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人間五十年

美濃国・岐阜城下町―

 美濃を手中に収めた信長は、稲葉山城を「岐阜城」と改名していた。古代中国の文王が岐山より天下取りを開始したことにあやかった名である。

 また、信長は「天下布武」と書かれた朱印を用いるようになった。これは、天下を武力で支配するとも、武家が支配するともとれるが、いずれにしても信長が天下統一を意識していた証として、今日まで伝わっている。


 その城下町のとある屋敷で、秀吉は女を集めて遊んでいた。

「ひゃっはー、出世じゃ! 金じゃ! 女じゃぁ!」

 墨俣築城の功績により、秀吉には加増と特別報酬が与えられていた。その金で、すぐに女遊びに乗り出たのである。

「……なぁ、藤吉郎、これで良いのか?」

 蜂須賀正勝もまた秀吉と共に遊びに来ていた。

「ん、なんじゃ小六、おめぇそっちの気か?」

「ちげぇよ! いや、俺だって女と遊ぶのは好きだが…… おめぇにはほら、ねねがいるだろ」

「ほーれ、ここか、ここがええか? ……ねね? 誰じゃそれ」

「てめぇっ」

「かみさんなんぞ忘れて今は女遊びの時間じゃぁ、楽しまんともったいないぞ」

 秀吉は女たちを相手にあれやこれやと戯れた。

 途端、

ガラッー

 部屋の襖が開いて、一人の女性が入って来た。ねねである。

『ひっ』

秀吉以外の全員がそれに気づいて凍りついた。当の本人はまったく気づかず女体を貪っていた。

「ほ~れ、儂の六つ指はどうじゃ~ ええじゃろええじゃろ~」

 その秀吉に、ねねが近づき肩を叩いた。

(トントン)

「なんじゃい、儂は今この女子と遊びたいんじゃ、相手をして欲しけりゃちぃと我慢せい」

(トントン)

「じゃから、我慢せいと言うておる。押しの強い女は嫌われるでや」

「……藤吉郎」

「……ん?」

 正勝の言葉にようやく空気を察した秀吉は恐る恐る振り返った。


「 (゜Д゜ 」


 秀吉の顔は強張った。少しの間沈黙が流れる。

「……(チラッ)」

 秀吉は正勝に助けを求める視線を送った。

(こっちみんな!)

 正勝は目で冷たく突き放した。

「……(ぐすん)」

「おまえさまぁ…… こんなところでなにしとるがね?」

 ねねは、秀吉の頭をなでながら微笑んでいた。だが、決して目は笑っていない。

「こ、これはおねね様、ご機嫌麗しゅう、ますますお美しくなられましたなぁ」

 まるで長年仕えている小者のように秀吉は振る舞った。

「信長様から書状が届いたっていうに、こないなところでたぁけおって…… いっぺん死んでみりゃ?」

「め、めめ、滅相もございません。それで、おねね様…… 信長様からの書状というのは……」

「ここにあるさぁ、でもよ、破り捨てめぇ」

 ねねは、懐から紙を取り出すと、そう言って秀吉を脅した。

「ま、ままま、待て! そんなことしたら儂は打ち首じゃ!」

「それでええがね、ほれ」

(ビリビリ)

 ねねは紙を破った。

「ひゃぁぁぁぁぁっ」

 秀吉は泡を吹いて気絶した。

「あ、あのう、ねね、それはちとやり過ぎじゃ……」

 さすがに見かねた正勝が、ねねに話しかける。

「あはは、今破ったのは偽物だよ。本物はこっち」

 そう言うと、ねねは本物の書状を取り出した。

(こえぇ)

 正勝も背筋が凍る思いだった。


美濃国・岩手―

 秀吉は正勝と共に、信長の書状で示された命によって、美濃の最西端にある不破郡岩手という地を訪れていた。

 目的はただ一つ、稀代の名臣・竹中半兵衛の勧誘である。

 斎藤家に仕えていた竹中半兵衛は、一度、信長からの勧誘を断り、さらには主君・龍興の虚を突いて、十数人の供を連れて稲葉山城を占拠したりするなど、奇抜な行動を取っていた。その後は、斎藤家を出奔して浪人になると、近江の浅井家に仕えるが、すぐに出奔して、ここ岩手に隠棲していた。

「ここじゃ、半兵衛の屋敷!」

「随分山奥だったな、さすがに歩き疲れたぜ」

「なに言うとる、墨俣で死にもの狂いに戦った時と比べれば楽なもんじゃろ、後、ねねの雷に比べれば」

「まぁそうだがよ、だが、これからが勝負だ。半兵衛って奴は、一度信長様の誘いを断ってるんだろ? 今度も応じるかわからねぇぞ」

「なにはともあれ会うてみよう。話はそれからだ」

「だな、 ……なんだか嬉しそうだな藤吉郎?」

「いやなに、本当に嬉しいんさ、たった十六人で稲葉山城を取ってしまった男と会うのがよ」

「それか、変わった奴だよな、結局城返して、出奔して、こんなところに籠ってるんだからよ」

「あぁ、そうだ。信長様以上のうつけかもしれん」

「あ、信長様」

「ひゃぁっ!?」

「冗談だ。さぁ入るぞ」

「おみゃぁ……」

 正勝が屋敷の門を叩こうとしたその時、


ギギギッ


 勝手に扉が開いた。というより、反対から誰かが開けたのであった。

「誰ですか、貴方たちは」

『あっー』

 秀吉たちは呆然としていた。二人を出迎えたのは、痩せ気味で色の白い男だった。先に正勝が口を開く、

「い、いや、すいません。俺たちは織田信長様の遣いでして、この屋敷にいるという竹中半兵衛様を訪ねにきたのですが……」

「うつけを探しに来たのではなく?」

「き、聞いていらっしゃいましたか」

「はい、ちょうど庭を掃除していたところで、やたら声の大きい連中が来たなと、ずっとここで聞いておりました」

「ず、ずっと、ですか」

「はい、ずっと」

 気まずい空気が流れる。黙りこむ正勝に代わって秀吉が口を開いた。

「……ということはもしや、貴方様が半兵衛様で?」

「はい、私がうつけの半兵衛です」

「だったら、話は早い!」

「お断りします」

「早過ぎるっ!」

「私は織田信長に仕える気はありません。お引き取りを」

「なぜじゃ! なぜ、そこまで信長様が嫌なんじゃ!」

「あの男には覇王の魂を感じる。この先、乱世をより深いものにしていくだろう。私はそんな者の力になりたくはない」

「違う! 信長様はそんな男じゃない!」

「なぜそう言い切れる?」

「信長様は儂の光なんさ!」

「……光?」

「そうさ、儂は元々百姓じゃったが、この乱世ででけぇことがしたくてよ、はじめは遠州の松下って奴に仕えたんじゃが、結局身分の足枷が酷くてな、先がないと思った儂はすぐ出奔したんさ」

