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無名日記  作者: 沖川英子
4/10

紫陽花むかし

 退屈だったので久々に都心へ出てみた。

 とはいえ、別に何をしようというあてがあるわけでもないので、目に付いた建物に入ることにする。老舗の百貨店は涼を求めるには申し分ない場所だ。ふらふらと、売り子の呼び声を聞きながら、涼みがてらに各階を移動する。

 初めのうちこそ店を見るのも面白かったものの、しばらくするうちに段々と飽きてくる。売り子の一本調子な呼び声は売る気があるのかないのか、茫洋としていて機械の録音のようである。置いてある品物はみな、“私を買え”とばかりに目に飛び込んでくるが、そのくせどれもみな同じようなものばかりでつまらない。財布の中も寂しい。どこにも持って行きようのない、淀んだ気持ちだけがこみ上げる。

 結局何も買わぬまま外に出る。途端にむわり、と熱気に包まれ、私は顔をしかめる。雲はどこまでも低く、空気は湿って淀んでいる。そのあたりを掴んで手で絞ればぽたぽたと水滴が垂れそうな程の、見事な梅雨の真昼である。いつでも傘を手放せぬこの陽気を喜ぶのは紫陽花くらいのものだろう。今も、道行く人々の不愉快顔などどこ吹く風、沿道のそこかしこに咲く彼らは、青に赤に紫に、各々のもっともふさわしい色と形で梅雨を寿いでいる。灰色の景色の中に、そこだけ鮮やかな色の塊が咲いている。

 紫陽花の群れを眺めながら目抜き通りに出ると、なにやら辺りが騒々しい。広い道路の真ん中がぽっかりと空いて、その両端には黒山の人だかりができている。黒山はてんでにさわさわとざわめき、一様に興奮した熱気に包まれている。

 何かを待ちわびているようである。

 別に急ぐ身でもないので、そのあたりの建物に拠りかかり、群衆の後ろからその「何か」を待つことにする。

 空はまだ何とか持ちそうだ。低い黒雲がゆっくりと西へ流れていく。梅雨の重苦しい曇天でありながらも、雲の色合いは所々微妙に違う。今にも降り出しそうなどす黒いものから真夏の入道雲を思わせる純白。白だか黒だかあいまいなものもあり、そのどっちつかずにふらふらと中途半端な姿が妙に好もしい。そうやって空の様子をぼんやり見ていると、忘我の境地に至るようである。

 そうこうしている間にも、人はいよいよ増え、黒山はざわめきを増す。人いきれが梅雨の熱気と混ざり、その暑さにやられて頭がぼうっとする。

 私は何が何だか分からなくなる。

 そこに、それが現れる。

 始めは人々の視線。そして、

――来た、来た

という興奮した呟き。ざわめきは大きな波となり、収斂して、ただ一箇所に向けられる。

 道の向こうから神輿が現れる。

 鳴り物、勇壮な掛け声、しゃらん、しゃらんと鈴の音。音頭をとりながら、やがてそれは私たちの前を通る。きらびやかな神輿は全部で三基ある。

 勇ましく男神輿が通る。華やかに女神輿が通る。元気に童神輿が通る。大いなる、しかして身近なる彼らの氏神を担ぎ、彼らは町々を練り歩く。

 不意に、私はこれがかなり大掛かりな祭りであることを思い出した。確か、これは大昔から続くここらの三大祭の一つなのだ。行列はこれから銀座、新宿などの中心街を通り、ぐるりと廻って出発点の神社まで戻るのだ。人によっては朝早くからこの行列を見ようと待つという。その行列に、私は偶然にもめぐり合ったのである。

 何という幸運か、これもこの前の御仏のご加護ゆえかもしれない。神と仏は違うものだが、尊きお方々のこと、お互いに幸のやり取りもあるのかもしれない、と、勝手なことを思う。その間に、色とりどりの法被に鉢巻、地下足袋、威勢のよい風が目の前を通り過ぎる。何やら爽快な気分になり、私の頬は自然に緩む。いいものを見てしまったと、一人悦に入る。

