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無名日記  作者: 沖川英子
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蠍星

 からからの夏を潤す雨が一日中降り、久々に太陽の顔を見ずに過ごした。

 夜になり雨は止んだものの、しっとりと湿った空気が闇に漂い、電灯の周りにぼやけた光輪を作っている。草いきれが青々と香る中、私は家へ向かい夜道を歩いていた。

 駅からしばらく行くと、道の様子はがらりと変わる。それまで両脇に商店や家々しか建っていなかったものが、進む左手に竹やぶ、右手は広々とした畑に取って代わるのだ。そのまま数百メートルはこの様子が続く。竹やぶの切れ目を過ぎ、しばらく行った丁字路を左に曲がれば我が家に着く。駅から歩いてくると、突如として道の右手がぽっかりと開ける形になるので、満月の夜などは煌々たる月光の美しさに立ち止まってしまうこともしばしばである。今日も立ち止まり畑の上に広がる空を見上げてみたが、ぶ厚い雲にさえぎられて星も月も見えなかった。夏の夜空の瑞々しい輝きは天蓋の向こうに追いやられてしまっている。

 少し残念な気分のまま、私は再び歩き出そうとした。

 不意に、左手の竹やぶが、がさり、とざわめいた。

 驚き思わずわっと飛びのくと、がさがさと下草を踏みしめて何か黒いものが道へ飛び出してきた。

 平べったく硬い体、その両脇にかざされる巨大なはさみ。後ろには、優美なカーブを描く鉤型の尾。

 信じられぬ大きさのサソリが、そこにいた。

 動くことができない。

 目を離すことができない。

 私は完全に固まり、息をすることすら忘れ、じっと立ち尽くしていた。

 サソリは何かを探すようにごそごそと地面を這い回っている。しばらくして、初めて私の存在に気づいたように、

――お。

と呟いた。そして私に向かってはさみを振り振り、

――おまえ、知らないか。

話しかけてきた。

 改めて見ると本当に大きい。はさみだけで私の頭ほどの大きさがあるし、体など、子供であれば(あるいは小柄な大人でも)ひょいと乗ることができそうである。そんな巨大な生き物、それも有毒生物が目の前にいる。しかも人間に通じる言葉で話している。私は思わず頭を抱えた。先ほどのバーでウイスキーを立て続けに5杯も空けたのがいけなかったのだろうか。それとも、その後に流し込んだラムだろうか。

 ――おまえ、聞こえているのか。

無視されたと思ったのか、不機嫌そうな声でサソリが言う。鉤型の尾が高く持ち上げられたのを見て、私はあわてて、

――はい、はい。

とサソリに向き直る。はいは一度でいい、などまるで親のような事をいいながら、サソリは尾を下ろした。

 ――で、おまえ、知らないか。

先ほどから目的語のないサソリである。人間であれば説教の一つや二つ垂れたくなる所であるが、相手が相手だけに我慢しておくことにする。何の話かと問うと、サソリはきょとん、としたようだった。そして、右のはさみでぼりぼりと頭を掻いた。彼は右利きのようであった。

――そうか、言っていなかったな。

彼はふーむ、と呟き、実は、と続けた。

――心臓を捜しているのだ。

 今度は、私がきょとんとする番であった。意味が分からずぽかん、としている私をよそに、サソリは滔々と語り続ける。

――いや、今日はこの通り曇っているだろう。あまりに退屈なので、思いっきりあくびをしてしまったのだ。どうせ誰も見ていないだろうから。よっぽど大きく口を開けていたのだろうなぁ。気づいたら、口から心の星が零れ落ちて、地上へと消えていってしまった。そこで、こうして拾いに来たというわけなのだ。だから、おまえ、見なかったか。赤い心臓の星を。

 私は思わず西の空を見た。

 本来ならば巨大なサソリが輝いているはずの空域には、低い雲が分厚く垂れ込めているだけであった。

 ――それは、お困りでしょうね。

そう言うのが精一杯だった。

――困るのでない、大困りなのだ。

要領を得ない私の返事に、サソリは地団駄を踏む。六本の足が絡まりもせず、波うつように動く。器用なものである。

――雲が晴れたら、いないのが丸分かりではないか。そうでなくとも、長い間地上にはいられないのだ。

サソリは苛立ち、ぶんぶんとはさみを振る。さらには、

――何ならおまえの心臓を貰ってやってもよいのだ。

尾をきらりと光らせるからたまらない。私はあわてて、私の心臓は長持ちしないし、いつか腐るので天には不向きであるという事を伝えた。

 先ほどまでの勢いはどこへやら、サソリは急に元気がなくなったようであった。

――弱ったものだ。

がっくりと、私にはその位置が分からぬが肩を落とし、サソリはため息をつく。その姿が何だか哀れで、無碍にすることもできない。せめてどのあたりに落ちたのか範囲を絞れないかと、問うてみても、

――この辺りなのだ。

サソリの返事は大まかすぎて分からない。確かに天から見れば私の家も私の会社も同じ「この辺り」なのだろうが、人である私にはそうもいかない。この町ですら、落し物を探すには広すぎるのだ。

