義弟
室町幕府第十五代将軍・足利義昭は、これまで、裏で工作し、浅井・朝倉・三好・本願寺による反信長連合を築き上げ、さらには甲斐の武田信玄をも動かし、最後には自ら挙兵してまで信長に抗った男である。
兄・義輝は、剣豪将軍で名高き人物であったが、義昭は「筆の剣」によって信長を苦しめたと言える。
しかし、天は義昭を選ばず、織田信長という男を愛し、数々の苦難を乗り越えさせてしまった。もはや義昭には、抗う力はほとんど残されていなかった。
一度、勅命を請けて信長と和睦したが、それを良しとせず、最後の力を振り絞って抵抗、これに対し信長は七万の大軍を持って攻め立て、義昭は降伏した。
「おのれ、信長…… 貴様の顔など、見たくもないわ!」
「これは悲しいことを仰いますなぁ、義昭様」
「黙れ! 何が義昭様じゃ! 余を傀儡としか見ておらぬであろう!」
「……真、良い傀儡でございました。我の敵を炙り出してくれたのですからな」
「なっー」
「が、思いのほか手こずらせてくれました。まさか義弟までたぶらかすとは……」
「……」
「ですが、もう用済みにございます。どこへなりとも去ってください」
「き、貴様!」
頭に血が上った義昭は、信長に掴みかかろうとした。その時、
「ひっ」
明智光秀が刀の切っ先を義昭に突き付けたのであった。
「み、光秀……」
「義昭様、往生際が悪くございます」
元家臣の言葉にふと我に返った義昭は、周りに誰も味方がいないことを悟り、その場に力なく座り込んだ。
「命までは取らぬ…… とっとと往ね!」
信長が一喝すると、義昭は兵に連れられ京を出ていった。これにより、実質的に室町幕府の歴史が幕を閉じたのであった。早速信長は、予てより義昭に申し出ていた元亀の年号の廃止を断行、天正へと変えた。
天正元年(一五七三)八月―
義昭追放後の京の統制を明智光秀に一任すると、自らは浅井・朝倉征伐へと動いた。兵数は三万、今度は、背後を襲う敵もいない。
まず、近江へと入って小谷城を包囲した。これに対し、朝倉義景は近江の北、余呉の地まで進出してきた。
(今さら戦う気になっても遅いわ)
信長は義景のことを嘲笑った。
すべての流れは信長にあった。浅井家臣・阿閉貞征が信長へ寝返り、朝倉家臣の魚住景固は、義景の出兵要請を拒否し、事実上反旗を翻した形になった。
数日経ち、義景が小谷城北西にある田上山に陣を移すと、信長は小谷城と田上山の間に布陣して、義景の入城を妨げた。さらに暴風雨が吹き荒れると、信長はわずかな兵を率いて付近の大獄砦を急襲、虚を突かれた敵は、あっさりと降伏した。
「大獄砦が落ちたことで、義景は必ず退却する」
軍議の席で、信長はそう断言した。
「退却する義景の背中を追って討つ、各自用意しておけ」
「ははっ」
信長の命を諸将は形として受けたが、内心では、
(いくら義景とはいえ砦が一つ落ちただけで退却するものだろうか)
と、疑問に思っていた。
「良いか、義景は絶対に退く、追撃の準備を必ずしておけ」
信長は再三再四、諸将へ厳命した。
翌日―
朝倉義景は退却した。
「な、なに! 本当に退却したじゃと!」
命を受けていた者の一人、木下秀吉は大慌てで準備を始めた。
「の、信長様は何処に」
「既に義景の背中を追っておる。我らも早く行かねば!」
織田軍の誰もが出遅れていた。このような大軍にあって総大将が先駆けという、家臣にとっては末代までの恥となる事態となっていた。
越前侵攻組が、やっとの思いで信長に追いつくと、一同頭を垂れて、厳命に背いたことを謝った。
「貴様ら腑抜けを召し抱えて、良くこれまで生きてこれたものだ」
信長は最大限に家臣たちを皮肉った。
「……」
誰しもが沈黙する中、佐久間信盛が口を開いた。