「ふむ」

「んで、次に出会ったのが信長様じゃ、はじめは小者として働いたが、あの方に接していると天からお天道さんが降り注いでいるような気分になってな、この人のために死にてぇとも思ったもんさ」

「……」

「たしかに信長様は苛烈な男じゃ、弟君も手に掛け、主家を追いやって尾張を平らげおった。そしてついには今川・斎藤を飲み込んで天下に轟く大大名よ!」

「……」

「この先、もっと苛烈になるかもしれん。しかし、信長様は儂と同じでこの乱世ででけぇことを成し遂げたいという大望を抱いている。儂の夢は、信長様の夢の力になることなんさ!」

「……」

「だから半兵衛様、いや、半兵衛! お主も信長様と儂と共に乱世ででけぇことをしよう!」

 秀吉はそう言い切ると半兵衛の手を取った。それに対し半兵衛は秀吉から目を逸らしつつ答えた。

「……嫌です」

「なぜじゃ! お主もでけぇことしてみたくないのか!」

「そんな大望は私にはありません。ここでのんびり暮らしたい」

「嘘じゃ! だったら……」

「……だったら?」

 半兵衛は秀吉の目を見つめ直した。秀吉の目は半兵衛の心の奥底を覗いているようだった。

「だったら、なぜ主家に逆らって城を乗っ取った!」

「……」

「なぜ、それをあっさりと返して隠居した! 主を見限ったのではなかったのか! 龍興ではお主の大望を叶えられないと思ったからではないのか!」

「……」

「……どうなんじゃ」

 黙り込む半兵衛、途端、

「……嫌だったからですよ」

 秀吉からまた目を逸らしつつ話し始めた。

「……嫌? なにが嫌なんじゃ」

「人の世がです。一部の人間が理想という下らない言葉だけを掲げ、なにも知らない大勢の愚者がそれに支配される。どのような強引な支配も、大義の一言で許される。国のため、民のため、そんな言葉を吐けば、皆が疑いもなく納得してしまう。そんな人の世の構造が、それを疑問に思わずのうのうと暮らしている連中が、嫌なのです」

「……」

「だから、腹いせにやったのですよ。でも、ただ虚しいだけだった。だから、私は隠棲を決めたのです」

秀吉は黙って半兵衛の話を聞いていた。そこに、さっきまで黙っていた正勝が口を開く、

「でもよ、実際、国があるからこそ俺ら下の者たちも生きていけるんだし……」

「その国がなにをしてくれるというのです? 民から米や銭を搾取し、戦となったら兵として送り出す。なにもしてくれてはいないじゃないか」

「そ、それは……」

「そしてそれをなにも疑おうとしない民たち、人というのは…… 浅ましい生き物だ……」

「……」

 正勝も黙り込んだ。途端、


バキッー


 秀吉が半兵衛を殴った。地面に倒された半兵衛は呆然と秀吉の顔を見た。

「おみゃぁ…… さっきから言わせておけば!」

「……」

「たしかにおみゃぁの言うとおり下らん奴も世の中には多い、こうして乱世になったのもそういった奴らの責任じゃろう。じゃがな!」

 秀吉はこの日一番の大声で怒鳴った。山中にその声が響き渡る。

「じゃがな! 日々をがんばって生きている皆のことを馬鹿にする資格は、おみゃぁにはない!」

「……」

「世の中は理不尽さ、だがそのことに疑問を持たない奴も多い、皆その日その日を生きるのに精一杯じゃからな」

「……」

「おみゃぁみたいに皆が世の中のことを真剣に考えていられたら、こんな世の中にはなってないじゃろう。じゃからこそ、おみゃぁががんばらにゃいかんのじゃないのか? それでがんばることをあきらめたら、おみゃぁもほかの奴らとなんも変わらん。いや、それ以下じゃっ」

「……」

 半兵衛は黙り込んでいた。秀吉の言葉は半兵衛の身にも心にも圧し掛かっていた。それを見ていた正勝は半兵衛を気遣った。

「……おめぇも辛かったんだな。世の中が嫌いになるってのは相当なことだ。毎日楽しく生きている奴はいないし、不満を愚痴っている奴も多い、だが、嫌いになるっていうのはよっぽど苦しいことでないとできないことだ。そして嫌いになってからも苦しみは続く」

