長篠の戦い
武田・浅井・朝倉、信長に抗った者の悉くが世を去った。室町幕府も、将軍・足利義昭の追放により、その形態は既になく、反信長連合で残った者は、本願寺と三好、そして松永久秀である。
信長はまず、三好征伐に乗り出した。一度は降伏した三好家当主・義継は、義昭や久秀に同調して反旗を翻していた。しかし、既に信長に抗う力はなく、家老の若江三人衆の裏切りによって、最期を遂げた。
次に松永久秀の籠る多聞山城を攻囲、これに対して久秀は、すぐに降伏の意を示した。
背いた者は許さない。信長の気性から、久秀も処断されるだろうと誰もが思っていた。しかし、
「久秀、貴様を許そう」
と、呆気なく降伏を認めた。
(ふふふ、信長は儂を斬れぬ、儂がいなくなれば天下一の大悪党は貴様になるからな)
久秀は、叡山焼き討ちのことを思い浮かべていた。いくら叡山が軍事介入をした非があったとはいえ、天下では「神仏を恐れぬ悪魔の所業」として伝わってしまっていた。そこで、主家乗っ取り、将軍殺し、大仏殿焼き討ちといった悪行を尽くしている自分を生かすことで、悪党第一の座を押し付けておこうという腹だと思っていたのである。
(ほかにも主家を乗っ取り、将軍を追放し、貴様は儂に悉く似ておるのぉ)
久秀は信長が自分の背中を追いかけているような気分になり、小気味良く笑った。
天正二年(一五七四)―
織田信長は反信長連合撲滅の総仕上げとして、伊勢長島の一揆衆殲滅へ動き出した。この地は織田の中心地である岐阜や清州から近いため、東の武田を討つにしても、西の石山本願寺や毛利を討つにしても、取り除いておきたい膿であった。
(俺に逆らった者の末路、天下に知らしめん)
信長は一人、ある決意を胸に秘めていた。
今までの長島一揆では、ほかの敵も抱えていたため集中できず、織田軍は敗れ続けていた。その憂いもない今は、一揆衆など敵ではなかった。
水陸両面から攻めた織田軍は、一揆衆を長島城へと追い込め、これを包囲、兵糧攻めに入った。その包囲軍、人数八万―
長島城には周囲の城や砦から落ち延びてきた兵や民が集っていた。その数十万……と言っても、既に戦闘意欲を失くした集団であり、彼らに戦をする力は残されていなかった。
時は過ぎ、織田軍の兵糧攻めが続く、城中では既に餓死者や狂乱した兵士たちが脱走を計るもこれを射殺、人ひとり逃げることままならなかった。
遂に一揆衆らは観念、信長に降伏の使者を遣わしてきた。
「我ら門徒衆、降伏致す故、どうか命だけは……」
「ならぬ」
「なっー」
「降伏は許さぬ、散々好き勝手に俺の邪魔をしながら、みすみす許したとあっては死んでいった者たちに示しがつかぬ」
「し、しかし……」
パンッー
信長は降伏の使者を射殺した。
「片づけておけ」
それだけを告げ、長島城の方を見つめていた。
「も、もうだめじゃ…… 儂ら、皆殺されるんじゃ」
長島城では降伏の使者が殺されたことが伝わり、絶望に絶望が上乗せされた。
「斯くなる上は、全員で逃げるんじゃ! 仏様に祈って、闇雲に外を目指すんじゃ!」
『応』
一揆衆は全軍逃亡を決意、城から一斉に逃げ始めた。途端、
「撃て」
パパーン
織田軍から鉄砲の雨が降り注がれた。
一揆衆の者たちは次々と水に浮かぶ物言わぬ亡骸となっていった。
「こ、こうなったら奴らを地獄の道連れにせん……」
一部の一揆衆が激情し、織田軍へ攻勢を掛けた。
『信長殺せ! 信長殺せ!』
一様に憎悪の念を唱えながら織田軍の船へと攻め寄せてくる。両者激戦となり、信長の庶兄・信広や弟の秀成が討死した。しかし、一揆衆の反撃もここまで、城外に出た者は悉く討死し、残すは長島城の民・二万ほどとなった。
(またも一族を失ったか…… 皆への鎮魂の炎、ここで燃え上がらせるとしよう)
信長は長島城への放火を命じた。城は炎上、城外に出た者は鉄砲で撃たれ、城内に残った者は悉く焼死した。
