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天命

天文二十年(一五五一年)尾張国・末森―

 麗らかな陽気に包まれた春の頃、ここ尾張では大々的な葬儀が行われていた。

 末森城を居城としていた織田弾正忠家当主・信秀が病により急死したのである。その後継は嫡男の信長に委ねられ、信秀の主だった家臣らは、生前の信秀が織田氏の菩提寺として建立した萬松という寺に集まり、信秀の死を悼んでいた。

 しかし、事件が起こる。喪主である信長が遅刻した挙句、正装もしないまま登場したかと思えば、抹香を信秀の位牌にめがけて投げつけたのである。

「信長様! なんたる振る舞いをなされるのか!」

 そう怒鳴り立てたのは平手政秀、信長がまだ吉法師を名乗っていた頃からの守役である。

「こんなもんで良いだろう? 父は顔色一つ変えておらぬぞ」

「織田家の当主とあろうものが、もう少しお立場を弁えてください!」

「相変わらず爺はうるさいな、俺はやることがある。もう行くぞ」

 そう言うと、信長はすぐに居城の那古屋城へと帰っていった。

「あ、お待ちくだされ信長様!」

「良いではないか政秀殿、兄上はああいうお方だ」

 怒鳴る政秀を止めたのは信長の弟・信行である。兄に比べて礼節を知り、気品も兼ね備えており、織田家中では、信長より信行を当主にという声も少なくなかった。

「しかし……」

「構わぬ、喪主は代わりにこの信行が務める故、兄の好きなようにさせておけば良い」

 信行の心の広さと、その器に、

「さすがは信行様」

と、家臣たちの間から声が上がった。


 那古屋に戻った信長は、馬乗りに出かけた。日課として毎日欠かさず行っている。

 尾張は、木曽川や長良川など、伊勢湾に続く大きな水の流れを有しており、水運豊かな土地柄である。水は、作物を育て、人を集め、銭を集める。人類の様々な文明が川の側にできたように、水運を得るということは、それだけ国力も豊かになる。

(父はこの尾張を手に入れることを夢見ていた。それは俺が成し遂げてみせよう)

 桜並木に囲まれた川沿いの道を駆けながら、信長はそう決意した。

 尾張は南北朝時代より足利一門の斯波氏が守護として勢力を築いていたが、戦国期に入ると守護代であった織田氏が台頭、下克上を成し遂げ、その実権を得ていた。その織田氏もまた清州織田氏と岩倉織田氏に分かれて領土争いをしており、時が経つと清州織田氏の家老であった弾正忠家、即ち信長の家系が、清州織田氏と同等以上の力をつけ始めた。そして信秀の代になるとついに軍事行動や政略活動をし始め、尾張の覇権をかけて争うようになっていた。

 信秀は、その最中に病を患い、夢半ばにして果てた。傍で見てきた信長には、その無念さがよくわかっていた。

(尾張統一こそ父を弔える唯一の方法、葬式など下らん儀礼よ)

 うつけと呼ばれながらも一切を気にせず、ただ、目的を成すためだけに動く、若き信長は盲目的に自らの行動を信じた。

 しかし、事件が起きる。

 天文二十二年(一五五三)、平手政秀が自害した。

 信長のうつけたる振る舞いを戒めるための、彼なりの精一杯の訴えであったと言われている。

(爺め…… 爺だけは俺の心をわかってくれていると思っていたのに……)

 信長は悔しい気持ちでいっぱいになり、涙を流して政秀の死を悲しんだ。

 だが止まるわけにはいかぬ。信長は一途にも自らの振る舞いに信念を貫いた。


翌年四月―

 清州織田家の当主・信友が動き出す。

 信友は、自身の一家老に過ぎない弾正忠家を抑え込むため、信長の弟の信行に接近し、家督は信行が継承するべきとして、信長廃嫡及び暗殺の計画を立てていた。

 そんな中、信長の下を密使が訪ねてきた。

「我が主、斯波義統様より信長殿にお伝えいたしたいことがあります」

「なに、義統が」

 斯波義統は、尾張守護の斯波家当主であったが、信友の手により、既に傀儡的存在となっていて、日頃から信友には不満を抱いていた。

「清州城主・織田信友が、信長殿を暗殺する計画を企てております。どうか身辺にお気を付けくださいとのことにございます」

「わかった。ご忠告、痛み入る」

 そう言うと使者は去っていった。

(信友め、小賢しい真似を……)

と、信長は怒りながらも、

(だが好機よ。奴が先に動けば、俺が楽に動ける)

と、鋭く目を光らせた。


数日後―

 信友の手により、義統が弑された。

 義統の息子・義銀が家臣たちを引き連れて出かけた隙をついて、居城を襲ったのである。今までも傀儡としてきたが、ここに来て遂に守護代が守護を超すという下克上が完遂した。