「お、恐れながら…… そうは仰いますが、我らほどの家臣はそう中々いないものでございますぞ……」
その場にいる全員が凍りついた。誰も信長の目を見ることができない。見なくても明らかに怒気と狂気を発しているのがわかる。
「もう良いわ! 貴様らと話している時も惜しい!」
信長は再び義景を追撃した。
やがて越前国・刀根坂の地で、朝倉軍を捉えた。
撤退戦という圧倒的士気の低い中で戦闘を余儀なくされた朝倉軍は、あっと言う間に壊滅した。
この地で、朝倉家の重臣の悉くが討死、さらには元美濃国主・斎藤龍興が、この時、朝倉軍に身を置いており、二十六という若さでこの世を去った。父・義龍の意思を継ぎ、徹底的に信長に抗ったこの男は、かつて竹中半兵衛に十余名の人数で城を乗っ取られたうつけではなく、紛れもない名将の一人と言えるだろう。
そんな中、義景だけはわずかな供と一緒に一乗谷へと帰還していた。
数日後―
義景は従弟・景鏡の手引きにより、越前の北を目指して落ち延びていた。
織田軍は、これを追うが、途中で景鏡が義景を裏切り、途中の寺で謀殺した。
これにより、名実共に朝倉家は滅んだ。寒さの厳しい越前に、北の京と言われるほどの都市・一乗谷を築き上げた栄華は、無残な形で終わりを告げた。
朝倉を滅ぼしたことに信長は満足しなかった。元々、今回の出兵は浅井・朝倉の征伐が目的である。朝倉は滅んだが、浅井家は健在であった。
一部の兵を残し、近江へと引き返して、すぐに全軍へ攻撃命令を発した。しかし、諸将は小谷城攻めに慎重にならざるを得なかった。
小谷城は、小谷山の尾根筋や谷筋をそのまま活用した天然の要害で、さらに、無数の土塁や曲輪から成る堅牢な防衛機能を持つ、天下有数の堅城であった。
そんな中、一人、秀吉は意気込んでいた。
(ここで武功を立てて汚名返上せにゃぁ)
先の朝倉家との戦いで、信長に遅れを取るという大失態を犯してしまったため、なんとしても手柄が欲しかった。
それだけではない、
(お市様をお救いせみゃぁ!)
昔から密かに憧れていたお市の方の身を案じていた。城が落ちるということは、そこにいる姫の身も危ういことであった。自害などはもちろんのこと、狂乱した兵士たちが、女を身分問わず犯しまわることが、戦国の世では度々あった。
「半兵衛! なにか奇策はないか!」
秀吉は、軍師・竹中半兵衛に意見を求めた。
「奇策、と一言に仰せられましても、私は風を吹かせられませんし、兵器を作ることもできませんよ」
「んじゃ、忍術みてぇな火を召喚するってのは!」
「できません。と言うより秀吉様の考える忍術は、実際の忍者もできませんよ」
「……わかっとる。ちょっと戯れてみただけじゃ」
「はいはい、では策を申し上げます。全軍、京極丸を目指し、ただ気合いを持って進むべし」
半兵衛の言葉に、兵士たちは呆然とした。
「……それだけですか?」
一人の男が、半兵衛に尋ねた。
「はい、それだけです。理想の策というのは、常に単純明快なものです。どんなに複雑に言ってもやることは変わらないものですから」
半兵衛がそう言うと、秀吉が次いで、
「どうだ! 学のねぇおみゃぁらにもわかりやすいだろう!」
と言った。
「たしかに、おらにもわかったべ」
「でも、それで城を落とせるんか?」
「落とせます。京極丸とは小谷城の喉元に位置します。ここを抑えれば、城は落ちたも同然」
「すげぇ! さすがは半兵衛様だ」
「細かい指示は、その都度行いますのでご安心を」
半兵衛の話が終わると、秀吉は全軍に下知した。
「良し! それじゃぁおめぇら! 京極丸を目指して駆けろやぁ!」
『応!』
秀吉一隊は、小谷城へ攻撃を開始した。
小谷城・本丸―
