雪幻
起きぬけの空気が鼻の奥につんと冷たく香り、思わずくしゃみが出た。予想される強い冷え込みに怯え、体が寝床の中に残りたがって、ぐずぐずと動かない。それを頭で叱り飛ばし、えいやっと布団を剥いだ途端、冷気が寝ぼけた体全体を包み込んだ。あまりの寒さに背筋がしゃっきりと伸びる。茹でられた後、冷水でしめられるソバの気分とはこんなものだろうか、などとくだらないことを思う。
部屋を暖めながら手早く厚着に着替え、テレビをつける。数局回してやっと見つけた天気予報では、気象予報士の男性が、本日はこの冬の最低気温を記録するであろうと告げていた。雲の図を見れば、霜降り肉のような美しい筋雲が並んだ典型的な冬の配置である。私の住む地域はここ数日と同様、雪の予報で、かなりの確立で吹雪くであろうとのことであった。
窓の外には、数日来の雪が積もり、どこまでも白く冷え切った世界が広がっている。空は予報を裏付けるかのような不穏な黒雲で蓋をされている。
屋内にいても身が凍るような景色だった。私は首を縮めながら朝食の支度をした。
つい先日、この冬初めての雪が降ったときには心が躍ったものである。ゆきやこんこ、と小さく歌いながら傘を差し、道端に積もった新雪に足跡を付けて歩き回っては、年甲斐もなくはしゃいだ。その上にさらに降り積もる粉雪に感動を覚え、ゆきゆきふれふれもっとふれ、などと即興の歌を作って催促すらした。歌が気に入ったのか、雪はその日、翌日と、止まずに振り続けた。結構な大盤振る舞いだと言えよう。
しかし、儚げな冬の使者を歓迎したのは始めの二日だけで、三日目になると、美しさよりも傘を持つ煩わしさの方が勝りだした。この地域では稀に見る大雪に交通機関は連日乱れ、私の足にも支障をきたした。耐え難い寒さに着膨れし、体が一回り大きくなった。
唯一の救いはこれが軽い粉雪だったことだ。水気をはらんだ雪であれば、今頃その重みで電線の一本や二本は切れていたことと思われる。
雪は降りに降って今日で一週間になる。今や喜んでいるのは子供だけで、大人は皆、コートに首を埋めて足早に通りを行き来している。無論、私も例外ではない。体中にこれでもかとカイロを貼り、首まである洋服を着込み、仕上げに手袋とマフラーを装備する。あとは撥水スプレーをかけたコートを着て長靴を履けば、対・雪対策は完了である。
玄関を開けた途端にぶわっと風が吹きつけ、私は思わず目を細めた。かなりの強風に、木々が枝に降り積もった雪を払い落としながら揺れている。路上の雪もその軽さゆえか、砂のように舞い上がっている。
まるで北極圏のような様子に、回れ右をして家に閉じこもりたくなったが、そうもいかない。
ため息をついて、私は愛しき我が家を後にした。吐いた息は薄暗い空に白くたなびいて消えた。
家を出たときにはなんとか降らずにいた空も、時間が経つごとにちらりちらりと白いものを落とし始め、やがて本格的な雪となった。
用件を済ませて慌てて電車に乗り家へ向かったが、時既に遅し。予報通り、私が最寄り駅に着いた頃には猛烈な吹雪となっていた。駅舎の外では台風のような風がごうごうと唸りを上げている。徐行とはいえ、電車が運行していたのが奇跡と思える荒れ模様である。
駅の待合室に篭りしばらく様子を見ていたが、一向に風が収まる気配はない。ぐずぐずしていれば日が暮れる。意を決し、私は駅を出て歩き出した。
晴天時であればまだ明るい時間なのに、辺りは既に薄暗い。青灰色の薄闇の中、空からの雪も、地面に舞い降りた雪も、強風にあおられて、皆一緒くたに舞っている。
ほんの数十メートル先にあるはずの電柱さえ見えず、私は四苦八苦しながら帰路と思しき道を辿った。