 父を、主を失った義銀一行は信長を頼った。信長はこれを保護し、津島で匿った。

「主を討つとは信友めは不忠の輩なり、義銀様に代わり信長が成敗してくれる」

と、清州攻めの軍を起こした。

 戦は兎にも角にも大義名分が必要だった。主君殺しを討つというのは、最高の大義名分であり、清州織田家を取り除きたい信長にとって渡りに船と言わんばかりの理由であった。

 信長は叔父の信光と協力し、内部より清州城を開城させ、信友を捕らえた。

「おのれうつけが…… 主家に対する仕打ち、許されるものでないぞ」

 信友は、きっと信長を睨んだ。

「お言葉ですが信友様、それは貴方様にも言えることでしょう。義統様の無念、この信長が晴らしてみせます」

「たわけめが! そうして忠義面ぶりよって…… 貴様の魂胆など見え透いておるわ!」

「……欲しいものはなにをしてでも手に入れる。そう育ってきた故、御免」

 そう言うと、信長は信友を一刀両断に斬り捨てた。

「片づけておけ」

 それだけを言い残し、その場を去った。

 これにより、弾正忠家が名実共に織田家の主となった。守護代か守護を下克上し、わずかの間で、守護代の家臣が主家を下克上して尾張の覇権を手中に収めたのである。


 清州城を手に入れた信長は本城を那古屋から清州へと移した。

 清州は尾張の中心地にあり、伊勢街道・東海道から美濃へと通ず、交通の要所である。

 

 季節は夏へと変わり、太陽の陽射しがきつく降り注ぐ、青々と茂る木々の陰では小鳥たちが涼み、木漏れ日が踊るように揺れていた。

「ウキー キキッ」

 そんな焼けつくような暑さの中、清州の城下町を二人の男が走っていた。

「待て、藤吉郎! 俺の大事なういろうを盗み食いしやがって、今度という今度は許さないからな!」

「へへっ、食べてくださいと言わんばかりに置いてたおみゃぁが悪いぜ小六!」

 逃げているのは木下秀吉、通称・藤吉郎、農民の家の出であったが、

(米作っているだけじゃ生きていけんし、でけぇこともできん、米を銭に変える術を知らにゃならん)

と、銭を学ぶために村を出た。その後、今川家臣の飯尾氏のさらに家臣、松下之綱臣に仕えた。しかし、農民の出ということを良いことに、武士らは秀吉を除け者扱いにした。

(武士っちゅうもんは馬鹿じゃ、この乱世で力ある者が上に立つべきなのに、身分という力のない形に捉われておる……)

 秀吉は武士に対して恨みと絶望の感情を抱くと、間もなく出奔した。が、食い扶持のためには働かねばならず、故郷の尾張へと帰ると、織田家に小者として仕えた。はじめは、武士はみんな同じだろうと思っていて、仕事にもあまり身が入らなかったが、色々なことに知恵が回ることを信長は評価し、次第に重用するようになっていた。


 一方、追いかけているのは蜂須賀正勝、通称・小六、美濃の土豪の出だがいずれの大名にも属さず、陣借りによって戦働きをし、生計を成り立てていた。秀吉とは古くからの仲で、いわゆるマブダチであった。度々秀吉がからかっては正勝を怒らせていたが、決して本気で喧嘩をしているわけではなかった。

「よぉし捕まえたぜ藤吉郎、サルの様にちょこまかと駆け回りやがって、汗かいちまったぜ」

「……おみゃぁそんな格好でよく走れんのぉ」

 正勝は獣の皮を腰に巻き、日に焼けた片肌を露出しているという、まるで山賊のような派手な格好を好んでいた。

「へっ、そりゃぁこれくらい動けなきゃ戦場でも敵の首を獲れねえだろ」

「ぶっ、その格好で戦場出るんけぇ」

「ったりめぇだ。戦場では目立ってなんぼよ、俺ら陣借りは戦働きがすべてだからな!」

 正勝は快活に笑い飛ばすと秀吉をぶら下げたまま秀吉の住む屋敷へと向かった。

 

 秀吉の屋敷に帰ると、ねねが遊びに来ていた。ねねは、信長の弓衆に属していた浅野長勝の養女で、秀吉より十歳年下であった。住んでいるのが近所であったため、ひょんなことから仲良くなり、度々秀吉の屋敷を訪ねてきた。

「あ、また悪さをしたんですか藤吉郎様」

「ね、ねね! いやぁこれはその……」

 秀吉は正勝にぶら下げられたまま答えていて、その様子はあまりに可笑しかった。

「もう、毎度毎度悪さをして周りを困らせて…… 小六様にきつくお仕置きされてください!」

 ねねは、追い打ちをかけるようにそう言った。

「だ、そうだ藤吉郎、観念するんだな」

「とほほ……」

秀吉はおいおい泣いた。後の二人は大声で笑った。知恵の回る男であったが、それ以上に、周りを笑顔にする才能が秀吉にはあった。人たらしと呼ばれるその才能は、後に、織田家中でも大いに活かされることになる。


美濃国・鷺山城―

 豊かな自然に恵まれた美濃は、尾張の北方に位置し、木曽川や長良川の上流を含む、尾張に負けず劣らずの肥沃な土地であった。

 そんな美濃は、秋になると、各地で赤や黄といった色鮮やかなもみじが景色を彩る。ここ鷺山でもそれは同じで、地面に落ちた大量のもみじが、さながら紅で模様を描いた黄金のじゅうたんのようであった。

 鷺山城城主の名を斎藤道三と言う。元は油屋の商人で、美濃国主・土岐氏に寄り添い、謀略を持ってこれを乗っ取った。そのことから「マムシの道三」と、いつしか呼ばれるようになっていた。