「……」

「俺はなんだかおめぇのことが気に入ったぜ。稀代の天才軍師、今孔明と言われた竹中半兵衛じゃなく、ただのうつけであるおめぇのことがよ」

「……もう帰ってください。私は世捨て人になったのです」

「おう、そうするさ、でもまた明日来るぜ」

「……」

「一度お互いに頭を冷やそうや、そして改めて話をしよう」

 正勝の提案に秀吉も、

「そうだな小六、ここは帰るぞ」

と言って半兵衛に背を向けて去っていった。

「そんじゃぁな半兵衛、また明日な」

「……」

 半兵衛は黙って頷いた。


その夜―

 半兵衛の屋敷を去った秀吉たちは村の宿舎で夜を過ごしていた。

「なぁ、おみゃぁはどう思う?」

「ん? 半兵衛のことか?」

「あぁ、そうさ、なんか期待と違っていた」

「ははは、俺らが勝手に妄想してただけじゃねぇか」

「いや、期待以上だったって意味だ」

「応、おめぇも気に入ったのか?」

「なんかな、儂に似ておったんさ、百姓を馬鹿にして威張っている侍のことを憎んでいる儂にな」

「ああ……」

「へっ、笑っちゃうよな、そんな儂が半兵衛に『そんな資格はねぇ!』だとよ、言えた口かって感じだぜ」

「なら、明日会って謝らねぇとな」

「……だな」


次の日―

「申し訳ねぇ!」

 秀吉は半兵衛に会うなり土下座して謝罪した。

「な、なにをです?」

 半兵衛は呆然と秀吉を見つめていた。眠っていないのか目には隈ができている。秀吉に殴られた頬の痣もそのままだった。

「いや、その、思いっきり殴った上に、偉そうなことを言ってしまったじゃろ……」

「良いのですよ。私が悪かったのですから」

「それでも謝らなきゃいけねぇ! このとおりだ」

 秀吉は再び深く頭を下げた。正勝が取り次ぐ、

「藤吉郎も反省しているんだ。許してやってくれねぇか?」

「許すもなにも、怒ってなどいませんよ」

「おぉ、そうか!」

 秀吉は顔をすっと上げた。その顔は眩く輝いていた。

「むしろ感謝しているくらいです。こうして人と思いをぶつけ合ったのは初めてだ」

「そうかそうか、そりゃぁ良かった!」

「良かったな藤吉郎!」

「あぁ、良かった。それじゃぁ半兵衛、今日はこれで失礼致す! また明日来よう」

「え、もう帰るのですか?」

「そうじゃ、今日は謝りにきただけだからな、昨日の話の続きはまた明日じゃ」

 そう言って、秀吉たちは屋敷を去った。

(……おもしろい御仁だ……)

 半兵衛は秀吉の背中を見送りつつ、微笑んだ。


次の日―

 また宿舎に泊まった二人は、半兵衛の屋敷に行く支度をしていた。

「うし、今日も半兵衛んとこいくぞ小六!」

「それがな藤吉郎、その必要がなくなった」

「ん、どういう意味じゃ?」

「……向こうから来ておる」

「なんじゃて!」

 跳び上がって驚く秀吉の前に、半兵衛が登場した。

「お早うございます。秀吉殿、正勝殿、今日は私の方から訪ねさせていただきました」

「い、いやぁ、なんのおかまいもできませんが」

「ここはおめぇの家じゃねぇぞ藤吉郎」

 正勝が突っ込んだ。

「ふっ、はっはっは、やはり面白い御仁だ」

 半兵衛は二人に初めて笑顔を見せた。

「正直なところ、昨日は改めてお断りさせていただこうと思っていたのです。一晩考えましたが、私のような愚者が仕えるべきではない、と」

「なにを言うか半兵衛、お主が愚者などと」

「いいえ、愚者ですよ。ただ日頃の不満を消化できずに自分を追い込んでいただけの愚者です」

「なら尚のこと愚者ではない。愚者は自分を愚者だと気付かぬ故な」

「……ありがとうございます」

「それでだ。気は変わらないか? やはりおみゃぁを仲間に迎え入れたい。共にこの乱世を変えてやろうや!」

「その件ですが…… 私は信長ではなく、貴方に仕えたく願います」

「……儂?」

「左様、木下藤吉郎秀吉、貴方様でございます」

「なぜじゃ」

「貴方様が私にとっての光である故」

「……」

「この竹中半兵衛、初めて人を好きになれた気がしております。そして貴方と居れば、世の中を…… 人を好きになれるのではないかと」

「……そうか」

「はい」

「そうか、そうか! わしゃ嬉しいぞ半兵衛、これからは同志じゃ! 儂と小六と半兵衛、三人でこの乱世に華咲かせようや!」

「ありがたき幸せ」

「あ、ただ、最初は一応信長様の直臣になってくれ、信長様の名代でおみゃぁを誘いにきて儂の直臣にしたとあっては、どんなお叱りを受けるかわからんでにゃ……」

「ふっ、良いでしょう。ですがいずれは」

「あぁ、必ず儂が迎え入れる。なにか手柄を挙げて直訴したら許してくれるじゃろ」

 秀吉は半兵衛にそう約束した。普段のサルのようなおどけた表情ではなく、自信と喜びに満ちた顔で半兵衛を見つめていた。

「おっしゃ、そうとなったら酒だ、酒を用意してくる」

 正勝がそう提案してきた。

「まだ朝ですよ」

「こんな嬉しいことに酒を飲まずしてどうする! 劉備三兄弟の如く桃園の誓いといこうぜ!」

「……そうですね。たまには良いかもしれませんね」

 三人は桃の木こそないものの、三国志の劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結んだ桃園の誓いの真似事をした。その中で秀吉は、自分が侍を憎んでいたこと、信長がその恨みを取り除いてくれたことなど、思いの丈を語りつくした。半兵衛もまた稲葉山城乗っ取りの話や、天下への思いの丈を語りつくした。

後に、秀吉にその人ありと言われる竹中半兵衛は、こうして秀吉と出会ったのであった。


岐阜城―

 岐阜城の居室で、信長は次の一手を打つための策を思案していた。

尾張と美濃、肥沃な土地の両国を制した織田家は、天下屈指の大大名へと成長していた。しかし、天下を平定するためには足りないものが多い。

 まず銭である。国を拡大していくためには、それに伴う軍事力の拡張や設備開発などへの投資、それから土豪たちを味方に付けておくために、どうしても銭が必要だった。

 また、銭では動かない土豪や大名、いわば反織田勢力への対処も考えねばならなかった。

(新たな力が欲しい……)

 と、切実に思っていた。美濃制圧に八年も要してしまった。この調子では天下など夢のまた夢である。

 人間五十年― 敦盛の一節にある言葉だが、信長はこれを好み愛してやまなかった。

(悠長にはしていられない)

