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血川

元亀元年(一五六〇)五月―

 金ヶ崎の死地を逃れた信長は岐阜へと戻っていた。

「信長様……」

 光が目に涙を浮かべながら信長を出迎えた。

「どうした? 何を泣いている」

「浅井の裏切りに会い、信長様が命の危機にあったと聞いて…… 身が裂けるような思いでありました」

 当時、光は武田の動向を探るために、甲斐で潜入調査をしていた。そこに、仲間の忍びから信長の危機を知らされ、急いで岐阜へと駆けつけていた。

 無事に京へ帰ったという報せを聞いてからも、その目で信長を見るまでは不安で仕方がなかったらしい。姿を見た途端、色んな思いが込み上げてきた。

 今まで多くを語らず、感情もあまり見せてこなかった光の意外な一面を見て、信長は心の臓が熱くなるのを感じた。

「もう泣くな、俺はこうして生きている」

「はい……」

「人間五十年、夢幻の如き生なれど、それでも五十年はある。俺はまだ生きるぞ」

「はい……」

「光……」

 途端、信長は光の顎に手をやり、唇を吸った。

 急な信長の行動に光は戸惑ったが、次第に嬉しさが込み上げ、信長の首へと手を回した。信長は光の着物に手を移し、スルリスルリと脱がしていった。傷一つなく、天女のように肌の白い裸身が露わになる。信長もまた自らの着物を脱いだ。日々の馬掛けと戦による外出によって、肌は黒く焼けていた。

 光を押し倒し、体を貪った。

(そうだ、俺は今生きている……)

 段々激しくなる鼓動を感じながら、信長は改めて生を実感した。金ヶ崎から浅井・朝倉軍の攻撃をすり抜けて命からがら帰った。京から岐阜へ帰る途中、狙撃もされた。体には鉄砲のかすり傷が残っている。

 対極的な二つの裸身は重ね合わさり、夜の闇に溶けていった。


秀吉屋敷―

 死地を乗り越え、生還した秀吉は家へと帰った。

「御前様!」

 ねねが飛び出す様にやってきて、秀吉を迎えた。

「おう、ねね…… 今帰ったでや」

「……うっ、うっ、うわぁぁぁぁん」

 ねねは急に泣きだし、秀吉に抱きついた。

 余程心配していたのだろう。普段、太陽のように明るいねねの顔も、影が差したように青めいていた。秀吉が殿を務めると聞いた時から、まともに寝ていなかったのである。

「よしよし、そんなに泣くな、儂はこうして生きておる」

「うぅ、でも、でも……」

「儂の無事を喜んでくれるなら笑ってくれ、ねね、儂はおまえの笑顔が好きじゃ」

「ひっく、ひっく」

「金ヶ崎から逃れる時も、ねねの笑顔を思い浮かべていた。それで儂は生きる力をもろうたんさ」

「……ほかの女じゃなくて?」

「ぶっ、なにもこんな時にまで疑わんでもええじゃろ、あぁ、本当さ!」

「……嬉しい」

 ねねに久々の笑顔が帰ってきた。


光秀屋敷―

 光秀もまた屋敷へと帰った。

「貴方、お帰りなさいませ」

 出迎えたのは、正妻の熙子であった。光秀がまだ美濃・斎藤家臣だった頃からの伴侶で、浪人していた時には自らの美しく黒い髪を売り払って、生計を支えていた。

 光秀と熙子にはこんな逸話がある。二人が知り合ってからある時、光秀の方から婚約を申し出ると、熙子も喜んで承諾した。しかし数カ月後、熙子は疱瘡を患って体中に痘痕が残った。それを恥じた熙子は、父と一計を案じ、自らと瓜二つの妹を代わりに光秀に嫁がせようとしたが、光秀はそれをすぐ見破り、

「なぜ、こんなことをした。私が嫌いになったか?」

と、熙子親子を問い詰めた。

「いいえ、滅相もございません。私はこのように醜き姿となってしまった故、せめて私と瓜二つの妹を嫁がせることで、光秀様がお幸せになるようにと……」

と、答える熙子に対し、

「なにを馬鹿なことを申す、私はそなたの外見だけに惚れたのではない。そうした気遣いを見せるそなたの内なるものに心惹かれたのだ。……せっかく来てくれた妹君には悪いが、やはり私はそなたと結ばれたい」