 その道三の下を一人の若者が訪ねていた。

「道三様、光秀、ただいま明智城より参上致してございます」

「おお、来たか、待っておったぞ」

 若者の名を明智光秀と言った。美濃国・明智城城主・明智光綱の嫡男で、光綱の死後、その家督を受け継いでいた。

 明智一族は、土岐支流の名門であったが、美濃を斎藤道三が支配した時に、まだ若い光秀の後見人として補佐していた叔父の光安が道三に接近、縁戚となって、忠誠を尽くしていた。

「何用でございますか」

「いやな、お主と話がしとうて呼んだのじゃ」

 道三は既に家督を息子の義龍に譲り隠居していた。それからというもの暇で仕方がないらしく、光秀を呼んで時間を潰そうとしていた。

「では僭越ながらこの光秀、道三様の話し相手を務めさせていただきまする」

「真面目よのう」

 道三は苦笑いをするも、話を続けた。

 軍略、政略、世の中の情勢といった話から、村の夫婦に子が生まれた話、道三の昔話や子たちの話までした。そして、話は尾張の織田信長の話に移る。

「お主は尾張のうつけのことをどう思う?」

「尾張の…… 道三様の婿殿のことでござるか」

「左様」

 美濃と尾張は元々、信長の父・信秀の頃から戦をしていた敵同士であった。しかし、埒が明かないと判断した信秀は、道三と婚姻同盟を結ぼうと提案してきた。果たして平手政秀の仲介により道三の娘・帰蝶が信長に嫁いでいった。

「あれとは昨年の春、正徳寺で会うたことがある。その時、儂は婿殿をこっそり盗み見たのじゃ」

「真にござりますか」

 光秀は道三の無邪気ともいえる行動に笑った。整った顔の持ち主で、笑顔もまた好青年の様相を呈していた。

「左様、左様、小屋を借りて中から様子を窺っていたのじゃが、いざ信長の隊が現れると儂は度胆を抜かれたわ」

「何故でございますか」

「足軽どもが三間を超えるほどの長い槍を持っていてな、さらには鉄砲を抱えている者も多かった。あれだけの財力を軍事につぎ込めるとは、さすがは信秀の息子と感じたわ」

 当時、槍は長くても三間より少し短いものが主流だった。また、鉄砲も高価で、天下広しといえど、数を揃える大名は少なかった。

「じゃが、肝心の婿殿が無様な格好でな、髪は乱れ、湯帷子を着ており片肌を露出して、瓢箪などをぶら下げてやってきたのじゃ」

「なるほど、会見の席にそのような格好、うつけでございますな」

「儂も、この軍事力は、結局は信秀めの遺産のおかげじゃろうと、婿殿を侮った。しかし……」

「しかし?」

「いよいよ会見の時になった時、相手もあの格好では、こちらが正装しても申し訳ないのでな。儂も正装せずに席へと座ったのじゃ。しかし現れた婿殿は、見事なまでに礼装姿でおった。儂の負けじゃ」

