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馬揃え

三木城を落とした秀吉は、戦の疲れを癒すため、有馬温泉に再びやって来た。

「ふいーっ、やっぱ温泉は女と入るもんじゃのぉ!」

 秀吉は女を連れ込んで湯に入っていた。もちろん、側室でもなんでもない、ただの浮気である。

「……秀吉様、此度の三木城攻めの戦勝報告や国への言伝などですが……」

 官兵衛も来ていたが、雑務に追われていて、のんびり湯に浸かる暇もなかった。

「ひゃっはっは、ほーれここかー? ここがええかぁ?」

「……秀吉様」

「ほれ、そこのおみゃぁももっと近う寄れ、ほれほれ」

「……秀吉様っ」

「ん? なんじゃ官兵衛」

「……報告の件ですがっ」

「あぁ、おみゃぁに全部任せる。よろしくやっておいてくれや」

「(ピキッ)……わかりました」

 秀吉の体たらくに切れた官兵衛は、安土や秀吉の本拠・長浜への報告書をまとめて送った。


長浜城―

 長浜で留守をしていた秀吉の正室・ねねの下へ官兵衛からの報告書が届いた。


『筑前守様御奮闘にて

此度三木を無事に落とし奉りしこと

喜び勇んで有馬にて女人と戯れ奉り候』


(……あんにゃろう、ぶっ殺す)

 ねねは書状を引き裂いた。


安土城―

 信長の下へ官兵衛からの報告書が届いた。

(ハゲネズミめ、城一つ自ら落とせるようになったか)

 その成長ぶりに感心していた。途端、

「のぉぶなぁがさぁま~ きいてくらはいよ~」

 ねねが信長の下を訪ねてきた。

 相当飲んでいるのか、足腰ふらふらで顔は真っ赤、このまま街を歩けば不埒な男に襲われかねない様子であった。

「む、ねねか…… どうしたのだ」

「うちのぉ…… うちのダンナがぁぁぁぁ、またうわきおぉぉぉぉぉ」

 ねねは信長に抱きついてわんわん泣いた。二人は尾張の頃から、夫の上司・部下の妻とは別に仲が良く、しょっちゅう秀吉の浮気癖を愚痴っていた。

「ハゲネズミめ、またか…… むぅ、たしかに官兵衛からの報告の最後にもそう書いてあるな……」

 官兵衛は信長宛の報告書にも、最後に取ってつけて書いていた。

「あんなやつ、いっそ金ヶ崎で死んでれば良かったんだ!」

「……」

 先まで呂律の回らないしゃべりであったが、そこだけはっきりとしゃべった。信長は、ねねの狂気に対する寒気と秀吉の浮気性に呆れを感じながらも、

「わかった。俺が書状を一筆認めよう、それで良いな?」

と、気遣いを見せた。

「わぁい、さすがのぶながさまぁ、よっ! てんかびと!」

「……」

 天魔神仏の類も恐れぬ豪胆さと狂気を持つことで知られている信長だったが、こうした周りへの気配りはまめに行う律義者でもあった。

 秀吉への書状を認めると、ねねに警護を付けて丁重に長浜に送り届けた。

 その後、信長は今後の戦略を練り始める。

この頃、織田信長は、丹波・播磨など京周辺の地をほぼ完全に掌握していた。

(残るは……坊主か)

 もはや畿内で残す敵は石山本願寺のみとなっていた。本願寺との戦いは元亀元年(一五七〇)、摂津に留まる三好家残党を討つために軍を動かした時、三好側に本願寺が加担したことから始まって、かれこれ十年の時が過ぎようとしていた。織田包囲網の勢力の中でも屈指の軍事力と経済力を誇る本願寺は、信長最大の敵であったと言っても良い。