と言った。これに感動した熙子は、生涯、光秀と共にしようと決めたという。


「ふぅ…… なんとか死地を脱することができた」

 さすがの光秀も、どっと疲れを見せ、床に寝転んだ。熙子が光秀の頭を持ち上げ、膝に乗せる。

「貴方様なら必ず生きて帰ってくると信じておりました」

「はっは、それは何故だ?」

「天がそう告げておりました。毎晩光秀様の御無事を祈っておりましたところ、どこからともなく声が……」

「ふっ、私も天に愛されたということかな」

「左様でございましょう。現にこうして生きて帰ってきました」

「……そうだな」

 光秀もまた妻の顔を見た瞬間にやっと安堵できた気がした。策謀を巡らせて生きるための最大限の努力を尽くしたが、それでも天命なければ虚しく散っていたであろう。

(休むことなかれ、天命は餓えれば一度牙を剥く獣ぞ)

 光秀は、熙子と安らぎの時を過ごすと、すぐに次の戦の支度をはじめた。


翌月―

 織田信長は浅井・朝倉を征伐するために出陣した。摂津の三好残党、そして、京の足利義昭を監視するため、明智光秀と丹羽長秀らを派遣し、残る主力で攻め寄せた。

 これに対し、浅井・朝倉両軍は野村・姉川付近に布陣、両者は睨み合う形となった。


織田・徳川連合軍、

・織田信長

・柴田勝家

・木下秀吉

・森可成

・佐久間信盛

・坂井政尚

・徳川家康

・酒井忠次

・榊原康政

以下略、総勢二万五千


浅井・朝倉連合軍、

・浅井長政

・磯野員昌

・阿閉貞征

・遠藤直経

・朝倉景健

・前波新八郎

・前波新太郎

・魚住景固

以下略、総勢一万三千


 まず、信長は近くの横山城へと攻め掛かった。たかが支城一つとはいえ、これを失えば「小谷から援軍は来ない」と、浅井家の信を揺るがすことになり、内部崩壊を招くこともできるようになる。つまり、横山城への攻撃は長政への挑発でもあった。