浅井長政は、城を囲う織田軍を見ていた。
(義兄上はやはり強い…… 某が天下を取ろうなど、夢のまた夢であったな)
朝倉への義を重んじ、将軍家への義を重んじ、そして天下への野望を抱いて反信長の旗を掲げた。しかし、信長の苛烈な戦いぶりにより、すべて長政の手からこぼれ落ちていった。
大義もあった。志もあった。だけど敗れた。何が足りなかったのか、考えてみたが思いつかなかった。それどころか信長と比べるとなにもかもが足りない気がしてきた。
「市、済まぬ。某は天下人の器ではなかったみたいだ」
傍にいる市に話しかけた。絶世の美女と名高き彼女は、今も尚、一色に染められた反物のように美しい姫であった。
小谷城内は至って静かだった。兵士の乱心もなく皆長政への忠義を尽くしていた。
「まだ終わったわけではありません。長政様はまだ生きております故」
「だが、間もなくこの城は落ちるだろう。そしたらもう……」
長政は俯いた。そして、
「市、そなたは娘たちと共に織田に帰れ、さすれば命は助かるはずだ」
娘とは、市との間に生まれた三人の娘である。これにもう二人、万福丸と万寿丸という男子が生まれていた。
「なにを申されます! 私は…… 貴方の傍にいたい……」
怒気と悲しみを孕んだ声で市は叫んだ。兄を討てと夫に囁いたあの時から、市は浅井家の姫であり続けることを望んでいた。
「……済まぬ、ここに来てまた気の迷いが出てしまったようだ」
長政はそう詫びて市の肩を抱いた。藤の花のような甘い香りが長政を包んだ。
秀吉軍陣営―
京極丸へと向かっていた秀吉は、途上にある小谷城防衛施設を相手に奮戦していた。
「立ち止まるな! とにかく走れ! 止まったら最後、鉄砲の的にされる!」
敵は崖の上から弓や鉄砲で応戦していた。それらを母衣や竹束を使って防ぎながら進んだ。半兵衛の進言により、隊を複数にわけて四方から崖上へと攻め寄せた。目標を分散させられた敵は、すべてを防ぐこと能わず、秀吉軍の侵入を許して退却した。
「進め! 進め! 城攻めは早さが肝心じゃ!」
休む間もなく、秀吉は先へと進んだ。
日が大分沈み、空が赤みを帯びてきた頃、秀吉隊は京極丸の近くまで来ていた。
さすがに最重要拠点だけあって敵の防御は、今までの比ではなかった。その上、朝倉征伐から休まず戦ってきたためか、兵に疲労の色が見え始めた。
「……このまま無理に進めば、犠牲が多くなる…… どうする」
秀吉から飄々とした雰囲気は消え、真剣な顔つきで半兵衛に相談した。
「私は軍師故、一つの結果を出すためにあの手この手と策を考えますが、どういった結果を出すかというのは貴方の決めることです」
「ふむ」
「貴方が兵を大事にしたいと仰せになれば、撤退を進言します。しかし、進めと仰せであれば多少の犠牲は厭わずに攻略の策を考えます。両方取れというのは、それこそ忍術を使えと言うようなものですよ」
「……そうか」
「ただ、一つだけ助言させていただくとすれば、今戦っている者たちは、信長様のためでもなく、ましてや天下のためになんて戦っていません」
「……」
「皆、秀吉様、貴方を慕うが故に戦っているのです。そのことを努々お忘れなきよう」
「……わかった」
秀吉は今も戦っている兵士たち一人一人の顔を見渡した。自分より年上の者や、まだ槍を持ったばかりの若い者までいる。彼らは秀吉のために戦っているのだ。
(儂は…… そんな大人物かのぉ……)
自分が信長に見ているものを彼らは見ているのだろうか、金ヶ崎で共に生き延びた仲間もいた。その仲間は皆、自分を慕って死地を乗り越えたのだった。
(ずっと信長様の背中ばかり追いかけてきたつもりじゃったが、いつの間にか儂の後ろにも大勢付いてきておったんじゃのぉ……)