 どうしようか、思案に暮れる私たちの頭上は相変わらず曇っている。この雲がいつまで続くかは分からないが、早く何とかしなければサソリが困るし、私も困る。仕方がないので、

――これでは、だめでしょうか。

私は鞄の中から小箱を取りだし、覗き込むサソリの前で開けて見せた。鈍い赤暗色の鉱石がごろん、と転がるのを見て、サソリは呟く。

――何だこれは。

――柘榴石です。

――地上の石か。

――そうです。

――お前が取ったのか。

――いや、買ってきました。新宿で。

さすがにお買い得だったとは言えなかった。サソリはむむ、と唸る。

――これを、俺の心臓にしろというのか。

――だって、色合いが丁度いいでしょう。

明らかにサソリがむっとしたのがわかった。尾が神経質にぴくぴくと動いている。だが、私としてもここで引くわけにはいかなかった。本当にこの街に落ちているかもわからない心臓を探して、横柄なサソリと一晩さ迷うのはごめんだ。第一、私は仕事帰りにしてバー帰りである。疲労と眠気と酔いでふらふらでだし、これ以上サソリに付き合うのは体力面でも精神面でもよろしくない。

 ――これ、パワーストーンと言って力を持つ石なんですよ。最近流行の。ほら、きれいな赤じゃないですか。元の星より素敵ですよ。いいなぁー、腐らない心臓。羨ましいなぁ。いいじゃないですか。

押し売りさながら、私はひたすらに柘榴石を褒めちぎり、サソリに勧めた。サソリは器用にはさみで腕組みをして、うーんと唸っている。

――そんなにいいのか、この石が。

サソリがちらりと私を見る。ここぞとばかりに、私はサソリに熱っぽく語りかける。

――そりゃもう!長持ちしますよ。

大事にしていれば、と小声で付け加えることも忘れない。商品に絶対はない。

――長持ち、か。

サソリの気持ちが動いた。すかさず、

――500年保証です。

5本の指をサソリに見えるように振りかざす。本当にそれだけもつのかは知らないが、どのみち保証が切れる頃には私はいないので関係ない。

――むむむ。

サソリが身を乗り出してくる。私は取っておきの一言を放った。

――今ならさらに100年保証付き、これだけついてなんと今回特別無料!

――もらった!

サソリが勢いよく右のはさみを上げた。

――ありがとうございます!

箱から柘榴石を取りだし、サソリのはさみに渡す。サソリはいそいそと石を口元に持っていき(私は初めてサソリの口というものを見た)、ごろん、と呑みこんだ。

 途端、サソリの体が淡く光りだし、体がふっと浮いた。ぎょっとして一歩引く私の傍らで、

――おお、やっと戻った!

サソリが嬉しそうに両のはさみを振り回す。まさか適当な石が本当にサソリの心臓代わりになるとは思っていなかったので、何だか後ろめたいような気がする。

――良かったですね。

サソリがこちらを見て怪訝そうに首をかしげていたのは、私の顔が引きつっていたからだろう。私は絶対に詐欺師にはなれないと思う。

 ともあれ、いまやサソリは天のものとして尊い光を放ち、ふわりと浮き上がって私を見下ろしている。元の姿に戻ったサソリは、先ほどまでの実際のサソリを大きくしたような実在的な様子とは違い、もっと抽象化されているように思えた。観念上のサソリ、とでも言おうか。はさみや毒の尾も、リアルな恐ろしさを感じさせない。星座として記号化された姿。心臓がある今のほうが、肉体から放たれた感があるのが不思議に思えた。

 ――世話になったな、すまなかった。この石の代わりに、今度隕石でもくれてやろう。お前の家はどこだ。

サソリはにこやかにそう言ったが、古く狭く慎ましい我が家がクレーターの底に消えては困るので、丁重にお断りした。

――ふん、珍しく欲のない人間だ。

サソリはますます上機嫌になったようで、ふわふわと浮きながら私を見下ろしている。人間であれば満面の笑みを浮かべている所だろう。私は、はぁ、など適当に相槌を打ち、曖昧に笑って誤魔化すことにした。

 西の空を見上げ、サソリがふむ、と呟いた。

――俺はもう戻らねばならん。行くことにしよう。

では、またなと右のはさみを振り振り、サソリはすっと天へ昇っていった。私もその姿に向かい、手を振った。

 輝くサソリの姿はやがて小さな点となり、分厚い雲の隙間に消えた。涼しい風がさらさらと竹やぶを揺らした。


 翌日、晴れ渡った空に薄っすらと天の川が見えるいつもの夜道で、私は西の空を見上げた。巨大なサソリが両のはさみを掲げ、誇らしげに光っていた。

 胸の星は前より若干暗く見えたが、それもまた渋みがあって良いのではないかと思われた。


内容が内容だけに、8月中には出したかったのですが、間に合いませんでした。

若干悪乗りです。

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