 各地に門徒宗を抱えているため、次々と蜂起しては織田軍の急所を突いてきた。その中で、一族をはじめとした多くの臣を失った。そして、如何に一揆を虱潰しにしてきても、石山という巨大な城は落とすこと能わず、常に喉元を脅かされる状態がつづいたのであった。しかし、反織田勢力も、浅井・朝倉・三好・武田・上杉・毛利といった名だたる名門の悉くが織田を滅ぼすこと能わず、情勢の変化が彼らの抵抗力を確実に削いでいき、もはや織田と戦ができる状態ではなかった。


摂津国・石山―

 本願寺第十一世・顕如は、織田との戦に決着がつくことを意識していた。

(儂らに勝ち目はない)

とはいえ明らかに勝算はなく、本願寺にとっては降伏か玉砕か、どちらかを選ばなければならない状況であった。

(信長めの圧迫を受けて、我らが権益を守るために立ち上がったものの、多くの信徒を犠牲にしてしまった……)

 そもそも本願寺が信長に敵対した理由は、巨大な権力を持つ本願寺への信長の弾圧から始まった。信長は堺や延暦寺など、既得権益を持つ勢力に対して、莫大な金銭を要求するなど、その力を削ぐことに力を入れていた。本願寺も例に漏れず、信長から圧力を掛けられたのである。

 権益を守るために戦をするというのは聞こえこそ悪いものの、当時の、それも戦国乱世ということを考えればごく自然の流れだった。銭を失えば勢力を維持できず、勢力を維持できなければ仏を…… その加護を頼りにしている信徒は路頭に迷うことになる。世情を考えれば顕如の行いは、自国を守ろうとする戦国大名そのものであった。

(それでも皆、御仏を…… 我らを信じ、戦ってくれている)

 顕如は罪悪感に苛まれていた。

(明るくせねばならぬ、この生き地獄とも言える乱世で、唯一の希望でありつづけねばならないのだ)

 顕如は笑顔を振り絞り、皆がいる前に出て行った。

「おう、顕如様や!」

「顕如様だ! 顕如様がお顔を見せにきはった!」

 皆、顕如の姿を見て一様に喜んだ。顕如の心はますます痛んだ。

「皆の者、聞いてほしい」

 顕如は皆を静め、己の決意を話し始めた。

「織田との十年に渡る永き戦いを皆に強いてしまった。これは儂の失敗であり、罪である。どうか恨んで欲しい」

「なにを言い張るん! 儂らは顕如様が好きで、んでもって織田が嫌いでこれまで戦ってきたんや!」

『せやせや!』

「……しかし、もっと別の道があったのではないかと今では思う」

「たしかにほかの道もあったかもしれねぇ、だどもよ、過ぎたことを悔いるよりこれからのことを考えるべきや! 顕如様がいつも儂らにそう言うてくれてはるやないですか」

 門徒たちの言葉に顕如は目頭が熱くなった。

「……そうじゃな、そうじゃとも、儂らはまだ生きておる。この地獄と言える現世で寄り添い合って、必死に生きておる。死後の世界は極楽なれど、それでも生きるは人の性、こんなところで投げ出してはいかんな」

「そうじゃ! それでこそ儂らの顕如様や!」

『せやせや!』

「……ならば考えたい。儂らはここを去り、余所の地でやり直すか、それとも皆で織田に最後まで抵抗し、玉砕するか」

「それは……」

「先の話を繰り返せば、儂らはまだ生きている。余所へ行って新しくやり直すのも一つの手だと思うが」

「……」

「皆はどう思う?」

「……たしかに、これからの道を考えるとなると、やり直すのもあると思うんです。ですが……」

「ふむ、なんだ?」

「ですが、儂らは今を生きるのに精一杯なんですわ、正直、ほかでやり直すって言っても、上手くやっていけるかどうか不安で仕方がねぇ、それよりも今迄通り、織田憎しで戦いつづけた方がなんぼも楽なんですわ」