途端、秀吉はじっと敵の方を見据え、そして、
「よっしゃ! 儂が先駆けじゃ! 皆、付いて参れ!」
一人敵の中に突撃を掛けた。
『なっー』
半兵衛をはじめ、その場の誰しもが驚いた。一軍の大将が先陣を切って突撃したのである。
朝倉を追撃するために、信長がわずかな手勢で先頭を切って駆けた時のように、ほかの誰しもが慌てて秀吉を追いかけた。
「お、お待ちを!」
「待たん! どうしても止めたきゃ儂を追い抜いて、敵をやっつけてみぃ!」
秀吉の後に隊がつづく、まさかの大将の突撃に浅井軍は慌てふためいた。
果たして京極丸は陥落、長政のいる本丸と久政のいる小丸が分断される形となった。
「ふぅ…… やった、やったんさぁ」
泥と汗にまみれながら秀吉は仰向けに倒れていた。体中に槍や矢の傷を負ったが、どれもかすり傷で済んだ。味方の兵もぼろぼろで、死者も何人か出てはいたが、思いのほか多くの兵が残った。
(おみゃぁら…… すまんな、でも儂はこの道を選んだんじゃ……)
主君・信長が部下に苛烈さを求めたように、自分もまた部下に苛烈さを求めた。この人のために命を賭けて戦いたい、草履取りより思っていた信長への尊敬の念と同じものを自分に向けているのだとしたら、苦境を前に逃げる大将ではなく、自ら先頭に立って向かう大将でなければと、自分に言い聞かせたのであった。
「まったく、無茶をなされる」
半兵衛は呆れつつも、秀吉のそうした魅力に惹かれていた。
「次からは私に一声かけてから動いてください。策を考えます故」
「はは、すまんな、色んなこと考えて…… 気が付いたらもう敵の中じゃった」
「……それで良いのかもしれませんね」
「策は単純明快が一番! そうじゃろ?」
秀吉はいつもの表情に戻っていた。顔いっぱいにこぼれるような笑みは、戦の疲れを感じさせなかった。
「そうですね」
半兵衛もまた微笑んで答えた。
京極丸の陥落により、小谷城は風前の灯となった。
「なにを寝ている。ハゲネズミ」
「ややっ、信長様!」
そこへ信長がやって来た。数多くの死地を乗り越えてきたこの男は、以前にも増して威厳が漂っていた。
信長は秀吉隊全員を見渡すと、
「其の方らの武功、比類ものなし」
と、称賛した。
『ありがたき幸せ』
一同、これを大いに喜んだ。
(失敗を手柄で持って返上す、ハゲネズミは良き臣でや)
信長は皆と喜ぶ秀吉の顔を見ながら、微笑んでいた。それはさながら、父が子を見るかの如く、厳しさと優しさに満ち溢れた顔であった。
小谷城本丸―
浅井長政の下に浅井軍の兵士たちが駆け寄ってきた。
「申し上げます。京極丸、陥落したとのこと、久政様も既にご自害されております」
「……そうか」
「直にここにも敵が来ます。どうかお逃げを……」
「いや、良い。其の方らが逃げよ」
『な、なにを仰せになります!』
長政は、自分の返答に驚く兵士たちをじっと見つめ、
「もう某は腹を決めておる。最後まで、織田信長に抗った男・浅井長政として果てたい」
「し、しかし……」
「男というのは、なにか一つ生きがいを持つと、それを最後まで貫こうと意地を張る餓鬼なのだ。某の我がままと思って、聞いてくれぬか」
長政の目は澄み渡っていた。信長に背いた時から避けられぬ定めであったかのように、この状況を受け入れていた。
「は、はい、わかりました。ですが……」
「なんだ?」
「私も残りたく存じます!」
「儂もだ!」
「俺も残るぜ!」
兵たちは一様に、ここに残ると直訴し始めた。今度は長政の方が驚き、
「なにを言うか! 其の方らが某の意地の巻き添えになる必要はない!」
「一言で申せば、意地でございます」
「意地?」
「はっ、我ら、最後まで長政様の臣でありたいと願う、餓鬼なのです」