 しかし、長政は動かなかった。織田・徳川連合と常に距離を置きながら、こちらを睨んでいる。

「長政め、ここに来て臆したか、良い、横山城を落とすぞ」

 信長は敵に動きなしと見るや、横山城攻囲の軍を狭めた。


その夜、木下秀吉隊―

「うーん……」

 陣内で頭を抱えていたのは竹中半兵衛である。

美濃での一件後、はじめは信長の直臣となっていたが、秀吉が、金ヶ崎の殿の功を得て、

「半兵衛をくだせぇ!」

と、信長に直訴した。

「ふん、はじめからそのつもりだったんだろ? がっはっは」

 信長は秀吉と半兵衛の関係を知っていた。なのであっさりと、

「良いだろう。今孔明の知略、ハゲネズミが使いこなしてみせよ」

と、承諾した。

以来、半兵衛は秀吉の軍師として活躍していた。それまで参謀は蜂須賀正勝が担当していたが、

「俺は所詮、美濃や尾張の土地しか知らん。これから各地を転戦する以上、半兵衛の智の方が役に立つだろう」

と、自らは秀吉の一隊として戦うことに徹していた。


 悩んでいる半兵衛の下へ正勝がやって来た。

「どうした半兵衛、恋の悩みか?」

「小六殿、いえ、実はきな臭い空気を感じていまして……」

「あぁ、お前も感じているか」

「では……」

「応、俺も感じていた。どうも今の状況は桶狭間を思い出す」

「桶狭間ですか」

「あぁ、今の織田が今川で、浅井が織田だな、こちらから攻めている戦で、策を仕掛けてもいる、しかし、それらがまるで誘われるように感じるんだ」

「同感です。浅井はなにかをねらっている」

「そのなにかが問題だがな……」

「これはあくまで推測ですが、敵は桶狭間を再現しようとしているのでは」

「再現?」

「左様、次々と攻囲されていく城・砦、これらを餌にして乾坤一擲の策を仕掛ける」

「乾坤一擲の策といやぁ……」


『奇襲』


「可能性は十分に考えられます。むしろ、浅井・朝倉が勝つにはそれしかない」

「でも、いつ仕掛けてくるんだ? それがわからないと常時奇襲ばかりを気にしていたら城は落とせねぇ」

「奇襲とはもっとも有り得ない時に仕掛けるのが最善です。つまり…… 我々が浅井は攻めてこないと思っている今この時が……」

「そいつはまずい! すぐに藤吉郎に話して、信長様に直訴しなくては!」

 二人は秀吉の下へ駆けていった。


「……それは真か?」

 秀吉は二人の話を聞いて険しい表情をした。

「あぁ、奴らが勝つとしたら、今が最高の時ということだ。すぐに信長様に……」

「いや、信長様に話すのは止めよう」

「なぜだ! 主の危機なんだぞ!」

 正勝は秀吉の胸倉を掴んだ。半兵衛が言葉を取り次ぐ、

「私からもお願いします。信長様にお伝えを……」

「いや、話さない」

「なぜですっ」

「もし信長様に話したら、奇襲を警戒するために軍を動かさねばならん。そうなれば敵が奇襲を仕掛けられなくなる」

「それが必要なのです。敵の奇襲に備えなくては我が軍は負けます」

「いや、奇襲を仕掛けさせた上で、それを敗れは、一気に勝ちが近づく」

『なっー』

 正勝と半兵衛は唖然とした。たしかに、秀吉の言うとおり敵の乾坤一擲の策を破れば、一気に勝つことができる。これまでの戦線膠着を脱することもできる。しかし、あまりにも無謀な賭けであった。

「たしかに無謀かもしれん。が、それくらいのことをせにゃならんのだ」

「……何故に」

「信長様は人一倍わがままなお方だ、金ヶ崎の死地を越えたかと思えば、すぐに復讐したいと申された。それがこうも膠着状態となっては、たとえ勝ったとしてもすっきりせんじゃろう」

「……」

「それに信長様は『人間五十年』と常日頃口にされている。夢幻の如き生のうち、常道に囚われていては欲するものも掴めぬとな」

「……」

「じゃからここは儂も賭けにでる。信長様に報告しないのは大きな罪だが、それを越えた先にある大功を掴んでみたい」

「……」

「どうじゃ? それでも話した方が良いと思うか?」

「……いや、良いでしょう」

 秀吉の話を黙って聞いていた二人のうち、先に口を開いたのは半兵衛だった。

「ならば我々のみで警戒し、浅井軍が攻めてきたら真っ先に迎え撃つ、もしこれに耐えられれば勝機は十分にあります」

「おっしゃ、半兵衛も乗ってくれたら心強い、勝てる気がますますしてきたぞ」

 秀吉はいつものサルの顔に戻っていた。赤ら顔の人たらしは、陽気に死地へ入ろうとしていた。

「小六はどうじゃ」

 秀吉は正勝にも話しかけた。

「……ったく、しゃーねぇな、墨俣の時といいおめぇは死にたがりか」

「はっはっは、生きるってのは死を乗り越えることなんさ」

「へっ、言うじゃねぇか、金ヶ崎以来、随分とでかくなりやがって……」

 秀吉たちは、敢えて敵の思い通りにさせることを選んだ。主君の命を囮として、一戦仕掛けるという大博打に打って出た。


 日がすっかり沈み、松明の灯りを頼りに動いていた頃、以前として浅井・朝倉軍に動きはなかった。小谷方面の山々に浅井・朝倉軍の松明が静かに輝いているのが見える。しかし、卯の刻―

「て、敵襲! 敵襲!」

 わずかに日が昇り始めた頃、浅井・朝倉軍が突如押し寄せてきた。

「ぬぅ、謀ったか長政!」

 長政は松明を囮として動かぬ気配を見せ、密かに信長の近くまで軍を進ませていた。そして、日が昇るのと同時に攻め掛かったのである。

「迎え撃て! 長政の首を獲れ!」

 信長は号令を掛けた。両者入り乱れる激戦となり、人馬の鳴らす地響きがすぐそこまで聞こえていた。

当初、不意を突かれた織田軍は本陣近くまで押し込まれていた。しかし、秀吉隊がすぐに駆けつけたため、戦況を押し戻し始めた。その後、数の有利や徳川軍の加勢もあって、優勢に立ち始める。