「そのようなこと、道三様は気遣いの上でのこと」

 光秀がそう言うと道三は笑いながら、

「婿殿も同じことを言っておった『途中、小屋で私を見ていたのでございましょう? そのため気を遣ってくださったのですな』とな」

と、言った。

「ふむ、つまり信長はうつけを装っていると?」

「装っているというより、己の信じる行動を突き進んだ挙句、周りがそれを受け入れていないといったところじゃろう」

「……なるほど」

 光秀は、信長を孤独な男なのだな、と思った。

「儂はな光秀、美濃を義龍ではなく婿殿に譲ろうかと思い始めておる」

「何を申されますっ」

 道三の突然の発言に、光秀は困惑した。

「国というのは力ある者が治めてこそ意味がある。弱者が治めても土地も民も守れん」

「……」

「それ故、儂は国を盗り、大名となった。土岐の手からこの美濃を奪ってな」

「……」

「お主の叔父もそうであろう。明智家は土岐の支流でありながら、土岐を見限り、力を持つこの儂を選んだ」

「……たしかに、叔父よりいつも聞かせられております。弱者では何も守れんと」

「そうか」

「しかし、力とは何でございましょう。他を圧するだけが力ではございますまい」

 光秀の疑問に道三はまたも笑いながら、

「さすがは光秀、良い質問じゃ、左様、力とは何もそれだけではない」

「ではなにが?」

「そうよのう、力とはすなわち「天命」「大義」「志」が肝要と儂は心得ておる」

「天命・大義・志……」

「左様、志とは信念のことじゃな。これを持つ者は、どのような苦境に立たされても折れずに前へと進むことができる」

 道三の話に、光秀は食い入るように聞いていた。

「大義とは万人が求めるもの、戦においては大義名分を必要とするが、大義なき戦は暴君の証、すぐに他の誰かに弑されてしまうであろう」

「……」

「最後に天命じゃが、これはなかなかに厄介じゃ、天命とは、いかな志・大義を持っていようと抗えぬ運命という奴じゃ」

「神仏のことにございますか」

「そういう奴もおる。じゃが、儂は神仏のそれとはまた別のなにかだと思っている」

「別のなにか……」

「左様、おおよそ目には見えぬ獣といったところか、気まぐれに狂うては人を飲み込む」

「……では、天命は如何にして得れば」

「そうじゃな」

 道三は少し考え込むと、

「そればかりは儂にもわからぬ。獣は手懐けたつもりでも腹が減ればすぐに主に食らいつく、ようはその腹を常に満たしていかねばならないのじゃ」

「……」

「天命はきまぐれじゃが、腹を満たしてはくれない者……、つまり、努力をしない者には決してなびかぬ。日々精進することを怠るなよ光秀」

「ははっ」


明智城―

 道三との話を終えた光秀は、居城の明智城へと帰っていた。

「帰ったか光秀、道三殿は何用であったか」

 光秀を出迎えたのは、叔父の光安であった。光秀が幼い頃から育て親として面倒を見ており、明智家の政務も非常に良くこなしていた。

「道三様は暇つぶしに話がしたいとのことにございました」

「やはりそんなところか、隠居してからマムシの顔もどこへやら、今は幼い息子たちを可愛がるだけの好々爺よ」

 部屋に上がった光秀に茶を出しながら、光安は道三の振る舞いに呆れていた。

「よろしいのではないでしょうか。戦ばかりの日々も疲れるものかと」

「おいおい、お前まで腑抜けたことを言うものじゃない」

「失礼しました。道三様にも日々精進するようにと仰せられました」

「そうか、そんなことも言われたか」

「はい、また、力の有り様も教わりました」

「力の有り様……?」

 光秀は、道三との会話を詳しく話した。

「……そうか、天命・大義・志か」

「はい、それを得た者が強き者、ひいては国を治めるに相応しい者と仰っていました」

「ふむ、さすがは道三殿、ただの野心家ではないな」

「叔父上も道三様の力を見て、恭順したのですか」

「そうだな。たしかに道三殿は力のあるお方であった。明智家存続のためにも外に道はなかった。だが、それだけではない」

「と言いますと?」

「あの男は天下を盗ると大言を吐きおった。まだ美濃一国を盗ったばかりだというのにな。儂は始めは相手にするつもりはなかったが、次第に信じてみたくなった」

「天下盗りでございますか」

「左様、この戦国乱世はまさに下克上の世だ、守護であったものが守護代に取って代わられ、主であったものが家臣に取って代わられる。道三殿の言う『力』のある者が、上に立てる世の中なのだ」

「……」

「まぁそんな道三殿も儂もすっかり歳を取ってしまったがな、だが夢を見るのに歳は関係ない。儂も華やかに戦場で散ってみたいものだ」

「何を仰いますか、叔父上は明智家にとって必要でございます」

 光秀がたしなめると、光安は誤魔化すように笑って、

「冗談だ。真面目よのお前は」

と、言い放ち、部屋を去っていった。

 部屋に残された光秀は、ふと外を覗いた。日はすっかりと落ち、まん丸い月だけが神々しく輝いていた。

(滑稽な…… 叔父上も道三様も天下などと口に出しながら、その実、美濃一国の話しかせぬ……)

 それまで真面目な好青年だった光秀の顔は消え、恍惚とした野心の目を光らせる光秀が顔を覗かせていた。

(天下、乱世、下克上)

 光秀は叔父との話を思い返しつつ、

(大義、志、そして……)

また、道三との話を思い返しつつ、

(天命)

 なにかある思いを秘めたかのように、そうつぶやいていた。


尾張国・清州―

 とある冬のこと、秀吉は信長の小者として良く働いていた。今日は信長が出かけるというので、草履を懐に入れて温めておいた。

(信長様はこうした功績もちゃんと認めてくださる…… ほかの武士とは大違いじゃ……)

 武士を嫌っている秀吉は、身分問わずに実力のある者を重用する信長に、尊敬の念を抱いていた。

ある時、信長になぜ身分関係なしに引き立ててくれるのか聞いたところ、

「俺はこの乱世を好いている。力ある者が上に立てるこの世をな、故に俺は力が欲しい。そして上を目指す。そのためには身分などと力なき象徴には捉われず、その者の力次第で重用するは必然のこと、貴様も力を欲すなら俺に付いて来い」

と、信長は答えた。秀吉は、

(でけぇお方じゃ…… 決めた。儂はこの方に付いていく)

と、思った。

 そのことを思い返していると、信長がやって来た。

「ハゲネズミ、俺の草履をどこへやった」

 ハゲネズミというのは、信長が秀吉に付けた呼び名であった。禿ていたわけではないが、ネズミのようにちょろちょろしていることからそう呼んでいた。一方で、信長の周りの者たちは、秀吉をサル呼ばわりしていた。どちらにしても良い呼び名ではないが、秀吉は一切怒らなかった。

(ほかの奴らはどうでもええ、でも、信長様にならなんと言われようと付いていける)

と、思っていたからである。

「ははっ、今日は雪が降るほど寒い日でございます故、懐にて温めておきました」

「余計な真似を…… 貴様がいなくなれば、俺は草履も満足に履けなくなるな」

 信長はそう言いつつも、どこか嬉しそうに草履を受け取った。

(やはりでけぇお方じゃ…… 後光が射して見える…… いつか儂も信長様にとっての光になれたらのぉ……)