兵たちの目もまた澄み渡っていた。皆、長政に殉死する覚悟であった。
「ふっ、ははははははは、まったくもって餓鬼ばかりだ。良しわかった。我ら餓鬼どもで織田軍にいっぱい食わせてやろうじゃないか」
『応!』
「市、そなたはやはり織田へ帰れ、ここは餓鬼しかおらぬでな、女のいる場所ではない」
長政は、市の身だけを案じ、敢えて冷たく離すように言った。
「長政様!」
「お市様、これまでのこと、ありがとうございました。我ら浅井家臣、あの世でも貴女様の麗しさを語り継いでいきましょうぞ」
長政も兵たちも市に挨拶をすると、部屋を去った。残された市は、その場で泣き崩れた。
(ほんと、男どもは餓鬼じゃ…… 女子の気持ちも知らないで……)
しかし、すぐにある決意を秘め、目つき鋭く、部屋を出ていった。
浅井軍陣営―
「これより出陣する! 目指すは京極丸! 勝ちに浮かれている織田軍へ一矢報いてやろうぞ!」
『応!』
長政たちが出陣しようとしたその時、
『あっー』
その場の誰もが驚いた。お市の方が鎧を着て参陣してきたのである。その姿は、平安時代、源義仲に付き従って武勇を誇った女・巴御前かの如き、美しき姫武者であった。
「な、なぜ……」
呆然とする長政にお市の方は、
「言うなれば、意地でございます」
「意地?」
「左様でございます。自分から捨てることはあれど、相手から捨てられることは、女の意地が許しませぬ。見れば、なんとむさくるしい餓鬼ばかりの地獄、ここは一つ、私が華を添えてご覧にいれましょう」
市は、ここに来て、絶世の美女に相応しい最高の輝きを放っていた。織田信長の妹ではなく、浅井長政の妻としてー
「……ありがとう、市…… 綺麗だ……」
長政は見惚れるようにお市の方を見た、兵士たちも、
「うおー、絶世の美女に看取られて死ぬなんて、最高じゃねぇか!」
「地獄に極楽ありとはこのことじゃ!」
と、騒いでいた。
織田軍陣営―
京極丸に入った信長と秀吉は、本丸から聞こえてくる浅井軍の声を聞いていた。
「……やけに士気が高いですな」
「うむ、長政め、死地に入って尚、兵を鼓舞できる器、か」
さすが、と、信長は感心した。そもそも、長政の器量を高く買い、そのために、自慢の妹を嫁にやった。長政と共に天下を二分できると言ったこともあった。しかし、両雄並び立たずという故事の言葉通り、二人の運命は衝突することになった。
「敵がこちらへ来ます!」
伝令がなくてもわかる。浅井軍の足音、声、気勢、すぐそこまで迫っている。
「信長様、お下がりください。儂らが迎え撃ちます」
「是非に及ばず、俺自ら長政に引導を渡してくれる」
信長の言葉に秀吉はその意図を汲み込み、反論することはなかった。
浅井軍がやって来た。まるで一匹の獣のように動いている。混戦となって死闘が繰り広げられた。通常ならここまで士気の高い兵に襲われると、及び腰になるものだが、いくつもの死地を乗り越えてきた歴戦の勇士たちは、死兵と化した敵の猛攻に良く耐えていた。
「義兄上、覚悟!」
途端、長政が信長を見つけ、刀を構えて突進してきた。
「殺らいでか長政! 俺に逆らった罪を償わせてやる!」
信長は刀を抜いて応戦した。
まず、長政の一撃をかわした。勢いよく駆け抜けた長政は、すぐに態勢を立て直して信長の方へ振り向いた。
長政の二撃目は刀を縦に振り降ろす攻撃だった。信長は横へと避けると、長政目掛けて刀を突きだした。
キンッー ギギギー
長政は素早く刀を返し、信長の刀へと当てると軌道を逸らして回避した。
刀をぶつけ合ったまま、腕を上げると鍔迫り合いの格好となった。互いに引けを取らず、一歩も譲らない攻防が続く、
ザッー
(あっ!)