と、常日頃自分に言い聞かせるように敦盛を舞った。


数日後―

 信長の下を一人の男が訪れた。

 明智光秀である。

 光秀は、桶狭間での一件以来、諸国を旅して己が研鑽に努めた。縁あって室町足利家に仕える細川藤孝と知己になると、その伝手で足利義昭(義秋)の家臣に召し抱えられていた。

「信長様、お初お目にかかりましてございます。明智光秀と申します。本日は、義昭様の名代として参りました」

 光秀は口上を述べると、頭を垂れた。美濃から落ち延びて以来、多くの苦労を味わい、歳も既に四十となっていた。相変わらず目鼻は整っていて端正な顔立ちの持ち主であったが、苦労を背負ってきたためか、どこかすごみがあった。

「ほう、義昭とは、第十三代将軍・足利義輝の弟君であったな」

「左様でございます。義昭様は兄である義輝様亡き後、その無念を晴らして、自身が将軍の座に就こうとのお考えにございます」

「それで、この信長になにをしろと?」

「恐れながら申し上げます。今や信長様は天下屈指の大大名、都に近し尾張と美濃を得たことにより、上洛も可能なことと存じ上げます。つきましては、義昭様と共に京へ上りたく、お願いに参った次第にございます」

「朝倉はどうした。今、義昭様は朝倉に身を預けておろう」

「残念ながら朝倉義景には上洛の意思がございませぬ。それ故、信長様にお願い申し上げております」

「……」

 信長は少し考える素振りを見せると、

「わかった。義昭様と共に上洛いたそう」

「おぉ、大変ありがたく、義昭様もお喜びになられます」

 光秀は満面の笑みを浮かべると、

「それではこれにて、義昭様へしかと伝えて参ります。具体的な日時は後日追ってご連絡いたしましょう」

と、立ち去ろうとした。

「待て、貴様に話がある」

途端、信長が光秀を止めた。

「話…… で、ございますか?」

「左様」

 信長は不敵な笑みを浮かべると、

「お前たち、下がれ」

と、人払いを始めた。

 意に介さないような表情で、光秀は立ち上がろうとした腰を再び下ろした。


 二人の間に沈黙が流れた。信長はキッと光秀を睨んだまま動かない。

 痺れを切らした光秀が口を開いた。

「一体、なんの御用でしょうか。某は早く主の下へ帰らねばなりませぬ故……」

「初めて会う、と申したな」

「はっ」

 いきなりの信長の言葉に光秀は一瞬呆然とした。

「初めてではない。俺と貴様は以前にも会ったことがある」

「……」

「桶狭間の時、俺を見ていただろう?」

「……」

「俺も貴様を見ていた。てっきりすぐに仕官を願いに来るかと思っていたが、まさかとんだ土産付きでやってくるとはな」

「……ふっ」

 途端、光秀もまた不敵な笑みをこぼし始めた。先ほどまでの真面目一筋な風貌とは一変、狡猾で餓えた狼のような顔つきになった。

「では、改めまして…… お久しゅうございます。信長様」

「ふっ、それで正体を隠したつもりだったか?」

「然にあらず、某、普段はただ義昭様に忠を尽くす、一介の臣であります故」

「で、あるか」

「信長様、こうして会える日を楽しみにしておりました」

「と、言うと」

「この光秀、桶狭間で信長様の武勇を拝見して以来、そのお力になりたいと心から願い、諸国を旅して力をつけていた次第にございます」

「ほう、それで貴様はなんの力を得たというのだ?」

「はっ、軍略・政略・朝廷の礼儀、すべて取得し、また鉄砲の扱いも心得てございます。そして……」

「そして?」

「将軍候補、足利義昭公にございます」

「……」

「僭越ながら申し上げますと、現在の信長様には大義という力が足りません」

「……」

「尾張と美濃を制したとはいえ、天下にそれを良しとしない者は数多くあり、これを打ち倒すには大義名分が必要、そこで義昭様を担ぎ将軍家の名の下に軍を動かせば、織田軍は天下の軍となります」

「……」

「さらに、銭もまた必要と心得ております。そこで、京の三好一党を討ち果たし、余勢を駆って堺まで制せば、莫大な銭が手に入るかと」

「……」

「如何でございますか?」

 光秀の構想を信長は黙って聞いていた。途端、

「……ふっ、はははははははは」

急に大声を出して笑い始めた。

「完璧よの、貴様の案は」

「ありがたく存じます」

「良し、それでいこう。俺も同じことを考えていたが、実はまだ足りないものがあってな、思案していたところだった」

「足りないものとは?」

「貴様だ、光秀、俺の家臣となってくれ」

 信長の言葉に、光秀はまた呆然とした。

「貴様のような、俺の考えを理解でき、俺の命令がなくても動ける者を欲していた。先の絵図も俺一人では描ききれぬ、だが光秀、貴様とならそれは能う」

 その言葉に光秀は笑みを浮かべた。

「ありがたき幸せにございます」

「今はまだ義昭様の臣として動け、使者に来ていきなり家臣を奪ったとなれば疑心を抱かれかねない」

「ははっ」

 こうして明智光秀は織田信長の家臣となった。数奇な運命を辿る二人の道が今、交わったのであった。


数カ月後―

 信長は義昭を連れて上洛を開始した。京への途上にある南近江の大名・六角義賢を撃ち破り、京都に入る。

これに対し、京を抑えていた三好家は、三好義継や松永久秀ら降伏派と、三好長逸、三好政康・岩成友通の三好三人衆ら抗戦派に分かれた。義継は三好家当主であったが、傀儡的存在であったため、主が降伏を決めたにも関わらず、抗戦派も多数存在していた。

 降伏派は信長に許されて臣従し、抗戦派は一戦交えるも撤退、阿波国まで退いた。

 これにより信長は上洛を成し遂げ、足利義昭を第十五代将軍に擁立、さらに堺周辺の自治権を獲得することに成功した。

 このことに不満の念を抱いていたのは、ほかでもない義昭であった。

(信長め、兄の仇である久秀を勝手に許しただけでなく、余の推挙も撥ね退けるとは……)