 秀吉は、出かけていく信長の背中を見ながら、そう感じていた。


 屋敷を出た信長は、清州城の天守閣へと向かっていた。

 雪がはらはらと舞い降りていて、城や街はうっすらと雪化粧を施していた。

 信長は少し足早に歩いていた。寒さのせいもあったが、

(どうも俺の周りで怪しい動きをしている奴がいる……)

と、身の危険を感じていた。

 近頃、信長の周辺では奇妙なことが起きていた。昨月のある日に、叔父の信光が死んだ。毒を盛られており、清州織田家の残党が恨みを晴らすためにやったという噂や、織田家の当主を信長ではなく弟の信行にと推す者たちが暗殺したという噂が、どこからともなくささやかれていた。


(とにかく用心せねばなるまい。同時に逆らう者どもを締め上げる策を考えておかねばな……)

 信光を殺したのが誰であれ、家中に信行擁立派がくすぶっているのは明らかだった。

(ただでさえ、いつ今川が攻めてくるかわからぬというのに……)

 信長の目は既に駿河・遠江・三河を治める大大名・今川義元へと向いていた。義元は、かつて父・信秀が尾張と三河の国境近くで領土を巡って争った強敵で、信長の代になってからも両家は睨み合いを続けていた。その義元が、近年ますます力を付けてきており、その対抗策を取るためにも、いち早く獅子身中の虫を退治しておきたかった。

 天守に着くと信長の下へ一人の女がやってきた。名は光と呼んでいた。

彼女との出会いは、信長がいつものように馬乗りで出かけていた時である。夏の陽射しの下を駆けていると、川辺で人が倒れていたのを見つけた。その人こそが光である。着物を身に付けずに倒れていた彼女を起こした信長は屋敷へと運び介抱した。

何故裸で倒れていたのか、生まれは何処なのか、何も話さなかった。ただ、名を光とだけ名乗り、それ以外の問いには何も答えなかった。

(奇妙な女よ)

と、信長は思っていたが、不思議と興味を惹かれた。整った顔立ちに女性らしい美しい曲線を描いた体つきで、どこぞの姫と見紛う美しさであった。さらに光は、女ながらに体力はあり、小柄ながらの素早い身のこなしと体術を取得していたため、忍びとして召し抱えることにした。

戦国時代はとりわけ情報を重要視している者が多かった。その情報収集を専門的に行っていたのが忍びである。その起源は源平の頃からとされているが、戦国期になると各地で活発的に忍びが使われるようになった。

 信長もまた情報を大事にしており、忍びだけでなく、商人や南蛮人など全国を巡る身分の者たちと好んで話をし、世情に耳聡くあるように心掛けていた。

「信長様、お耳にいれたきことがございます」

「なんだ」

 頭巾で覆った顔から目が露出しており、それだけでも美しさを感じさせた。その頭巾を取ると肩までの長さの髪がフワッと広がり、麗しき顔が姿を現した。

「末森城・信行様に挙兵の動きがあります。柴田勝家殿、林秀貞殿らが中心となっているようです」

「やはりか……勝家が厄介だな」

 信行家老の柴田勝家は信秀の時代からの家臣で、その勇猛さから鬼柴田と呼ばれていた。信行派に付くのは自然の流れだったが、それでも敵に回したくない相手だった。

「それともう一つ」

「まだ何かあるのか」

 光は、鋭い目線を周囲に配ると、

「美濃の義龍殿にも謀叛の兆しがあります」

「なにっ」

 さすがの信長も驚いた。美濃は今、斎藤道三の息子・義龍が国主となっていた。しかし隠居してからの道三は、何かと次男の孫四郎と三男の喜平次を溺愛するようになっていた。さらには、

「義龍よりも孫四郎ら家督を譲り、婿殿と共に美濃を任せたい」

と、まで言うようになっていた。

 これに義龍は怒り、今や一触即発の状態となっていた。

「マムシめ…… そのようなことを堂々と公言するなど、呆けたか」

「如何なされますか」

「マムシは俺に美濃を任せたいと公言した。これは俺にとって渡りに船だ。だが今は動けぬ、信行の件もあるでな」

 そう言うと信長は少しの間考え、

「美濃の方は任せた。義龍が動いた時にはマムシを安全な場所へ連れて行き、俺に伝えにきてくれ、身辺の警護を怠るな。信行の方はこちらで片づける」

「ははっ」

 そう言うと光は部屋を出ていった。

(……マムシ、死ぬなよ。少なくても俺が美濃をもらうまではな)

 冬の寒さも相俟って身が引き締まる思いだった。


弘治元年(一五五五)美濃国・鷲山城―

 斎藤道三の下を光が訪ねてきた。信長の命で斎藤義龍の動きを見張っていた光は、稲葉山城の異変を道三に伝えに来た。

「道三様、お耳に入れたいことが……」

「なんだ貴様は」

「信長様の遣いで光と申します」

「なにっ、婿殿の」

「はい。ご子息の義龍様、謀叛にございます。既に弟君の孫四郎様、喜平次様を手に掛け、こちらへ軍を進めております」

「なにっ、孫四郎と喜平次が……」

 道三は愕然とした。自分を殺しに来るのはまだわかる。しかし、幼子たちにまで手を出すとは思っていなかった。

(おのれ愚息めが、罪なき二人に手を掛けるなど……)