その被害の規模は叡山の時より遥かに大きく、たった一人の命令・指示により数万の命がわずかな間に失われたのは、日本史上初めての出来事であった。
天正三年(一五七五)・岐阜城―
織田信長の下を重臣・明智光秀が密かに訪れた。
「武田との決戦でございますか」
「左様」
甲斐の武田家は、信玄亡き後、その子・勝頼が当主となっていた。勝頼は父の意思を継ぎ、度々徳川領へと侵攻していた。そのため、徳川からの救援要請が信長の下へ届いていた。
(雌雄を決する時である)
信長はそう思っていた。
「されば、鉄砲を活用されてはいかがでしょう。正面からまともにあたっては、たとえ勝てたとしても損害が大きくなるでしょう」
「俺も同じことを考えていた。だがそれだけでは足りぬ」
「と、申しますと?」
「圧倒的な勝利を得るためには、従来の鉄砲の用い方では能わず」
「なるほど…… 既に鉄砲手を交代させながら射撃する術を用いていますが、それでは足りぬと」
「そうだ。なにか良い考えはあるか?」
光秀はしばらく考えると、なにかを思いついたのかニヤリと笑った。
「では、カンナエの戦いに倣ってはいかがでしょう?」
「なるほど、古代においてカルタゴがローマに勝利したあれか」
カンナエの戦いとは、紀元前に行われた第二次ポエニ戦争の内の会戦の一つで、名将・ハンニバル率いるカルタゴ軍が、二倍の人数を誇るローマ軍を相手に包囲殲滅戦を仕掛けて勝利した戦いである。その伝説はヨーロッパに広く伝わり、宣教師らを通して、ここ日ノ本にも伝わっている。
「左様にございます。武田を誘い込み、これを包囲一斉射撃の下に撃破する。さすれば武田の被害、甚大なものになるでしょう」
「良し、それでいこう。武田の息の根、止めてくれようぞ」
武田軍陣営―
徳川領へ侵攻していた武田軍は、徳川方の支城・長篠城へと向かっていた。
その途上の軍議、
「織田が決戦を挑んでくると?」
そう発言したのは馬場信春、不死身の鬼美濃と恐れられ、勝頼の祖父・信虎の代より、戦場では多大な功績を挙げてきた重臣である。
「左様、時は満ちた」
勝頼は曇りなき瞳で答えた。偉大な父・信玄の後継の役目を見事に果たし、今日に至る。
「故に此度の戦、長篠城を餌として信長を釣り出さん」
「して、どうするつもりじゃ?」
「敵が布陣するのに合わせて我自ら対峙し、信長の首を獲る」
「良いのか? そのような危険を冒して万一のことあらば……」
「構わぬ。父・信玄は、国のために祖父を追い出し、家のために兄を殺した。武田の屋形は己が血肉を削ぎ落してでも戦わねばならん。我に削ぎ落とす肉はない。故に我が血を流す覚悟で戦おう」
「はっはっは、さすがは勝頼様、武田の戦いをよく御存知だ」
笑い声を上げて答えたのは山県昌景であった。赤備えと呼ばれる全身を赤で染めた具足で戦う部隊を率い、各地で恐れられていた。
「俺もかつて我が父が謀叛に加担しようとした時に、信玄公に密告して父を殺した。武田の戦がそうあるべき故な」
「……」
「勝頼様の覚悟、この昌景しかと受け取った。信長との決着、つけようではないか」
そう言うと昌景は諸将の並ぶ前で膝をついて忠誠を誓った。
「……ありがたし」
「ふっ、そうよの、若き主君・勝頼様を儂らの手で輝かせねばなるまい」
それに続くように信春も忠誠を誓った。それを見たほかの者たちも次々と忠誠を誓った。
「皆の忠義、父も照覧しておろう」
武田軍の意気が虎の如く織田軍に牙を突き立てようとしていた。
織田軍陣営―
徳川の要請を請けた信長は全軍を持って長篠城の救援へ向かっていた。
織田軍の救援を得た家康は、岡崎で合流、共に長篠へと出立した。様々な苦労や危機を経験してきた家康は、穏やかな物腰は変わらぬまま、以前よりも一層の凄みを増していた。
「信長様、此度の救援、真にありがとうございまする」
進軍中、家康は信長と馬を並べながら話していた。
「礼は無用、長篠は持ちこたえておるか?」
「はい、鳥居強右衛門という使者が長篠城より参っておりましたが、必ず助けると檄を入れ、送り返しておきました」