「……そうか」

「たしかに戦は恐ろしい、いつ死ぬかもわからない中で、とても正気なんて保ってられまへん、だども、打倒織田という生き方はわかりやすくてええんや、日頃の辛い思いもなにもかも考えずに済む、楽な生き方なんや」

「……」

「顕如様、どうか儂らに最後まで戦わせてくだせぇ、儂らには明日を生きる戦いよりも、今をわかりやすく生きる方がええんですわ」

「……」

「……顕如様?」

「……お主らの気持ち、ようわかった。たしかに、わかりやすく生きるのはええかもしれん」

 顕如は皆を見渡しながら静かに、そして心底から万感の思いを搾り出すように話し始めた。

「だが、それはいわゆる我がままというやつじゃ」

「……我がままですか?」

「うむ、自分のことしか考えていない愚かな考えとも言えるわけじゃ」

「……」

「あれを見てみぃ」

 顕如はとある方向を指さした。皆、その方向に目を向ける。

「……童たちですか?」

「うむ」

 顕如の指先には童たちが遊んでいる姿があった。

「儂らはな、童たちに明るい明日を渡す義務があるんじゃ、それは百姓であろうが、武士であろうが、公家であろうが、儂ら坊主でも変わらぬことじゃ」

「……」

「それを捨ててまで、楽に生きたいと思うのは大人として我がままじゃ、そうは思わないかね?」

「……だども、どうすれば……」

「戦うんや、織田じゃなく、儂らの明日と戦うんや」

「……だども……」

「大丈夫、皆独りではない、そのための儂で、そのための皆や、これまでも皆で織田と戦いつづけてきたじゃろ、それと同じように明日と戦えばええ」

「……」

「……まぁ、無理には言わぬ、じゃが、儂は石山を退去することに決めた。童たちの明日を創るための戦いに身を投じようと思う」

「……わかりました。顕如様がそう仰るなら、儂らどこまでも付いていきます!」

「……済まんな」

「ええんです、結局、儂らはなんもできんもんの集まりじゃ、それを引っ張りつづけてきてくれた顕如様が、儂らは本当に好きなんや」

「そうか、儂も皆のことが好きや、なんか魔王にも明日にも負ける気がせぇへんわ」

「がんばりやしょう、童たちの明日のために」


同年三月―

 石山本願寺は退去を決意、織田方も朝廷を動かして和睦の使者を送りだした。顕如の長男・教如は、あくまでも織田に抗おうとする門徒と共に石山に残ったが、程なくして抵抗の無益を知り、退去した。ここに石山十年戦争の幕が降りた。信長は顕如の偉大さを知り、命を取ることの愚は犯さず、顕如もまた信長の器量を知り、天下の明日の一面を託す、二人はもっとも敵対し、もっとも認め合った仲なのかもしれない。


天正九年(一五八一)、近江国・安土城―

「馬揃えだと?」

 年が明けたばかりの頃、信長は安土城で明智光秀と会談していた。京の周辺を治め、朝廷工作に働きかけている光秀は、実質的に織田家臣団の頂点に位置していた。昨年の本願寺退去の際に、わざわざ朝廷を動かしたのも光秀自身であり、その権威を織田信長の手に収めさせるためであった。

「左様、近衛前久殿が、上様の年賀の際に行われた爆竹の催しを朝廷でもしたいと望まれましてな、しかし、京で爆竹は安全面なども考慮して難しいと思いまして、代わりに馬揃えをされては如何かと」

「ほう、朝廷も余に似て物好きだな」

「祭りを楽しむは武家も公家も百姓も変わりありませぬ、して、如何なされますか」

「ふっ、俺がそのような派手なことを拒否するとでも思うか?」

「はっはっは、これは失礼致しました」

「内容はすべて貴様に任せる。良きに計らえ」

「ははっ」

 信長は光秀に馬揃えを一任し、自らはなにを思ったのか、堺へと赴くことにした。

(ふっ、上様、己のことを俺などと、昔の上様に戻られたようだ)