 義昭は、上洛の礼にと副将軍の地位にと推したが、信長は、

「そのようなもの、私には不要にございます」

と、辞退していた。

 自分の思い通りには動く気がないらしい。義昭は、不満と同時に一抹の不安を覚えた。


岐阜城に戻った信長は、将軍家庇護という立場を活かし、伊勢領への侵攻準備をはじめていた。伊勢は、元は公家の出でこの戦国期に大名となっていた北畠氏が最大勢力を誇っていた。

 信長は、この北畠を調略で攻めた。まず、北伊勢の豪族・神戸氏に近づき、三男の信孝を養子として送り込み、これを取り込んだ。次に、北畠当主・具教の次男で、長野家当主・具藤を内より崩して追放し、代わりに弟の信包を送り込んで、これもまた取り込むことに成功した。

 次々と伊勢の豪族を取り込んでいく信長に、具教は徹底抗戦の構えを見せた。

 信長が、いよいよ伊勢への力攻めにかかろうとしたその時、報がもたらされた。

「申し上げます! 京で三好家の残党及び斎藤龍興が蜂起、義昭様がおわす六条へと向かっているとのことです」

「なにっ」

 三好家の抗戦派だった者たちは、当主・義継が降伏した後、阿波まで逃げて信長が京を離れるのを待っていた。さらに、美濃を追われた斎藤龍興が密かに通じ、打倒信長の旗を掲げて再起したのである。

「ちっ、負け犬どもが……わかった。すぐに向かおう」

 信長は伊勢侵略を一時中断して京へ発った。だが、道中は思わぬ大雪に見舞われ、進軍は困難であった。

(せっかく手に入れた力、こんなところで失ってたまるか)

 寒さで脱落者が出る中、信長は強行に軍を進めた。


京都・六条―

 義昭のいる六条御所では、三好残党らを相手に明智光秀が奮戦していた。

「み、光秀、だ、大丈夫か」

「心配御無用、直に信長様の援軍が駆けつけてきましょう」

「し、しかし……」

「近江の浅井長政殿も向かっているとのことでございます故、しばしのご辛抱を」

 光秀は鉄砲を撃ちながら義昭を落ち着かせていた。御所の奥よりも自分の傍の方が安全と思ったからである。

「こ、こんな矢玉の飛び交う中で辛抱などできん!」

「はっは、武家の棟梁である将軍様が、なにをおっしゃいます」

 三好軍を御所内に誘い込んでは左右から鉄砲隊でこれを撃った。諸国を巡り歩いた光秀は、鉄砲の扱い方を多く学んでいた。自身も名手と呼ばれるほどの腕前で、射手としても用兵術としても織田家中で最先端をいっていた。

 光秀を中心に織田軍は持ちこたえていた。三好軍が攻めあぐねている内に浅井軍が到着、さらに、豪雪で到着が遅れると思われていた信長が強行軍で京へ到着、完全に勢いは織田のものとなっていた。

(またしても信長に……)

 三好軍に混ざっていた斎藤龍興は唇を噛んだ。

 数日後、三好軍は撤退、織田軍の勝利となった。

「ふっ、どうやら俺は必要なかったみたいだな」

 信長は強行の疲れを見せずに光秀ら諸将を労った。

「いえいえ、信長様なくば我らの士気は上がらず、苦戦していたことでしょう」

 光秀もまた、激戦の疲れを見せず信長に応えた。

 この時の信長の様子を『信長公記』は、

『御満足斜ならず』

と、語り継いでいる。


 その後、信長は京に新たな御所を建てるため、普請に取り組んだ。

 多くの鍛冶を呼び込み、材木も取り寄せた。御殿内は金銀を散りばめ、庭には泉水などをこしらえ、名石を配置し、桜を植えた。

 さらに、信長は唐の名物を集め始めた。丹羽長秀を遣いに出し、初花、ふじなすび、竹さしやく、かぶらなし、雁の絵等々、銭を惜しまず投入した。

 もちろん、莫大な金銭が必要だったが、堺や寺社から踏んだんに徴収していたため、織田軍内の資金に困ることはなく、かつ、それらの銭を奪うことで旧勢力の影響力を弱めていった。

 岐阜に戻った信長は再び伊勢攻略を始めた。北畠当主・具教の実弟・木造具政が信長に寝返り、これを好機と見て自ら出陣した。具教は抵抗をするも虚しく降伏、信長は次男の信雄を養子に送り込み、伊勢を完全に掌握した。

 信長の天下は盤石なものと思われた。しかし、それはすぐに不穏な足音を立て始める。


永禄十二年(一五六九)―

 信長は将軍・義昭に対し十六箇条の掟を書き認めた。

 その内容は、義昭の身の回りまで細々と取り決め、政治的な用向きはすべて信長を通せという内容であった。さらに翌年、追加で五箇条の掟を入れた。この五箇条は、前十六の取り決めよりもより厳しいものであった。