「この賭け、獲った! 儂らが勝つぞ!」

 秀吉は激を飛ばした。その隊は、織田・徳川・浅井・朝倉全軍の中で最も勢いがあり、仕掛けたはずの浅井軍が逆に仕掛けられた形になった。


 日がすっかり高くなった頃、さすがの浅井軍も疲れを見せ、遂に退却を開始した。これを見た朝倉軍大将・景健もまた軍を引いた。

 浅井・朝倉連合軍、死者・千七百、

 織田・徳川連合軍、死者・八百、

 両者併せて二千五百もの死者を出したこの合戦は、姉川の地を両軍の血で染め上げ、血川や血原という地名を後世に残している。

事実上、この戦に勝利した信長は、小谷城下を焼き払い、さらには横山城を陥落させた。

「信長様、此度の勝利、おめでとうございます」

「ハゲネズミか」

 戦後報告のため、秀吉は信長の下へ訪れていた。織田軍の危機を救った秀吉隊は、この戦の最大の功労者であった。

「良し、決めた。おみゃぁにあの城をやる」

「へ、あの城……」

 信長の指さす方を見ると、つい先ほど落としたばかりの横山城があった。

「これまでの功に対する褒美じゃ、これを機にますます励めよ! がっはっはっは」

 そう言うと信長は大笑いしながら陣を去った。後には呆然と立っている秀吉だけが残されていた。すべてねらった結果とはいえ、思いのほか上手くことが運んだため、秀吉は驚きを隠せなかった。

「儂が…… 城持ち…… 大名?」

 その場で立ったまま気絶した。


同年八月―

信長は、摂津で挙兵した三好の残党を討つために出兵した。しかし信長が着く頃、石山本願寺が三好家に呼応して信長に叛旗を翻した。

 両軍は野田・福島の地で激突、淀川が入り組む大湿地帯で戦いは始まった。


織田軍、

・織田信長

・明智光秀

・松永久秀

・細川藤賢

・三好義継

以下略、総勢三万


反織田連合軍、

・三好長逸

・三好政康

・岩成友通

・十河存保

・斎藤龍興

以下略、総勢八千


本願寺軍、

・本願寺顕如

・下間頼廉

兵、多数―


 両軍の戦いは鉄砲を中心とした戦いが繰り広げられ、昼夜を問わず銃撃音が鳴り響いた。やがて、織田軍が反織田連合を圧し始めると、反織田連合から、和平の申し出が届いた。

「ふざけるな、少し不利になっただけですぐ和平をしようなど許してなるものか、撫で斬りにせい!」

と、信長はこれを拒否、さらに攻勢を強めた。

ところが、石山から多数の門徒宗を率いた顕如と頼廉が到着、反織田連合が戦況を押し返し始めた。

 本願寺軍は、顕如の圧倒的なカリスマ性と、頼廉の卓越した軍事能力による戦国屈指の強兵軍団である。彼らの加勢を得た三好家残党と龍興らの士気は軒並み上昇した。

 さらに、頼廉は、西風による海水逆流からの淀川氾濫を予期し、織田軍の築いていた堤防を急襲した。これを破り、堰を切ったことで水かさがさらに増した。泥水の混じる湿地で身動きが取れなくなった織田軍は、各地で苦戦し、圧倒され始めた。