 光秀は、信長のその様子にどこか嬉しさを感じた。


 馬揃えの準備はつつがなく進められた。諸将の誰しもが、目立って名を馳せようと意気込んでいた。自らの装いはもちろんのこと、中には借金をしてまで、駿馬を調達した者までいた。

 この祭りには、当事者の近衛前久だけでなく、正親町天皇までも楽しみに参加した。中には「信長は禅譲を迫るつもりじゃなかろうか」という声を挙げている者もいたが、この時ばかりは、身分の上下関係なく、祭りをただ楽しもうとしていたのではないかと思う。


馬揃えの編成―

一番隊・丹羽五郎佐衛門尉長秀

二番隊・蜂屋兵庫頭頼隆

三番隊・明智日向守光秀

四番隊・村井作右衛門貞成


御連枝御衆

・織田中将信忠

・北畠中将信雄

・織田上野守信兼

・織田三七信孝

・津田七兵衛信澄

・織田源五長益

・織田又十郎長利

・織田勘七郎信弌

・織田中根信照

・織田竹千代信氏

・木下周防嘉俊

・織田孫十郎


公家衆

・近衛前久

・正親町中納言季秀

・鳥丸中納言光宣

・日野中納言輝資

・高倉藤衛門佐永考

・細川右京大夫昭元

・細川右馬藤賢

・伊勢兵庫頭貞為

・一色左京権大夫義定

・小笠原長時


越前衆

・柴田修理亮勝家

・柴田伊賀勝豊

・柴田左衛門勝政

・不破河内守光治

・前田又左衛門利家

・金森五郎八長近

・原彦次郎長頼


ほか、弓衆、厩奉行、中間衆、坊主衆、曲禄持ち、左御先小姓、右御先小姓

そしてー


織田信長


 ここに錚々たる面々が揃い、日ノ本の歴史に類を見ない盛大な軍事パレードが開かれることになった。


出発前―

「光秀、ようやってくれた」

 信長は光秀の下を訪れ、その功を労った。

「これは上様……!? その御格好は……」

「ふっ、良いであろう?」

 信長は自ら堺で調達してきた品々で身を固めていた。金銀があしらわれた服に、唐土の頭巾、天竺で織られたという絹を腰に巻き、眉は描いて化粧を施し、南蛮渡来の装飾を身に付けていた。元々若いころから「うつけ」などと呼ばれるような振る舞いと派手な格好をしていた信長だったが、まるでその時のように、いや、その時以上に奇抜な格好であった。

「はっはっは、如何に我らが格好良く振る舞いはしても、上様には敵いませぬな」

「ふっ、そういう貴様も中々のものではないか」

 光秀もまた南蛮渡来の衣装を身に付け、まるで鬼が笑っているかのような形相に見える傾奇化粧を施していた。

「これはありがたきお言葉、ささ、天下に我らの武威を示しましょうぞ」

 こうして馬揃えは始まった。京の住人だけでなく全国各地から、噂を聞いて駆けつけてきた者もいた。祭り好きの日本人の血が騒いだのであろう。

「きらびやかじゃのぉ、さすがは天下の織田軍じゃ」

「ねぇねぇ、誰が一番華やかだと思う?」

「信忠様も見事だけど、やはり明智様かなぁ」

「わかってないなぁ、丹羽様の渋さが一番でしょ」

「あ、見て見て! 信長様よ!」

「おぉ、なんと見事な御姿、日ノ本の王はやはり……」

「しーっ、滅多なこと言わん方がええ、口は災いを呼ぶで」

 豪華絢爛な馬揃えは、問題なく進んでいった。集まった民衆は、皆一様にはしゃぎ、織田の天下を肌身で感じた。

各隊の行進が終わると、各々自由に行動した。無論、隊を率いて動き回るわけにはいかなかったが、せっかくの晴れ舞台、少しでも目立っておきたい者が多かった。

信長もまた馬で駆けた。先の行進では位置が離れていた光秀も、今度は傍で駆けている。二人は天下の明日を駆けるように輝きを放っていた。

(そうだ…… 信長様はまだお力がある。衰えなどしてはいない……)