数ヶ月前―

 道三は孫四郎と喜平次に会うため稲葉山城を訪ねていた。まだ若く素直な二人のことを道三は溺愛していた。

「良々、孫四郎も喜平次も素直で良いのぉ、その上賢い、それに比べ義龍は……」

 その時、義龍が部屋へ入ってきた。

「……父上、参られておりましたか」

 二人の間に気まずい空気が漂う。

「ああ、義龍か、ちと野暮用でな、顔を出しにきただけじゃ」

 道三も、さすがに後ろめたくなったのか言葉を詰まらせた。

「左様でございましたか。どうぞごゆっくりとなさっていってください」

 そう言うと義龍は部屋を出ていった。

(聞こえていなかったのか……)

と、疑問に思った。しかし、部屋を出た義龍は、

(父よ…… どうして俺を認めてくれないのだ……)

と、強く憤っていた。

 元々仲の悪い親子だったが、これを境に溝はますます深くなっていき、

「家督は孫四郎に継がせ、尾張の婿殿と共に美濃を治めてもらう」

とまで言うようになっていた。

 これを聞いた義龍は憤慨し、病に倒れた。しかし、道三は、

「それ見たことか、この程度で倒れるような男に美濃は任せられん」

と、冷たく言い放った。


稲葉山城―

 病に倒れたとされる義龍は、自室で一計を案じていた。

 実は、病は偽りで、密かに道三失脚の計画を企てていたのである。

(邪魔なのは父と弟たち、そして、尾張のうつけか)

 自らの地位を脅かす存在を記しながら、これを排除しようと目論む、

「孫四郎様と喜平次様が見舞いに参上いたしてございます」

「……わかった。通せ」

 弟二人が来たと、小姓が取り次いできた。それを許可した義龍の目には、野獣の放つ光が宿っていた。

「兄上、お体は大丈夫でございますか」

「我ら兄上のことが心配で、こうして見舞いにやって参りました」

「そうか、済まぬな。心配を掛けて」

 義龍は無垢なまでに兄を気遣う弟たちに先までの気持ちが揺らぎかけた。しかし、

(もう俺はこうするしかない)

途端、刀を抜いた義龍は弟二人をその場で斬り殺した。

不穏な音に駆けつけてきた家臣たちが騒ぎ始める。

「よ、義龍様、これは何事でございますか!」

 突然の惨劇に驚く家臣は、狂気溢れる義龍を見て事態を悟った。

「これより軍勢を鷺山城へ…… 道三へと進める!」

「義龍様……」

「美濃の真の国主は俺だ。弟でも、尾張のうつけでも、父上でもない……この俺だ!」

 親子の溝はついに亀裂となって引き裂かれた。


 一方の道三は義龍謀叛の報せを聞くと、素早く城を出て、長良川を渡り、大桑城に逃れていた。

「光と申したな。尾張へ伝令を頼まれてくれるか」

「はっ、必ずや援軍を連れて戻ってきます」

「いや、援軍は要らぬ。ただ婿殿には見ていてほしいとだけ伝えよ」

「で、ですが……」

「これは儂ら親子の問題、同じく内部に毒を抱える者の助太刀は要らぬ」

 道三は、織田家中の派閥争いに目を向けていた。隠居して以来、呆け気味だったマムシの慧眼は、再び輝きを放ち始めていた。

「……わかりました。ですが、私は信長様の遣い、すべては主の命に従いますれば」

「うむ、それでも婿殿が来ると言うたならば好きにするが良い」

「はっ」

 そう言うと光は清州へと戻っていった。


尾張国・清州城―

「……そうか、マムシは援軍を要らぬと」

「はい」

 光は夜通しで駆け続けていたため、息を上がらせていた。

「これは親子の問題、同じ毒を抱える者の助けは要らぬと仰っておりました」

「マムシめ」

 織田家の事情も苦しいことは確かだった。弟・信行の派閥の動きが最近活発になってきている。しかし、

「親子の問題と言ったな。俺とマムシも親子だ。つまり俺の問題でもある」

と、言い放ち、

「義父を救い、義弟たちの仇を取るため、義兄・義龍を討ちにいくぞ」

と、援軍を出す方針を固めた。

「よろしいのですか、信行様の件は……」

「良い。それにこれは俺の策でもある」

「策でございますか」

「左様、美濃へと援軍を出せばその背後を突こうと信行一派が挙兵するはずだ。そうすれば堂々と内部の毒の排除ができる」

 あまりにも豪胆な作戦だった。あえて身中の虫を炙り出し、それを堂々と食らおうというのである。これを聞いた光は呆然としていた。

「ふっ、どうした。お前も俺の忍びならこれくらいのことで狼狽えてもらっては困る。マムシに伝えてくれ、此度は良い機会をくださったと」

「ははっ」

 光は用意された水を飲み干すと、再び美濃へと出立していった。

(美濃と尾張、一度に手に入れてくれようぞ)

 信長は不敵な笑みを浮かべていた。


美濃国―

 その頃、義龍は道三を追撃しようとしていたが、雪が降ったため進軍を阻まれ、そのまま年が明けた。春になり雪が解けると、再び道三征討の軍を起こした。

「義龍め、来おったか、斯くなる上は儂自ら指揮を執り、迎え撃ってくれよう」

 道三は手勢を率いて義龍の軍勢を長良川で迎え撃った。その数三千弱、対する義龍は一万八千近くあり、結果は火を見るより明らかだった。それでも、

(愚息の率いる兵よ、せめて婿殿が戦をしやすくなるくらいには耐えてみせようぞ)