長篠城は元々助ける予定ではなかった。ただ武田軍を釣り出すための餌であり、家康もそれを承知していた。
「……済まぬ」
突然の信長の謝罪に、家康は意表を突かれたように驚き、
「なにをおっしゃいます。我ら盟友なればこそ……」
「盟友なれば……武田からの誘いも断るのか」
途端、信長を見ていた家康から穏やかな表情が消え、キッと前を見据えた、
「ははは、お気づきでしたか。左様この家康、武田ではなく織田に一点、張り申した」
武田から徳川方へ降伏勧告の書状が届いていた。家康は、織田と武田の二大国家の狭間で、自分の命を天秤に掛けていたのである。
「三方ヶ原といい、此度といい、俺は貴様が張るに相応しい男か」
信長の問いに家康は前を見据えたまま、
「左様、織田の人質であったあの時より、信長様には並々ならぬ器を見ておりました」
「……そうか」
「この家康、どこまでも供をしましょうぞ。それとも武田に調略される儂を憎んでおいでかな?」
「ふっ、戦では敵に調略されるくらいの奴の方が心強いというもの、頼りにしておるぞ」
「ははっ」
信長と家康は互いに全幅の信頼を置きながら戦場へと向かった。
そしてー
ついに織田・徳川連合軍は長篠の西方、設楽ヶ原に布陣した。その布陣、
織田軍
・織田信長
・柴田勝家
・丹羽長秀
・羽柴秀吉
・佐久間信盛
・佐々成政
・前田利家
・野々村正成
・福富秀勝
・塙直政
以下略― 総勢三万、
徳川軍
・徳川家康
・石川数正
・本多忠勝
・榊原康政
・鳥居元忠
・大久保忠世
・大久保忠佐
・酒井忠次
以下略― 総勢八千、
対する武田軍
・武田勝頼
・小山田信茂
・穴山信君
・馬場信春
・山県昌景
・内藤昌豊
・原昌胤
・真田信綱
・真田昌輝
以下略― 総勢一万五千、
今ここに、戦史を変える出来事が起こる。
武田軍陣営―
「なに、織田軍は設楽ヶ原に布陣しただと」
そう発言したのは山県昌景であった。長篠城救援に来たはずの織田軍が、手前の設楽ヶ原に布陣したことに疑問を持った。
「ふむ、どうやら誘い込まれたのは儂らの方だったようじゃな」
次いで馬場信春が発言した。戦巧者の彼には、織田軍の意図がすぐに理解できた。
「如何される勝頼様」
「件の如し、織田と雌雄を決さん」
「しかし、そのために誘い込んだはずが、逆に誘い込まれておる。こちらから退くのもまた一つの決断ぞ」
「……構わぬ、どちらが誘い込んだであっても決戦の時である」
「……左様か」
信春はそれ以上、なにも言わなかった。嫌な予感が拭いきれないが、重臣の自分が幅を利かせ過ぎることの愚もまた知っていたからである。
「これより策を命ず、各々、役割に徹せよ」
『ははっ』
勝頼の作戦はこうである。
まず武田軍の主力である信春と昌景を両翼に配置、鶴翼の陣形で織田・徳川連合軍にあたる。従来であれば兵力に劣る武田側が鶴翼を敷くのは不適切であるが、天下に名高い両将が攻めて来たとなれば、敵が両翼に戦力を割く、そこを勝頼率いる武田全軍で中央突破に乗り出し、信長の首を獲るというものである。
(父よ、我は今、貴方を超え、武田の屋形とならん)
勝頼は、信玄の後継として武田家家督を継いでいたが、その遺言から風林火山の御旗の使用ができなかったこと、そして、勝頼の息子・信勝が成人するまでの仮当主、陣代であることが定められていたと『甲陽軍鑑』に記されている。
織田軍陣営―
「信長様、陣が整いましてございます」
信長の下に秀吉が直々に報告に来ていた。秀吉は、信長の隣にいた男を見て驚いた。
「ぶっ、み…… 光秀ぇ?」
その男は、明智光秀だった。
「これは秀吉殿、ご機嫌麗しゅう」
「お、おう、麗しゅう。ってそうじゃねぇ、なんでおみゃぁがここにいるんだ!」
光秀は石山本願寺への備えとして畿内に残り、武田戦には参加しないと表向きはなっていた。
「此度の戦は武田との雌雄を決する戦い故、我らも鉄砲隊を率いて参加しにきました」
