ホコリをかけて
そこには雑巾を牛乳に浸しているクラスメートがいた。
「そこ」がどこを指す指示語かと言えば「教室」であり、さらに正確に言うならば僕が所属するクラスの教室である。
なぜ雑巾を牛乳に浸しているのか、それは僕にも理解出来ないため、この現場を見るに至った経緯から話そうと思う。
放課後、委員会が終わった僕は教室に置いてある鞄を取りに行くため、急ぎ足で教室へと続く廊下を歩いていた。
その道の前方、職員用のトイレから一人の生徒が出てくるのが見えた。
制服と歩きに合わせて跳ねるポニーテールから女子と判別出来る。
まだ人が残っていたのかなぁ、などと考える前に、その女生徒が何か持っているのに気がついた。
形から察するにモップだろう。
……なんでトイレのモップを廊下に持ち出しているんだ?しかも職員用トイレ。
考えても分からないが、単に美化委員か何かなのかもしれない。いずれにせよ、気にする必要も無いだろう――。
僕はそう結論を出し、鞄を取りに行くという目的を果たすため歩を速める。段々と加速していた歩みはしかし、職員用トイレの前で中断を余儀なくさせられた。
……水浸しだった。前方に目を向けると点々と水滴が続いているのが見えた。所々に小さな水溜まりもある。
「おい!何で廊下が水浸しなんだ!」 不意に後ろから怒鳴られる。顔を見るまでも無い。生活指導主任の大原だ。
「いや、これは僕がやったんじゃなくて……」
「言い訳してないでとっとと拭きなさい!」
こうなると何を言っても聞かないのが大原……いや、生活指導主任に共通する悪いところだ。教師共通と言ってもそう間違ってはいないだろう。
口答えするだけ無駄と判断し、僕は近くに立て掛けられた掃除ロッカーから貸付の雑巾を取り出し床を拭く。とんだ時間ロスである。
大きな水溜まりを拭き終わると大原は満足気に消えたので僕も掃除を切り上げ消える事にした。機会があったら主事さんに謝ろう、機会があったらね。
「さて……あの女子生徒、どうしてくれようか」
誰もいない廊下で一人呟く。見つけ出して説教の一つも入れてやらないと気がすまない。
そうして僕は点々と続く水滴を頼りに女子生徒を探す事にした。
目的の人物は容易に見つけることが出来た。彼女は未だにモップから水滴を垂らしつつ廊下を歩いていたからだ。
僕は少し離れた位置から付いていく事にする。
本当なら今すぐにでも彼女を怒鳴りつけてやりたいところなのだが、モップを何に使うかへの好奇心が怒りを勝ってしまった。というかそもそも僕は女の子を怒鳴りつけられるほど肝が座っていない。
尾行を続けて分かった事がある。
彼女は僕と同学年である。学年ごとに色の違うスカーフを巻く事になっているからだ。
彼女は僕のクラスメートだ。なぜなら彼女は僕のクラスに入っていったからだ。放課後用も無く自分のクラス以外の教室に入ったりはしないだろう。
彼女は僕の隣席の子だ。なぜならクラスメートであの背丈のポニーテールは一人しかいないからだ。
これでようやく彼女の正体が分かった。だが正体が分かった所でモップの使用用途は未だ不明である。
僕は彼女――竹森箒――の奇行の謎を解くべく教室の扉の隙間からそっと覗き込んだ。
以上の経緯を経て冒頭に至る。
覗いたらそこには雑巾を牛乳を浸しているクラスメイト──もとい竹森さんがいたわけだ。
もう一度竹森さんを見る。
雑巾をバケツに浸す。
バケツの上で雑巾を搾る。
雑巾から牛乳(と思しき)白い液体が流れ落ちる。
雑巾をバケツに浸す。
バケツの上で雑巾を搾る。
雑巾から牛乳(と思しき)白い液体が流れ落ちる。
ポニーテールが揺れスカートが翻る。
竹森さんの体が完全にこちらを向く。
わずかに釣り上がった眼が見開かれ、薄い唇が開か──
「そこでなにをしているの!」
マズイ!見つかった!それ僕が言おうと思ったセリフ!