途端、信長が横へと身を移し、長政は勢い余って前へと倒れた。
信長は長政の刀を蹴飛ばすと、刀の切っ先を長政に向けた。
(……)
そこで手を止め、なにを思ったのか長政を足蹴りにし始めた。積もり積もった恨みがそうさせたのであろうか、まるで餓鬼を苛めるかのように信長は長政を蹴り転がしていく、
「止めて兄様!」
それを見ていた市が思わず叫んだ。ぴくっ、と信長の足が止まった。
その隙に長政が起き上がり、市も長政の傍に駆け寄ってきた。
「市、兄を裏切り、夫を選ぶか」
信長は実の妹を睨んだ。その目は悲しみに溢れていた。
「はい、私は浅井市、浅井家の姫です」
「……」
その時、
「父上! 母上!」
長政と市の娘ら三人が親の危機に駆けつけてきた。
「お前たち、ここは危ない、下がっていろ!」
「嫌です。私たちも一緒に戦います」
長女の茶々がそう叫んだ。母親に似て、美貌と勇猛さを兼ね備えている。
「くっ」
娘らの性格を知っている長政は、苦渋の決断を迫られた。周りを見ると、同志たちのほとんどが織田軍に討ち取られていた。
(娘らの命には代えられぬ……)
男の意地のために子供たちまでを巻き込むわけにはいかない、長政は覚悟を決めた。
「……お前たち、万福丸と万寿丸は?」
「万福丸は万寿丸と共に天守を守っております」
「そうか、わかった…… 義兄上」
「……」
長政の問いかけに信長は黙って目をやった。
「娘と市を…… 頼みます」
そう言うと長政は走りだし天守へと帰っていった。
「長政様! 待って!」
慌てて後を追おうとする市の腕を信長が掴んだ。
「離して兄様! 私は長政様と一緒にいたい!」
そう叫ぶ市に信長は、
「市、長政の言葉、聞こえなかったか」
と、言って茶々たちの方へと目をやった。
「……」
市は、娘たちを見て、ふと我に返った。
そして力なく座り込み、涙を流して長政と別れる覚悟を決めた。
その後、長政は天守で自害、万福丸と万寿丸、そしてほかの姫との間にできた子らを落ち延びさせた。しかし、万福丸は織田軍に捕まり、関ヶ原の地で磔にされて処刑された。万寿丸はまだ赤子だったため、命は助けられている。
こうして、小谷城は陥落した。信長に最も好かれ、最も憎まれた男・浅井長政の生涯がここに閉じた。
近江国・今浜―
浅井家との戦で大功を立てた秀吉は、小谷の南方にある今浜の地を与えられた。
これにより織田家中では、明智や柴田と並ぶ大名武将へと出世したのである。
秀吉は、今浜の地を
「信長様の岐阜や明智の坂本にも負けない、巨大な国を作りたい」
と、考えていた。
まず、国造りは城造りからと秀吉は思い、小谷城や周辺土地から資材を集め、城を建てることにした。さらに、
「大きな国を造るは人を集めることにあり、人を集めるは銭を集めることにある」
と、言って今浜城下町の年貢や諸役を免除するなどの政策を採った。これにより、近隣諸国から商人や百姓などの諸人が集まり、浅井家統治の頃と比べても、あるいは織田勢力内を見ても随一の国力を蓄えつつあった。
そんな時、岐阜から信長がやって来た。
「ハゲネズミ、随分と励んでいるようだな」
「ははっ、信長様より与えられたこの地を見事なものにしたいと思い、信長様の政策のサル真似などをさせていただいた次第にございます」
「ふっ、言いおる、このまま岐阜を超える国を造るつもりじゃないだろうな?」
「めめめ、滅相もございません! ……はっ、そうだ! 信長様、ぜひこの地を改名したいと思っているのですが、よろしいでしょうか」
「改名? なににするつもりだ」
「信長様より、長の字をいただきまして、長浜と改めとうございます」
(こやつ、機転が利きすぎるわ……)
信長は心の中で苦笑しつつも、