「でも本願寺はええんか?」
「良くはないでしょう。故に武田とは早期に決着をつけねばなりませぬ」
「……」
秀吉は呆然としていた。それを見ていた信長は、
「がっはっは、ハゲネズミ、呆けた面をするな」
豪快に笑って秀吉を叱った。途端、
「この戦、俺とキンカンの英知で仕掛けた大戦じゃ、行く末を見届けるは光秀の役目ぞ」
と、低く唸るような声で言った。その目には、これから行われる冷徹な命令を見据えた鋭い眼光が宿っていた。
「は、はい! この秀吉めも奮戦し、武田の行く末を信長様に届けとうございます!」
「がっはっは、励めよハゲネズミ」
秀吉は陣に戻って行った。歩きながら振り返り、信長と光秀の主従を見て、
(羨ましいのぉ)
と、思っていた。
「後はどうやって勝頼を前に出すかですな」
秀吉が去るのを確認してから、光秀は信長に話し始めた。
「ここの一手を誤れば、すべてが水泡に帰します。どうか慎重に」
「うむ」
魚釣りのように、食いついた獲物を無理やり引っ張ろうとすれば要らぬ抵抗にあう。二人はここに至って慎重に策を進めようとした。
そこに一人の男がやって来た。徳川家臣・酒井忠次である。
「信長様、この忠次、家康様の名代として一つ、策を献上しに参った」
「……なんだ」
「我、一隊を率いて鳶ヶ巣山へと登りたく申し上げます」
「……! 出過ぎた真似を申すな! 下がれ」
途端、信長は怒気を孕んだ声で忠次を叱った。
「これは申し訳ありませぬ、では失礼」
だが、信長の目を見た忠次は、すんなりと去っていった。
その様子を見ていた光秀は、
「家康の家臣には、恐ろしい男がおりますな」
と言った。
「背中に目を持つ、と言ったところか、俺たちの考えを見抜いておった」
すると信長は周りに聞こえぬような声で、
「光秀、酒井に兵を与えよ。鳶ヶ巣山を突く」
と、命じた。
鳶ヶ巣山―
信長から兵を預かった忠次は密かに軍を進め、鳶ヶ巣山の武田軍砦を急襲していた。
「派手に暴れよ。武田なる山を動かすのだ」
程なくして鳶ヶ巣山砦は陥落、河窪信実や三枝守友といった諸将を討ち取る功を上げた。
武田軍陣営―
「伝令、鳶ヶ巣の砦が急襲されました。敵はかなりの兵を割いているようです」
「そうか」
勝頼は報を聞くと、キッと前を見据え采配を手に取った。
「これより、設楽ヶ原の織田・徳川軍に攻撃を掛ける。旗を広げよ」
白地に「大」と書かれた旗を掲げ、勝頼は攻撃を命じた。
各地で激突が始まった。南方、徳川軍に対するは赤備えの猛将・山県昌景、北方、佐久間信盛に対するは不死身の鬼美濃・馬場信春、さらに中央は真田信綱・昌輝兄弟が奮戦していた。
織田軍陣営―
「中央は真田、両翼は鬼美濃、赤備え、武田の布陣には隙がない」
迎え撃つ織田・徳川軍諸将に緊張が走っていた。
俄かに武田軍優勢となっていた。特に信春と昌景の戦いぶりに織田・徳川軍が圧倒され、押し込まれていた。
「両翼に軍を回せ、鉄砲を射掛けつつ、敵の足を止めるのだ」
信長は各地に伝令を発した。一方で、
「俺自ら鉄砲五奉行に命じてくる。本陣は任せたぞ光秀」
「はっ、お気を付けて」
練りに練った作戦を遂行するため、自ら変装をして鉄砲隊を率いている五人の将・佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政へと下知を降しに走った。
「伝令! 一の備え破られました! ……信長様は何処に?」
本陣に来た伝令が、その異変に気付いた。
「心配無用、ちと用足しに参られておる故、留守は我が」
「其の方は何者ぞ」
「明智光秀」
「なっー」
伝令の兵士は呆然とした。ここにいるはずのない光秀が目の前にいるからである。
「こ、これは失礼しました!」
「構わぬ。味方にも内緒でいる故な、務めご苦労」
「はっ」
伝令は再び走っていった。
「さて、ここまでは順調…… 後は」
光秀は本陣から遠くに見える武田軍を凝視し、
