プロローグ
とっぷりと夜も更けた頃、とあるオフィスに一人の男の姿を認めることができる。明かりがほぼ消えた町の中で煌々と光るオフィスの中で一人仕事をしているのだ。
<……午前1時をお知らせします>
ラジオから低くて野太い良い声が流れてくる。
男…結城晴彦は両手を上にあげ伸びをすると深く息を吐くと
「よっし。これくらいにしておくか。」
そう言って勢いよく席から立ち上がった。
地獄の18連勤を終え、明日は久方ぶりの休みとあって気分はとても晴れやかだった。無論、連休などと社員の精神的健康に安定をもたらすものではない。1日だけの休みであり、すでに日も跨いでいるため微妙ではあるが、晴彦にとってはとても価値のある休みだった。
(一日休める。とは言えないけど、それでも寝れるのは嬉しい。とは社畜的な感情だろうか。)
そんな意味もないことを考えながらも、行動予定表に貼ってある自分の札を裏返す。自らの名前が黒字表記から赤字表記に変わっていることを確認すると、行先に「休暇」と書き込む。別段、書かなくてもいいのだが、一日分の仕事をすべて押し付け一足早く休み、明日出勤予定の上司へのささやかな意趣返しだ。
「よし。」
休暇と書き込まれた行動予定表に少し笑みを浮かべると、電灯の電源を落とし会社を出た。
時間を確認すると時計は1時20分を指していた。このあたりの地域では電車はおろか、バスですら最終便を終えていた。
(仕方がない。歩くか。)
「ぉー……せ、ぉー……せ」
そう聞こえ続ける声を聴きながら見上げてみると、寿命が近いと思えるような街灯が明滅している。帰り際に見つけた居酒屋でひっかけた一杯の影響もあるだろうか、最初は
(いいねぇ。風情がある)
まるで祭りのようだ──。そう思っていたが、終電もないような時刻だと思い出すと
(なにか、気味が悪い…)
そう考えてしまう。
一度でも考えてしまうともう駄目だった。目の前に広がる路地が、道路の隅、その明りの届かない暗がりが異様に気味悪く、そしてどこか恐ろしく感じてしまう。
(は、早く帰ろう。)
そう思い、足を速める。
「ぉこは……ぉーこの……ぁ」
聞こえ続ける声は複数で、歌のようなリズムがある。それも不気味さに拍車をかけていた。
足を速める。不気味さに押されるように、自身の恐怖に押されるように家路を急ぐ足は自然と小走りになっていた。
ブワッ
突然、背中に不自然なほどの汗を掻く。ピタリ、と足も止まる。
(いけない! ここから先は、行ってはいけない気がする)
根拠は勿論ない。ないが、そう思ってしまう。
(ここに居てはいけない。)
そう思った時にはその身は反転し、手に持っていた鞄を捨て、今歩いてきた道を走り出していた。
「じんさぁ……そみち」
先ほどよりも声が近づいていることがわかる。
(やばい……やばいやばいやばいやばいやばい! )
最初に聞こえてきた声よりも、声の存在感が違った。圧力すら感じるほどだ。
走る。
学生時代から太っていて、そろそろやせなければ健康に悪い。健康に気を付けよう。そう考え、せめて一駅分は歩こうと革靴ではなくスニーカーを履いていたのも良かった。
先ほどよりも強い恐怖に押され前につんのめりながら走る、それでもどうにか転ばずに済んでいるのは間違いなくスニーカーのおかげだった。
曲がる。
通ってきた道のはずなのに見覚えのない道を走っている。方向感覚はすでに狂い、どこを走っているのかすらも定かではない。
「ごよーの……しゃせぬー」
焦燥。
確実に近付いている。声が、圧力が。正体不明の何かが後ろから追ってきているのを感じる。そう感じながらも走り続け振り切るように何度か曲がり角を曲がる。しかし
「おふだを……まいります」
走る。
強い焦燥と恐怖を感じる。正体不明なのもある。近付いてきている。というのも勿論ある。それらよりも自信が感じる第六感めいた何かが逃げろ。と叫ぶのだ。
曲がる。
もう、どれくらい走ったのだろうか。息は既に切れ、走る速度もだいぶ落ちた。それでもまだ逃げないといけないと、そう感じる。
「いきはよいよいかえりはこわい」
ゾクリ
声が急に背後に聞こえ、今までに感じたことのない悪寒を感じる。目の前の空間が歪む。深く考えられない。ただ、後ろの恐怖から逃れたい一心でその歪みに飛び込んだ。
「とぉーりゃんせとぉーりゃんせ」
気が付いたらそこは森の中だった。もう大丈夫。そう確信し、後ろを振り返る。そこには今まで必死に走っていた道路があった。揺らぎ、急速に消えていくその道路に着物を着た童が楽しそうに笑っているのが見えた。
木にもたれかかりズルズルと地面に腰を下ろす。
「はぁ~~~。」
溜息が漏れる。疲れた。帰りたい。そう考えるのは当然なことだ。だが、そう考えたところで今の現状が好転するわけではないことを彼は理解していた。
辺りを見回す。目には木が移った。1本ではない。無数にある木だ。テレビやドラマでしか見たことのない鬱蒼とした森がそこにはあった。