「信長め、余を傀儡とするつもりか……、光秀! これはどういうことじゃ!」

 義昭は信長への怒りの炎を滾らせていた。光秀は、淡々と答えた。

「良いではございませぬか、信長公なくば義昭様も将軍の地位には居れぬというもの、このくらいのことは我慢してくだされ」

「なにを言うか! 其の方、最近は信長ばかり構っておるな、余を裏切るか!」

「これはしたり、私は義昭様の家臣でござりますれば、信長公は将軍家にとって大事なお方、粗相のないように努めているだけでございます」

「将軍あっての信長で、信長あっての将軍ではない! 信長め…… 今に見ておれよ……」

 怒り狂う義昭を光秀は冷たい眼差しで見つめていた。


岐阜城―

 信長の下を光秀が訪れていた。先日の義昭の憤慨ぶりを報告するためである。

「おめでとうございます。信長様、義昭様は大変お怒りの様子、朝倉や武田、本願寺、さらには仇敵であるはずの三好にまで信長様に反旗を促す書状を送っております」

「なにがめでたい光秀、敵だらけになるではないか」

「左様、これより我らは死地へと参ります。ですが、信長様もそれを望んでおいででしょう?」

「……」

「故に、義昭様に殿中御掟を突き付けられた。敵を燻りだし、それを平らげるために……それが能えば天下は一気に近くなります」

「ふっ、貴様はやはり見抜いていたか」

「はい…… ただ一つ、何故このように性急な策を仕掛けられる?」

「……正直なところ、急いておる。家督を継いで尾張一国に八年、美濃を取るのにさらに八年、そして今、俺は既に三十六だ。このままでは天下も夢のまた夢よ」

「……」

「人間五十年、夢幻の如き生のうち、常道に囚われていては欲するものも掴めん」

「……」

「故に、俺に敵対する奴らを燻りだし、そして根絶やしにする。たとえ天魔鬼神と言われようがな」

「左様でございましたか、では、この光秀も鬼神の手足となって働きましょう」

「頼みにしておるぞ」


翌月―

 信長はまず朝倉征伐の軍を起こした。再三の上洛要請を無視した朝倉家当主・義景は、越前国を治める大名で、信長の天下を良しとしない者の一人であった。

 越前は近江国の北方に位置し、義景の本城・一乗谷を中心に独自の経済基盤を持ち、もう一つの京と呼ばれていた。

 信長の狙いは、その経済網を手中に収めることと、敦賀港による水運を確保し、琵琶湖、堺港へと通ず、巨大な水運を創ることにあった。


近江国・小谷城―

 大名・浅井長政は、織田信長の越前出兵の報を受け、憤慨していた。

「義兄上、何故朝倉を攻めるのだ……」

 浅井家と朝倉家は同盟関係にあり、長政は織田家と朝倉家の二大大名との同盟間に挟まれることになった。

「如何なさいますか? 長政様」

 長政の妻であり、信長の妹であるお市の方は、夫の行く末を案じていた。

「わからぬ、某はいずれに味方すれば良いのか」

 義に篤い長政は迷っていた。

「義兄上は大器だ。いずれは天下を取る男であろう。故に某は、その力になりたいと思っている」

「……」

「だが、家臣たちの言う、朝倉への義理もわかる。義兄上の強引なやり方に、付いていけぬのも致し方あるまい」

「……」

「それに将軍から書状が来た。織田信長を討てとの仰せだ」

「まぁ、将軍様が……」

 長政の下に、足利義昭からの書状が届いていた。信長に味方するということは、将軍家に背くことでもあった。

「某は、どうすれば良いのだ……」

「……ならば、天下をお取りになってください」

「なにっ」

 突然の市の発言だった。長政は呆然とした表情で妻の顔を見た。

「兄上が天下を取る器であらば、それを失いたくないが故に敵に回したくないのであらば」

「……」

「貴方様が、兄上の器をも飲み込んで天下をお取りになってください。そうすれば朝倉家への義理も、将軍家への義理も同時に果たせましょう」

 さすが信長の妹といったところか、その瞳には兄と同じ野心的な炎が宿っていた。


「義兄・織田信長を討ち、某が天下の主たらん!」


 信長の背後を長政が襲う。


織田軍陣営―

 越前国に入った織田軍は金ヶ崎の地に駐屯していた。

「信長様、朝倉の軍勢何するものでございますな、一息に飲み込んでやりましょうぞ!」

 そう発言したのは木下秀吉である。美濃攻めの際の墨俣建築の働きにより、武将として取り立てられていて、今回の戦で、その列席に加わっていた。ちなみに、蜂須賀正勝や竹中半兵衛は留守を任されており、越前攻めには帯同していない。

「サルがごちゃごちゃ抜かすでないわ!」

 秀吉をサルと呼んだのは、柴田勝家である。信長への叛旗を許されて以来、その尖兵として上洛の際にも奮戦した織田家筆頭家老である。

 勝家をはじめ、秀吉を快く思っていない武将は多かった。どこの誰とわからぬ新参者に良い顔をされるのが気にくわなかったのである。

「まぁまぁ柴田殿、そのように勘気なされるな」

「主もじゃ光秀、新参者が、口で語る前に武功を立てい」

 同じ新参者という扱いを受けていたのが明智光秀である。義昭を将軍に擁立して以降、光秀は織田家中でも破格の扱いを受けていた。

(光秀め…… 儂も負けん!)

 秀吉もまた光秀に宿敵意識を燃やしていた。光秀も珍しく秀吉を

(好かぬ奴)

と、毛嫌いしていた。

(癖の強い奴らよ)

 その光景を見ながら信長は苦笑していた。

 そこに諸将を驚かせる一報がもたらされる。

「伝令! 浅井長政が挙兵! 我らの背後を突かんと迫っております!」

『なにっ』

 一様に驚く武将たちの中、一番驚いていたのは信長であった。

「なにかの間違いであろう? 長政が裏切るなど有り得ぬ」

「間違いではございませぬ!」

 中々信じようとしない信長たちに、次々と長政謀叛の報が届いた。

「信長様、もはや長政の裏切りは明白、すぐに軍を引きましょう」

 諸将の中で最初に決断したのは光秀だった。さすがの信長も、

「……くっ、ぜひもなし」

と、退却を決意した。そして、改めて撤退の軍議を開いた。

「では、これより殿の任を決める。織田家の将来に欠くことできぬ者、または戦の能力に乏しい者は除外する。誰かおらぬか」

 進行役の丹羽長秀が話を進める。まず柴田勝家が名乗りを上げた。

「某が殿の任、務めまする」

「柴田殿は織田家の重鎮、失うわけにはいかぬ」

「では俺が!」

次いで織田の若武者・前田利家が名乗りを上げた。

「そなたではまだ一軍での戦いは任せられぬ」

「では誰が殿を……」

 一同、殿が決まらずに騒ぎはじめた。途端、

「もう良いわ!」

 信長が怒鳴り声を上げ、

「ハゲネズミ、貴様がやれ!」

 それだけを言い残し退却の準備へと向かった。

「……儂?」

 秀吉はただ呆然としていた。主から死ねと同然の命を言われたのである。

「……では、秀吉殿、其の方を此度の殿に任ず、国に残した一族皆を安堵する故、心して討死めされよ……」

「……は、ははぁぁっ」

 秀吉は涙を流しながら殿の任を請けた。

(……)

