をかけるとグッと力を込めて体を引っ張る。すると体が重力に反するように持ち上がり、一息もつかぬ間に晴彦の体は自身の肩の高さまである段差を乗り越えた。
(最初はこの段差をよじ登るのも大変だったなぁ。その分安全だと考えれば、なんてことはないのだけど。)
丁度いい場所がここしかなかった。ということもあるが、晴彦は何よりも安全を確保することに腐心していた。寝ている最中に襲われたら元も子もないからだ。
岩穴の入り口から少し進んだところに氷の壁が見える。これは晴彦が設置したものだ。魔法の練習を重ねていくうちに自然とできるようになったもので、侵入してくる動物などを警戒して設置している。
「≪火≫」
魔法自体は火打ち式のライターによく似ている。火打石を回して火をつけ、ガスによって燃やし続ける。火打石が魔法でガスが魔法を使うパワー、魔力だ。継続的に魔力を出せば燃やし続けることも、氷を融かすこともできる。
人が通れるくらいに融け氷の枠になった壁を潜る。
「≪氷≫」
先ほどの現象に逆再生をかけたかのように、みるみると氷の壁にあいた穴がふさがる。数度、強度を試すように氷の壁を殴りつけると、満足したように頷いた。
(これなら、大丈夫だろう。)
晴彦がやったように魔法を使え静かに、早く開けることもできるだろうが、近辺には魔法を使ってくるようなものは居なかった。入り込むなら力ずくで突破することになるだろうが、さすがにそのようなことになれば、例え寝ていたとしてもさすがに音で気が付くだろう。そんな考えだ。
籠のある広間に着くと、骨の前に陣取り胡坐を掻く。最初は不気味で怖かったものだが、いつのころからかさして気にならなくなった。それどころか。
(さすがに可哀想だよな。)
そう思ってしまう。焦げた胸甲、その内側の形状とやけに白い骨から『白雪(のような色の骨の)姫』と呼び出してからは、距離が大分近くなった。不自然に避けて通ることもなくなったし、寝食も同じ広間で行なっていた。
(慣れてしまえば、案外愛嬌があるものだ。)
しばらく休憩していると、日も暮れてきたのか岩穴の中が暗くなってきた。
火をおこし、解体してあった巨狼の肉を取り出す。それを火に当て、炙る。
パチパチと木の爆ぜる音とともに肉の表面に焦げ目がつき、油が沸き、落ちる。
ふんわりと美味そうな肉の匂いが漂い、それに誘われるようにして齧り付く。
(うまい。)
素直にそう思う。懐からクルミもどきを出し、石斧で殻を割る。
そして中から実を取り出し、そのまま食べる。
相変わらず味が無いように感じるが、慣れてくると塩気が感じられる気がするから不思議だ。
(このクルミもどきも無くなってきたなぁ……。)
外に出たときに必ず採ってくるものだが、あまり自生していないのか森の中でもめったに見かけなくなってきた。
(そろそろ人里に行くことも考えなければならないか。)
大分食糧事情が偏っている気がするが、それでも体調不良などは起きていない。もしかすると、このままでも大丈夫なのかもしれないが、このままでも大丈夫という保証もない。
(行動するにしても明日か。)
日も暮れる。足元がおぼつかなければ行動するのは難しい。それに、岩山が見える範囲でしか行動したことがないのだ。せめて明るくなってから行動するべきだろう。
「≪空間・転送≫」
寝台に使っている異空間から木を取り出す。その上にゴロリと寝転がりゴツゴツとした岩の天井を見る。焚火のオレンジ色の光とその光によってできる岩肌の影がチロチロと揺れているのが見える。
(人里に行く……それは良い。けど、どっち行けばいいんだ……。)
根本的なところで躓いていた。
まず地図がない。地図があったとしても、方位磁石も現在地も解らないのだ。恐らく読めないだろう。
(行き当たりばったり……ではキツイだろうな。)
近所にある森林公園とはわけが違うのだ。順路と書かれた看板も、道に設置された柵もない。
(けもの道を見つけて歩くか……そうか、川沿いを歩けばいいのか。)
岩山の裏手には水が湧き出ているポイントがある。湧き出ているポイントから水をたどって行けば、川になるかもしれない。……ならないかもしれないが、あてもなく歩くよりはよほど頼りになると晴彦には思えた。
(どのみち、指針もない。なら、判りやすいものを目標に歩くのもいいだろう。)
パチパチと爆ぜる音を聞きながら目を瞑ると、晴彦は直に寝息をたてはじめた。
強くなりました。
ヒロ・・・・・・イン?