と、意気込んでいた。

 光から信長の策を聞いた道三は、

「なるほど、むしろ儂が婿殿を助けることになるか」

と、豪快に笑った。

「ならば、この道三、婿殿の身中の虫を燻り、毒を盛ってくれようぞ」

と、信長の出兵を承諾した。

 

 道三の戦は見事なものだった。

 兵の押し引きが巧みで、また敵の弱所を突くのが上手かった。

 次第に義龍先鋒を務めていた竹腰道鎮は圧され、道鎮が討ち取られる事態となった。これを聞いた義龍は、

「さすがは父と言ったところか、ならば俺自ら引導を渡してくれよう」

と、自ら旗本を率いて道三隊に攻撃を仕掛けた。

「愚息めが、本体を率いてきたとて撃ち破ってみせよう」

と、道三もまた死力を振り絞って応じた。

 両軍は乱戦となった。


一方、その頃―

 義龍軍の動きを知った信長は手勢を率いて美濃へと向かっていた。

(これで信行らを釣り出せる。だが……)

 信長は背後の末森城・信行の動きを気にしつつも、

(マムシも救えぬものか……)

と、欲を出すようになっていた。

 その若さ故か、何でもかんでも手に入れたいという欲求が強かった。家中を完全に掌握していない状況で、道三の命や美濃まで同時に欲しくなってきた。

(マムシは俺を理解する数少ない男だ)

 その脳裏には父・信秀や平手政秀の姿を思い浮かべていた。


 一進一退の攻防を続けていた道三と義龍だったが、次第に義龍の方が優勢になり始めていた。兵力差のせいもあったが、何より義龍自身の采配も見事であった。

(……ふっ、愚息と侮った時から儂の負けか)

 道三は自らの曇っていた眼を反省した。そして、

「天晴れ、斎藤義龍! お主こそ、このマムシの血を受け継ぐ者よ!」

と、戦場全体に響き渡るような大声で叫んだ。

 その声は、戦場の喧騒ですぐに掻き消されたが、義龍の心には届いていた。

(……道三、我が父よ。安らかに眠れ……)

 程なくして長井道勝・小牧源太らが道三を討ち取り、親子の骨肉の争いは終息した。


尾張国―

 道三討死の報せを聞いた信長はすぐさま兵を返していた。義龍軍が追撃をかけてきたが、自ら殿をしつつ鉄砲で追い払った。

清州に戻った信長の下に、光がやってきた。

「岩倉城城主・織田信安が挙兵しました」

「ほう、先に信安が来たか」

 岩倉織田家は長年、清州織田家と尾張の覇権を賭けて争っていた。その清州織田家が、弾正忠家に乗っ取られたため、岩倉織田家当主・信安は、信長の背中を虎視眈々と窺っていた。そして、美濃での混乱を機に挙兵したのであった。しかし、道三敗退により、すぐに軍を返していた信長軍の急襲により信安の目論みは敢え無く外れ、撤退を余儀なくされた。これを追撃し、岩倉へと攻め寄せた信長は、周辺の土地を焼き払い、あっさりと兵を引いた。信長にとって信安は眼中にもないらしく、むしろ信行の挙兵を今か今かと待っていた。


同年八月―

 ついに信行が蜂起した。

 信行家老・柴田勝家が千人、林秀貞らが手勢を七百人率いて清州へと向かっている報が入ったのである。

 これに対し信長側は織田家中の争いということもあって士気は低く、信長は、

(弱腰の兵を連れても邪魔になるだけ、ならば手勢で挑もうぞ)

と、精鋭七百の軍勢で出発、清州南東の於多井川で迎え撃った。

 東から柴田、南から林、信長はまず柴田へと矛先を向けた。ようは、

(勝家さえ退かせれば俺の勝ちよ)

ということであった。織田家中屈指の戦上手で知られる柴田勝家は、信行の唯一の切り札だった。

 戦は押して押されての接戦だった。しかし、数で勝る勝家隊が徐々に優勢に立っていった。

(ちっ、さすがに楽ではないな)

 そこで信長は一計を案じた。

(勝家は勇猛だが、兵まで勇猛とは限らないな)