……待てよ?元々怒鳴りつけてやる予定だったしその前から教室には用があったんだから逃げる必要はないよな?
頭の冷静な部分からの意見に、僕はクラウチングスタートの構えを解く。
しかし教室で雑巾を教室に浸している奴とは関わるな、っていうじっちゃんの非情にピンポイントな遺言を守らない訳には行かないし、でもまだじっちゃんはまだ生きてる訳でそうするとつまり……。
馬鹿な事を考えているうちにこちらに歩み寄ってきた竹森さんが教室の扉を開けた。
「見られたからにはタダで帰すわけには……って三田君!?」
勢いよく怒鳴り込んできた竹森さんだがクラスメイトと分かり戸惑っているようだ。
このままじゃタダで帰してくれないらしいので言い訳を試みる。
「や、やぁ竹森さん。奇遇だね僕は鞄を取りに来ただけで特に何も見てないんだけど竹森さんは今日もキレイだね」
我ながら白々しすぎる。それでも竹森さんは「見られていない」と判断したらしく、表情が緩んだ。
「そうなんだ、あはは。てっきり私がバケツ一杯の牛乳に雑巾を浸していたのがバレたのかと……あ」
あ、じゃねぇ!!自分からバラしてどうすんだ!!仕方ない。ここは僕がフォローを入れるしか──
「聞こえない聞こえない!何も見てない!モップを持ってトイレから出てくる所も見てない!!……あ」
終わった。完全に終わった。どうして僕はこうも機転が利かないのだろうか。それは竹森さんにも言えそうだが。
ああ、やられる。これはやられる。きっとこのボロ雑巾のようにボコボコにされて牛乳の中で溺死させられるのだろう。
数瞬の沈黙の後、彼女はつぶやく。
「……ねぇ、三田君。この町が、好き?」
「……へ?」
死刑宣告を覚悟し、「最後に何を食べたい?」と質問されたら「人生を悔いたいです」と真顔で返してやろうと密かに企んでいた僕にとって思いがけない質問だった。
この町が好きかって?……まぁ生まれ育った町だし勿論嫌いな訳は無いが、特筆して好きな訳では無かった。
でもここではっきり好きといわないと僕はきっとゴミのように丸められた挙句生ゴミと共に焼却炉で遺骨を燃やされる気がする。
「勿論大好──」
「なら私の掃除、手伝って」
僕が言い終わる前に命令された。文字だけ見れば頼みごとだけど30cmの距離で睨まれながら言われたのではお願いと受け取る事は出来ない。
髪を染めた連中に「兄ちゃーん、俺たちちょっとお金なくってさ~貸してくんない~」って言われたら誰だって脅迫だと思うだろ?
そして命令内容は……掃除?トイレのモップと牛乳で浸した雑巾で掃除?……いやいやそれむしろ汚れるだろ、なんの嫌がらせだよ。
「構わないけど……どこを掃除するんだ?」
というか竹森さんはまず水浸しの廊下を掃除するべきだ。
「この町よ!」
つまり町の清掃?ボランティア行為?
思いがけないマトモな行為に僕は安堵する。
「なんか勘違いしてない?言っとくけど私はゴミ拾いなんかするつもりはないわよ?」
「え?そうなのか?じゃあ一体町の掃除って……」
やっぱり、と竹森さんは溜息をつくとこう語ってくれた。
「知っての通り、この町には多くの不良が集まってくるわ。コンビニの駐車場、河川敷の高架下、人気のない公園、そうした場所には必ずと言っていいほどクズが溜まっていて善良な一般市民はそれらの場所を利用することが出来ない。この町に沸いて出る社会のゴミ共を裁くのが私の『掃除』よ」
リサイクルしてやれよ……。でも言っている事は理解できた。
「いいよ、手伝うよ。女の子がそんな危険な事してるの知って、黙ってられるわけないだろ」
「な、なにいきなり恥ずかしいこと言ってんのよ!」
竹森さんは夕日に照らされなお変化に気づかせるほど頬を紅潮させて言うと教室から出て行く。
自分で脅しておいて照れる竹森さんをなんとなく可愛く思うがその手に例のモップと雑巾を持っているのが残念だ。
「……何モタモタしてんのよ、早く行くわよ」
こちらを振り向き赤い顔のままぶっきらぼうにいった彼女の背中を僕は追いかけた。
竹森さんについて歩くこと10分、僕たちは目的の場所、河川敷の高架下を陰から見ていた。
「竹森さん、本当にやるのか?ガラ悪そうなのが……8人もいるぞ?」
「なによ、さっきは調子のいいこと言ってたくせに」
呆れたように言われる。まさか不良と2対8で喧嘩するつもりだとは思わなかったんだよ!
