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無名日記  作者: 沖川英子
6/10

夕薄

 三日間降り続いた長雨があがると一気に肌寒くなった。秋雨がほのかな夏の残滓を取り払い、季節をぐっと推し進めたようである。新しい季節に慣れぬうちに気がつけば中秋の名月も過ぎ、朝晩には寒さを感じて目が覚めるようになった。もうそろそろ布団を厚くしなければならないと思う。

 そんな取り止めのないことを考えながら、普段通らぬ野辺の道を一人歩いていると、秋の物さびしく美しい風情が胸に染みる。ましてや、時は夕暮れである。言葉にしようのない思いがこみ上げ、なぜだか泣きだしたくなる。その名付けがたい感傷に浸るのもまた、秋の醍醐味だと思う。

 秋の長雨に大気はすっかり洗われたようで、いつも以上に夕日が美しい。血のような、凄みさえ感じさせる赤が西の空一面に広がり、遠き山々の影をくっきりと浮かび上がらせている。振り仰ぐと空は天頂付近を境に段々とぼやけ、東にはすでに夜が忍び寄っている。赤と青、交じり合い溶け合うその壮絶なまでの美しさに、なぜか背筋がぞっとした。

 野中の一本道はかろうじて舗装がされているものの、車がすれ違うのがやっとの狭い私道である。地元の人が通るだけの道なので交通量もほとんどなく、目に入るのは、一面に茂った薄が風に揺れて幾千もの白い手の如く、

――おいで、おいで。

と揺れる姿ばかりである。たまにすれ違う人もいるが、陽が沈むにつれその姿も見定めがたくなってきた。もうすぐ、山の向こうに陽が沈む。そうなれば、残光の中で人の姿など、影法師にしか見えないだろう。「誰そ彼時」とはよく言ったものである。

 道の反対側を自転車が通った。向こうから来るその姿は男性のようであったが、よく見えなかった。だが、その人物が一瞬、こちらを見たように思われた。勘違いかも知れないが、妙に気になった。

 鼻の奥に突き抜ける風が涼しく心地よい。その冷たさで、夏の暑気にすっかり弱った肺を清めてくれるかのようである。夏も決して嫌いではないが、少々自己主張が強すぎるように思う。秋もやれ紅葉だそれ各種の味覚だと主張するが、空気が違う。夏のそれは苛烈だが、秋には穏やかな慈愛と郷愁が漂っている。

 陽はさらに傾き、今や山向こうに完全に隠れてしまった。秋の陽は釣瓶落とし。天の赤い火もじきに消えるだろう。薄野はまだ続いているが、目的地はこの道を越えた先にある。昔通った時はすぐに野道を抜けたように思ったが、どうやら記憶違いのようである。何しろ最後にこの道を通ったのは十年以上も前のことなので、すっかり忘れてしまった。確か、もっと行ったところに一本松があり、その先で道は終わるはずだ。見通しの良い野道にその姿は未だ見えない。とすれば、まだまだ歩かねばならないのだろう。私は少し早足になる。日が暮れるまでには辿り着かねばならない。

 道の反対側を自転車が通った。向こうから来るその姿は、落日の下では判然としない。ただ黒い影だけが通り過ぎた、その一瞬、その人物がこちらを見たように思われた。勘違いかも知れないが、妙に気になった。

 日が隠れた途端に肌寒くなった。歩き続けて汗ばむ体にはその寒さが心地よい。額にうっすら浮かぶ汗をぬぐう。 私はまた足を運ぶ。平坦な野原には目印になるものもない。自分が本当に進んでいるのか、それすらも怪しく思える。

 本当は、同じ場所をぐるぐる廻っているのではないだろうか。

 そんな事をふと思い、私は苦笑する。そんなわけがない、化かされているのではあるまいし。足を動かしたぶん、微々たるものではあるにせよ、景色はちゃんと変わっている。心配することなどなにもない。それでも、そんな思いにとらわれたのは、きっと、真っ赤に染まる薄野が不気味に美しいからだ。

 涼風が私の髪を巻き上げて通り過ぎる。四方の薄がざわざわと騒ぐ。諸手を挙げ乱舞する人の群れのようだった。

――おいで、おいで。

 私は足を動かす。前を見て、ひたすらに歩む。一本松はまだ見えぬ。胸中に黒い影が忍び寄る。おかしい、以前も、まだ私が幼子であった頃も、こんなに歩いたのだったろうか。こんな野原、数分で抜けたのではなかったか。

 道の向こうから自転車がやって来る。その姿はすでに影と化して顔の判別もつかない。ただ、こちらに向かってやってくる。私をひたと見据えている。

 私は歩みを止めた。

 全身がぞわりと粟立った。

 あの自転車の人物は、先ほども二回、私の横を通っている。

 黒い影は一陣の風となって通り抜けた。すれ違いざま、それは立ち尽くす私をみてにやりと笑った。

 どうっと強い風が吹き付け、はっと呪縛が解けたように、私は走り出した。自転車の人物から離れるように、必死に足を動かした。目の前が赤い。真っ赤な夕焼け。いつになっても暗くならない。もう、日が隠れて随分経つのに。私は走る。一本松はまだ見えない。そんなはずがない、と、私はあえぎながら叫ぶ。風景はびゅんびゅんと通り過ぎていくのに、そのくせ一向に変わらない。野原いっぱいの薄が赤い光の中で踊っている。

 ――おいで、おいで。

 ――おいでよ。

 私はいやだ、いやだと叫びながら走った。恐ろしさに胸がつまり、転びそうになりながら走った。

 一本松はどこだ、それさえ見えれば、そこまで辿り着けば何とかなるのに。

 まだ見えない。まだ見えない。



 私は恐ろしい予感に立ち止まった。息を整え、道の向こうに目を凝らした。

 遠くから、黒い影がやって来る。それは自転車に乗っているようである。

 私は、両の手で顔を覆った。

 薄だけが、落日の中、楽しげにしゃらしゃらと揺れていた。

 


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