 ここで顕如が自ら鉄砲隊を率いて、織田本陣に撃ち掛けた。

「おのれ! 顕如! ……くっ、どうにかならぬか光秀」

 信長の傍には光秀がいた。味方が各地で混乱する中、信長の身を案じて駆けつけていた。

「はっ、ここは三段撃ちを利用致します」

「見せてみよ」

「はっ」

 すると光秀は鉄砲を三人一組に分けて整列させた。

 本願寺の兵たちは織田本陣周辺を破り、一斉に信長目掛けて進んできた。

 途端、

「放て!」

『パパーン』

『パパーン』

『パパーン』

と、それほど間もない間隔で鉄砲が連続して放たれた。尚も鉄砲射撃は続く、

「放て!」

『パパーン』

『パパーン』

『パパーン』

 あっという間に本願寺軍の先鋒は撃ち破られ、それを見た顕如は一旦軍を引いた。淀川には虚しく浮かぶ門徒兵たちの姿があった。

「光秀、三段撃ちと言ったな」

「はっ、鉄砲を三人一組に分け、交代で射撃します。その間に次の鉄砲を準備することで、あまり間を空けずに射撃することが可能となります」

「がっはっは、見事じゃ! 貴様の頭脳は金柑が如き金色の色をしておるな」

「ありがたき幸せにございます」

「申し上げます! 敵方に叡山からの増援が到着! さらに浅井・朝倉軍共に挙兵、我らの背後に迫っておるとのこと!」

「なにっ」

 束の間の喜びも一瞬にして焦燥へと変わった。姉川で敗れた浅井・朝倉軍は尚も健在で、より多くの兵を導入して挑んできた。その数、三万―

 両軍はまず近江国・坂本、宇佐山城へと攻め入る。これに信長の弟・信治と森可成、青地重綱らが奮戦するも、敢え無く討死した。


 信長は三好征伐を諦め、近江へと引き返した。しかし、本願寺軍の策略により、淀川とつながる江口川を渡るための舟が隠されてしまっていた。

「このままでは川を渡れず、敵の追撃をくらってしまいます」

「ぬう……」

 途端、何を思ったのか信長は川沿いを上へ下へと駆け回った。そして、

「ここぞ! 皆、俺に続け!」

 信長は川の浅い所を見抜き、自ら先頭に立って川を渡った。それに続いた兵たちは徒歩でも十分に渡れる浅さだったという。

 結果、わずか一日という早さで退却し、浅井・朝倉連合軍が逆に不意を突かれる形となった。

(義兄上…… 山野を知り尽くしておいでか…… この神速の行軍、侮りがたし)

 浅井長政は改めて織田信長の凄さに恐れていた。

 その後、浅井・朝倉の両軍は比叡山に立て籠もった。比叡山は王城鎮護の名を持つ、霊山で、そこで戦をすることは許されない聖地であった。それを逆利用して、叡山に籠城したのである。

「さすがの信長も叡山に手は出せまい、出したら奴はこの世のすべてから見放される」

「この世だけでなく、あの世からも見放されますがな」

「そうじゃったな。はっはっは」

 朝倉義景とその家臣たちは、呑気にくつろいでいた。


翌日―

 信長は叡山にこう宣告した。

「俺に味方するなら叡山は安堵しよう。出家の身の上、それができぬなら中立の立場を取れ、さもなくば全山焼き討ちにしてくれよう」

 しかし、この脅しを叡山は一蹴した。

「信長めが図に乗るでないわ! 叡山は名高き王城鎮護の御山、田舎武者の指図など受けぬ!」


それから数ヶ月―

 浅井・朝倉軍は叡山から撃って出ては、すぐに叡山に籠っての繰り返し、さらに本願寺門徒兵たちが各地で蜂起、織田軍はまさに袋のネズミ状態になった。

 その最中、伊勢長島の門徒兵によって信長の弟・信興が亡くなっていた。

 手も足も出ない状態で、信長は志賀の城にいた。

(くそっ、どうにもならぬ……)

 かつて美濃を攻めあぐねていた時と同じ苛立ちを感じていた。天下平定を急いて、敵を炙り出したまでは良かったものの、盟友・浅井長政の裏切りで、なにもかも計画を狂わされていた。

 長政さえ裏切らなければ、金ヶ崎で撤退することなく朝倉を滅ぼし、返す刀で背後を気にすることなく三好残党を征伐できた。それだけに長政に対する恨みはとてつもなく膨らんでいた。

「伝令! 怪しい軍勢がこちらへ向かってきているもよう!」

「なにっ」

 信長は数少ない信頼できる者の裏切りで神経質になっていた。そこにこの報である。

「謀叛か!」

 ごく自然にそう思った。自ら成敗してやろうと迫りくる軍を迎えた。

「……ふっ」

 しかし、軍勢の中にいる男を見た時、信長は微笑んだ。

「これは信長様! 御壮健のようでなにより! この秀吉、横山より必死に駆けつけてきましたぞ!」

 横山城の守備にあたっていた秀吉は織田軍の危機を感じ取り、士気を高めるために独断専行で軍を動かし、浅井軍の守る砦を突破しながら命がけの励ましにやって来たのであった。

「たわけめが」

 かつて墨俣に城を築くと大言を吐いた時、金ヶ崎で明るく振る舞った時、そして今ここで自分を励ましに来た男を信長は心の底から頼もしく思った。本来なら軍紀違反にあたる秀吉の行為も問題ではない。『信長公記』では、この秀吉の後詰に対する信長の気持ちを

『御機嫌斜ならず』

と、表している。

 そして、秀吉に元気づけられた信長は一つの決断をする。

「これより和睦いたす」

 諸将に衝撃が走った。これまで苛烈な戦ばかりを仕掛けてきた信長が、敵と和睦するというのは信じられないことだった。

これには敵である浅井・朝倉軍、さらには本願寺顕如たちまで驚かせた。


元亀元年(一五七0)十二月―

 比叡山にて信長は、

「我、天下を望まず、浅井・朝倉殿が治めたまえ」

と、起請文を書いて宣誓した。

 信長、一世一代の大芝居であった。この翌年、その内に秘められた野望の炎が天下を覆い尽くすことになる。


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