頬と耳が痛い。息をするのが難しい。マフラーをぐいと引き上げ、鼻を覆う。自分の息の温かさに、なんとか生きていることを感じる。
普段であれば、何を大げさな、と自身で失笑してしまうところだが、この吹雪の中では「遭難」という言葉もあながち有り得ないものとは思えない。何しろ、周囲一帯が、上も、下も、右も左も、すべて真っ白な粉雪の乱舞で覆われているのである。通い慣れた道だから見当をつけて歩けるが、油断すると人様の畑や田んぼに突っ込みかねない。
暴風雪の中を狂ったように揺れる竹林の傍を通りつつ、私は真横に広がる雪原――元は大きな畑である――をちらりと見た。普段なら畑の向こうの景色が見えるのに、今日は激しい雪の中にみな霞んでしまっている。私の立つ足元から先の風景は全て均一に雪に煙り、まるで、どこまでも白い大地が続いているようだった。
吹雪の中に現れた、遮るもの一つ無い広大な雪原。
私はさながら、その中をひたすらに進む探険家だろうか。
そんな思いが頭をよぎる。自分の妄想に呆れながらも、この風景の中では仕方あるまいとも思った。ふっと苦笑すると、マフラーの隙間からこぼれた息が、雪よりなお白く立ち上った。
白い息の薄れる向こうに、黒い影が揺らめいた。
私は立ち止まり、目を凝らした。
それは吹き荒れる風の中、ゆっくりと、悠々とした足取りで畑の向こうを歩んでいる。何かの動物のようだが、ここいらで見られるタヌキや野良猫といった類のものではない。薄暗さと雪のせいでよく見えないが、私と同じくらいの大きさがあるように思われる。
クマだろうか。馬鹿な、ここいらの雑木林にクマなどいない。
何かの見間違いではないかと、私は改めて凝視する。と、黒い物の背後に、もう一つ黒い物が動いている。よく見ると、その後ろにも一つ、さらにその後ろに一つ。黒い物は、私から見て左に向かい、列になってぞろぞろ進んでいる。
私は思わず両手で目を覆った。冷たい革の手袋越しに、手が小刻みに震えているのを感じた。心の中で十数え、大きく呼吸をし、手を外した。
黒い物はさらに増えていた。
今やそれは群れとなって、雪原いっぱいに広がっている。本来ならば道路を隔てて家々が広がっているはずの畑の向こう、そのさらに向こうの白い霞の中を、黒い物たちは悠々と行く。まるで、極地の雪に覆われた平地を歩くかのように。
ふっと風が弱まった。その瞬間、雪の幕が薄れ、霞んでいたその姿が露になった。
がっしりとした体からは意外に華奢な足が四本生えており、力強く大地を踏みしめている。ずんぐりとした太い首が大きな頭をしっかりと支えている。その上に戴く、弧を描く巨大な角。年を経た樹木のような堂々たる姿。
あっ、と声をあげた途端、どうっと風が強く吹きつけた。あまりの激しい風雪に、思わず目をつぶってしまう。
一瞬の後、目を開けた時には、黒い群れは跡形もなく消え去っていた。
雪原は動くもの一つなく、薄闇の中に白く沈んでいた。
なんとか無事に家に辿り着き、熱い湯船に浸かりながら、私はあの光景について考えていた。どこかで見たことがあるような気がして仕方が無かった。
風呂から上がり、燗酒を傾けながらなおも考えるうち、ふっと思い出した物があり、慌てて本棚に手を伸ばした。幾冊もの中からもう何年も開いていない分厚い本を取り出し、ぱらぱらとページを繰る。しばらくして、私は手を止めた。
極北のブリザードの中、移動する何百ものカリブーの群れ。
ページいっぱいに印刷されたその写真を、私は立ったまま見つめていた。胸に何かがすとん、と落ち着いたようだった。
くしゃん、とくしゃみが出た。
慌ててこたつに入り、燗酒を舐めながら、私はゆっくりと最初のページを繰った。
吹き止まぬ雪嵐の中を、幾百のカリブーたちが遠ざかる足音が聞こえるように思えた。