 その様子を見ていた光秀は、ふと思案していた。

(この男、ここで死なせて良いものか……)

 好かぬ奴と思ってはいたが、その才は認めるところがあった。そして、ある決意を秘めてその場を去った。


 織田軍は次々と撤退の準備を整え、退却を始めた。まず、信長がやって来た。

「信長様!」

 秀吉は、先ほどまで大泣きしていたかと思えば、今は満面の笑みを浮かべて信長を出迎えた。

「今生の別れにございます。されどこの秀吉めが、信長様の背中をしかと守ります故、安心してお退きくださいませ!」

(こやつ……)

 かつて墨俣築城を進言してきた時のような憎たらしさと嬉しさが込み上げてきた。

「後は任せたぞ……秀吉」

「ははっ」

そう言って信長は退却を開始した。

(信長様…… 最後に儂を名前で呼んでくれたんさぁ……)

 この上ない喜びを秀吉は感じ取っていた。主のせいで死ぬという状況で、主のおかげで一生分の喜びを味わえたと、心の底から思っていた。

「何を呆けた面をしておる! 秀吉」

 次に柴田勝家が来た。

「こ、これは柴田殿」

「……散々、貴様を馬鹿にしてきたが…… 此度の大任、見事務めた暁にはその武功、後世に語り継ごうぞ」

「へへっ、ありがとうございやす」

「ふん、礼は殿を務めきってからにせい! ……では、達者でな」

 そうして勝家は退却を開始した。

「秀吉殿、此度の大任、難儀でござるな」

 次に徳川家康がやって来た。信長と同盟して以降、三河を完全に掌握した家康は、松平姓改め徳川姓を名乗っていた。そして、各地で織田軍に同行していた家康は、今回の戦でも手勢を率いて参戦していた。

「これは家康殿! いやはや、そちらもこのような状況に巻き込んでしまい、申し訳ございませぬ」

「いやいや、我らは織田の盟友、共に戦うのは当然のこと、そして、戦に不測の出来事は付き物でございます」

「ささっ、はよう退却めされよ。後はこの秀吉が戦います故」

「それなのだが、秀吉殿、我らの手勢を使ってはくれまいか」

「なんと! 良いのでございますか?」

 家康の申し出に秀吉は飛び跳ねて喜んだ。

「微力ながら支えになりたいと思いましてな、それでは御免」

 手勢を残して、家康は退却を開始した。

「秀吉殿」

 次に来たのは明智光秀だった。穏やかな表情ではなく、既に野獣の眼をしていた。

「ややっ、これは光秀殿! ……光秀殿? なんか普段と雰囲気が違うが…… さ、さぁさぁ退却めされよ、後はこの秀吉が……」

「いや、私も殿を務めることに相成った」

「なんですと!」

 秀吉は先とは別の意味で飛び跳ねた。

「既に信長様には許可を取っている。共に殿を務めさせていただく」

「お、おみゃぁ馬鹿か、自ら死にたいなど……」

「死にたい? 誰が死ぬと言った」

「いやいや、殿は死ぬ確率が高い、お主もよく知っておるだろう」

「確率が高いだけだ。必ず死ぬわけではない」

「ほへー」

 秀吉は呆然としていた。同時に、

(信長様も大事になさるわけじゃ)