少し戦力分析してみよう。こちらは素手で戦闘力0の僕とモップと雑巾を持った戦闘力未知数の女の子。
対する相手は若い男。タバコをふかしている金髪リーダー格、金属バットを持っている茶髪、時代錯誤のグラサンリーゼント、鼻ピアスの赤髪、猪顔のデブ、その他3人だ。
勝てるわけがない。やっぱり辞めたほうがいい。そう竹森さんに提案すると、
「別に三田君は来なくてもいいわよ。私一人で充分、よ!」
それだけ言って不良たちの前に飛び出した。
不良たちが竹森さんに注目する。「みてんじゃねぇぞ!」と目が言っていた。
「あなたたち社会のゴミはこの私がお掃除します!」
竹森さんは言い放った。……なんだその決めゼリフは、と心の中でツッコミを入れておく。不良たちも唖然としている。
不良たちが我に帰るよりも早く、竹森さんは動いた。左手に持っていた例の雑巾を唐突にリーゼントに向かって投げつけた。
たかが雑巾と侮ることなかれ、あの雑巾には牛乳が染み込んでいるのだ。すなわち濡れていない雑巾と違い投擲することが出来る。牛乳である意味はないが。
雑巾はリーゼントの人の顔に命中した。
「痛ぇ!しかもくせぇ、あぁ俺のセットしたリーゼントが!助けてママ」
リーゼント改めマザコンは叫びつつ河川敷の向こうへ走り去っていった。これで残りは7人……。
「てめぇ、よくも太郎を!やっちまえ!」
「まとめてかかってきなさい」
7人の不良を相手にモップ一つでやり合う竹森さんを僕はただ見ている事しか出来なかった──。
とある町の、とある高架下で起きた一つの乱闘。その乱闘で僕たち──いや僕は見ていただけだが──は勝った。
竹森さんは強かった。杖術、槍術の類でも修めているのだろう。……なぜ掃除用具で戦う必要があったのか分からないけど。
「なにしてるの三田君。もう終わったから手伝ってよ」
満足げな顔をした竹森さんがこちらを振り向いて言う。
「何を手伝えばいいんだ?」
「何を、って……見てわかんない?」
まるで塩を撒くかのようにして埃を不良たちにかけているように見える。
「そうよ、はい、これがその埃。あいつにもかけてきて、まんべんなく」
……これ何の意味があるんだろう。掃除用具で戦っていたことよりも理解できない。訳も分からず僕は猪顔のデブに埃をかける。
「あの、さ……」
竹森さんが切り出す。埃をかけおえた僕は竹森さんに向き直る。
竹森さんは今にも沈みそうな夕日をバッグにこちらを見据えていた。
「今日の……掃除見て……どう、思った?私の事、変人だと、思った、よね?」
逆光のため表情は見えないが、明らかに声が震えている。確かに掃除用具で喧嘩した挙句埃をかけるのは変人だろう。
でも、誰もが怖がるであろうたむろしている不良相手に1人で立ち向かっていったうしろ姿はとてもかっこよくて、綺麗で。
喉まで出かかったその言葉を恥ずかしさから躊躇った僕はその問いには答えず変わりにこう言った。
「これからも、掃除手伝わせてよ」
@
「へぇー!それでこの町には悪い人がいないんだね!」
今年で9歳になる娘が感心したように言った。
「その人って結局なんで最後に埃をかけてたの?」
「それは不良たちが誇りを持てるように、って」
「親父ギャグじゃん……」
呆れている娘の向こう、楽しそうに掃除をしている妻の表情が凍りついたのを僕ははっきりと見た──。
fin.
全てはオチが書きたかったがために存在するストーリーです(ぇ