 古風な衣装の人々が過ぎ去ると黒山は一気に解散してしまった。皆、それぞれに片づけることがあるのだろう。一方、私は何をするでもない身である。せっかくなので、神輿行列を追いかけることにする。近代的な町の中を前近代的な神輿が通るという、一種前衛的と言えぬこともない姿に、私はすっかり夢中になっている。

 神輿の速度は意外に早く、ついて行くのに少々苦労する。見送った行列にやっと追いついたとき、彼らは細い路地に入り込もうというところだった。

――わっしょい、わっしょい

掛け声を残し列の最後尾が角へ消える。

 童神輿の最後にいた子供が植え込みをかすり、紫陽花の花が揺れた。

 あわてて私もその後を追い、紫陽花の角を曲がる。途端、都心とは思えぬ光景が目の前に広がる。

 狭い路地の両端には、だいぶ時代がかった家々が立ち並んでいた。

 いまどき珍しい平屋の長屋である。それぞれの軒下にはつつましいながらも見事な枝ぶりの盆栽が植わっていたり、大きなたらいが立てかけてあったりと、まるで江戸時代のような風情である。東京も案外に古い建物が残っていることは私も知っていたが、ここまで年季のいったものは珍しい。壁木は白く色あせ、通りに面した障子には破れを直した跡がいくつもついている。全体的に古臭いが、決して汚くはない。どれもきちんと家の手入れをする住人がいるようで、放ったらかしの空き家は見あたらない。

 長屋の間の通りは神輿が一基通ればいっぱいになってしまうほどに狭い。仕方がないので、後ろから祭列を見ることにする。童神輿の向こうにある二基はよく見えないが、それもまた仕方がない。しかし、この古びた長屋に神輿行列は見事に調和し、美しい景観を作り出していた。

――わっしょい、わっしょい

担ぎ手の子供たちが叫ぶ。

――わっしょい、わっしょい

私も一緒になって叫ぶ。

 さあさあ、氏神様のお通りだ。禍々しきものは道を避けよ、氏子たちは一目詣でよ。

 氏神様の、幸を寿ぎ、夏を呼べ。


 がらり、と唐突に真横の障子が開いた。

 はっと見ると、小さな子供が二人、わーいとはしゃぎながら長屋から飛び出してきたところだった。通り過ぎていった行列をわいわい言いながら見送る彼らの姿は、しかし、異様に古臭い。

 今時、いったいどこに普段から子供に浴衣を着せている家があるのだろう。それも、幾度も水にくぐってすっかり目の詰まった、古いものを。

 幼い子供の前髪だけを残して全て剃ってしまうのは、いったいいつ頃までの風習だったか。

 時代がかった格好の子供らが時代がかった長屋から飛び出してくるという光景に、私は面くらってしまう。

 ふと、子供の一人がこちらを見た。そしてはっと息を呑み、あわてて年かさの子の袖を引いた。彼もまたこちらを見、あ、と小さな声を上げた。

 二つの視線が私を突き刺す。

 私もまた彼らを凝視する。

 互いに目を逸らせない。

 威勢のいい掛け声が、鈴の音が、段々に遠くなる。

 耳の奥にじんじん、と音が響く。



 不意に、どこかで風鈴が鳴った。



 その途端、目の前の子供たちが霞み始める。

 あっ、と叫んで瞬きをする間に、子供らは目を見張ったまま、湿った空気の中に拡散するようにぼやけていく。

 気がつけば、私は一人、ビルとビルの間の狭い路地にいた。

 家々の前にずらりと並んでいた盆栽も、たらいも、そして長屋自体も、何一つ見当たらない。今のはなんだったのかと、ぼんやり立ち尽くしてみても、最早あの古ぼけた長屋は立ち現れず、気づけば神輿行列ももういない。

 仕方がないのできびすを返し、私は路地を後にする。

 首を傾げる私の視界の中で、入り口に植わった紫陽花だけが、変わらず六月の風に揺れていた。

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