「良いだろう。これより長浜として見事日ノ本有数の国を造ってみせよ」
と、言った。
「ははっ」
「そうだな、ついでにもう一つ」
途端、信長はなにかいたずらを思いついたような顔つきになり、
「ついでに貴様の名も改名したらどうだ?」
と、言った。
「なな、名前をでございますか?」
秀吉は動揺した。
「そうだ、いつまでも木の下にいる男などつまらんだろう」
洒落を言っているつもりだったが、その目が本気だったため、秀吉は半ば脅される形になった。
(どどど、どうするぎゃ…… 急に名前を変えろと言われても……)
戸惑う秀吉を信長はにやけながら見ていると、
「そうだ! それであれば、重臣・柴田様と丹羽様より一字ずつちょうだいしまして、羽柴と名乗りたいと思います!」
「……ほう、羽柴か」
「はい! これにて私は羽柴秀吉、驚くことに丹羽様の『羽』、柴田様の『柴』、明智光秀殿の『秀』、そして、信長様ご幼少の頃の名、吉法師より『吉』の字を併せたなんとも贅沢な名前になりますなぁ」
(こやつ、機転が利きすぎるわっ)
信長は心の中でまた苦笑した。
「ふっ、まぁ良いだろう。後で勝家らに話しておくことだな」
「ははっ」
信長はどこか満足そうな表情になると、岐阜へと帰っていった。部下の働きぶりをこの目で見ようとわざわざ来たらしい。荒っぽい印象のある信長だが、こと細かいところに目を配る繊細さが彼にはあった。
(ふーっ、なんとか生き延びた!)
特に命の危険にあったわけではないが、秀吉は緊張の糸が解けて、その場に座り込んだ。そこに、明智光秀がやって来た。
「秀吉殿、御壮健のようで」
「ややっ、これは光秀殿! 如何なされた」
「いや大事ない、ただ、これより我らは近所となる故、あいさつにと思ってな」
光秀の領地は坂本であり、長浜から見ると琵琶湖を挟んで反対側にあった。光秀、秀吉、いずれも京から岐阜へのライン近くに領地を持つ、最重要拠点を有する者となっていた。
「それはわざわざご足労痛み入る、ささっ、なにもないですが、儂の屋敷へ来てくだされ」
「では、遠慮なく」
光秀は秀吉の屋敷へ招かれていった。
「貴方、お帰りなさい。あらっ、明智様ではございませぬか」
二人を出迎えたのは、ねねである。依然として太陽のように明るい笑顔は、周りの心を照らすようであった。
「お忙しい中、失礼致す。お邪魔ではなかったかな?」
「いいえ、とんでもございません。うちの旦那がいつもお世話になっております。金ヶ崎の時は、明智様なしには旦那も生きて帰ってこれなかったでしょう……」
「わ、儂もがんばったでや!」
秀吉はサルのように跳ねて反論した。
居間に上がると、ねねは茶と饅頭を用意した。光秀と秀吉は茶を啜ると、饅頭を頬張りながら話を始めた。
「それにしても、我らが殿は苛烈でございますなぁ、一時は命の危機にあらせられたのに、それらすべてを乗り越え、近江を完全に手中に治められるとは」
秀吉はそう言った。光秀が次ぐ、
「真、信長様は天命の持ち主であらせられる。あれこそ、日ノ本の王となられるお力だ」
「日ノ本の王か…… 夢があるのぉ」
秀吉は頬張った饅頭を飲み込むと、次の饅頭に手を出した。
「そんな殿についてきたが、儂らも今や織田家中で五本の指に入るほど出世できた。このまま殿が国王となれば、儂もどこまで出世できるかのぉ」
童子が如き笑顔を振りまきながら、秀吉は期待に胸を膨らませていた。
「左様、我らは織田の両翼である。 ……いつかは織田家を牛耳れるかもしれぬな」
「ぶっ」
光秀の突然の言葉に、秀吉は吹き出して咽た。
「ごほっ、ごほっ、変なこと言うんじゃねぇ」