途端、

「貴様ら! 誰に刃を向けていると思っている! 今からこの信長が斬り捨ててやろうぞ!」

と、天高く貫くような大音声で敵を一喝した。

「ひ、ひぃぃ、恐ろしやぁ」

 信長の威に圧された兵士たちは、次々と逃げ始めた。織田家中の争いに過ぎないという兵の思いは、信行側も同じようであった。

「ま、待てお主ら……ぬぅ、これも信長の器量というものか」

 兵士たちがいなくなれば、いくら鬼柴田といえど戦いようがなかった。

「良し、次は林隊だ! 行くぞ!」

 信長は先頭を駆けて林秀貞のいる陣へ突撃をかけた。

「の、信長がこっちへ来る! 皆、逃げるんじゃ」

 今度は大将の秀貞すら逃げてしまい、この戦は信長の勝利となった。

「腰抜けめがっ、雑兵ならいざ知らず、大将まで臆病とはそれでも織田家臣か!」

 今は敵とはいえ、家中統一後は自らの力となるはずの将の不甲斐なさに、信長は憤りを感じていた。


清州城―

 信長と信行は、二人の母の土田御前の執り成しによって和解することになった。

「兄上、この度の叛旗、大変申し訳なくございます」

 信行は信長と土田御前のいる前で平伏した。しかし、その手には力が込められていた。

「信長、信行もこう申している故、許してやってはくれぬか」

「無論でございます母上、兄弟が争って母上を泣かせるわけにはいきませぬ」

 信長は笑顔でそう答えた。しかし、その目には野獣たる狂気が秘められていた。

 信行の重臣・柴田勝家もまた信長の許しを請いに来ていた。信長は二人きりで対面した。

「大殿、此度のことで信行様をお許し戴きありがとうございます」

 そう言い、勝家は平伏すると、

「されど、直接刃を向けた某は許されぬ身、どうかこの腹をお斬りくだされ」

と言って、上半身裸になり、切腹しようとした。

「ならぬ、貴様、俺に刃を向けただけでなく、その上、損をさせる気か」

信長は勝家を止めた。

「損…… で、ございますか?」

「左様」

 信長はうなずくと、

「貴様は俺にとって大事な戦力だ。死ぬことなど許さぬ」

「しかし……」

「俺に逆らったのは信行だ。貴様は主の命にただ従っただけだ」

「……」

「もっとも、貴様がそのような些事にこだわる男なら要らぬ、地獄でもどこでも好きな所に往くが良い」

(謀叛が些事、か、やはりこの男の器、並々ならぬものだ)

 勝家は、信長の言葉に改心し、

「……わかりました。これよりこの勝家、大殿の力となりましょうぞ」

と、信長への臣従を誓った。これより先、勝家は織田家筆頭家老としてその名を天下に轟かせることになる。


翌年―

 再び、信行の謀叛の報せが届いた。密かに信長を暗殺しようと企んだのである。

 そのことを伝えに来たのは勝家だった。既に信長に心服していた勝家は、表面上は信行の家老として働いていたが、裏ではその監視役として動いていた。

「……信行、あくまで俺に逆らうか」

「残念ながら、そのようでございます。大殿、ここは……」

「うむ。その計画を逆手に取ろう」

 次の日、信長は病を患ったとして、一切の公務を休んだ。

 それを聞いた信行は、

「見舞いがしたい」

と、申し出てきた。

(かかった)

 不敵な笑みをこぼした信長は、信行の申し出を承諾し、土田御前と共に清州城へ来るよう伝えた。

(何故母上と一緒かはわからぬが、まぁ良い。これで兄上も終わりよ)

 信行は柴田勝家らに信長暗殺の計画を漏らしていた。

 自分が病で寝ている兄を討つので、同時に清州城を占拠してほしいと頼んだのである。勝家はこれを、

「承知しました」

と、表面上だけ了解した。

 清州城に着いた信行は、

「勝家、そなたはここで母上と待っていてくれ」

と、言いつつ、

(こっそり部屋を離れて城を抑えろ)

と、目で合図した。

「ははっ」

 勝家は心にない返事をし、

(さらばです信行様……)

 ただ主の背中を見て、哀しげに別れを告げた。


 信長の部屋に辿り着いた信行は、懐刀を胸に、中へと入った。

「兄上、お体の具合は如何ですか」

 信長は布団に包まって寝ていた。静けさという音が聞こえてくるような気がした。

「……兄上?」

 不審に思った信行が布団に近づいたその時、

「御免!」

 布団から男が一人飛び出して、信行の腹を一突きに刺した。

「くっ……何奴!」

 その男は、河尻秀隆という信長親衛隊の一人であった。

「俺の勝ちだ。信行」

 途端、奥から信長が現れた。

「兄上…… 謀ったな……」

「貴様が謀ろうとした故な、勝家が知らせてくれた」

「なっ…… 勝家が……」

 怒りで痛みを堪えていた信行が、ドッと床に倒れた。

(我が弟ながら、一の家臣に裏切られるとは、情けないものよ……)

 そう思いながら信行をじっと見つめていた。

 不審な音を聞きつけた母・土田御前が部屋へやって来た。床に倒れている信行を見て、

「の、のの、信行! あぁ…… なんということじゃ、何故兄弟で争わねばならぬ……」

「……母上」

「近づくな! お主の顔など見たくもないわっ」

「……母上、これが乱世でございます。力ある者が支配し、なき者は死ぬ、そうした定めでありますれば」

 既に信長の声も届いておらず、土田御前はただその場に泣き崩れていた。

(……信行、織田家は俺に任せろ、貴様はあの世で父に会うてこい)

 ここに、弾正忠家中の統一が成し遂げられた。

 その後、信長はすぐに岩倉織田家の討伐を決意、浮野の地でこれを破った。

 さらに、津島で保護していた尾張守護・斯波義銀が、信長に反旗を翻して追放しようとすると、これに対応して、逆に義銀を追放するまでに至った。


永禄二年(一五五九)、父の死から八年で、ついに尾張を統一した。


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