「後は、信長様が狂気を発するのみ」
と、呟いた。
命令一つで、一瞬にして多くの命を散らす。今回の作戦は、常人では成し得ぬものであった。それまでの世で行われていた威嚇合戦とは違い、殲滅による殺戮戦を仕掛けられるのは、比叡山焼き討ちなどの業を成し遂げられる信長くらいなものだろう。
武田軍陣営―
各地で武田方優勢、勝頼の下に次々と朗報が届いた。
「良し、今こそ信長の首を獲る好機、先鋒の将に伝えよ、一気呵成に攻め込めと」
「はっ」
遂にその時が訪れる。
中央先鋒の将、真田信綱・昌輝兄弟は本陣からの命を聞いた。
「ふっ、敵本陣の一番槍、俺たち真田がもらうとしよう」
「ですな兄者、鬼美濃や赤備えばかりに良い格好はさせられません」
「行くぞ! 武田軍先駆け、真田左衛門尉信綱、推して参る!」
織田軍陣営―
鉄砲五奉行に下知を降してきた信長は本陣へと戻っていた。そこに伝令がやって来た。
「伝令! 敵軍が中央の軍勢を動かしてきました! 我が軍の先鋒が敗れた模様!」
真田兄弟の怒涛の突撃により、織田軍の備えは瞬く間に破られていく、
「伝令! 二の備え破られました!」
また別の伝令がやって来た。
「伝令! 武田軍本陣も動いた模様! 全軍で中央突破を計るようです!」
「こ、このままでは本陣が危険です! どうか退却を!」
伝令たちが次々と来る中、信長は黙って前を見ていた。
「良い。敵を手繰り寄せ、引きつけよ」
すると、信長は鞘に手を掛け、
「貴様らに見せてやろう、武田が散りゆく様を」
じりじりと前へ歩み出た。
それに続いて光秀が鉄砲隊を前に出し、自身も鉄砲を持って信長の傍で構えた。周囲を見渡すと、鉄砲衆が整然と並んでいた。
次々と織田の備えを突破して武田軍が眼前に迫る。人馬の足音が迫ってくる。『信長討つべし』といった兵士の声も聞こえてくる。
まだかまだかと味方の兵士たちの緊張が伝わる。ただ、それに反して信長自身の心は静まり、澄み渡っていた。
途端、
「放て!」
『ドドーン』 『ドーン』
『パーン』 『ドドーン』
『パーン』 『ドーン』
『パーン』
『ドーン』
『ドドーン』 『ドーン』 『ドドドド』
『パーン』
『ドドドドドドドドドド』
設楽ヶ原は轟音に包まれた。
長篠で何故武田は負けたのか、勝頼が信玄には遠く及ばなかったから、自軍の強さに驕り無謀な突撃を繰り返したから、自分の手柄に焦ったからー
多くの場合、勝頼の器の小ささを敗因とする意見が見受けられる。では、勝頼は本当に無能だったのであろうか? 否―
歴史など所詮は勝者の記録である。勝った者が強く、負けた者が弱いにほかならない。この歴史的敗戦一つで、勝頼の武田家史上最大の版図を築いた功績は忘れられたのである。
長篠の戦いは、確かに勝頼の失策であったかもしれない。しかし、敗者を悪く言うよりも勝者の戦い、信長の苛烈な戦いぶりを称賛するべきではなかろうか。
信長の目の前で次々と人が死んでいく、鉄砲から放たれた弾丸は真っすぐ武田兵士へと向かい、眉間に、あるいは脇腹に、あるいは膝にと直撃した。
(俺の勝ちだ勝頼……)
死屍累々の光景を見ながら、信長は勝利を確信した。
「これより追い首に入る。二度と武田と戦いたくなくば、弄り、根から絶やせ!」
『応!』
織田軍による武田軍追撃が始まった。
「では信長様、私はこれにて」
光秀はそう言って去っていった。本来、石山へ睨みを利かせていなければならない彼は、すぐ様、在るべき場所へと帰ったのである。
武田軍陣営―
「なんだこの音は」
「……」
武田本陣では兵士たちが前方で轟く異様な音に驚いていた。勝頼はただじっとその方向を見つめていた。
(……我の負けか)
すべてを悟った。自分の策が失したこと、多くの同胞を失ったこと、そしてー
(終わりか)
己の命運が尽きることを
「一門衆を退却させよ。我自ら殿とならん」
「なっ、殿とは、何故ですか」