 一時は信長の衰えに不安を感じていた光秀も、目の前を駆ける信長の勇壮たる姿を見て嬉しく思った。桶狭間でその武威を目にして以来、光秀はすっかり信長という男の虜になっていた。


 二人は正親町天皇のところまで駆けて行き、従者と共に馬上の芸を見せた。これには、天皇をはじめ、貴賤の者たちも、

「古今東西、異国の地にもなき眺めであろう。この時代に生まれたことに感謝せねばならぬな」

と、感激したという。


 こうして織田軍の催した盛大な祭りは終わった。しかし、あまりに感激したのか、朝廷はもう一度やって欲しいと、信長に願い出た。これを快く受け入れた信長は、いわゆる後夜祭のような形で、もう一度馬揃えを催した。名馬五百騎を並べて、自らは漆黒の衣装を身に纏い行進、京の皆を大いに沸かせた。

 これに感謝した朝廷は、信長を左大臣に推任しようとした。しかし、これに対して信長は、

「正親町天皇が、誠仁親王へ帝位を譲位するのであれば左大臣の任を受けよう」

という条件を出した。

 これに関して、信長が天皇をも手中に収めようという横暴な態度と捉える向きも多いが、一説には、正親町天皇自らが病などを理由に進んで譲位しようとしていた説もあり、定かではない。しかも、信長のこの返答に対し、朝廷は協議の末に、譲位することを決めたのであった。また、朝廷の内部資料として貴重視されている『お湯殿の上の日記』によると、このことを『めでたいめでたい』とまで記されており、信長が高圧的に朝廷を脅したという通説には疑問が残る。その上、朝廷がこれを快諾したにも関わらず、信長が、

「今年は金神の年故、譲位には相応しくない」

と、凶運の年であることを理由に実現させなかった。実際問題、譲位と一言に言っても儀式やら、天皇の退位後の生活場所の確保など、膨大な費用と煩雑な手続きが必要であった。それを支援しなくてはいけないのは織田方であり、譲位はむしろ信長にとっての不利益でしかなかった。このことから、信長は譲位という無理な条件を朝廷に出せば、左大臣を断ることができると考えていたものと思われる。


(朝廷の権威は手に入れたいが、朝廷に組み込まれるのは御免だ)

信長はあくまで自分が主導権を握ることにこだわった。右大臣の位を返上してからは、正二位の地位こそ保持していたものの、これといった官位を受けることはせずに散位のまま過ごしてきた。秩序に身を置きつつも、それに支配されることを嫌っていたのであろう。


羽柴軍陣営―

 信長や光秀らが、京で盛大に騒いでいる中、羽柴秀吉はおいおい泣いていた。

「儂も参加したかった! なぜ、上様も光秀も呼んでくれなかったんじゃぁ」

「そりゃぁ俺らは毛利との戦中だからな」

 蜂須賀正勝は冷静に秀吉を窘めた。

「おのれ毛利め…… この恨み何倍にもして返してくれよう……」

「……毛利も大変だな」


 秀吉たちは毛利方の城、鳥取城の攻略にあたっていた。

 鳥取城は久松山と呼ばれる小山の地形を活用して建てられており、東坂・西坂・中坂の三つの尾根筋を中心に構成されていた。さらに、雁金山城・丸山城といった出城を配備し、有事の際には各城の連携によって守りを固めていた。

「見事な城じゃのぉ、この城をどうやって落とす、官兵衛」

 秀吉は軍師・官兵衛に相談した。官兵衛は、三木の干殺しの後に、その政治手腕を持って民を統率し、秀吉に対する恨みを見事に軽減していた。今は亡き竹中半兵衛とは毛色が違えど、秀吉の二兵衛と称される彼の実力は、半兵衛に匹敵する見事なものであった。

