淡い陽炎
この時期の放課後はまだ日が高く、太陽がグランドにわずかな陽炎を作り出している。練習が始まったばかりでこの有様ではと、野球部のメンバーはベンチに腰掛ける、監督兼主将の皆川を取り囲んでいた。
「主将はお前だろう? 田所にいつまで好きにさせておくつもりだ? 朝練、昼錬、放課後、休日。あいつの組んだ無茶な練習のせいで、俺たちは毎日ボロボロだ」
「田所先輩のやり方じゃ。試合の前に、僕たちは潰れてしまいます」
「マジないっすよ。ここはキャプテンに、ビシッと言ってもらわないと、田所先輩は調子ノリ過ぎっスよ」
それぞれ部員が不満を漏らす中、皆川は苦い顔で答えた。
「勝つためだ。強くさえなれば、禁断のサインは使わずにすむ」
「ほんとにそれだけか? 田所は俺たちをいじめて楽しんでるだけじゃないのか? 先週の練習試合だって、勝てもしない勝負なんかしやがって」
「それは結果論だ。俺は敬遠のサインを出したが、あの勝負は五分五分だった。打たれたのは、相手の運が勝ってたからだ。田所が悪いわけじゃない」
「でもよお。急に始めた辛い練習に、耐えられる俺たちじゃないってことくらい。皆川だってわかってるだろう?」
「急じゃないだろう」
皆川は部員達をたしなめるように、伏せた顔を上げた。
「特訓を始めて、もう三週間だ。練習内容を公開した時、誰も反対しなかった。それはお前達だって、試合に勝ちたいと思ったからじゃないのか? 先週の練習試合だってそうだ。あれ程負けて悔しいと思った事が、今まで一度でもあったか? 短い間でも、特訓したからこそ、次は負けたくないって思えたんじゃないのか?」
「……」
「強い上手いの問題じゃない。これまでの俺たちは、始める前から心で負けてた。予選まで二週間、辛いだろうが耐えてくれ」
そう言って頭を下げる皆川に、部員たちは辛くも納得した様子で頷いた。
「お前がそこまで言うなら、やるしかないか」
「だな、一番頑張ってる主将に頭を下げられちゃ、何も言えないよ」
「そうっスね。皆川キャプテンは、マジリスペクトっスよ」
「ありがとう。次の試合は、必ず勝とうな!」
「よし! 練習再開するぞ!」
部員たちは気合を入れ直し、グラウンドに散って行く。安堵する皆川の隣で、若林がつまらなそうな顔をした。
「なんだよ。もう終わりかよ」
「お前の期待に応えられなくて、悪かったな若林」
皆川はそう言って立ち上がり、辺りを見渡す。そこで初めて、マネージャーの三河加奈絵と、部員の五木太陽が居ない事に気が付いた。
「どこ行ったんだ、あいつら?」
「三河なら、あそこに居るじゃねえか」
皆川は、若林が指差す方向に目をやった。そこには元気のない足取りで、フラフラとこちらに歩き来る加奈絵がいた。
「三河……」
皆川はすぐさま加奈絵に駆け寄ると声を掛けた。
「田所の所に、行ってたのか?」
加奈絵は何も言わずに頷いた。かなりきつい事でも言われたのだろうと、皆川は加奈絵の様子から察した。
「練習再開だぞ。田所は部室か?」
加奈絵は皆川の問いかけに、再び力なく頷く。
「田所に何を言われたかは知らないが、あまり気にするな。田所とは、長い間バッテリーを組んで来た。あいつの事は俺に任せておけばいい。俺が上手く収めてやるから、な?」
皆川はそう言って、暗く沈む加奈絵の肩を、優しくポンと叩いた。若林は、それを少し離れた位置からニヤニヤと眺めていた。
「エリザベータ。どうやらまだ、火はくすぶってるみたいだな。俺がガソリンぶっかけて、もっと燃え上がらせてやるか……」
「ブッチョサン。ワルイカオシテル」
「なんとでも言え。スクープ撮る為なら、なんだってやってやるさ」
「ブッチョサンノヒトデナシ。インケン。フィギャアオタク。ドブネズミ。ゴキブリヤロウ。顔だけじゃなく性格まで不細工なんて超最悪」
「言い過ぎだろコラ!って今お前……。嫌に流暢な日本語使ってなかったか?」
「ナンノコトダカ、チンチンカンプンネ」
二人がそんなこんなでやり取りしている間に、皆川の姿はどんどん小さくなる。
「追うぞエリザベータ!」
「モタモタスルナヨ、コウイチ!」
「お、おう! って、よ、呼び捨てにしたなコノヤロウ!」
エリザベータは我先にと、陸上部顔負けの走りで、皆川目がけて疾走して行く。 若林も慌てて追いかけるが、あっという間に皆川に追いついたエリザベータは、皆川の横を風のようにすり抜けた。
「待ちやがれエリザベータ!」
若林もまた、何事かと驚く皆川を追い抜き、初夏の風を受けながら、エリザベータをどこまでも追いかけて行くのであった。