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無名日記  作者: 沖川英子
7/10

彼岸花

 夕暮れの道を歩いていると、不意に風に乗って笛の音が響いたように思った。立ち止まり耳を澄ますと、透明な音色と共にどんどんと空気を震わす太鼓もかすかに聞こえる。どうやら、近くの神社で祭りをしているらしい。そんな告知をしていただろうかと首をかしげながらも、気がつけば私は音の出所に向かい、ふらふらと帰路を外れて坂道を登っていた。

 神社までの一本道は雑木林の小山の中にあり、両側にはコナラやシイ、クヌギ、その他私には見分けがつかぬ様々な木々が生い茂っている。それらが風にざわざわと鳴る様は、頭上で沢山の波が砕けるようである。その波音の中に鋭い笛の音がピィ、ピィと響く。

 暗くなりはじめた足元を見つめながら、私は歩みを進める。時折、顔を上げて行く先を見ると、真っ黒な木々の影に切り取られた夕空の赤が鮮やかに目に入った。陽が落ちきるまでにはまだ間があるが、街灯も人家もまばらな道には、すでに宵闇が忍び寄っている。

 しばらくすると雑木林がわずかに途切れ、稲田が顔をだした。猫の額ほどの小さな田圃であるが、それでもきちんと手入れされていると見え、黄金に輝く稲穂が頭を垂れて収穫の時を待っている。あぜ道の端にはいく株もの彼岸花が立ち並び、雑木林の境目に炎の群れとなってゆらゆら揺れていた。

 ふと、彼岸花の中に茶色い小さな三角形が見えた。目を凝らした途端にそれはざっと赤い花の中を駆け抜け、雑木林の中に消えた。大方猫か狸の類だろうが、それにしては一瞬見えた耳が大きかったように思える。もしかすると、昔はこのあたりでもよく見かけたという狐の生き残りかもしれない。

 田を後ろに見つつ、私はさらに笛の音を追った。祭囃子は先ほどよりも大きくなっており、太鼓の端を打つカッ、という音も鋭く聞こえ始めた。私は早足で坂道を辿る。

 神社の祭りに行くなど、一体何年ぶりだろうか。最後に行ったのは、まだほんの子供の時分ではなかったかと思う。その後は縁が無く、祭りと名のつくものに出かけた事は無い。それでも、独特の節回しと拍子で奏でられるお囃子には、人を幼子に戻す効果があるらしい。私は年甲斐もなくはしゃいだ気分で、むらのちんじゅのかみさまの、と小声で唄った。頬が緩んでいるのが自分でもよく分かった。

 晩秋の夕はさっと暮れ、わずかに陽光の赤をにじませた濃紺の空にはいくつかの星がまたたき始めた。行く手の道は闇の中にある。夜に向かい、その中にある神社に向かい、私は歩いて行く。神社に近づくにつれて祭囃子はいよいよ大きくなり、今では細かい旋律の揺らぎもよく聞こえる。嬉しさと懐かしさに胸が痛くなり、いてもたってもいられなくなって私は子供のように走り出した。

 雑木林の向こうにぼんやりと灯りが見える。

 そのうちに、「奉納」と書かれた沢山の提灯が闇夜を橙に染めているのがはっきりと見て取れるようになった。闇の中、風に揺れる提灯に鳥居がちろちろと赤く照らし出されている。

鳥居までの石段も今日は提灯に飾られているようで、道の端から斜めに提灯が浮かんでいるのがよく見えた。

 祭囃子はもう目の前で聞いているように大きく、人々のざわめきが風に乗って耳に届く。気のせいか、駄菓子の甘い香り、醤油の焦げる香ばしいにおいまでもが感じられるようである。

 石段の登り口に着き、息を整える間もなく踏み出すと、足の裏で石がじゃり、と音を立てた。提灯の柔らかな灯りは足元まで届かず、闇に溶け込む石段と靴先を見極めながら、私は慎重に一段一段を登る。だが、その足取りも気がつけば、お囃子の「とんとんたかたんとんたかたん」という拍子に合わせるように、一、二、一、二、と調子よく踏み出されていた。ほとんど踊るように、私は石段を登った。

 やがて目の前に鳥居が現れる。その向こうの境内には綿あめ、金魚すくい、ヨーヨー、焼きとうもろこし、型抜き、いくつもの屋台の光と喧騒があふれかえり、闇夜にぱっと花が咲いたように明るい。鳥居の向こうは、秋の夜の夢のように美しかった。幼い日、大人に手を引かれて行ったお祭りがそこにあった。

 視界がぼやけ、屋台の明かりがぼんやりと光の輪に見える。慌てて目をぬぐい、私は石段を登りきった。祭りに、闇夜に浮かぶ幻想に、胸が熱くなる。私は勢いよく鳥居をくぐり抜けた。


 不意に祭囃子の調子が乱れた。

 笛が鋭く耳を刺し、太鼓が地の底から私を揺るがした。


 境内のざわめきがぴたりと止み、人々の動きが止まった。警笛のようなお囃子の音を合図にしたような一糸乱れぬ様に面くらい、私も足を止めてしまう。

 突然、境内に溢れかえる大勢が、ざっと衣擦れの音を響かせてこちらに顔を向けた。

 男も、女も、子供も、老人も、どの顔も切れ長の細くつり上がった目を持ち、それが提灯や屋台の明りにきらきらと輝いている。皆一様に無表情で、誰も一言も喋らない。ただ、木々の擦れる音だけがざあざあと響いている。

 立ちつくしたまま、私は目を逸らすことができなかった。


 笛が、ピィッと鋭く鳴った。


 途端に明りという明りがふっと消え、神社が闇に包まれた。と、私の足元を何か沢山の物がざぁっと走り抜ける気配がした。動物のようにも思えたが、それも定かではなかった。

 それらはあっという間に私の足元をかすめて消えた。


 気がつけば、私はたった一人、闇夜の境内に取り残されていた。

 ぽっかりと開けた空には月が登り始め、幾筋もの雲が微かに明るい灰色に輝きながらたなびいている。目の前の空間には屋台の跡もなく、塵一つ見当たらない。先ほどまでの喧騒を思い起こさせるものは何も残されていない。

 大きなくしゃみが出て、私はふっと我にかえった。

 そして、どうやってこの暗い中を帰ったものか思案しながら、しばらく立ち尽くしていた。

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