「ここは兵糧攻めがよろしいかと」

「……またやらにゃならんのか」

「左様、今年は金神、凶作の年にて、これを利用しない手はないでしょう」

「って言っても、儂らも兵糧は足りんのでは……」

「心配無用、諸将には質素倹約を努めさせ、土地より米を買い入れます。さすれば、敵の米を奪うことにもなり、一挙両得でございます」

「周到じゃのぉ」

「しかし、一つ問題がござりますれば」

「なんじゃ」

「鳥取が現在どれだけの兵糧を蓄えているか、これの算用が能いませぬ、なんとか城内を知ることができれば良いのですが……」

「ふむぅ、優秀な忍びがおればあるいはじゃが、難しいのぉ」

 二人が行き詰っている時、一人の男がやって来た。

「秀吉様、各隊の準備、滞りなく進んでおります」

「おう、佐吉か」

 その男の名は石田三成、佐吉とは彼の幼名で、まだ幼い時に秀吉に才を見込まれて小姓として召し抱えられていた。軍事などの能力は皆無だったが、算用にあたっては右に出る者なしと言われていた。

「どうかされましたか、なにやら悩んでおられたようですが」

 三成の質問に、官兵衛が答える。

「いやな、鳥取の兵糧がどれくらいあるか、城内を見て算用したいのだが、どうやって城を覗こうか悩んでいてだな……」

「……ふむ、それでしたら良い場所があります」

『なにっ』

 秀吉と官兵衛は驚いた。三成が説明をつづける。

「鳥取城より向かいのところに、城より少しだけ低い、帝釈山という山があります。そこから鳥取まではおよそ十町ほどと、言ったところでしょうか」

「本当か!?」

「ええ、敵との距離は恐ろしく近いですが、それくらい近ければ算用も能うのでは?」

「……官兵衛、その至近距離で防ぐ軍略、能うか?」

「ふっ、某を誰と心得ていらっしゃる」

「……良し、そこに陣取るとしよう、そこから敵の兵糧を算出し、兵糧攻めの計画を練る」

 秀吉はかくも奇抜な戦術に打って出た。後に太閤ヶ平と呼ばれるこの地は、秀吉の一つの伝説として語り継がれることになる。


 しかし、敵と十町余のこの距離は、羽柴軍の兵士たちに異様な緊張感を与えた。

「なぁ、なんで儂らこんな場所に陣取らにゃならんのだ?」

「なんでも城の中を探りたいんだとよ…… それでこんだけちけぇ距離に陣を取ったそうじゃ」

「ったく、上の考えることはようわからん、儂ら前線の兵のことをもっと考えて欲しいものじゃ」

「なんでも、石田がこの場所を提案したらしい、余計なことを言ってくれたものだ」

と、口々に不平不満を漏らし始めていた。

 既に羽柴家も大きくなり、軍事面だけでなく政治面、すなわち事務方を担当する人材も多くなってきていた。しかし、その中で、

「帷幄に籠っているだけの連中」

という軍事担当から見た事務方の見方と、

「時代が変わってきているのに槍働きしか考えていない頭の固い連中」

という事務担当から見た軍事方の見方が生まれるようになっていた。


 そうした軋轢はさておき、陣を移した秀吉は、鳥取城をなめるように見ていた。

「ほんま、よう見えるのぉ、敵の尻の穴まで見えそうじゃ」

「馬鹿なこと言ってないで前線の兵たちを得意のサル真似で鼓舞してきてください。これだけ近い距離では兵たちは気が気じゃない」

「……おみゃぁも半兵衛に良く似ておるのぉ……」

 官兵衛に言われて、秀吉は前線の兵たちのところへ向かった。

「おう、おみゃぁら! 元気にしているか!」