「一門衆さえ生きていれば、我の代わりはいくらでもいる。故に我はただ、一人の男としてここに果てる」
「なっ、お止め下さい! 勝頼様なくして武田家はどうなるのです」
「多くの仲間が我が失策により死んだ。その咎、償わなければなるまい」
そこに、馬場信春がやって来た。
「若造、それで償えると思っておるのか?」
話を聞いた信春は勝頼を諌めた。
「償えるとは思っていない。だが、生きても何も残らない」
「馬鹿者がっ!」
途端、信春は勝頼を殴った。
「主というのはな、たとえ何度失敗しようが生きて戦うことじゃ! お主の親父殿は信濃で無残な敗北をした。川中島で多くの同胞を失った。それでも生きて、最後まで武田の、我らのために戦い抜いたのじゃ!」
「……」
「死にたければ死ぬが良い。じゃが、武田の主は勝頼、お主じゃ!」
「……くっ」
勝頼は涙を流した。父・信玄であろうと心得て生きてきた彼は、武田の主という重荷を必死になって背負ってきたのである。
「殿は儂が務めよう。お主は一門衆と共に退却するのだ」
「……忝し」
勝頼は泣きながら退却を開始した。
「……さらばじゃ、四郎」
織田軍の追撃は凄絶なものだった。山県昌景、内藤昌豊といった名だたる名将たちが次々と散っていった。そして、
「馬場美濃守殿とお見受けいたす……お命頂戴!」
「ふん、若造が、不死身の鬼美濃に挑もうなど、百年早いわ!」
殿をしていた信春は奮戦、追い寄せる織田軍を幾度か追い返す戦いぶりを見せていた。
(まだじゃ、勝頼の坊主が逃げ切るまで、崩れてはならぬ)
一方、勝頼隊ー
わずか数百名の手勢を率いて、信濃の高遠城を目指していた。その途上、
スッー
木の上から人影が降ってきた。信長の忍び、光である。予め退却路を予期していた信長は勝頼を確実に仕留めるために暗殺の手段に出た。
「させないっ」
途端、刀がぶつかり合う金属音と共に、光の体は勝頼の後方へと流れていった。
「くっ」
光の一撃を止めたのは、武田家くノ一の頭領・望月千代女であった。
「勝頼様、ここはこの千代女めが」
「……済まぬ」
勝頼は再び逃亡を開始した。
「逃がすかっ」
光は苦無を勝頼の背中目掛けて投げつける。千代女はそれを叩き落とした。
光の標的は千代女へと変わり、構えた脇差を突き出した。女だてらに早い身のこなしで二人のくノ一は剣戟を繰り返す。忍はいわゆる諜報活動が専らであったが、有事には敵から逃げる術、敵を殺める術、時には兵法を用いた合戦術まで会得していた。
キンッー
途端、千代女の刀が光の刀を弾いた。
(しまった)
無防備になった千代目の一撃が光目掛けて降り注がれる。
ガシッー
(なにっ)
次の瞬間、光は身を翻して得意の体術で千代女を捕らえた。千代目をうつ伏せに押し付け、背後から馬乗りになる。
「悪く思わないでね」
光が懐刀を取り出し、千代目に止めを刺そうとしたその時、
バキッー
千代女は自らの関節を外して光の拘束から逃れた。
「……もう勝頼様は逃げた。貴様如きに構っている暇はない」
と言い放ち、煙幕弾を用いて姿を暗ませた。
「逃がすかっ」
光は音のした方へ苦無を投げた。しかし、煙が消えるとそこには千代女の着ていた服しか残されていなかった。
(空蝉か……)
後に虚しく、光は立っていた。
その頃、馬場信春は押し寄せる織田・徳川軍を撃退しつづけ、不死身の鬼美濃に相応しき戦果を挙げていた。
しかし、所詮は数に劣るため、次第に劣勢となり、また勝頼が十分に逃げる時間を稼げたと踏んで降伏を決意、遂に六十一年の生涯を閉じることになる。
(ふっ、お主ら織田の若い奴らも、良い目をしておるのぉ)
戦に参加すること七十余、傷一つ負ったことのない不死身の男は、腹を十字にかっさき、最初で最後の傷を自らの手で刻んだ。
「馬場美濃守の働き、比類なし」
織田軍からも称賛される最期であった。
信春の奮戦の甲斐あって、勝頼は無事に高遠城に退却した。ここに多くの将士を失った武田軍の敗北という形で、長篠の戦いは幕を閉じた。