と、妙に納得した。

「そうじゃな、実は儂も先ほど信長様に会うて思ったわ、生きたい、生きてまたこの人に褒められたい、と」

 そう言う秀吉を見て、光秀は微かに笑い、

「そうか、ならば生きよう、生きて信長様の天下を支え続けるぞ」

「応!」

 織田軍全軍が退却を開始、殿として木下秀吉・明智光秀が浅井・朝倉連合を相手に戦を開始した。


「放て!」

 浅井軍から弓矢の雨が秀吉たちに浴びせられた。

「うひゃぁ! 死ぬ! 死ぬ!」

「……さっきまでの威勢はどうした」

 サルの如く飛び跳ねる秀吉に、光秀は若干呆れ顔だった。

「この先で鉄砲隊を伏せておく、秀吉殿はそこまで敵を引きつけてきてくれ」

「光秀! 儂を殺す気か!」

「……そしたら我らが生きて帰りやすくなるかもな」

「おい!」


 光秀は、鉄砲隊を潜ませ、秀吉は浅井軍の前で堂々と挑発した。

「はっはっは、浅井軍の裏切り者ども! このサルめが成敗してくれる!」

「なにを!」

 その挑発に乗り、浅井家武将・磯野員昌が秀吉目掛けて矢を放つ、

「ひゃぁ、恐ろしや、皆逃げるんじゃ!」

「待てぃ臆病者がっ、皆の者、追うのじゃ!」

 逃げる秀吉を追う員昌、途端、

「撃て!」

パパーン

 伏せていた光秀の鉄砲が降り注いだ。

「ぬぅ、謀られたか、一旦引くぞ!」

 不意を突かれた員昌は兵を引いた。

「今ぞ! 走って逃げるのだ!」

 光秀の号令と共に織田軍は一目散に逃げ出した。

 一里ばかり引いたところで歩みを止め、浅井・朝倉連合軍の来襲に備えた。

「敵は伏兵を恐れて進軍してくる。同じ手は通用しないだろう」

「んじゃ、どうする」

「その警戒心を逆に利用する。こちらから向かっていって、一斉に退く、相手は伏兵を警戒して追撃できぬはずだ」

「よっしゃ、それで行こうぜ!」

「やけに素直だな」

「お主のやることに間違いはない! さっきの伏兵戦術も見事じゃったし!」

「……」

 はじめは秀吉も光秀を

「堅物」

と、嫌っていたが、その野獣たる一面を見て、すっかり心を許していた。


 今度は朝倉軍がやって来た。率いているのは魚住景固である。

「よっしゃ、かかれー」

 秀吉と光秀は朝倉軍に先手を打った。

「くっ、織田の反撃か! 迎え撃て!」

 しばらくの間、槍と槍を交える戦闘が続いた。頃合いを見た光秀は、

「退け、退けー」

と、退却を命じた。

 それを追おうとする朝倉軍兵士を

「ま、待て! 浅井の先鋒が敵の伏兵にやられたと聞く、ここは警戒して慎重に進むのだ」

と、制止した。

「上手くいったみたいだな!」

と、逃げながら秀吉は飛び跳ねて喜んでいた。

 また一里ほど退いて歩みを止めた。兵も大分少なくなっていた。

 戦闘による戦死者よりも、休まず走っては戦っての繰り返しによる疲れからの脱落者の方が遥かに多かった。残った者の士気もやたら低くなっていた。

「もうだめだ…… おら走れねぇ」

「泣き言を言うんでねぇ、生き残って好いた女に会うんじゃろ」

「んでもよぉ、いくら敵を追っ払っても、また来るじゃねぇか」

「……」

 その様子を見ていた光秀が、刀を抜いて歩み寄っていった。それを見た秀吉は、

「ま、待て光秀!」

と、制止した。その表情は、いつものサル面とは異なる真剣なものだった。

「止めるな秀吉殿、あのような弱音を吐く者がいては、全体の士気に関わる」

「確かに逃走や逐電が後を絶たない、だからこそ一人でも多く味方が欲しい」

「では如何様にする」

「ここは儂に任せてくれ」

 そう言うと秀吉はいつものサル面に戻り、嘆く兵士に近づいていった。

「なぁに大丈夫だ。おみゃぁが死んだところで、その女子は気にもせんわ!」

「な、なんだと!」

「今頃、ほかの男と寝ているにきまっとる! そうさ、そうに違いねぇ!」

「んにゃろ、秀吉の癖して! おみゃぁについてきたからこそ、こんな目に遭ってんじゃねぇか!」

途端、秀吉とその男は取っ組み合いの喧嘩を始めた。

「ご、御両人……」

 その様子を光秀は呆然と見ていた。

それからしばらくして二人は喧嘩を止めた。互いに息を切らせながら仰向けになって天を見上げている。

「はぁはぁ…… 疲れたがや」

「んだな……」

「……儂もねねのことを思うちょる。帰って、またねねを抱きたい」

「……」

「おみゃぁもせっかく好いた女子がいるんだ…… ほかの男に取られぬよう、生きて、帰って、抱け」

「……だな」

 男は満足した表情で空を見上げていた。秀吉は立ち上がり周囲へ目をやると、

「おみゃぁらにも好いた女子がおるじゃろう。おらねば、家族・親友・美味い酒、なんでもええ、なにか一つでも楽しみがある奴は生きろ、生きてその楽しみを謳歌せよ!」

その場の誰しもが秀吉の言葉に、息を呑むように聞き入っていた。

「人はいずれ死ぬ、じゃがそれがいつかはわからん。だから生きている限りは楽しめ」

『応』

「今ここは死地じゃ、じゃが必ず死ぬと決まったわけじゃない。そこにいる光秀がそう言っておった!」

『応!』

「儂らには光秀がおる。少し頼りないかもしれぬが儂もおる。隣を見ればここまで生き残ってきた仲間がいる」

『応!』

「一緒に生きようや! この死線を乗り越えて、信長様に褒められようやぁ!」

『おおおおおおう!』

 それまで死んだような目をしていた男たちは、この男の言葉に生気を漲らせた野獣へと変貌していた。

(すごい……)

 光秀は、秀吉に桶狭間で見た信長と同じものを見た。ほかの誰にもないこの男の才能である。

 秀吉の人心掌握術、光秀の智謀、二つを併せた織田の殿軍は、浅井・朝倉両軍を幾度となく撥ね退け、無事に京都へと退却した。


山城国・京都―

 一足先に京へと帰還した信長は、将軍・足利義昭に目通りを願った。今回の件は明らかに義昭が仕組んだものであったが、信長は堂々と義昭の前に参上した。

「義昭様、信長、只今帰りましてございます」

(こやつ……生きて帰りおった……)

 義昭は動揺の色を隠しきれなかった。

「どうなさいました義昭様」

「お、おう…… 済まぬな、いや、浅井・朝倉の者どもに襲われたと聞いて、そなたの身を案じておったのじゃ、よくぞ無事に帰ってきた」

(こやつ……抜かしおるわ)

 信長は目の奥底で義昭を睨んだ。それに気づいたのか義昭は震えながらも応対した。

「と、とにかく疲れておろう、ゆっくりと休んでいくが良い」

「いえ、謀叛人を成敗しに行かねばなりませぬ故、失敬」

 そう言うと信長はすぐに浅井・朝倉征伐の軍を起こそうとした。京には退却を終えた諸将が居並んでいる。そこへ、

「伝令! 木下秀吉様、明智光秀様、ご到着!」

 殿を務めた二人が無事に退却してきた。

「へへ、信長様…… 信長様じゃぁ…… 生きておったわ……うっ、うっ」

 秀吉はぼろぼろに汚れながらも信長の無事を、また会えたことを心から喜んでいた。

「たわけが、それは俺の言うことだでや」

 信長も満面の笑みで秀吉を出迎えた。そして、

「光秀も…… よくぞ生きて戻った。両脚をもがれる思いであったわ」

 光秀と秀吉を自分の両脚と称えた。片方の脚を庇うために、もう片方の脚を差し出す思いであったのだ。光秀は、

「ありがたき幸せ」

と、喜んだ。

 この褒め言葉に諸将も妬むどころか、手を叩いて共に称えた。

「ふん、本当に生きて帰るとはな…… よくぞ大殿を守ってくれた」

 柴田勝家もまた新参者二人の存在を認めた。癖の強い者たちが、一つの苦境を前に強靭な団結力を見せたのである。


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