「変なことではござらん、時代は刻々と変化していく、そんな中で日の出の勢いがあるは、信長様と我らが両翼、もし我らが然程に力を持たねば、いずれ信長様御独りで天下を支えねばならなくなる」
「……なるほど」
「信長様を御独りにしないためにも、我らは我らで信長様の背を追うではなく、その先を己が目で見られるようにならねばならん」
「ふむ、ふむ」
「信長様を支えるに能う者、それは我らを置いてほかにいないだろう」
「……」
神妙な面持ちになった二人のところに、ねねがやって来た。
「ひゃっほー、御二人さん、元気でやってるかぁ?」
どうやら二人が話している間に、ちょっとでかけたところで飲んできたようである。貞淑な印象のある日本の女房像は江戸以降のものであり、戦国時代の女性は我々の思うより、遥かに自由であったらしい。イエズス会宣教師・ルイスフロイスが書き記した書物によると、
・日本の女性は度々夫に離別を告げる
・日本の女性は自由に歩き回り、旅に出て、度々酩酊するまで飲む
等々、結婚前・後に関わらず、比較的自由であったようである。
政略結婚や御家同士の結婚が常であることから、この時代の女性は肩身が狭いというような印象を持たれがちだが、実のところ、この頃から男は女に頭が上がらなかったようである。
「ねね、また飲んできたのか」
秀吉は呆れながら、ねねを見た。
(……さっきまでここにいたよな……)
光秀もまた目を丸くしていた。
「ええでねぇが、御前様は戦に出かけて戻ってきたかと思えば、国造るだの城建てるだの言って、家を空けて、あたしのことなんか構ってくれねぇでねぇか」
「それは…… いやいや、仕事は大事じゃろう。儂が出世したからこそ、こうして贅沢な暮らしが……」
「その金をほかの女に貢いでるでねぇか! どの口がほざくか!」
「うっ……」
「どうせ、あたしのことなんかなんとも思ってくれてないんだぁ、わぁぁ、 ……良し、明智様、あたしをもらって!」
『おいっ』
秀吉だけでなく光秀もつい叫んだ。
「……秀吉殿、そなたの奥方であろう。なんとかするんだ」
「そ、そうは言ってもよぉ…… なぁ、ねね? 儂が愛しているのは御前だけだ! 信じてくれ!」
「……本当に?」
ねねは涙目の上目使いで秀吉を見た。それを見て、秀吉はそれまでのねねの暴走っぷりへの怒りがどこかへ吹き飛んだ。 ……男はなんとも単純である。
「お、おう、天と信長様に誓って言おう」
「……で、あるか」
ねねは満足そうな表情を見せると、奥の部屋に入っていった。
「……なんというか、すごい御方だな」
光秀は呆然と見ていた。
「あぁ、まぁ……それでも儂にとっては最高の妻だ」
秀吉はいつものサル面の笑顔ではなく、どこか男前な感じで笑った。
「光秀殿にも奥方がおったな」
「左様、美しい上になにより賢い、私がまだ浪人だった頃に、髪を売って生計を立ててくれた。とても彼女には頭が上がらぬ」
「そうか、そりゃええかみさんをもろうたのぉ」
そう言って、秀吉は茶を一口啜った。光秀もまた一口茶を飲んだ。
「世の中、夫婦となれば墓場行きなどと言う者もおるが、真、そのようなものであれば、夫婦なんてもんははじめからおらんし、とっくに人は滅んでおるじゃろう」
「左様ですな」
「儂も正直なところ、ほかの女も愛しちょるが、最終的には、ねねの下へ帰りたくなる。それは、夫婦という枷に縛られてるからじゃなく、心の底からねねといると幸せだからなんじゃろうと思っている」
「……ふっ」
「あんな感じの妻じゃが、これまで何度も支えられてきた。その恩は、どんなことがあっても忘れられん」
「秀吉殿も、良き妻に巡り会えましたな」
「……あぁ、真に」
二人は茶を飲み干し、琵琶湖に浮かぶ夕日を眺めながら、感慨に耽っていた。