「ぶっ、秀吉様でねぇか! ここはあぶねぇですぜ、下がった方が……」

「なぁに、おみゃぁらがいれば安全じゃ、毛利の軍恐れるに足らずだぎゃ!」

「はっは、そう秀吉様から言われたらやるしかねぇな! おめぇら、気張っていくぞ!」

『応!』

 理屈を通さず、人々を勇気づけるこの男の才は、既に鳥取城にも伝播していた。


鳥取城―

 毛利は秀吉の侵攻に際して、吉川経家を城主に入れていた。

この経家なる男、毛利家臣・石見吉川の嫡男として生まれ、文武両道に優れた天才であった。尚、毛利家の三矢で有名な吉川元春は、安芸吉川氏であり、経家の石見吉川氏は、その分家にあたる。

 経家が鳥取城主になったのには理由がある。元々の城主は、但馬国大名・山名家当主・豊国であったが、豊国が毛利方から織田に寝返ろうとしたのに対し、家臣・中村春統と森下道誉がそれを良しとせず、豊国を追放し、吉川元春に助勢を依頼した。そこで、元春が一度は別の家臣を送り込むも、統制能わず、本腰を入れるために吉川一門の麒麟児・経家を送り込んだのであった。


しかしー

(……こいつは予想外だ……)

 経家は鳥取城に入った途端、落胆した。

 兵糧が蓄えられていないのである。城の兵は、常備兵と農民兵を併せておよそ四千、対して蓄えられていた兵糧は一か月持つか持たないかというほどしか残っていなかった。

(毛利の補給を受けねばならぬな…… しかし、奴がそれを見過ごすわけがない)

 鳥取城の向かい、帝釈山に秀吉が布陣したと聞いた。経家は、

(かくも大胆な策を織田の上官が採るか…… これが織田の戦なのだな)

と、敵ながらに感心した。


羽柴軍陣営―

 帝釈山に布陣した秀吉は、その地に見事な砦を築き上げていた。

「これで防備はなんとかなるじゃろ、さて、後は……」

「後は、敵の兵糧を算出し、これを追い込まねばなりませぬな」

 官兵衛は鳥取城の一挙一動に注目していた。飯を作る時の煙の出方、城から聞こえてくる兵の意気、そうした細かい情報まで徹底して収集した。

「……どうやら敵も倹約に努めている様子、あまり多くないかもしれませぬ」

「そうか、ならば直に毛利の兵糧入れがやってこよう」

「ですな、ここは敢えて入れさせましょう」

「ぶっ、なんでじゃ!」

「ただし、入れさせるのは少しだけです。兵糧が到着したとあれば良い気になって、倹約できなくなる。さすれば、入れた兵糧以上に飯を食うことになるでしょう」

「……なるほど」

「しかも一度腹を満たせば、次の倹約には耐えられなくなる。これぞアメとムチの計でございます」

「周到よのぉ」


数日後、毛利から兵糧入れの援軍が来た。秀吉らは、多少の抵抗をした後、わざと兵糧を入れさせた。しかし、あまり多く入れさせないように、後続の部隊は徹底して叩いた。

 官兵衛の読み通り、鳥取城はほんの一時の贅を尽くした。いつもより飯を作る時の煙が多い。それだけ兵糧を消費した証である。

 さらに数日後、鳥取の煙は以前よりも遥かに少なくなっていた。

「これで、鳥取の兵糧はなきに等しいでしょう。これより、止めを刺しましょう」

 官兵衛はそう言うと、鳥取城の支城である雁金山城と丸山城の攻略を提案した。ここを抑えれば、毛利との連絡を完全に遮断できる上に、敢えて兵を逃がすことで鳥取城に入れさせ、兵糧消費を加速させる魂胆であった。


鳥取城―

(迂闊なり、秀吉の才、ここまでとは……)

 経家は唇を噛んだ。なんとか兵糧消費を抑えようと自ら質素倹約に努め、家臣・兵士・百姓一人一人までも、それに倣って倹約に努めた。しかし、毛利からの僅かな兵糧援助に気が緩み、兵たち皆が勝手に食い尽くしてしまった。

(率先して上の者が示せば、皆が付いてきてくれると思うておったが甘かったか……)

 文武両道の経家も、部下の欲という心を知ることはできなかった。人を従えるというのは、本人の武勇や知恵とは別のなにかが必要なのかもしれない。


「た、大変です! 羽柴軍が進軍を開始しました!」

「なにっ」

 鳥取城を包囲していた羽柴軍が一斉に動き始めた。

「くそっ、ねらいは……雁金か!」

 経家は秀吉のねらいに気づいた。

「すぐに雁金に兵を回せ! 奴らは我らの兵糧を完全に断つ気だ」

「し、しかし……」

「なにをしておる! 敵のねらいは雁金だ、間違いない」

「しかし、敵の本体もこちらに向かっておりますれば……」

「それは囮だ、敵が兵糧攻めをねらっているのは明白だ。すぐに兵を回せ」

「と、鳥取がどうなってもよろしいので?」

「雁金が落ちれば鳥取も持たん! なぜそれがわからない!」

 得てして、仕掛けた側よりも仕掛けられた側の心理というのは、判断力を狂わせるものである。たとえ経家自身が冷静であったとしても、末端の兵までこれを制御することは能わないのである。


 結局、経家側の対処は遅れ、敢えなくして雁金山城は陥落、そのまま丸根城も陥落し、鳥取城は完全に孤立した。毛利の切り札、吉川経家を持ってしても、織田の…… 羽柴秀吉の軍勢には敵わなかった。

 攻囲を始めてから既に三月の日が経とうとしていた。もはや鳥取から煙が上がることはなく、異様な沈黙と発狂した兵たちの声だけが響いていた。

 腹を空かせた兵や百姓たちは牛馬を喰らい、草木を喰い、その様子は餓鬼の如くであったという。また、ある者は城の外へ逃げようとしたが、羽柴軍の鉄砲射撃により悉く死んでいった。しかも、それで倒れた者を別の者が喰いに来るという地獄絵図が広がっていた。


羽柴軍陣営―

「……むごいのぉ」

「時代は変わりました。槍や弓で敵を脅すだけの時代から、鉄砲や兵糧攻めによる殺しの戦の時代にございます」

「これで乱世は治まるのじゃろうか」

「治めるようにするのが我らの役目なれば」

「……ふむ、しかし天下が治まった時にあのような男がいないのは惜しい、奴だけ生かして城をいただけんものかのぉ」

「……やれるだけやってみますか」

 秀吉は、経家に降伏勧告の使者を送った。条件は中村春統と森下道誉の首のみで、経家は退去して城を明け渡すように伝えた。ところが、

「へっ、秀吉の野郎はとんだ小者だったようだ。俺はこんな条件を受け入れられん」

と、経家は自らの助命を拒否、家臣と共に自害したいとの旨を秀吉側に伝えた。

「……どうしたものかのぉ」

「天下に惜しまれるほどの男だからこそ、家臣を見捨てることができぬのでしょう。信長様に許可をいただき、自害をお認めになるほかないでしょう」

「哀れなる義士よの、 ……致し方なし」

 秀吉は信長にそのことを伝えると、信長はこれを許可し、経家は家臣たちと共に自害して果てた。後に経家の首は、安土に送られ信長の手により丁重に葬られた。

 こうして鳥取の餓え殺しと言われるこの戦は幕を閉じた。


 後に、秀吉は戦勝報告も兼ねた歳暮の祝儀のために安土へ凱旋、馬揃えに参加できなかった鬱憤を晴らすように、派手に帰還した。信長もまた秀吉の働きを大いに称賛し、秀吉は明智に並ぶ名将として天下に名を轟かせたのである。


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